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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

人間凝視

   
題「人間凝視」

一、ある会話
  六月に奈良の興福寺にでかけ、その帰り道、近鉄奈良駅近くのソバ屋に入って昼食をいただいた。ソバをすすっていると、そこの店員さんの会話が耳に入ってきた。「なんぼ世話になった親でも、五年も六年も寝込まれると、はよ死んでくれた方がええと思うんやない?」と、もう一人の店員さんに尋ねた。「そうや、そうや」との返事が返ってきた。そんなやりとりが食べてる私の耳に入ってきた。
  こういう話しはときどき聴くことがあり、考えさせられる。ちなみに、「親でも長く寝込まれると、はよう死んで貰いたくなるように思うかどうか」と問われたとき、私たちはどういう受け止め方をしているであろうか。


二、三通りの受け止め方
  普通、これには三通りの受け止め方があると思う。
  一番目は、きわめて現実的というか、いなおりというべきであろうか。「そうなったら親が早く死んでほしいと思うのは仕方ない。それで普通や、それでかまわない」と自分のそういう心をそのまま肯定する態度である。
  二番目は、「私はそんな冷たい人間ではない。随分世話になった親はどこまでも、どんな形になっても生きていてほしいと思う」という風に、「自分はそんな人間ではない」と否定する態度である。こういう受け止め方を私たちはよくしている。
  私なども、たとえば悪いことをして新聞に載っている僧侶の記事を読んだとき「私はあんな堕落坊主ではない」と思うことによって自分を安定させようとしている自分がある。悪人は自分以外の第三者のことにして自分を安心させているのである。
  第三番目に、「長く寝込まれると大恩のある親でも早く死んでほしいというような醜い心が私の中にもある。であれば、その醜い、冷たい心を出来るだけ無くするように努力しなければならない」と。醜い心が自分の中にあることを認め、しかもそんな冷たい心を少しでも無くしていって、どこまでもどんな形になっても大恩を受けた親なれば、お世話をさせていただきましょうというような、そんな人間になるように向上努力していかねばならないと。そのようにまじめに受け止める人である。
  以上、私どもは大概この三様のどれかではないであろうか。  


三、教行証文類の引用では 真宗の教えを聞かせていただいている身としては、どのようにうけとめ、聞かせていただくのであろうか。
  このことについては親鸞聖人の著された「教行証文類」(化身土文類)の中に、次のような話しを載せておられる。 『子桑死するとき、子貢弔う、四子あい視て笑う。荘子、妻死す、盆をたたきて歌うなり』(弁正論)
  この意味は、孔子の弟子の子桑が亡くなったので、同じ弟子の子貢が弔いにいった。そうすると子桑の四人の子供が、親が死んだにもかかわらず、泣いて悲しんでいるどころか、嬉しそうに笑っていた。また荘子という聖賢の奥さんが亡くなった。にもかかわらず、その荘子ともあろう人が妻の死を泣き悲しむどころか、お盆をたたきながら嬉しそうに歌っていた。
  というのである。まあこういうことが実際にあったかどうか分からないが、この話しを親鸞聖人が引用されている。これは人間性の醜い面を暴き出したような話しである。これを他人ごとと読むか、それとも我が内心をごまかさずに凝視する時、いやとは云えぬ心が、私の根性としてあることを見いださざるをえないか。  


四、三通りの見方について
  親鸞聖人は、こうしたまことにいやらしい冷たい心をご自分の心として見ておられたのではなかろうか。
  しかし、聖人は第一の人のように、その心にたいして「それが人間だからしかたない。それでかまわない」という風に、醜い自分をそのまま肯定されるであろうか。己の醜い心を「しかたがないから、これでいいのだ」といなおることは、「どこまでも真に生きたい」という人間の深い願いを無視して生きようとすることである。そういう生き方であれば、苦悩はすくないかもしれないが、人生のまことの喜びはほど遠いのである。そこにあるのは満たされることのないしらけた感情の様に思われる。
  かといって、この心を何とか修養努力して浄化しなければならないと聖人は仰せられるのでもないであろう。自分の浅ましい心に悲痛し、この心を浄化しようと己にむち打つ姿勢はまじめであり、世の人の賛同する道であろう。けれどもその自己浄化がはたして願い通りに出来るかというと、まじめであればあるほど「自分をどうすることもできない」という壁にぶつかるのではなかろうか。
  これについて、この道を歩む人は「なかなか困難な道であるが、しかしその努力をしつつあることこそ尊いのである」といわれる。ごもっともな考えである。  ただ「日くれて道遠し」の嘆きはついてまわるのではなかろうか。いつまでも満足できぬ自分にさいなまされる。自己に対する傲慢過信がひそんでいはしないか。

  親鸞聖人は、若き日、自己浄化の道はさんざんされた。その結果、もはやこの自分を自分で変革することが出来ないということを骨の随まで身にしみて、自分の向上努力による自己浄化の道を断念されたのである。「いずれの行もおよびがたき身なればとても地獄は一定すみかぞかし」という聖人の告白がある。  


五、聖人の受け止め方を思う では聖人はどのように上の問題をうけとめられるのであろうか。そのことを私の思い及ぶ範囲で了解してみたい。
  まず「私はそんな醜い心の持ち主ではありません」という第二の人の態度ではない。どこまでもそういう心を持ち合わせているお粗末な醜い自分であると、自分のありのままの心根を見すえながら、しかもその自分で「かまわない」といなおることなく、「まことにおはずかしい、あさましい我が身」と、深く慚愧される聖人ではなかろうか。浅ましい我が身を悲痛し、「罪悪深重の身」と仰せられる聖人。逃げも隠れもされない、自分のありのままの姿を少しの自己弁護をすることもなく見すえる眼。おそろしいほど透徹した眼を聖人に感じざるを得ない。
  私はそういう聖人に、頭が下がるのである。「自分はもっとなんとかすればなんとかなる」というような色気はない。今のありのままのどろどろとした深層の心を「かくのごとき私」と受け取られる。「地獄は一定すみかぞかし」(地獄にしか行けようのない極悪の私)のお言葉は、私にはそう聞こえるのである。  


六、大悲に浴して
  しかも、聖人はそこでご自分を嘆いておられ、絶望しておられ、自暴自棄になっておられるのではない。
  徹底的に「こんな私を助けようと思し召しくださった阿弥陀如来の大悲のかたじけなさよ」と、阿弥陀仏のきわまりない慈悲のお心に出会っておられる。阿弥陀仏だけがこの私の悪業の全部を受容し、この私のありのままを受け取りたもうことを。南無阿弥陀仏というお念仏のお声の一声一声に、「そんな醜い根性のお前を私は見放さない」との情けを仰いでおられるのである。
 さらに積極的にいうなら、「親すら都合悪ければ死んでほしいというようなまことに冷たい心の私であるが、如来様はこんな私のために身を捧げて下さった。それを思えば出来るだけのお世話をさせていただきましょう」と、仏恩報謝の思いで生きていかれたのではなかろうか。


七、仏のお心を見失う
   こうした煩悩の我が身であることを知らされても、それでかまわぬとするところには、仏の広大な慈悲のお心がなかなか通じない。
   また、「私は煩悩の深い身であるとは思わない。私は人格的に勝れていて、結構善にも励んでいてやましいところはない」という安易な自己肯定にも、仏の大悲は気がつきにくい。 さらに、己の悪を知れども、その悪を努力して克服していくことにのみ心が向いている場合にも、阿弥陀仏の御心の深さは素通りされてゆく。  


八、如来のご恩を受けて  
 阿弥陀仏は、私たち一人一人を、無上の仏に仕上げたいがために、一人一人に代わって、長い間ご修行くださり、その修行が完成して阿弥陀仏となられたという大無量寿経の教説。  
 それは、単なる絵空事でもなければ年表に記載されるような歴史上の事実でもない。それは、移り変わる世の中や人間の営みの背後にあるところの、変わらない真実でありまことだといわざるをえない。
   人間はこの真実を見失うところに倒れ、このまことを知ることによって生きる。  なぜ阿弥陀仏が私どもに代わって、純粋な善をなさねばならなかったのか。  
 それは私たちが、自分が考えるよりももっともっと悪が深いためである。自分の反省ぐらいでは届かないところまで、私の罪悪を見通されての阿弥陀仏のご修行である。私が冷たい心や浅ましい心や醜い心を私の上に見出して嘆くに先立って、阿弥陀仏はもっともっと深い私の罪悪を既に見抜き、私どものすべての罪悪の元を抜かんがための御苦労をされた。

   阿弥陀仏のご恩を知らせていただいたからには、「私はそんな冷たい、浅ましい人間ではない」とはいえなくなる。また「私はこの心でしかたがないんだ」といなおるだけにとどまってはおれない。かといって、「何とかこの浅ましい醜い心をどうとかせねばならぬ」と、どこまでも自分の努力をたのみにしていくことはできない。
   南無阿弥陀仏とお念仏を申し、私の醜さ冷たさを「申しわけありません」とはじつつ、如来大悲の御恩を讃仰して生きるばかりである。                                               (了)  
 

真宗大谷派 念佛寺

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