本文へスキップ

真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

肉体的苦痛と念仏

   
題「肉体的苦痛と念仏」

(一)二種類の苦
  仏教は抜苦与楽(苦を抜いて楽を与える)の教えと言われます。しかし、苦を抜くといっても、精神的な苦悩を除くのであって、肉体的苦痛までも除くことはできません。イタイとかダルイとかウズクとかいうような肉体的苦痛は、お念仏を申したからといって、消失しないのはいうまでもありません。
  ですから医療的処置をしても除かれない肉体的苦痛は耐えるほかはありません。  


(二)苦痛に意味を見出す
  しかし、ただ耐えねばならないとしても、肉体的苦痛に意味を見出すことが、もし出来るなら、その苦痛にたいしてより耐えやすいのではないでしょうか。   様々な困難や辛苦は、それがとても重圧となり耐えがたくなるのは、その艱難辛苦に意味あるいは意義を見出すことが出来ないからという面があります。「どうしてこんな辛い目にあわねばならないのか」という嘆きの中には、苦しみの意味が分からないという嘆きでもあります。
  それは肉体的苦痛においてもいえるのではないでしょうか。もし肉体的苦痛もそこに尊い意味を見出すなら、意味を見いだせないのと比較して、苦痛をより甘受しやすいのではないでしょうか。  


(三)苦痛は念仏のご縁
  ではどこに「肉体的苦痛に意味を見出す」ことができるのでしょうか。
  木村無相さんの念仏詩に
 
  ご縁 ご縁 みなご縁   困ったことも みな御縁   南無阿弥陀仏にあうご縁

  とあります。無相さんにとっては、困ったことはすべてお念仏のご縁といただかれています。辛いこと、悲しいこと、苦しいことなど、すべてがお念仏を申すご縁であり、南無阿弥陀仏のお心を我が身の上にいただき尽くしていく大事なご縁なのでした。


(四)真宗の人生観
  ただ、痛いことまでも南無阿弥陀仏のお心を深めていくご縁といただき、痛みにまで意味を見出すためには、私の人生を「浄土に生まれ往く念仏の人生」と受け取る人生観が確立していることが大切であります。
  そのような人生観は、凡夫の思案によっては生まれるものではありません。生と死の本質を完全に見通し、ものの本当のすがたに覚醒した仏陀によってのみ明らかにされた道が「浄土念仏往生の道」であり、それを釈尊は、万人の救われる道として「仏説無量寿経」(大経)にお説きになりました。そのみ言葉に随う信心においてはじめて「浄土に生まれ往く念仏の人生」が恵まれるのです。
  浄土は自他一如・生死一如の悟りの完成する境界であります。煩悩・苦悩の消滅する涅槃の世界こそが浄土であり、その浄土に生まれようと願えと、釈尊はお勧めになっておられます。

  我が人生を浄土へと方向づけられていく時、人生全体の見方が変えられていきます。 今までは、福を愛し、福を求め、災いを嫌い、災いから逃れようと、自分の計らい一杯で生きてきたのでした。神仏えの信仰も、この福を求め災難からのがれたいという功利的な、要するに自分の願いや欲求をかなえたいという、自分の都合を中心にした信仰でした。これを聖人は「偽りの信心」といっておられます。
   浄土往生の人生観が真宗の人生観です。浄土往生を私の上に実現し給う働きを、釈尊は「阿弥陀仏の本願力の働き」として、大経に詳しく説かれました。
   大経にはーーー 阿弥陀仏は私どもを浄土に生まれさせたいと願い、南無阿弥陀仏の名号を私どもに与え、このみ名にうち明けられている阿弥陀仏の誓いを信受せしめて、浄土に生まれる身に定めてくださるのです。このことを成就するために阿弥陀仏は法蔵菩薩となって長い間私たち一人一人のために苦しい修行を重ねたまいましたーーー と説かれています。  


(五)さわり多きに徳多し  
 私たちの人生上に起こってくる多くの障(さわ)りについて、親鸞聖人はご和讃に

罪障功徳の体となる
こおりとみずとのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし   
                〈高僧和讃〉
(罪や障りはそのままが仏の功徳をいただくものとなる。それはちょうど氷が多ければ多いほど、溶ければ水が多いようなものである。そのごとく、障りが多ければ多いほど与えられる仏の功徳は多い)

と聖人がうたわれています。
   たしかに肉体的苦痛はお念仏してもとれません。けれども肉体的苦痛は「念仏申そう」との心を起こす縁となってくださいます。  
 悲しいことや辛いことや苦痛は、外にのみ向いている自分の心を自分自身に、自分の内面に立ち帰らしめます。そのことが同時に「念仏申さんとおもいた」たしめられるのです。  


(六)本願の念仏  
 お念仏申しても、有難い気持で申すとか、嬉しい気持ちで申すということなどは、苦痛の最中にはなかなかかなわぬことです。けれども本願のお念仏は「有難くも嬉しくもない、その心のなりで我が名を称えよ」とのおぼしめしであります。
   このことは「観無量寿経」九品段の下品下生のところで、一生悪ばかりを為してきた悪人が、臨終の間際に身も心も極度に苦しくなった時、心が乱れて仏や浄土のことを心に思うゆとりが無くなる、その時に善知識が「心に思うことが出来ないようなら、仏の名を称えよ」とおすすめになる。そこで悪人は、南無阿弥陀仏と十返称え、浄土に往生することができた、という教説があります。  

 ここでも説かれているように、有難いとか尊いとか、そんな殊勝な思いは、身体が苦しい時にはどこかに飛んでいってしまいます。  
 しかし、本願のお心は、そういう私どものたよりない心を既に知り抜いて「心がどうにもならねば我が名をとなえよ」と仰せられます。「唯」称えるばかりであります。
   しかし、極端に苦しくなった時は称えることさえできません。木村無相さんが晩年心臓発作が起こった時「胸がフライパンで焼かれるようで、苦しくて苦しくて念仏どころでなかった」と言われました。たしかに切羽づまればそういうものだと思います。
   称えれないほど苦しい時に、無理に念仏を称える必要もないのでしょう。本願の念仏は、私どもが称えたから助けられるのでは毛頭ないのです。仏は、私の称えた功績によって救いたもうのではありません。私どもの称える称えないにかかわらず「そのままなりを助ける」との絶対の救済を告げ知らしめたまうのがお念仏なのです。
   「助ける、助ける」の仰せがお念仏です。ですから称えられないからといって、私がお助けからはずされるということはないのです。私がたとえお念仏申さなくても、阿弥陀仏は「助ける」と喚びづめであり、念じづめであります。
   ですから激痛のため、たとえお念仏が申されなくても、阿弥陀仏が私とともにいたもうこと、私を念じ、私を引き受けたもうこと、浄土に生まれしめたもうことに変わりはないのです。  


(七)あがく手をすてて  
 体の痛みはどうしようもないけれど、どうしようもないままに「我が名をとなえよ」との仰せのままに称えてゆく、そこにはからずもほっと一息つけさせていただけるのでありましょう。その「一息の休み」が、そのつどそのつど与えられて、その場その場を通らして下さるのであります。  
 「我が名称えよ」の仰せのままにお念仏していることは、ただ今の現実に随順し、どうかせねばならぬとあがき廻る計らいの手をそのつど捨てさせて下さるのです。あがく思いは、何度も何度も起こってきます。一回一回新しいあがきです。その新しいあがきに一回一回新しくお念仏が与えられるのです。
   どうにもならない現実に反抗して、どうかしようとするあがきで苦しんでいる私。お念仏はそのあがく手をそのつど捨てさせて下さる。
 
 それが、自分に意識せずとも「今ここの現実」を受け取っていること、現実を引き受けていることになっているのです。
   「我が名称えよ」の仰せのままにお念仏する事は、私の行く末を「我、汝を浄土に導かん、汝を浄土に生まれしめん」との阿弥陀仏の大悲の約束に身をゆだねていることになるのです。  
 汽車に乗れば、トンネルの中に入っても、目的地に進みつつある道中です。そのように、仰せに信順して念仏していることが、阿弥陀仏の汽車に乗せられて、涅槃界である浄土へと運ばれつつあることです。その道中にはトンネルもあり、風や雨も降るが如く、艱難がいろいろやってきます。しかし阿弥陀仏の汽車を止めることは出来ません。それらは通過されていく出来事であります。  


(八)痛みの緩和  
 体の痛みは、ただ苦痛というだけでなく、不安感が起こります。どこかが痛いと、ただ痛いだけでなく、「もしかしたら重大な病のせいではなかろうか。このまま長びいたらどうなるのであろうか。誰も世話してくれなくなるのでなかろうか」などと心配になります。今の痛みだけの問題より、そういう不安がやりきれないということがよくあります。それは死の怖れにも当然つながっています。  
 後悔の思いが起こることもあります。「あのとき何々しておればよかった。あんなことをしなかったらこんな痛い目をせんでもよかったのに」という様な思いです。
   不安や心配や後悔などは、純粋な痛み以上に私たちを苦しめる場合が多いものです。そうした苦しみは精神的なものですが、肉体的な苦痛にはこのような精神的な苦しみが伴い、苦が2倍にも3倍にもなりかねません。
   お念仏はこの精神的な苦しみを和らげてくださいます。大悲の仏心にふれますと、精神的な苦しみが軽くなります、薄くなってきます。歓喜さえ起こる場合があります。    お念仏の功徳は、精神的な苦悩を和らげて下さいますから、肉体的な苦痛も耐えやすくなります。  

 以前「痛みというものには心理的な要素と関係がある。癌の患者さんが入院中、昼間は周りの人とか見舞いの人とかが出入りし、話しをしたり励まし合ったりして、心も紛れるので、痛みをそれ程感じない。けれども真夜中、語る相手もなく、孤独感と死への不安を感じるなかでは痛みを大きく感じてしまうので、こういう時が患者の一番辛い時である」と医療関係の本で読んだことがあります。  
 孤独のさびしさとか将来の不安が痛みを必要以上に感じてしまうというのです。孤独や将来の不安が解消されてくると、痛みへの感度も軽減され易いということでしょう。それはあり得ることだと思います。
   阿弥陀仏の誓いに我が身と人生の行く末をゆだねてお念仏申す人は、肉体的な痛みを必要以上に感じないで生きることは可能だと思います。

   昔、美濃にいたある妙好人は、しばしば四十八本の薪の上で寝たそうです。なぜそんなことをするのかと人に尋ねられた時、彼は「薪の上で寝ると夜中痛くて目が覚める。その時、阿弥陀様が私のために艱難辛苦のご修行を長々と代わってしてくださったご恩の程を少しでも知らせていただいて喜ばしてもらうのである」と答えられたそうです。四十八本の薪とは阿弥陀仏の四十八願のことでしょう。痛みを感じたら、それは阿弥陀仏の御苦労・ご恩の深きことを知らしていただく尊いご縁だと受け取っておられのです。
   こういう妙好人の真似はなかなか出来ないでしょうが、病気で体が痛む時は、お念仏を申し、たとえ一時なりとも阿弥陀仏のご恩を偲ばせていただきたいものです。                                                                      (了)
 

真宗大谷派 念佛寺

〒663-8113
兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

TEL 0798−63−4488
FAX 0798−63−4488