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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

愛について

  題「愛について」  


(一)愛なき我が身  
親鸞聖人のご和讃に  

 小慈小悲もなき身にて   
 有情利益はおもふまじ   
 如来の願船いまさずは   
 苦海をいかでかわたるべき

 というのがあります。このご和讃で身にこたえるのが「小慈小悲もなき身」と聖人が、ご自身のこととして言っておられるお言葉です。  
 宗教というと、「隣人にたいする愛」とか「他者にたいする慈悲行」「困っている人々えの奉仕」とかが強調され、またそういうことを積極的に行うのが宗教の一番大事な勤めであると一般にいわれています。  

 もちろんこういうことは、宗教に限らず、どんな人にとっても、人である限りもっとも大事な実践徳目です。
 ただ、聖人はここで、さてそれではこの自分は一体どうなのであろうかと、ご自分を凝視しておられるのです。そしてご自分を「小慈小悲もなき身」と仰せられるのです。わずかな慈悲の心も行いも自分からは出来ない身であると仰せられるのです。  
 振り返って、この私はどうであるかといえば、その点でやはりあまりにもお粗末な自分を嘆かざるを得ません。  

 私(ども)の嘆きは、なんといっても人を愛する心の乏しさであります。愛どころか、人に対する心の冷たさに自分が情けなくなります。困っている人のことを思って「かわいそうだ」とか「なんとかしてあげたい」という思いはよく起こります。
 しかし、思うだけで、行動には滅多に移しておりません。ただそう思っているだけです。行動にまでならないような思いは、真剣で真面目な「思い」ではないからです。いても立ってもいられないほどに真剣に、人の幸せを考えていないのです。困った人のために、援助しようとして、人のために何らかの労苦を共にしようと駆(か)けつけるような行いが、出来ないのです。「なんとかしてあげたい」というようなことを口にだしたり思ったりするだけ、それでおしまいなのです。そんなのは小さな慈悲行にもなりません。慈悲は行為でありましょう。  


(二)すぐ枯れる私の愛  
 自分の幸せのためには、随分努力もしますし、苦労もいといません。けれども、他人の幸せに対してはどれほどの努力をしているだろうかと思うと、まことに恥ずかしいかぎりです。このようなものが、人にむかって「人を愛しなさい」とか「出来るだけ困っている人に奉仕をしなさい」とかを説く資格はございません。
  こういう私が自分の小さな慈悲心をバネにし、力にして、人々を救おうとすることは、まことにおぼつかないのであります。また末通らないのであります。人えの親切をしばらく続けても、すぐ息切れをして投げ出してしまいます。暑い夏の夕方、バケツに水をくんで庭の花によく水をやりましたが、すぐに水が無くなったのを思いだします。私の愛情は、少し出せばすぐになくなるバケツの水のようなものであります。
 もちろん、人によってはづっと続けて人々えの奉仕の愛に生きていかれる方がありまが、そういう人はよほど優れた徳のお方と尊敬せざるを得ません。私などとは前生が違うのでしょう。    


(三)他を救う力なし  
 私のごとき純粋な慈悲心も無く、わずかな慈悲心もなかなか起こらない者が、自分のガンバリや奮発による自分の努力によって、「なんとかしてあげよう」と志願して、他者を救おうとすることは無理でありますし、とても私には出来そうもありません。  
 しかも、聖人は、自分の力で真に人を救う事が出来ないばかりか「有情利益はおもうまじ」(自分の力で人々を救おうと思うべきではない)とまでおっしゃっておられる。このお言葉はあまりにも理想のない、消極的な、怠惰な、冷たい言葉のように受け取られるかも知れません。
 しかし、現実の自分を本当に見定めたとき、自分の起こす愛情によって人を救うとか、救えるとか思うことがいかに我が身知らずであるか、自己過信の買いかぶりであるかが知らされます。  

 ただ注意しなくてはいけないのは、ここで聖人は自分以外の他者に向かって「自分のわずかな慈悲心で人を救おうなどと思うべきではない」といわれているのではないということです。どこまでも、如来の大慈大悲のお心を聞いている中で、ご自分に向かっておっしゃっているのだと思います。  
 私においては、もしこの聖人のお言葉がなかったら、私はいつまでも自分を買いかぶって、いかにも人を救う力や精神性があるかのごとくうぬぼれて生きるか、それとも、如何ともしがたい自分を嘆いて生き続けるかしかありません。こういう私の苦悩を、聖人はご自分の身に引き当ててくださってのお言葉と有り難く頂くのです。  


(四)如来の大慈悲  
 そして、このような人間に、如来の大慈大悲のましますことを、「如来の願船まします」と教えてくださるのであります。如来の大慈大悲によって私は救われ、如来の大慈大悲によってこそ人も救われるのであることをお知らせくださるのです。我も人も、共に救われるのは如来の願船よってであります。如来の大慈大悲の願船こそ我も人も救いたもう大いなる救済力であると教えてくださるのであります。私が人を救うのではない。  


(五)自他共に救われる  
 我も人も共に如来の大慈大悲に救われましょうとおすくださるのであります。  
 もしこの願船がましまさなかったら「苦海をいかでかわたるべき」で、どうして真にこの人生を生きることが出来ようか、生きることも死ぬこともできないではないかと、私には聞こえるのです。私の慈悲の心の乏しき、純粋な愛の心のなきことを嘆かなくてもいい。他者に対する心の冷たさに苦しまなくてもいい。冷たい心のまま、そんな私を「見捨てない」という如来の大悲の心を頂いて、自他共に如来に救われ、その仏心を人にお勧めさせていただくのであります。  


(六)自己受容  このような他者えの愛の乏しい自分を、そのまま「これが私のいつわらざる心です」ということを素直に認める勇気、これは如来の大いなる愛情によって受け止められている私であると知らされて初めて、私には可能なのです。  
 それまでは、私の心の冷たさを認めることはとても出来ず、認めることを拒絶し、見まいとしてきました。自分の心の醜さを見ることは恐ろしいことだからです。見たくないからです。「それほどひどい自分ではない。少しはましな自分だ」と思わなくてはとても生きられないからです。いまや「小慈小悲もなき身」であるという聖人のご述懐あればこそ、これが私の心の本質であることに甲を脱がざるを得ないのであります。  


(八)如来の御恩に生きる  
 そして、このような私に南無阿弥陀仏ナムアミダブツと、大悲の心をそそぎたもう御心に寄りかからせていただくのであります。如来の御恩に寄りたのませていただくのです。聖人は、如来の御恩に感泣しておられます。  
 しかも、この御恩を深々と頂かれたればこそ、「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし」と立ち上がっておられます。世の人が救われるためには己の身を粉にしても悔いないとまでのお心。これは、さきほどの聖人とは別人のごとくですが、しかし、これが如来の大悲の不可思議お徳の事実なのであります。                                           (了)
 

真宗大谷派 念佛寺

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