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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

仏前三句

題「仏前三句」     

(一)   阿弥陀仏 われらとともにまします   
(二)   阿弥陀仏  われらとともにましまして われをたのめと よびたもうなり  (三)  わがために みをすてられしみほとけの ご恩受く身を世にささげたし    

一、「アミダ仏 我らと共にまします」(真実)
    生きとし生けるものの存在するところには、かならず阿弥陀仏は共にまします、ということで、これが人生の、世界の、一番大事な真実だと思います。(人間以外の生き物を含めて)  
 その人が、善人であろうと悪人であろうと、賢者でろうと愚者であろうと、仏教徒であろうと、異教徒であろうと、無神論者であろうと、どんな地域の人であろうと、またどのような民族の人であろうと、いかなる時代の人であろうと、全ての人の存在に、阿弥陀仏は共にましますということ。  
 阿弥陀仏が共にいて下さるのは、善い行いをするかどうか、心が清らかであるかどうか、宗教的な生き方をしているかどうかに関係がありません。そういう私の有様の一切に関わりなく、「ただ存在している」という、そこに共にいて下さる仏でまします。  
 阿弥陀仏と私は、この世の親子以上の密接な関係で結ばれています。仏は親であり、私どもは子です。ですから「私は孤独だ」というのは嘘で、阿弥陀仏が共にいて下さらない人は一人もいない。全ては仏の子でありましょう。  
 ですから他の人を粗末にすることは、阿弥陀仏を粗末にすることになると思います。私には仇のように思える人も阿弥陀仏の大悲のかかっている人なのでありましょう。「四海の内、皆兄弟なり」と曇鸞様は仰せられています。このことは、人だけではなく、全ての生き物にもいわれうることでしょう。  
 仏と人とは、最初から結びつけられている、因縁づけられているところに、人間の平等もあり、尊厳もあるのではないでしょうか。もし、人間が阿弥陀仏と切り離されているなら、人間はバラバラな浮遊物の如くであります。  以上のことは、仏のみ言葉からお聞かせいただいております。  


二、「アミダ仏 我らと共に ましまして われをたのめと 喚びたもうなり」(救済)    阿弥陀仏はただ単に共にいたもうだけではなく、そのことを知らずに迷っている私にその存在を知らしめようと名のって下さいます。その名のりがナムアミダブツというお名号でしょう。「ここにおまえとともにいるよ」と名のってくださる、その喚ぶ声が、我が口元に現れてお念仏となって下さいます。しかもただ存在を告げ知らせるだけでなく、「汝のそのままなりを引き受けて浄土に生まれさせる」と誓いたもうのです。「我をたのめ」「我にまかせてくれよ」との大悲のみ言葉となって、ナムアミダブツと喚びたもうのです。  
 阿弥陀仏は、私の人間性の善し悪しを一切問いたまわない、責めたまわない、私の全存在を受け入れて下さり、未来を「浄土に生まれさせる」と誓約して下さるのです。
   そう決定して下さる根拠は、阿弥陀仏が私に代わって、浄土に生まれるための備えの全てを、ご自身のご修行によって完成して下さったからなのです。  


三、「我がために 身を捨てられし み仏の ご恩受く身を 世にささげたし」(倫理)      阿弥陀仏は私たち全てを助けんがために、法蔵菩薩となって私たちに代わって、身を粉にし骨をくだいてご修行して下さいました。そのおかげで、私たちは「いまここにいるこのままで」お助けにあずかることができるのでありましょう。阿弥陀仏は私たち一人一人のために、その尊い御(おん)身を捨てられられたのであります。  
 こんな私のためにかたじけなくも御(おん)身をささげて下さった、そのご恩の結晶が、今ナムアミダブツとなって、お念仏申す私の耳に聞こえてまいります。  
 このご恩を聞き、大悲のまごころを聞かせていただくとき、無能無力のお粗末な私ですが、世の中のお役に少しなりともたたせていただきたいとの心情が湧いてまいります。これは、仏様のお心に催されて、仏様のお心が、ほのかなりともこの悪業の我身に映ってくる「思い」であります。しかも、この思いによって逆に、ご恩を受けているにもかかわらず自分のことばかり考えている浅ましい私の姿が照らし出されてまいります。                                                                                  (了)               


題「人生の不条理について」  


   ご門徒さんの奥さんでリュウマチに罹っておられる方がおられ、そこのお家にまいりましたときに、リュウマチの話になりました。私が「リュウマチというのは百人に一人の割合でかかるそうですね」ともうしましたら、その奥さんが「その一人にどうして私がならねばならないのですか」と言われたことがありました。  
 その言葉がずっと気になっていました。今度の地震の時もそうでした。倒壊率が百l近い地域がある一方で、そこからほんの十数分も歩いたところでは目立った被害がなかったというところがいくつもありました。一方では建てて間もない家が倒れたり、子供や親を亡くしたりしているような悲惨な場所があるのに、すぐ近くでは以前と変わらない平穏な状態のままであるという。「どうして私たちだけがこんな悲惨な目にあわなければならないの」という訴えが起こったのは当然です。  

 こういう事がなぜ私の上に起こってくるのか、その分けや理由はいくら考えても判りません。いわゆる「人生の不条理」としか言いようがないのです。不条理というのは「事柄の筋道が立たないこと」という意味です。
   こういう不条理に対して、「いやそれは、人には判らないけど、深い理由があるのだ」という人がいます。たとえば「先祖のたたり」であるとか「墓や仏壇の位置が悪いので罰があたった」とか「便所のある場所が悪い」とか、そういうことに結びつけうのですが、そういう事に結びつけるのは、どうにかして納得しようという無理があると思います。先祖や家や墓とは関係がないのに、無理に関係づけて、かえって不安を倍加させている人が多いのです。  
 中には「貴方の過去に行った悪行の報い」であると言われたりしますが、この説明もこじつけである場合が多いと思います。なるほど、昔、人をよくだましていたので、そのために現在商売をしても人が信用してくれなくて商売がうまくいかないとか、酒を飲み過ぎたのが原因で病気になったというようなことなら、その人の過去の行いが現在の結果をもたらす原因になったということであれば、納得できます。そういう因果関係がつかめるものについては納得できますが、この世のこと、人生の上に起こってくることは因果関係がつかめないことが結構多いのものです。  
 またある人は「そういうことが貴方の上に起こったのは神の思し召しである」とか「神の配剤である」とか「仏のお計らい」であるというようなことも聞きますが、これも私にはこじつけとしか思えないのです。
 「すべてはアッラーの神のおぼしめし」というイスラム教というのがあります。こうした考えは随分あるのですが、どうも私には「はたしてそうだろうか」という疑いが残ります。  
 ある高名なキリスト教の修道女が「ガンになるのも神からの賜物」といわれました。非常に深い信仰の上からはそう感じることもができるのかもしれませんが、そういう考えは、凡夫の私たちにはついていけないものを感じます。  

 要するに、人生に起こってくる分けの分からないこと、不条理なこと、不合理なことに当面したとき、私たちは、何か納得したい、分けが分かりたいという欲求にかられます。分けがわからなかったら、不気味で落ち着けないのです。
 ですからそこに何とか筋道をつけて、自分の了解出来る範囲に取り込みたいのです。それによって、自分を確かなものとしておりたいのだと思います。だからこじつけであっても、いわゆる「わけ」がわかれば、それに対処して安心をしようとするのです。
 家族のものが次々と病気になったり亡くなったりすると、「どうしてこうなるのか」分けが分からなくなります。そこに不気味な、不安な思いに駆られます。じっとしておれなくなって、いわゆる街の「おがみやさん」にいって相談します。そうすると「貴方には水子がいるでしょう。その水子の供養が出来てません。その水子のたたりが今現れているのです。水子の霊を供養しなければ、こういう不幸はつづきます」なんていわれる。そうすると、そこに何か自分でも判らないけど、筋道が立ったように思う。「そういうわけで不幸が続くのか。それじゃあ水子供養をしたら安心だ」ということで、供養をすればよいという対策が立てられて、なにかほっとするというプロセスをたどるのではないでしょうか。こうして「おがみやさん」は随分繁盛しているのです。家のものが病気になることと、水子の霊なるものがあって、その霊が悪さをするという、まったくオドロオドロシイ「お話し」がまかり通るのである。

 これは「人生の不条理」に対する不安を無理にでもとりのぞきたいというあがきとしか思えません。
   この世は不条理なことが起こる世ではないでしょうか。 けっして全て合理的に説明の付くような事ばかり起こる世の中ではなくて、説明の付かない、それこそ分けの分からないことが次々と起こる「そういう世の中」ではないでしょうか。人生には不条理な出来事がことが大なり小なりいくらでも起こってくる、そういうのが人生というものではないでしょうか。私の筋の立たないことが起こってはならない理由などはどこにもありません。  では、人生は不条理な出来事にあうのであれば、人が幸福になるか不幸になるかは、偶然なのであり、運命なのであろうか。

 そうではないと言われるのが親鸞聖人でしょう。  人生はたしかに不条理な、分けの分からないことがよく起こってきます。それを「わけがわからない」と認めた上で、しかし「その不条理な出来事をどう私が受け取るか」ということ。それは私たち一人一人の責任であり、私たちの自由がそこにあるのです。不条理な出来事をただ「不幸」とか「運命が悪い」というように嘆き悲しむか、それとも「辛いこと悲しいこと不如意なことはすべて大事な仏縁であり、尊いお念仏のご縁であり、有り難い法縁である」と了解する信心の眼を賜ること。そのことこそ、私の幸不幸の分かれ道なのであるといわれるのが親鸞聖人なのです。不条理な出来事に対して、こじつけ的な理由を持ち出して気休めをするのではなくて、人生には不条理な出来事はいくらでもあることをありのままに認めた上で、しかもその不条理な出来事を縁として、仏の真実の愛に目覚めてゆく縁とさせて頂くのであります。                
                              (了)  
 

真宗大谷派 念佛寺

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