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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

底下の凡夫

題「底下の凡夫」  

一。観経の和讃より
 聖人のご和讃に

 大聖おのおのもろともに 
 凡夫底下の罪人を
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

  というのがあります。これは観無量寿経のお心を和讃にされたものです。
   大聖とは観無量寿経に出てくる人々、すなわち釈迦如来を初めとして阿難や目蓮などの仏弟子、それにイダイケやアジャセやビンバシャラ王などの俗世間の人々までも、阿弥陀仏がさまざまな姿となって万人の救済を表し示されたご方便(教育的手段)であるから、これらの人は仏の救済活動のすがたということで、大聖といわれているのです。 それらの大聖は凡夫底下の罪人を阿弥陀仏の救済活動に導き入れるべく働いてくださいます。その阿弥陀仏の救済は、逆悪の者をもらすことのないおたすけで、阿弥陀仏の誓願といわれています。  
 逆悪というのは、くわしくは五逆十悪ということです。
   五逆は、地獄に落ちる五つの重い罪で、親を殺したり、聖者を害したり、教団の平和を壊したりする罪です。  
 また十悪とは、生き物を害したり、自分にあたえられないもの自分のものにしたり、嘘をついたり、貪るなどの悪で、日常的によく行われる悪です。
 そうした逆悪の者を一人も見捨てることなく救わずにはおかないという阿弥陀仏のお心が、本願の誓いとして一切衆生にかけられているのです。    


二。底に沈めるわれら
  聖人には 「正法の時機とおもえども 底下の凡愚となれる身は 清浄真実のこころなし 発菩提心いかがせん」 というのもあり、ともに「底下」の言葉に注意せしめられます。底下について、聖人は注をしておられます。
「そこ。われらは大海のそこに沈めりとなり」と。  海の底とは迷いの海の底という意味であり、陸上は悟りの世界を表すと言えましょう。
 私はこの言葉に、聖人がご自身をどう見ておられるかを垣間見ることができます。大きな海の深い底に沈んで、浮かび上がることのできないものとして、凡夫を見、自分を見ておられます。もうこれより下に落ちようはないという低みにご自身をおいておられます。 「我は貴族の出身なり」「我は比叡山で二十年の学問と修行をなせるものなり」とか「名高い法然の高弟である」というような高ぶりもなければ、そういうような高みから己を見たり、人々を見たりはされていません。  
 私たちはとかく自分の、他に勝る点から人を見たり、見下したりします。「私は有名な学校を出ている」とか「家柄がいい」とか「これこれの才能がある」とか「土地や財産がたくさんある」とか、自分の良きもの美しいものをたてにして自分や他の人を見比べて、高ぶったり、見下したりしています。これが差別的な人間関係を生み出しているのです。 私たちは少しでも他の人より高い立場に立ちたいのであり、他より勝れることを喜びとし、またそれゆえにわずらい悩んでおります。
 外から聖人をみれば、貴族出身で、当時最高の学問所であった比叡山で二十年も学問・修行をなし、しかもあの稀代の高僧法然聖人のお墨付きの高弟ですから、それこそ金ピカのお方ですが、聖人はそういう箔(はく)をご自身とされず、全く逆に大海の底に沈んでいる石のようなものとして、これ以下はないという低みに我が身をおいて、ご自身を見ておられます。  
 

三。御同朋とかしずく聖人
   それなればこそ、聖人を仏様のように敬ってこられる人々、それは農民であり商人であり漁師であり武者などのいなかの人々ですが、その方々を、蓮如上人のお文によれば「聖人は御同朋・御同行とこそ、かしづきて」(お文第一帖第一通)いかれたのでしょう。当時、権力者からは人間らしい扱いをされなかったような底辺の人々にかしずいておられるのです。かしずきてとは、へりくだって相手に敬意を表すことです。
 身分や財産の有無、能力や功績の有無、男女、職業、出身などの違いをこえて平等な、しかもお互いが敬い合う人間関係が、聖人のまわりにはできていたのでしょう。
   聖人は「我は師なり、汝は弟子なり」という上下の関係で、ご門徒に接しておられたのではなくて、ともに如来の弟子であり、如来の子であり、ともに如来に救われていくべきものとされたのです。生きとしいけるものは兄弟であり、念仏をいただく人は友同行であるというお心であります。  


四。われらただびと  
 さらにいえば「大海の底に沈めるわれら」とは、決して聖人ひとりだけの状況ではなくて、人が自分の飾りや持ち物といった付属物をとりさったみれば、すべて「ただ人(凡夫)である」という共通の状況ではないでしょうか。ですから聖人は「われら」といっておられるのです。聖人の「唯信鈔文意」には 「さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」 と仰せられています。そのように「われらただ人」に聖人は立っておられ、その目線で人をも見ておられます。地をはいずりまわってしか生きていけない農民や、生き物を殺してしか生計の手段のない漁師、当時最もさげすまれた商売人とともに、聖人は「われらただ人」とおおせられるのです。
 権力や地位や名誉や財産や学歴や才能や家柄や民族の違いなどは、人間の付属物であります。丁度それは、身につけている着物のようなものです。着ている着物の生地や色やサイズは人それぞれに違うようなものです。しかし、その着物をはぎ取れば、おたがい同じ煩悩具足の人間です。これこそ「人間の本質」なのです。「大海の底に沈めるわれら」 といわれる人間は、万人共通の大地ではないでしょうか。

   しかもその共通のの人間は誇らしいものではなく、迷いの海に沈んで浮かび上がることのできないような存在、すなわち「罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫」といわれるのです。 深い海の底の闇の中に沈んでいる石のような、どうしてみようもない存在だといわれるのでしょう。自分で自分を浄化することも高めることもできない「煩悩具足の凡夫」。これが人間存在の本質的な姿なのだと。  
 煩悩的存在の上に、学問とか財産とか地位とか民族性と才能などで上塗りしているのがそれぞれの人間であるということでしょう。  


六。光照をこうむる  
 しかも、聖人は石ころのような己の存在を嘆いておられるのではありません。深い深い海の底に沈んでいる石ころにまで届いている阿弥陀仏の大悲のみ手のかたじけなさに感泣しておられるのです。正信偈には「一切の群生、光照を蒙る」とあります。「石・瓦・つぶてのごときわれら」に平等に注がれている本願の大悲。それは、思いもかけない広大な恵み。われらひとりひとりに「ナムアミダブツ・汝」と呼びかけられています。  

 木村無相さんが亡くなられる最後のお話が  「私のようなものに阿弥陀様はおん眼を止目手くださった。それだけで十分である。ナムアミダブツ ナムアミダブツ」 といわれました。仏様の目に止まるはずのない深海の闇の石ころのような私を、はからずも阿弥陀様はおん眼を止めてくださった、のであると。目に止めていただけるような値打ちもないこんな者に、かたじけなくも阿弥陀仏は目をかけてくださった、と。  
 また原爆症で、広島の病院のベッドで一生をおくられた山本アヤ子さんの歌に 「水底の 石拾わるる うれしさは 泥抜きいでし 花にまさらん」 とあります。 ………泥抜きいでし花とは蓮の花。蓮の花が泥の中から咲く、泥まみれの中、煩悩の泥の中から、清らかな蓮の花が咲く嬉しさ。その嬉しさに勝る嬉しさがある。それは……病院のベッドから離れることのできない私、何の役にも立たず、人の世話になってしか生きられない無能な私、世の中から取り残された孤独な私、あたかも深い水の底に沈んで、だれから見向きもされない石ころのような、そんな私、そんな私が、まったくかたじけないことに阿弥陀仏の大悲のみ手に拾われて、この闇の海から引き上げられよう…としている、ああなんと嬉しいこと、なんとかたじけなきことよ………… と如来の深い慈悲に涙しておられます。そういうお心がこの歌から伝わってきます。  

 この「凡愚底下の罪人である私が、阿弥陀仏の誓願の大悲のおん計らいによって、浄土の世界に引き入れてくださる」とのお心がこの「大聖おのおのもろともに」の和讃からうかがわれます。    底下の身にそそがれている阿弥陀仏の大悲の光明を、聖人は讃仰しておられますが、木村様にも山本様にも同じ讃仰の心を感じるのです。                                      
                          (了)           



題「思いこみの人生」  

  仏教の教えを学ぶ時によく用いられるたとえに 「人が、夜中、道を歩いていたら、目の前にヘビがとぐろをまいていたのを見て、びっくりして家に逃げ帰った。翌朝明るくなって同じ場所に行って見たら、そこには昨日見たヘビはいなくて、縄があった。彼は、縄をヘビと思ってこわがっただけなのであった。  迷いと言うのもこれと同じで、真実ありのまま(縄)を錯覚して、別のもの(ヘビ)と思い込んで、それにまどわされて悩んでいるだけのことである。悟るとは真実ありのままをそのありのままに、すなわち縄を縄と、認識することである。縄と知れば恐れはないごとく、真実ありのままを認識すれば、そこに恐れも不安もない本当の安らぎ(涅槃)があたえられる」 というのがあります。      しばしば人間は「思いまちがい」や「勝手な思いこみ」をします。否、思いこみだらけの中に生きているといっても過言ではないと思います。しかも自分勝手な、自己中心的な、思いこみが多いのです。  
 テレビの人気番組で「なんでも鑑定団」というのがあります。自分の家にある「お宝?」をテレビの会場に持ちこんで、専門家に鑑定してもらうという番組です。お宝を持ちこんだ本人の評価と専門家の評価とのギャップの大きさがこの番組のおもしろさなのです。本人が「百万円ぐらい」と思っていたら、実際は二束三文の三千円だといわれたりします。  
 本人の勝手な評価がいかに「自分の勝手な思いこみ」でしかないかが暴露される点がおもしろいのです。  
 人間の勝手な評価や思いこみは、もちろん「お宝」だけのことではなくて、生活全体、人生全体において、ずいぶんあります。
 自分は自分自身をどう評価しているかということでも、「私はそこそこの人間だ、点数をつけると八十点ぐらい」と思っていても、それこそ「なんでも鑑定団」における自己評価のようなものです。自分では自分に高い評価をつけていても、他人は六十点もつけてくれればいいほうです。そのように自分自身にたいしては高い評価をしていても、他人はそうは思っていませんから、自分と他人の評価の食い違いに腹をたてたり落ちこんだりすることがよくあります。  

   仏陀は、事実ありのままの真実をまどかに悟り、そのありのままのの真実を説き、そこにいたる道を説いてくださいました。経典の言葉は、私どもをありのままの真実の世界にめざませようとはたらく言葉なのです。その言葉を素直に聞き、この言葉にしたがっていく、いわゆる念仏・聞法によって、私たちの勝手な思いこみを「あなたがそう思っているにすぎない」と、「我が思い」を照らし出してくださるのです。「勝手な我が思いこみ」が、そのつど照らし破られていくことは、事実ありのまま(真実)からのはたらきによってであります。         

                                 (了)
 

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