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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

交通死を読んで

   
題「交通死を読んで」

   今年の夏に、神戸大学の二木教授が『交通死』という本を岩波書店から出版されました。この本を執筆されるきっかけになったのは、教授の娘さんが四年前に交通事故で亡くなられ、後の事故処理を通して、現代の車社会のかかえている「非人間的なシステムと人間のあり方」を検討し批判されたものです。  
   この本の中に、

 「車が氾濫している現代の社会では、肉親の誰かが交通事故に遭ったとしても何の不思議もない。しかし、心の底では、自分だけは大丈夫だ、と思いこんでいるのではないだろうか」 とあります。(以下、「」は『交通死』からの引用文)

   まさに「自分だけは大丈夫」と思っています。車を運転する人は、自分は他者を死傷させるほどの事故は起こさないと思い、運転しない人は、自分は十分注意しているから事故には遭わないと思いこんでいる、といっても過言ではありません。  
 だれしも自分は「大丈夫」と思いたいのですが、そう思うのは「自分を特別視」しているのではないでしょうか。人に起こることは、自分に起こっても何も不思議ではありません。  

 それをつい最近、身にしみて知らされたばかりではありませんか。それまで大災害のニュースを聴いていても「自分たちには関係ない。われわれは大丈夫」と思いこんでいたのが地震前までの私たちではなかったでしょうか。
 又、「交通事故というのは、誰かが交通規則を破ったために起こる犯罪であって、自然現象による災害の事故ではない。にもかかわらず、あまりにも日常性の中に埋没してしまって、我々は驚くほど無関心であり鈍感になっている。交通事故のほとんどは犯罪なのである」と述べられています。

   当然のことながら、事故を起こし、人を死傷させることは「運の悪い出来事」ではなく、どこまでも犯罪であることを、運転者は常に念頭においておかねばならないと思います。  
 それに、被害者とその家族に対して、自然の災害とは違った大きな悲憤を与えているのです。
   教授の娘さんは、信号が青の時横断歩道を歩いていたにもかかわらず事故にあったのですが、 「ルールを守った方は死に、規則を破った方はかすり傷一つも負っていない。いかにも理不尽ではないか。事故以来現在に至るまで、連綿と続いている私たちの思いである」 と述べておられます。

   こうした癒しがたい悲憤を与えていることを加害者は深く思いを致すべきでありましょう。にもかかわらず、被害者(とその家族)の無念さや悲憤を受けとめず、加害者が自らが起こした事故を、もし「己の不運」と受け取るなら、それは、人の悲痛に対して無感覚になっている、いわば人間の心を失っているといえましょう。
   事故が犯罪であることの理由は、相手のいのちを奪うという一事につきますが、その中にあるのは、飲酒運転にしても、スピードの出しすぎにしても、他の交通規則のルール違反にしても、「人間のいのちにたいする軽視」であります。
   両方赤信号の交差点でも突っ走る車を頻繁に見ますが、こういう行為の中に潜んでいるのは、人間のいのちにたいする畏敬の念が欠如しているからでしょう。

   人のいのちを尊ぶ心があれば、専心に注意して運転し、スピード違反や、飲酒運転はおのずと出来なくなるはずです。  
 今日、交通事故の問題だけではなく、さまざまな問題にも「人のいのちの尊さ」というものが、お互いに分からなくなり、実感できなくなっているように思います。これは大変おそろしいことです。 

   「衆生濁」という言葉が阿弥陀経にあります。世が末になると、人間の質が低下してくるということです。  
 それは、人が人を「尊いいのち」と感じるのでなく、人を「物や道具と同じように見る」ということではないでしょうか。人を物の如くに見ると言うことは、人の価値を「役に立つか立たないか」という視点でしか見なくなるということです。役に立たない人はのけ者にされ、見下され、排除されていく、そういう世の中になっているということです。交通事故が多発する背景に、こうしたいのちの見方が潜んでいるように思います。                                                                        (了)  



    題「源左さんの言葉」

「三世に一仏、恒沙に一体、 佛の中の大王様が、  われが生まれぬ先から、 願も行も成就し上げてお 喚びづめだけ。  われが落ちようと思っ ても、親が先手をかけて 落とされんだけえのお」
  意訳 (私の過去世、来世、現世を通して唯一の私を助ける佛、ガンジス川の砂の数ほどの佛様方の中で唯一の佛、無数の佛の中の大王の様な佛である阿弥陀仏は、私がこの世に生まれぬ前から、私を仏陀たらしめたいと思し召し下さって、大悲の情けを私にかけ、仏になる力の微塵ほどもない私に代わって、仏になるための願心も修行もすべて為しとげてくださり、仏になる因を今の私に与え、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと喚びづめにしてまします。  阿弥陀様は、私がとやかくはからうに先だって「汝を決して落とさぬ」と仰せられるから、私がたとえ、悪道に落ちようと思っても落としなさらぬ。ナムアミダブツナムアミダブツ)

     これは妙好人として有名な足利源左さんの言葉である。源左さんは、文字もろくに書けないお百姓さんでしたが、念仏の信心の徹底した妙好人でした。
   この言葉は源左さんがいつも言っていた、いわゆる「持言」といわれるものです。これをいつも自分にも言い、人にも語っていました。
   それほどこの言葉に、源左さんは阿弥陀仏の慈悲の深重なることを感じていたのです。
   たしかにこの言葉は、素朴ですが何とも言えない有り難さが伝わってきます。    阿弥陀仏は「尽十方無碍光如来」といわれるように、あらゆるところの衆生に、大悲の一杯を働きかけて下さっていて、阿弥陀仏のましまさぬ人は一人もいないと、釈尊は仰せられます。  

   人間の一番重要な本質は何でしょうか。それは「人は無条件にかぎりなく(佛に)愛されている存在である」と聞かせていただいております。
 その、かぎりない愛(慈悲)を南無阿弥陀仏と呼ばせていただいているのです。    この慈悲にあい、このまこと(真実)にあづかるために、この世に生まれ出てきたもの、それが人間だといっていいのではないでしょうか。

   この外に、これと並んで「重大なこと」はないと思います。これを見失った人生はあまりにも寂しく、空漠として不安なものです。  
 人のいのちが尊いといえるのは、この慈悲が万人のいのちに直接しているからでしょう。人であって、この慈悲のまこと(真実)のかけられていない人はない。すべてのいのちは阿弥陀の大悲の摂取の中にあるということ。そのことを「大無量寿経」に、釈尊はお説き下さっています。

   さて源左さんは、「われが生まれぬ先から願も行も仕上げて」と言われています。    道を求め、道を得るためには、強固な仏道成就の願いが無くてはかないませんが、この強い願い(菩提心)を阿弥陀仏は、願いを起こせない志の弱い私に代わって願いを起こし、私が為しえない菩薩行を私に代わってすでに為しとげてくださっていた。そしてナムアミダブツとお喚びづめであります。「汝を浄土に生まれさせる仏因は仕上げた。そのままなりを助ける」と喚んで下さっています。  

 それほどまでの大悲の佛は「三世に一仏、恒沙に一体」の阿弥陀仏の外にはない、とのお喜びであります。
   三世、とは私の過去世、来世、現世のことで、この三世を通じての永遠の救い主が阿弥陀仏です。また恒沙とはガンジス河の砂のことで、ここでは無数を表しています。    まことに、私の「菩提心も実践も信心も」、すべてを私に先立って完備してくださって、私の口にまで来たって喚びかけたまうような佛は、南無阿弥陀仏の外におられようはずはありません。
   源左さんが、お念仏を称えながら

「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶつ なんまんだぶつ」

と常に仰せられていたのは、申すお念仏に、阿弥陀仏の大悲のまごころを深く感じておられたからでしょう。
   源左さんのこの持言には、観念ではなく、阿弥陀仏の慈悲をなまなましく感じておられた信境がよく表されています。          
                                                                  (了)    
 

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