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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7-20

草庵仏教

題「草庵仏教」


一、真宗寺院の存在理由
   真宗寺院の存在意義は、真宗の教えを、縁ある人々と共に聞き、お念仏申すという、「念仏聞法の場」であります。この目的のために建てられ、この目的のために存在しているのです。ご門徒の葬式や年回の法事をする目的のために存在しているのではありません。もちろん、そういうことに使われる場合もありますが、それはお寺という場所を一時的にお貸しているだけのことです。葬式や法事が縁となって、仏法に出会ってくださることを寺は願っているからです。 
 葬儀は、今日では葬儀会館でされる場合がずいぶん増えました。それ以外には、従来通り自宅か自治会館などでなさっています。ご法事も自宅でなさるのが殆どです。ですから、葬儀や年回法事のためにお寺がなければならぬ必要はないのです。  


二、真宗寺院での行事の目的  
 お寺で行われる大事な行事は報恩講、彼岸会(春秋)、永代経、盂蘭盆会、修正会などです。この中、報恩講がお寺にとって最も大事なお仏事です。こうした行事はすべて、その目的は浄土真宗の教えに私たちが会わせていただくための行事であります。  
 決して、他教他宗によく見られるような、現世の幸いを祈るという祈願や死者の冥福を祈るためではありません。真宗の行事は、私たちが念仏聞法するためのご縁となるお仏事という意味で行われます。  


三、寺院のお参りの現状  
 私たちがともに念仏聞法するためにはどれだけの施設がいるのでしょうか。  
 教団の現状からもうしますと、報恩講や彼岸会や永代経などの大きな行事には、ご門徒も、参る義務感もあって多数お参りされているように思います。それなりに本堂が埋まるほどになるお寺もずいぶんあります。ただ最近はこうした行事でさえお参りが少なくて、本堂の半分も埋まらない寺院もよくあります。
 大きな行事の時以外の定例の法話会とか同朋会ではお参りの数はグッと少ないのが殆どのお寺の現状です。二十人前後というお寺が一般的です。 しかし、こうした月例の法話会こそが大事です。年に二.三回の行事に参るだけでは、なかなか仏の教えは身につきません。毎月聞法を重ねていくことが大事なのです。  


四、寺院構造の規模について  
 こうした真宗教団の現状を観察し、その中で真宗寺院の目的である念仏聞法をしていくために、どの程度の施設が必要かというと、今日では、大きな土地に大きな伽藍はさして必要とは思えないのです。教団の現状を長いこと見てきた私にはこう思わざるを得ないのです。
 お寺の大きな本堂が本当に必要なのは、年に二・三回の大きな行事の時だけでしかないように思います。そしてそういう大きな本堂を持っている住職の話を聞くと、ちょうどカタツムリが大きな殻を背負っているようなもので中身の割に形がデカすぎると語られる方がありましたが、同感を禁じえませんでした。  
 「大は小を兼ねるで、大きいにこしたことはない」という意見もありましょう。けれども実際は、修理保全という維持管理のために、多額の費用がかかります。それはご門徒の負担としてはね返ってきます。  
 しかも、大きな本堂のあるお寺は教化活動が十分に行われ、小さいお寺は教化活動ができにくいとは少しも思えません。  


五、道場形式の寺を
 たとえ大きな本堂が無くても、純粋に念仏聞法するための道場としての施設は、ご尊前と広めの部屋があれば十分できると思います。ですから一般の民家を少し広げれば可能です。  
 先年、蓮如上人に深く帰依された金ヶ森の道西の道場に参りました。現在は大きな本堂が建っていますが、元々の道場が昔の姿をとどめて残っていて、その道場は民家の部屋を少し広げた程度です。昔は、こうした民家に近い大きさの真宗の道場があちことにあったのです。
 それが、伽藍形式の、いわゆる内陣と外陣と外縁を備えた大きな本堂を構えるようになったのは、かっては多くの民衆がことあるごとにしばしばより集うようになったために規模が拡大したのだと思いますし、また同時に江戸時代、寺が念仏聞法の場という意義だけでなく、民衆の管理をする役所のような役割を課せられたためでもありましょう。そういう、時代の事情があって、大きな本堂が作られるようになったのだと思います。 


六、草庵寺院の増加を願う  
 ただ現代、かならずしも今日一般にあるようなヘイで囲まれて、大きな本堂があって、という形式でなくても、浄土真宗の目的である念仏聞法の道場は十分に可能であるということです。昔の金ヶ森の道場や、親鸞聖人時代の草庵という形での寺院がもっとあってもいいのではないかと思います。
 それは維持管理が容易で、しかも維持費はたいしてかかりませんから、ご門徒の負担は大変軽くなります。  
 もちろんそういう草庵形式の寺院は以前から存在していますが、改めて現代という時代にこの形を強調したいのです。これを草庵寺院と呼ぶなら、私どもの念佛寺はまさに草庵寺院にしたいと願っています。ただ現在の念佛寺はまだそこまでも至っておりませんがーー。  


七、草庵仏教の特色  
 次に私の願いとする草庵寺院では、旧来の檀家制度を必要としません。関わって下さるご門徒は、いわゆる檀家でなくて信徒でいいのであります。しかも、信徒さんの出入りは自由です。一ヶ月前に信徒になられて、次の月には信徒を離れていただいても差し支えはないのです。  
 また草庵寺院は、住職一代で終わってかまわないでしょう。是が非でも続けなければならないというのも執着だと思います。無理に相続しようとするために、不純になって、仏法を汚すことをおそれるのです。  
 しかし、長く存続できれば、それは仏恩報謝になると思います。そのために、真宗教団から認証された寺院あるいは教会となること、また社会的には宗教法人化することは意義のあることで、それによって存続し易く、活動も広くなると思います。  
 さらに、草庵寺院では存続のために、住職が世襲することにこだわる必要はないと思います。もちろん縁あって、住職の子が跡を継いでもいいですし、他の人で志のある人があればその方に引き継いでもらってもいいのです。  


八、他の寺院や門徒との連帯
 先ほど申しましたように、草庵寺院は、真宗教団に属して活動することが望ましいと思います。教団から離れて独立して活動するより、教団の中で、他寺の同朋とともに仏法を求め、他の寺院とも連携し、本願寺を本山として護持していくのです。孤立した活動でなく、連帯の中で真宗の活動が行われることがより望ましいと思うからです。  


九、生計の問題  
 ただ草庵寺院の住職(庵主)の生計は、その住職さんの能力によって違いますが、私の経験からいいますと決して楽ではないと思います。草庵寺院は、「お寺」として、その存在を一般の人になかなか認識してもらえないのです。世の中の人は、「お寺というものは広い土地にヘイで囲まれた本堂があるもの」「僧侶はそういうところに住んでいる人である」「そうでなくてはお寺でもなく僧侶でもない」という固定したイメージで考えています。
 ですから、民家と変わらないようなところに寺の看板だけ掛けていても、葬式や法事を依頼されることはごく少なくなります。葬式屋さんもこういう寺には、お葬式を頼みにこないものです。(住職の世俗的な手腕によって違いますが)。  
 そういうことで、草庵寺院では、経済生活は楽ではありませんので、草庵寺院の住職は副業を持つのもいいと思いますし、あるいは他の忙しい寺院の手伝いをしながらでもいいでしょう。  


十、他宗にも望む  
 仏教寺院は、住職一家が経済的に不自由なく、この世を安楽に過ごすために存在しているのではありません。貧しくても「人々とともに念仏し聞法していく場を開き続け、人々が救われていく」ためです。  
 当然、こういう形の仏教寺院の在り方は、浄土真宗だけの問題ではなくて、他宗派の仏教寺院にもあって然るべきであると思います。
 私の所の近くに曹洞宗の僧侶で、普通の民家を「金光妙庵」と名づけ、毎朝だれでも座禅に来られるように開放し、日曜は「日曜座禅会」をしている尊い方がおられます。座禅を組みたい人はいつでも指導してもらえますし、毎朝そこにいけば一緒に座禅ができます。小さなお家ですが、仏教活動は、一般の禅宗の寺以上の働きをしておられます。そこにお参りすると非常に開放的で温かいものを感じて心が安まります。  


十一、脱形骸化の試み  
 人間はなにごとにおいても「現在ある形」を絶対化しやすいものです。絶対化してしまうと、新たな創造は生まれてきませんから、同じことの繰り返しが行われ、やがて形はあっても中身が空虚になります。いわゆる形骸化してしまうのです。  
 現在の日本の仏教の姿、仏教寺院の在り方はかなり形骸化してきていないでしょうか。  形骸化を脱するために、もっといろいろな試みを私たち仏教徒はしたらどうかと思います。失敗や行き詰まりがあるとは思いますが、新しい試みをいろいろすることによって、仏教再生の道が少しでも開けないかと思うことです。
   草庵寺院としての仏教活動もそうした一つの試みと思い一文を書いた次第です。                               
                       (了)    


「真宗聖典講座」
『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり』         (歎異鈔第二章)   


(第四講)  
一、救われるために称える念仏ではない  
 善き人法然聖人が「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と仰せられましたが、今回は「弥陀にたすけられる」という点を中心にここの思し召しをうかがってみたいと思います。
 前回にも書きましたが、善導大師は阿弥陀仏の第十八願を 「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不生正覚」(もし我、成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生まれずば、正覚を取らじ) と表され、それを受けた法然聖人はこの思し召しを中心に人々を教化されました。それによりますと「我が名を称えるものを浄土に生まれしめん」というこの本願は、一切の衆生を平等に浄土に生まれさせて下さる阿弥陀仏の平等の大悲を表すものでした。

 さて、「我が名を称えるものを助けん」との本願の心を法然聖人より聞いて、多くの人々が「念仏を称えさえすれば助けていただける」と受け取って念仏するようになりました。しかしこれは、本願のお心を、形だけ受け取って阿弥陀仏の大悲そのものを受け取っていません。多くの人はこのような受け取り方に留まったようです。
 「念仏さえ申しておれば阿弥陀仏が助けて下さる」というのは、念仏と救いとが別々になっています。念仏が救われるための手段になっています。  
 親鸞聖人はそういう風に念仏を受け取っている人を「定散自力の行人」と言われて、それは未だ本願を信受せず疑惑していること、そしてその疑惑によって往生が決定せず、本当の安心は与えられないことを指摘して、早く自分の疑惑に気がついて、誓願の不思議を信受すべきことをおすすめになられたのであります。もし、親鸞聖人の、このご指示がなければ、せっかく念仏にあいながらも、仏心大悲をいただかず、いつまでもあやふやで不安な人生を免れないばかりか、化土の往生に留まるのであります。
 ここのところを、聖人は「三経往生文類」に

「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといえども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかいをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑う」 (意訳ーー様々な浄土往生の善や行のなかから、人間の側からの修行としての善や行はさしおいて、阿弥陀仏の善徳のこもった名号を専ら称える身となっても、この名号に誓われている阿弥陀仏の「そのままなりを必ず助ける」という不思議な誓いを憑まず、自分が名号を称えるという自らの行為を善根として、遂には浄土に往生しようとする。これは折角、不可思議な本願の名号を称えながら、讃え尽くすことも説きつくすこともできない広大で不思議な阿弥陀の大悲を疑っているのである)
  と申されています。  


二、阿弥陀仏の力ばかりで  
 要するに、念仏すれば助けていただけるということで、自分の側からの善き行いを「役立てよう」としているのです。  
 これは念仏だけに限らず、少しでも私の方の善きものを「救い」の役に立てようとするなら、私の救いは「阿弥陀仏のはたらきと私のはたらきとの合作」といわねばなりません。たとえば九十九パーセントが阿弥陀仏の力であり、あとの一パーセントは私の方の行いで、それでもって助かるとするなら、佛と人との合力に依るものであります。  

 しかしここで「弥陀にたすけられまいらすべし」といわれたのは、仏と人の合作でも合力でもありません。それは、阿弥陀仏だけの力によって救われるというのです。すなわち「全面的に弥陀にたすけられる」といわれるのです。  
 私どもは、自分の何かを救いに役立てたいのです。役立つと思っているのです。自分の力に望みや期待をかけています。しかし、それは自分の力を買いかぶっているのです。凡夫が浄土に生まれて仏になることに、凡夫の力は全く無効なのです。けれどもどこまでも、自分の力にたいする信頼や期待が絶えません。これを「自力執心」といいますが、まさに自分の能力に執われているのです。  

 「弥陀にたすけられまいらすべし」とは、私の側の計らいを「お助けの一段」に対して、差しはさまないことともいえます。 親鸞聖人はご消息に 「ともかくも行者のはからいをちりばかりもあるべからず候えばこそ、他力と申すことにて候え」 (意訳ーーそれゆえに、お念仏を申す私どもの側からのはからいをチリほども役立てないのであればこそ、他力というのです) と仰せられています。  


三、救いの成就  
 そしてまた、自分の行いの善さや深い思案や信仰心などが救いの役に立つと思っている間は、阿弥陀仏の救済は私の上に成就しないと思います。自分の何かを役立てようとしている間は「弥陀に助けられる」ということが本当の意味で実感できないのです。  
 逆に、阿弥陀仏の救いに触れたとき、強烈に知らされることは、「阿弥陀仏にまるまる助けられることなのだ」という一点です。「私の方の何一つ持ち出す必要はなかったのに、なんとまあ性懲りもなく自分で自分を救おうとしていたことよ。私は長年、何という愚かなことをしていたのだ。阿弥陀様のおしゃることをちっとも素直に聞いていなかった。申し訳ございません阿弥陀様。こんなに簡単なことをよくもまあ長いこと気がつかなかった、ほんとうに愚かな私でした」という外はないのであります。  


四、自分の知性をたのみにしてしまう
  私たちは何を一番役立てようとして、「弥陀に助けられる」ことを見失うかといえば、自分の知性ではないでしょうか。  
 仏法を「聞いて分かろう。聞いたら分かる。分かれば助かる」と、知らず知らず、自分の頭を頼みにしています。自分が助かるためには「分かる」ことが、お助けに役に立つように思うのです。  
 真宗の聞法の最初は、聞いて分かることが大切ですから、分かろうとするのは当然ですし、必要です。  
 しかし、阿弥陀仏の救いを現実にいただく段になると、分かったことが力になって助かるのではありません。分かれば助かると思っている間は、阿弥陀仏の救済に出会えないのではないかと、私は思っています。それはなお、自分の「分かる」こと、いわば知性を信頼し、知性をたのみにしていて、いまだ阿弥陀仏を本当には憑んでいないのです。  

 分かって助かるなら、頭が悪くて分からない人は救いから除かれます。分からんままで救われてこそ万人の救いなのです。  
 「今まで、分かって助かろうと計らっていたが、私は分かる力のない全くの愚か者である」となったところに、はからずも「そのままなりを」と、すでに喚びたもうていた阿弥陀の大悲に触れるのです。「分からんまんまで汝を助ける」とのお心にあうのです。少しの知性すら、少しも役立てる必要の無いほどの無条件の救済であります。  


五、吉蔵同行の話  
 昔、丹波の三田さんがご信心がいただけず、諸国の妙好人を尋ねました。三河の吉蔵同行を訪ねたときのことです。 『三田「私は丹波の者で、ただ今松林寺様のお世話になっておりますが、一言お知らせをこうむりたいためにお尋ねいたしました。私はいかほどお知らせをいただいても、他力ということがわかりませぬ。どうぞ他力ということを、一言お知らせくださいませ」吉蔵「よく尋ねて来てくだされた。しかし、他力ということは、お前も分らぬか、おれも分からぬ。ただ分からぬ一つじゃによって、来いよが嬉しい南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」 とお答えくだされた。あまり嬉しきまま一礼述べてお寺え帰り、そのまま松林寺のご院主にもうしあげたましたら、 ご院主様が「よく聞いてくれた。よく聞いてくれた。吉蔵ほどある。うまいことをいうなあ!。その一言で、私の説教を五座や十座聞いたより所詮があった。おおかたそれは云わせ手があろう」』
  という話があります。云わせ手とは阿弥陀様のことでしょう。阿弥陀仏が「分かって来いよ」と私どもに仰せられるのなら「弥陀に助けられるばかり」ではありません。もし私の「分かる」ことが必要なら、弥陀の力だけでは助からぬことになります。  

 信心もそうであります。もし「信じて来いよ」と私の側から起こす信心を手がかりにして阿弥陀仏が助けたもうなら、「弥陀に助けられまいらすべし」にはならないのであります。いつか立派な信者になって助かろうとするのは、なお「阿弥陀仏のお力ばかりで」にはならないのです。  この点について、木村無相さんの念仏の詩を思い出します。     信者になったらおしまいだ 信者になれぬそのままで ナンマンダブツ ナンマンダブツ  


六、チリばかりのはからいもいらず  
 私が少しでもどうかなって初めて阿弥陀佛は助けたもうのなら、「弥陀が助ける」の仰せにそむくことになります。  
 聖人が茨城県の北部に住んでいたお弟子の乗信房に与えられたお手紙の一節に 「如来の御はからいにて往生するよし、ひとびとに申され候いける、すこしもたがはず候うなり」 と書かれています。乗信房が周りのご門徒に「如来様のはからいで往生させていただけるのだ」と教えていることに対して、聖人は「すこしもまちがいはありません」といわれているのです。これなども実に簡単な言葉で、うっかり読み過ごしてしまいますが、「如来のはからいにて往生する」ことを伝え、また聞くほかに真宗の教法もないのであります。  


七、無限が分かるとはどういうことか  
 吉蔵同行の話にもどります。この中で吉蔵が「他力ということは、お前もわからぬか、おれも分からぬ」と云われたのは意味深長だと思います。これは吉蔵が奇をてらってこのように語ったのではなくて本心を語ったのでしょう。  
 たとえば誰かが私に「阿弥陀仏というのはどういう仏様か明瞭に分かりますか」と問われたら「ハイ分かります」とは答えられないのであります。「阿弥陀仏は限りないいのちです。あなたはこれが分かりますか」と問われたら「分かります」とは答えられないのであります。「阿弥陀仏はかぎりなき慈悲であるといわれています。このことをあなたはハッキリと分かりますか」と尋ねられたら「分かります」とは答えられないのです。ですから「他力ということが分かるか」と問われたら「分かります」とは答えられないのです。  
 有限な者が有限な頭で、無限なるものに向かったとき、「はっきりと分かる」ということは不可能ではないでしょうか。たとえば「宇宙の広さがどれくらい果てしないのか分かりますか」と尋ねられたら「分かりません」より答えようがないのです。  
 では吉蔵同行は、全く何も分からなかったのかというとそうではないと思います。「分からぬままで来いよ」と仰せられる大悲の心に触れて、仏のお心の限りない深さをかいま見ているのです。「来いよが嬉しい」と、そこに大悲に触れている実感が表されています。 聖人の「高僧和讃」に  
 
  煩悩にまなこさへられて
 摂取の光明みざれども
 大悲ものうきことなくて
 つねにわが身をてらすなり
(口語訳ーー煩悩にさまたげられて、凡眼にはその光明を見ることができないけれども、仏の大悲は倦み疲れることもなく、常にわが身を照らすのである)  

 この御和讃にも、上に述べた思し召しがあらわれているといえないでしょうか。煩悩の心、有限な心では、無限な仏の光明をハッキリと見ることはとてもできないけれども、「見えないままでおさめとって捨てない」と喚びたもう大悲が、私のような者をあきれもせず、そそぎ続けていてくださる、と。  

 それはあたかも、葉末のごく小さな露に宿る月と空の月のように、私ども有限な小さな者は限りない仏様(空の月)を直接に知ることはとてもできないけれども、葉末の露にまで宿って下さる月にであうことができる。その葉末の露に宿る月を通して空の月の限りなさ、不思議さをおぼろながら感じるのでありましょう。  


八、ほのかながらも消えることのない信心  
 他力が「分かる」のはほのかに分かるというようなものでありましょう。しかし、ほのかながらも消えることのないものであり、絶えることのないものであります。かぎりないまことを戴いているとはそういう「ほのかながら消えず、しかも人生を支え、死に面して色あせない、そういう意味でまことに「金剛の信心」といわれるのでしょう。                              
                    (了)  
 

真宗大谷派 念佛寺

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