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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

四顧茫々の中で

   
題「四顧茫々の中で」  

 私たちが合い言葉のようにしていっている言葉に「いのちより大切なものはない」というのがあります。この言葉にだれも納得しているようです。いまこの言葉を少し吟味してみたい。
 この場合「いのち」という言葉が何を意味しているのか。多くは肉体的な生命のことと受け取るであろうし、そう受け取るのも当然の言葉である。この「いのち」という言葉にもっと深いいのちの意味を読み込むこともできるであろうが、さしあたっては「身体的な生命」の意味と読まざるを得ない。そして「いのちより大事なものはない」ということで、まずは生命の維持のためいわゆる「食わんがため」に働き、さらに病気にならないようにし、交通事故に遭わないよう気を付けたりしてこのいのちを養い守っていくこと。それが「いのちより大事なものがないから、このいのちを大切にする」いとなみであるといえる。なんとか経済的に生活していける上は健康保持に注意して、なるべく病気にかからないようにするのである。わたしもその一人である。

 ただ問題は、この肉体的ないのちを安全に維持する、いわば悪い病気にならないように、元気で長生き出来るように、ということのみを最も大事なこと、心を寄せなくてはいけない最も価値あることとしているとするなら、そこに果たして本当の安らぎや喜びがあるであろうか。この点を吟味してみたいのである。
 運動中に転落事故を起こして首から下が全く不自由になって、しかもそんな逆境の中で真実にふれてまことの生き甲斐を見出された星野富弘さんの詩に「いのちが一番大切だと思っていたころ生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった」とあります。

 「いのちが一番大切だと思っていたころ」とは、私たち一般にそう思っているのだが、その時は「生きるのが苦しかった」という。身体の健康や長生きをすることを最も大事と思えば思うほど、この体が病気になったらどうしようとか、悪い病気になったらどうしようとか、食えなくなったらどうしようとか、死んだらこまるとか、常に思い煩い、不安を感じて生きざるを得ない。とくに老年にはその不安がいっぱいである。いかに心配しても、この身体は老化してゆく。老体は病気にもかかりやすい。やがて朽ちてゆくのである。だからこの肉体を宝物のように大事に思う者にとって、その宝が色あせて破壊の危機にさらされ、やがて壊れゆく不安と心配がつきまとう。このような人生は「生きるのが苦しい」のは当然である。
 乗っている船がだんだん沈んでいっているのに、どこまでも「沈まぬように」と、その船にしがみついているような心細さに似ている。

 しかるに星野さんは、「いのちより大事なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった」という。星野さんはいのちより大事なものにであった。そして初めてその日から「生きるのが嬉しい」と言える人生が始まった。こういえる程の「大事なもの」が見つかった。それに出会った。星野さんは現在キリスト者である。いのちより大事なものという、それはキリストの愛(神の愛)であった。神の愛は星野さんをそれいわしめるほどの愛だという。

 私たち真宗もその点で同じものを「知っている」。佛の「大慈大悲」である。法然聖人にこんな話しがある。
 当時、比叡山や興福寺の旧仏教側の勢力が、法然聖人の説く念仏の教えを邪説と激しく非難し、あげくに朝廷に取り締まることを訴えていたが、ついにある事件が起こったのをきっかけに厳しい弾圧が法然聖人とその門弟の上に行われ、念仏は禁止され四人の弟子が処刑され法然聖人は四国に流されることになった。そうした念仏禁止の折り、法然聖人が人に念仏を勧めていたのを見て、一人の弟子が聖人に「このような危険な時に念仏を勧められてはなりません」と申し出たら、聖人は厳しい形相で「われたとい死刑に行わるとも、このこといわずばあるべからず」とその申し出をはねかえされた。

 聖人にとって念仏は、たとえ念仏して首をはなられてもかまわないというほどの最高価値であり、そのためにいのちを奪われても悔いないほどの大事なものであった。これによって自分の人生の全体が立ち、これによって崩れるほどの重大なものだった。それはお弟子の親鸞聖人においても同じである。
 お念仏は阿弥陀仏の絶対の慈悲そのものである。大慈大悲に出会って、初めて肉体のいのちに勝る尊いものを知るのである。肉体のいのちはむしろこの大慈大悲の真実につかえるものである。すなわち大慈大悲の真実を頂くための身体として、はじめて身体のいのちも尊いといえるのである。もし、この真実がないなら、身体のいのちの意味は不透明になる。老いさらばえていくこの身に、やがて亡んでいくこの身に、不安と思い煩いだらけのこの身を大悲し、私の永遠の行く末を心配なさって、いまこの身の上に、この口に南無阿弥陀仏と表れまします念仏の声は、「汝を浄土にうまれさせずばおかない」と寄り添い担いたもう阿弥陀仏のましますことを知らせて下さる。この佛の大悲ありて、私は死んでいけるのである、いな佛のみ国に生まれゆくのである。この念仏の大慈ありてこそ、老いを受容し、病気に耐えて行けるのである。

 いのちより大事なものを知ってこそ、いのちは解放され、安らぐ。いのちを大事としがみつく者はいのちに束縛され、不安に取り巻かれる。浄土往生、この法こそ現在ただ今の我が心照らす光明であるこの道を笑うものは笑えばよい。ナンセンスと思うものは思えばよい。
 賢い人には愚かに見えるこの道。その愚かなるものに開かれた光明の道。「愚かなる身こそなかなか嬉しけれ弥陀のみ国に生まるとおもえば」とあの良寛様もおっしゃる。幼き者に天国の門は開かれ、愚かなる者に浄土の門は開かれている。
 「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称して、下十声にいたるまで、もし生まれずは正覚を取らじ。かの仏いま現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓重願むなしからず、衆生称念すればかならず往生することを得」(往生礼讃)                                                                       (了)      
 

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