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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

和讚講話

 題「和讚講話」

  仏光測量なきゆえに
 難思光仏となづけたり
 諸仏は往生嘆じつつ
  弥陀の功徳を称せしむ                           
          
  (讃阿弥陀仏偈和讃)  
(現代語訳ーー仏の光明は思い量れないから難思光仏と申す。十方諸仏が往生を讃嘆して、弥陀の光明の功徳を称揚したもう)    

 真宗のみ教えは「念仏往生・往生浄土」の道であります。すなわち「念仏して浄土に生まれ往く」道を私の人生の道とさせて頂くのです。この道こそ人生に真実の安らぎと喜びと充実が与えられる道であるとの釈尊のお示しであり、もろもろの仏様も口をそろえて、この「念仏往生浄土」の法を讃えておられるとのことであります。  
 どうしてそうなのか、それは凡夫の私どもの思い計らいの及ばぬものであるといわれます。それを「測量なきゆえに」といわれます。阿弥陀仏のはたらきは私どもの考えで計量して知られるものではないから、阿弥陀仏を難思光仏となづけられるのであるといわれています。
   ここで聖人はただそういわれるのではなく、仏説の通りを頂き、念仏往生浄土の道に出ると、そこに開かれた人生の有り難さ、素晴らしさを実感し、「まことに仏様の仰せにまちがいない」と、確かな経験から申されるのだとうかがいます。  
   仏法は本当に不思議な功徳です。それゆえ諸仏<七高僧も含んでいいのでしょう>は讃嘆されるのです。時代をこえ民族をこえ人間性の違いをこえて、この法は永遠にかがやいているのです。  
 その時代に合わないからと言って、簡単に仏教を無視する人が多いことですが、まことに残念です。その時代々々の価値観や思想は、半世紀もすればずいぶん変わります。今の価値観や考えが、今の時代の人にとって、変わらない絶対的なもののごとくに思われがちですが、そうではないことは少し歴史をひもとけばすぐにわかります。戦前と戦後では大きく変わりました。明治以前と以後でも大きく変わりました。江戸時代は儒教が中心でしたし、明治以後は国家神道が国民教育の中心でした。仏教は、釈尊が明らかにされて以来、社会が変わり、国が変わり、民族が変わり、時代が変わっていくなかで、紆余曲折しながらも一貫して「人が依るべき道理」を説いてきました。

   仏法を現代に合わせることも、ある意味では大事なことですが、今の時代の考えを仏法に合わせることがより大切だと思います。    
 「浄土に生まれようと欲せよ」と、阿弥陀仏は人間に願いをかけられております。浄土に生まれるということがなかなか信じられないのです。私たちはこの世が真実であり、浄土は夢のように思っています。けれども、落ち着いて自分の人生を振り返ってみますと、幼い頃、学生時代の頃、社会に出てからのことなど、過去のことを思い出してみますと、本当に夢のごとく走馬燈のごとくに過ぎ去ったのを感じないわけにいきません。また、祖父母、両親、親戚の多くの人々も、もうこの世にはいません。その時その時は、生々しい現実であっても、すぐ過去の出来事になり、うつろなものになっていく感がいたします。あの阪神大震災の強烈な経験も、まだ2年半ほどしかなりませんが、「過去の思いでの一頁」になりつつあります。大無量寿経に「みなまさに過ぎ去るべく、常に保つべからず」と仰せられています。  

 そうなりますと、浄土という仏の悟られた清らかな境涯こそまことの領域であり、私どもが欲望の対象としているこの世は動乱せる不確かな、ある意味では夢のような世界ともいえましょう。この世のうつろさを感じるなかに、「我が浄土に生まれようと願え」という仏のみ言葉に深い大悲のお心を感じるのです。  
   浄土に生まれる道を念仏往生として、釈尊の説法によって与えられました。その法の「まことそのとおりであるから、信じて疑うことなかれ」とありとあらゆるところの仏たちが口をそろえて、阿弥陀仏の光明の功徳を讃えられ、私たちにおすすめくださるのです。    

 4月12日に東本願寺の同朋会館にまいりました。能登からの奉仕団を担当しました。全員60歳位の奥さんばかりの奉仕団でした。座談会の時にあるご婦人がこういわれました。  
 「私は常日頃の生活の有様を反省しますと、まことに浅ましい生活をしております。私のようなものは地獄えしかいけそうもありません。しかし、仏様はただお念仏するだけで極楽浄土に生まれさせてくださると申されますが、ただ口に念仏を称えるだけで浄土に生まれるなどということは、私には信じられません」と申されました。  
 このご婦人の発言の内容は、少しなりとも真宗の教えを聞かれた方なら、自分の胸にも去来している疑問であるといえましょう。この問いは決して今日だけの疑問ではありません。昔から何度も出されてきた問いです。この問いは、当然起こる問いであります。この問いに決定的に答えられたのは、善導大師の言葉を手がかりにして明らかにされた法然聖人なのです。  

   今回はこの問題にはふれませんが、このご婦人の問いかけに「凡夫の測量の及ばぬ救い」が念仏往生浄土の法であります。それゆえに、凡夫には疑いの心が起きるのであり、そこに「諸仏は往生を嘆じつつ弥陀の功徳を称」えて我らの疑いを離れさせてくださるのです。            

         (了)      


  「真宗の根本構造」  

   真の宗教とは、有限者(人)が無限者と一致(出会い)することによって、あるべき人生観・世界観を確立し、それによって、人生に平和をもたらし、ひいては世界の動乱苦をやわらげしめようとするいとなみであるーーー と、私は今のところこのように理解してます。
   その上で、真宗の教えをできるだけわかりやすくしたいと思います。
   まず、有限とは具体的には人のことです。なぜなら、生まれて死ぬという、限りある命の存在ですから。無限とは絶対無限のことで神とか仏といいます。
   さて、この無限の仏を真宗では阿弥陀仏と申しますが、真如とか法身ともいわれます。総じて仏といわれます。  この仏にどのように出会うか(さとるか)。それが仏道といわれるもので、この違いが、同じ仏教において宗旨の違いともなったのでしょう。       さて阿弥陀仏のことですが、「阿弥陀」という言葉は、インドの言葉(サンスクリット)で、まさに「無限」を意味します。「仏」とはさとりの徳あるものですから、阿弥陀仏は「無限な徳あるもの」と理解していいと思います。  
 徳とは「よきはたらき」ということで、仏の徳は、寿命とか智慧とか慈悲が無限であるといわれます。
   真宗は、仏との出会いの道を、二つに分けてみます。自力聖道門と他力浄土門です。  自力聖道門は、真宗(あるいは浄土宗)以外の仏教といえましょう。それは「本来、有限なものは無限なものを離れていない。ゆえに有限なものが自己の修行によって、有限に即している無限なるものをさとり現わそうとする道」であります。平易に申せば、人が自分の修行によって、無限をさとって一致しようというものです。すなわち人から仏への道です。  
   それに対して他力浄土門は、無限なるものの力によって、無限なるものに出会う道です。 仏から人への法です。無限なるもの(阿弥陀仏)が有限なるもの(人)を、救いたいと願い、出会いたいと欲し、人と完全一致したいとはたらく。その願いを阿弥陀仏の本願といいます。そのようにはたらくのを本願力ともうします。  
 本願力はどのように私に出会うかともうしますと、南無阿弥陀仏の名となり、人の上に称名念仏となってわれらが口に申され、現れ、私に出会ってくださいます。    阿弥陀仏が念仏となって私どもの上に出会いたもうていることを知らされる、これを信心といいます。ここに初めて仏との真の出会いがあります。
 信心がなければ、阿弥陀仏と出会っていても(念仏称えていても)、阿弥陀仏のお心に気がつかないから、阿弥陀仏のお救いを感じることができません。信心において阿弥陀仏との自覚的な出会いが実現するのです。
   阿弥陀仏に出会えば、阿弥陀仏が人の主(あるじ)ですから、阿弥陀仏と共に生き、阿弥陀仏に導かれて、阿弥陀仏と完全一致する領域にいたる。完全一致する領域とは、阿弥陀仏の浄土(極楽)であります。阿弥陀仏の浄土にいたって阿弥陀仏と完全一致したことを成仏といいます。
 浄土に至れば阿弥陀仏のお徳とひとつになって、人を救うものとしてはたらく。  

 阿弥陀仏に救われて浄土に生まれて仏となる姿を往相といい、仏となって人々を救うのを還相といいます。そして往相も還相もひとえに阿弥陀仏の本願力によるといわれています。人間の側からの修行によって自分を救うのではなくて、自力修行のおよびがたい無知無能の者をひとえに阿弥陀仏の慈悲の力によって救おうという、その本願力に救われていくのであります。  

   以上、真宗の根本構造をごく簡単に述べました。この構造を念頭に入れて聞法しますと、真宗の理解が早くなると思います。ただ先生方によって、教えの表現が多少違っていますので、違いは違いとして聞いていってさしつかえないと思います。
   要約しますと、宗教の本質は本質は有限と無限の一致。有限は人であり、無限は仏である。有限が、有限の方から無限を自覚し、無限と一体となる道を聖道門といい、それに対して、無限が有限に現れて、有限を包摂し一体となってくださる道を浄土門といい、真宗は浄土門であります。
   
  阿弥陀仏の「本願」とは、無限が有限を無限に一致せしめて、有限なものを救済したいと願うことであります。「念仏」とは、無限が有限に、言葉となって無限自身を現した姿であります。「信心」とは有限が無限に自覚的に出会うことであります。「浄土に生まれて仏になる」とは、有限が無限と同一化することです。これを往相といいます。同一化して無限となって、他の有限を同一化せんがために、有限にはたらきかけるのを、還相といいます。往相も還相もともに無限なるもののはたらきです。これを浄土真宗といいます。    インドに出られたお釈迦様は浄土真宗を「仏説無量寿経」にお説き下さいました。  
                             (了) 
 

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