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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

生存欲に光をあてて

   題「生存欲に光をあてて」

(一)生存欲 
   NHKで「世界生きもの紀行」というのがあって、時々見ています。色んな動物の生体がカメラにおさめられていて、面白くまた考えさせられます。
 最近、コアラの生態がとりあげられていました。コアラは大変おとなしくて愛らしい動物ですが、このコアラでも争うことがあります。どういう時に争うかと言いますと、それは餌を確保する時と生殖の時です。
 コアラにかぎらず、動物は餌のことで闘争本能をむき出しにして争います。またオスとメスの性の関係で争います。動物はこの二つのことで主に争っているようにみえます。  しかし、その点は人間も変わらないと思います。いや人間はこのことで争う最たる動物ではないでしょうか。

 人間からいろいろな飾りものを取り除いてみれば、そこに出てくるのは、非常に強い生存欲であり、性愛ではないでしょうか。仏教では生存欲を食欲といい、性愛を色欲といいます。  とくに生存欲はすさまじいといってもいいのではないでしょうか。  


(二)生活するための悪
 人間は生存を確保しようとして、いろいろな悪、醜いこと、すべきでないこと、好ましくないことを盛んに行っています。悪と言っても法律上の悪だけのことではありません。当たり前にしている日頃の生活の有様の上でのことです。  
 生きんがため、食わんがため、子供を養わんがため、自分はどんな生活をしているか、それを仏様の光に照らしてみますと、浅ましい生活をしていることを我が身のうえに感じざるを得ません。  
 自分の利益になる人は喜んで迎え、自分のために不利益になる人には冷たい。利害が対立すると、昨日の友は今日の敵であり、逆に利害が一致すると昨日の敵は今日の友という風です。
 つまらない商品でも売るときは、いかにもいい品物であるかのごとくに言って売る。土地を耕せば、幾多の生き物は殺虫薬で殺され、漁をすれば魚は殺されていく。魚にも親もあれば子もある。

 生産工場では人間生活の質を高めるような商品や健康を維持するような品物をのみ作っているだろうか。法律に触れない範囲であるにしても、無くていいようなもの、健康を害するようなものを、多量の資源を使っていないだろうか。電力会社は電力の消費を増やして収益をあげるために危険な発電に依存を強めていないだろうか。銀行も不動産業界も、建設業界も、病院も、本当に世の中のこと、人の幸せのことを十分配慮した経営をしているかどうか。
 今日も新聞を開くと、どっさりと広告が入っていました。ほとんど見ることなくゴミになってしまいます。膨大な資源がこのために使われていることを思いますと、どうにかならないものかと思います。が、こうしなくてはまた経営できないのでしょう。そこで働いている人たちの生活がかかっています。
 毎日の新聞を見ていると、あらゆる職種といっていいほど、収益第一主義に傾いて、そのために、利権をあらそい、お客さんを奪い合い、誇大広告をし、経理上のごまかし、貴重な資源をいたずらに消費し、力あるものに媚びへつらうといったことが、山とあるのではないでしょうか。

 人間同士はお互いに助け合ってしか生きていけないにもかかわらず、害しあっております。 どうしても生存競争に巻き込まれて、自分の生活を守ることで頭がいっぱいです。  「こういうことはしない方がいい」と、心が痛むようなことが、仕事の上であるのではないでしょうか。
 しかし、それをしなかったら生存競争から脱落し家族を養えないということで、仕方なくやってしまう。生活のために、やめようとしてもやめられないということが多々あるのではないでしょうか。
 やっかいなのは、その良心の痛みも、いつの間にか薄れて当たり前になってしまうことです。  


(三)やめられぬ今の生活 
 マンモスは巨大な肉体を抱えたが故に、その肉体を維持する事が出来なくて滅んでいきました。人間も貪欲(動物にない知性があるため)のゆえにあと千年もしないうちに滅ぶかもしれません。(あまりに悲観的な味方かも知れませんが)。
 この肉体を以て生きていることは生存欲を離れられない。むしろ生存欲が形を取ったのが肉体といえましょう。ですから、この肉体をもって、食っていかなくてはならない。そのためこうした浅ましい生活をやめることが出来ない、離れることができないのが、凡夫の私どもの生活の有様です。  
 肉体のある間は、清らかな仏にはなれないといわれることがよくわかります。浄土に生まれてこそ、、初めて清らかな、煩悩の汚れのない仏になることが出来ると説かれているのは、現実の人間生活をごまかしなく凝視せられたからでありましょう。  

 この身を仏教では穢身といいます。またこの世界を穢土と説かれていますが、いかにもと思います。念仏して浄土に生まれたいと願う、そには人間生活の懺悔の感情があると思います。
 「このような生活が何が悪い、これで当たり前であって何も悲しむこともいらない」といって、人間生活をそのまま肯定するのがこの世の考えかも知れません。しかし、仏のお言葉を通して、私たちの世が濁世と知らされ、濁悪の生活であると知らされればこそ、このまま突っ走っていくことに痛みを感じブレーキもかかるというものでありましょう。  

 かといって、家族を抱え生存競争に巻き込まれてしか生きられない私たちです。できるだけ、人間同士が平和で、自分の幸せが人の幸せに寄与するような生き方が出来ればと少しずつでも努力していきたいとは思います。でも生やさしいものではありません。  

 マルクスなどが考えた共産主義思想というのも、本来は生存競争の悪を廃した、お互いが奪い合うことのなく平等に与えられる社会の実現を目指したと思いますが、結果的には、人間を統制と抑圧の下におくという非人間的な体制が出現しました。資本主義は生存競争による悪を離れることが出来ず、共産主義は人間の自由を抑圧するという、どっちにしても救われがたい世の中であります。濁世であります。その濁世を生み出しているのが、ほかならぬこの私であるということを、仏は指摘されます。  


(四)欲望の制御を願うが  
 一方、こうした世界の状況をなんとかしなければならないと叫ばれています。    
 一番よく言われるのは、人間が過剰な欲望を少なくした生活を心がけることと言われます。質素な生活をして、エネルギーをあまり使わなくてすむ生活が望まれます。
   しかし、煩悩具足の凡夫が欲望を少なくできるかというと、これがはなはだ至難のことではないでしょうか。生存欲の固まりである人間です。「ああなりたい、こうしたい」より無いのが凡夫です。貪欲を離れることはとても難しいことです。  
 そのためやがて人類は滅びることも十分あり得ることです。 マンモスは巨大な肉体を抱えたが故に、その肉体を維持する事が出来なくて滅んでいきました。人間も貪欲(動物にない知性があるため)のゆえにあと千年もしないうちに滅ぶかもしれません。(あまりに悲観的な味方かも知れませんが)。  
 先日もTVで、ノーベル賞受賞者の利根川進博士が「人類は間違いなく滅びる。ただどれだけ遅らすかが課題だ」と発言していました。    


(五)出口のない世界   
 こうした現実では、先の事は考えても仕方がないから、とりあえず目の前の楽しみを追っかけて生きるというような生き方が主流になってきていると思います。いわゆる刹那的な生き方になっていますが、そうならざるを得ないのが現代の状況のようにも感じます。今の高校生の間で「僕らが生きてる間、地球もつやろか」という会話が冗談でなしに交わされるとのことです。人類は将来に向かってどうしたらいいのかを、世界の識者が考えていますが、有効な方策が見いだされないというのが今日の世界の状況でしょう。なるようにしかならないというような風潮ですらあります。    


(六)この世から救われよ  
 結論になりますが、どうにもならない世であり、人生であるという、そういうところを見通して阿弥陀仏が「この世から救おう」と本願を起こされたことがうなずけてまいります。                                                                ( 了 )
 

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