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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

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〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

死後に淨土に生まれると信ず

   死後に淨土に生まれると信ず

    私は私の死後阿弥陀仏のお浄土に生まれることを信じているようであります。それも「人がなんと言おうと堅く信じておる」というような強固に固めた信念というようなものではありません。自然に信じさせていただいているのです。   「死んだら何にもなくなってそれでおしまい」とか「死後の浄土なんてあれは作り話」とか「死後の浄土はあるかないかわからないから、分からないことは問題にする必要はない」とか言う声が多い今日において、私は死後、浄土に生まれることをどうやら信じており、それがまた大変有り難いのであります。死後の浄土を否定するような考えをお持ちののお方は、それはそれで満足しておられることでしょうから、そういう考えについて私の方からとやかく言うつもりは毛頭ありません。

 ではなぜ、そう私がそのように信じられるようになったのであるかといえば、それにはわけがあります。私は元来疑い深く、自分の頭で納得できないかぎり信じない傾向の強い人間です。若い時はお経に説かれている事はなにか作り話のような、空想の産物のごとく感じていまして、お経を読むのはほとんど関心が無く、それよりも哲学的な、論理的な書物を読むことを好んでいました。すなわち理路整然と書かれていて、論理的に納得がいくような話でないと受け入れなかったのです。いわば自分の知性に納得のいくものだけを求めておりました。しかも何とか救われたい、真実にあいたいと求めていったのであります。 長年、宗教の論理やら仏教的救済の論理やら真宗の教理をを沢山学びました。そうして「こういう訳だから救われる」という理屈や訳は私の頭の中にいっぱい詰まりました。しかしいっこうに心は開けませんし、救いも来ませんでした。苦悩だけが残りました。学んでも学んでもらちがあかない自分が情けなくて仕方ありませんでした。そしてとうとう、分かったことや納得したことの一切が無効、全く役に立たないということになってしまいました。

 そうなって初めて阿弥陀仏の本願がこんな私のためであったと知らされたのです。「我れをたのめ」の阿弥陀の仰せが初めてのように聞こえたのです。「思案空虚、観念無効」いわゆる自力無効となって初めて真宗の信心を了解することができたのであります。
 先覚者、清沢満之先生の絶筆「我が信念」に、先生はご自分の信仰の確立に至る要点を述べられたところに次のように言っておられます。 「私の信念には、私が一切のことについて、私の自力の無効なることを信ずるという点があります。この自力の無効なることを信ずるには、私の智慧や思案のありだけを尽くして、その頭の上げ様のないようになると言うことが必要である。之がはなはだ骨の折れた仕事でありました。その究極の達せらるる前にも、宗教的信念は、こんなものであるというような決着は、時々できましたが、それが後から後から打ち壊されてしもうたことが、幾たびもありました。論理やら研究で宗教を建立しようと思うておる間は、この難をまぬがれませぬ。何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分かるものでない。我には何にも分からないとなったところで、一切をあげて、ことごとく之を如来に信頼する、と言うことになったのが、私の信念の大要点であります。」
   「我には何にも分からなくなったところで一切をあげて如来に信頼する」信心がここに述べられています。親鸞聖人も、「私は念仏が本当に浄土に生まれる種であるかあるいはひょっとしたら地獄に堕ちる業であるのか、私の頭では全く知り分ける力はございません。全く知り分ける力もなく、またどのような修行も成し遂げることのできない無知無能なこの私。もはや地獄にしか行き場のない私。こんな私に、はからずも法然上人から『おまえや私のような愚かなものに、阿弥陀如来様は<そんな者だからただ念仏申せ、必ず助ける、汝を助けることができなければわたしもたすからないのだから>と仰せられるゆえ、ただ念仏して弥陀にたすけていただきましょう。そのほかに私どものような者のたすかりようはございません』との驚くべき大悲の仰せに、もはや理屈離れて、ただただ仰せのままに信じて念仏するばかりでございます。それで私は大満足でございます」と。  このような聖人の告白が歎異鈔(第二章)に表されています。これは清沢満之先生の告白と同質ものと思います。

   そして大事なのはそういう信心のところに、光明が射し、心が開け、安心と喜びが生まれ、生きる勇気と壊れない希望が恵まれたのでした。如来の恩恵をしみじみと頂かれたのでした。ここにおいて親鸞聖人は、まことに「弥陀の本願まことにておわします」という絶大な信頼をもたれたのではないでしょうか。  親鸞聖人が生涯かけて私どもに叫ばれているのは一言であります。それは「弥陀の本願まことなり、弥陀の本願信ずべし」であります。これよりほかにないのであります。仏のみ言葉に理屈はなれて信順したところに、はからずも驚くべき救いをたまわった。まことに「仏語に嘘はない」。聖人は「深く仏語を信ずる」(深信仏語)身となられたのであります。
 そのように仏のみ言葉に対して「仏のみ言葉は真実なり」という信頼が信心にはあるのです。そうであれば阿弥陀仏の本願、第十八願に「乃至十念 若不生者 不取正覚」との阿弥陀仏の誓いの言葉、すなわち「たった十声でも念仏もうすものを、もし浄土に生まれさせることができないようなら、私は悟りの座にはつかない」とのお言葉をそのとおりにいただくばかりであります。「浄土に生まれさせていただける事よ」と仏の仰せを有り難くいただくのであります。
 浄土があるとかないとか、その浄土とはどんなところであるか、そういうことを研究して、納得して、分かってでないと信じないというのではありません。仏のお言葉をその通りにいただいくのであります。
 もし研究するなら、頂いてから、信じてから大いに研究したらいいのであります。そういう研究は大変結構なことであります。教理的、論理的に大いに解明していかねばなりません。ただ己の救いの一点は、仏の仰せに対する単純なる一片の信心にて決まるのであります。親鸞聖人はここのところをお手紙の中で 「ただ、誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなえつるうえは、なんじょうわがはからいをいたすべき。ききわけ、しりわくるなんど、わずらわしくはおおせ候うやらん。これみなひがごとにて候うなり」 とあきらかに教えくださっています。  喩えてもうしますと、大阪から東京に行くため、電車に乗るのに、「この電車は本当に東京に行けるのだろうか」と、電車の構造やら性能やら運転手さんの資格やらを研究して確かめて納得してからでないと私は電車に乗らないというのならいつ乗れるはかおぼつかないことです。一生研究しても乗れないかも知れません。「この電車は東京にまいります。お早くお乗りください」という駅のアナウンスが聞こえたら、駅員さんの言葉を信じて乗ればいいのです。まあ実際私たちも電車に乗るときに、駅員さんの言葉を信じ電車を信じてるから乗るのであって、いちいちこの電車は大丈夫だろうか、運転手さんは確かな人だろうかと調べてからでないと私は乗らないという人は滅多にいないのですが。

 「この南無阿弥陀仏でかならず浄土に生まれされる」とある仏のお言葉を信じて、仏の願力の電車に乗るのであります。先に乗ってから、電車の構造やら性能を大いに研究すればいいのです。もっとも、研究をしてる間に東京(浄土)についてしまいますが。  
 そのようなわけで、私は、仏様の仰せられる通りに、「この世のいのちが終われば浄土に生まれて悟りを開かせていただける」と、子供が親の言うことをその通りに受け取るがごとくいただいておるようであります。そしてこのことを大変有り難く思っております。  そういいましても、時々「本当だろうか」というような疑いの心も起こります。けれども、「私の考えや思いなんて少しも当てにもたのみにもならない。ただただ仏様の仰せがほんまなのだ」とすぐに仏のお言葉にかえらせていただいております。清沢先生も「時には、有限粗造の思弁によりて、無限大悲の実在を論定せんと企てることすら起こる。  しかれども、信念の確立せる幸いには、たとえしばらくこのごとき迷妄に陥ることあるも、また容易くその無謀なることを反省して、このごとき論議を放擲することを得ることである。「知らざるを知らずとせよ、これ知れるなり」とは、実に人知の絶頂である」と「我が信念」に申されております。          
                     (了)    
 

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