本文へスキップ

真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7-20

仏ましますということ

題「仏ましますということ」  
 多くの人が「神や仏は、本当にあるかないか分からない。だから信じられない」と思っているのではないでしょうか。 宗教に関心のある人でも、このような疑問を持ち続けている場合が多いのではないでしょうか。  
 こうした問いに対して、「神はまちがいなくいるのだ。だから信じなさい。信じる者は救われる。」と、力んで神の実在を主張する宗教者もいます。         

 「神や仏は無い」と主張するのも、「神や仏はある」と主張するのも、共通に言えることは、どちらの人も「神や仏を客観的事実あるいは事象」として、その有無を考えているのではないでしょうか。  
 客観的事実というのは、誰でもが認められる事実とか事物とか事象のように、神や仏を考えているのです。外に太陽や月があるごとく、山や木があるごとく、そのような誰でもが認めうる客観的な事物や事実や事象のように、神や仏を考えているのです。       
*    もしそういうように「あるかないか」として、神や仏を考えて、その存在の有無を確かめようとするなら、いつまでたっても確かめられないと思います。  
 中には「神を見た」とか「見仏した」という人がいて、そういう書物もあり、私も若い頃読んだことがありますが、見られたものが本当に神であるのか仏であるのか、第三者には確かめようもありません。  神や仏は無限なるもの、それを客観的事物のような有限な存在として、目で見たり手でさわったりすることはそもそも不可能でありましょう。 なぜなら、宇宙のチリにも等しい有限な私たちの目は、有限な事物しか見ることはできません。  
 逆に言えば、人間の目で見ることのできるようなものは、全て有限な形あるものでしかありません。目で見えるものは全て有限なものですから、やがてなくなります。太陽のような大きなものでも、あと数十億年もすれば滅びるといわれています。  
 要するに、外に「もの」があって、それを誰でもが認識できるように、そのように神や仏を考えて、「神や仏の有無」を論ずるのは、間違いであります。         外に見たりさわったりできないものとすると、それはよくいわれるように「神や仏といわれるものは人間の空想の産物であり架空のもの」なのでしょうか。  
 時々「仏は本当にいるのでしょうか」と尋ねられます。その問いに私はこう答えています。  
 「仏を感知する人に仏はまします」と。「仏を感じることのできない人に、仏はましませどもなきがごとし」と。  
 すなわち仏は「感知されて知られるもの」であります。感じる心があれば、仏は「まします」が、感じる心がなければ、仏は「まします」とは思えないのです。  
 無限なるものに接するのは「感じる」ことによって可能であります。      

 中学卒業間近にこんな経験をしました。その頃私は音楽を聴くことに興味をもち始めました。それで是非、名曲のレコードを一枚買いたいと思い、小遣いをはたいて、名曲のほまれ高いベートーベンの交響曲「運命」を買いました。一度も聴いたことのない曲でしたので、よほど素晴らしい曲であろうと期待しながら、それを買ってきてプレーヤーにかけて聴きはじめました。ひととおり聴きました。少しもいい曲とは思えません。それから3回も4回も聴きましたが、「なぜこれが名曲中の名曲といわれるほどの曲なのか、少しもいいとは思えない」と思いました。更に2.3回聴きました。同じ事でした。小遣いは空になったし、聴いても感動もしないし「高いお金を出して買わねばよかった」と後悔しました。それでもあきらめずに10回目を聴き始めました。ところが突然、交響曲「運命」が心に染みわたりました。大変感激して、それから立て続けに十数回聴きほれました。「なるほど昔から名曲といわれるはずだ」と納得したのです。
   今、そのときの経験を考えますと、名曲というものは、その曲を「素晴らしいと感じる心」があって初めて名曲なのであって、もし「素晴らしくいい曲だと感じる心」が私の側になければ、名曲どころかつまらない音の連続にすぎません。「美しいと感じる心」がなければ雑音にしかすぎないのです。名曲はそれを感じる心を離れては、ないも同然です。  

  仏もこれと似ています。仏を感じる心がなければ、その人にとって仏はないも同然です。仏を感じる心があってはじめて、仏はその人にとって「まします」のです。  
 また、アンテナがなければ、どれほどテレビの電波が流れていても映像は映りません。電波がないのではありません。テレビ電波を感知するアンテナがないのです。アンテナがあればテレビの映像は映ります。  仏を知ろうと思えば、仏を感じるアンテナを持つことです。      
 ですから私はこういいたいのです。「仏がないのではありません。仏を感じる心があなたにないのです。仏があるかないかを確かめようと、どれほど外に探してもそれは方向違いです。仏を感じる心をいただきなさい。そうすれば仏はほかに求めず探さずして与えられます。」と。  仏を感じる心のことを信心といっていいのでしょう。信心があれば、仏はおのずとまします。信心を抜きにして仏を探すことは愚かなことであります。  
 また信心を抜きにして「仏などあるもんか」と、仏を否定することも誤りであります。      

 清沢満之先生が「宗教は主観的事実であって、客観的事実に求むべきものではない」といわれたのは、このことだと思います。
 仏は、清沢先生の言葉で言えば「主観的事実」であります。主観的事実とは、感知される心において知られる事実であるということです。宗教的に云えば信心的事実、信仰的事実であります。いわゆる仏の事実は信仰的事実すなわち「信実」なのであります。        感知する心(信心)がなければ仏は分からないとすると、その感知する心をどうすれば得ることができるのかという問いが起こります。
 親鸞聖人は、信心は凡夫の心で作れるものではなく、仏から与えられるものであるといわれます。
   それは何を表すかというと、仏を感じる心は、仏の心でなくては不可能であるといわれるのです。仏を知る心は仏から与えられると。  なるほど、仏を感じる心が煩悩だらけの凡夫の心であれば、感じるといっても怪しいものですし、またすぐに揺らいだり壊れたり消えたり、あるいは仏でないものを仏と錯覚したりしかねません。凡夫の心ほどアテにならないものはありませんから。  
 仏を感じるといっても、凡夫の心で感じたものを仏といっているのなら、それは単なる妄想か、かりそめのイメージを心に浮かべただけのものかもしれません。もしそうであれば、そんなものはイメージだけの仏でしかありません。     

   仏を感じる心は仏から与えられるという事はまことに大事なことです。それであればこそ、信心はその人を本当に救うことができるのです。
 いくら仏は自分の心に感じるものだといっても、迷いの凡夫の心で描き出しただけの仏は、単なる主観的妄想でしかありません。ですから我が身に困った事が起こると消えてしまいかねません。  
 先年、阪神大震災の後で、沢山の人が被災して生活している小学校に慰問に行きました。ある教室に行きましたら、そこにおられた老女が私に「私は長年、お仏壇にお参りし、また毎朝のように近くの神社に清掃奉仕に行きました。けれども今度の震災で、家はつぶれ家財道具を沢山失いました。もう神も仏もあるものか思います。」と語られたのを今も思い出します。  
 その老女の頭に描いていた神や仏は、つね日頃、善いことをし神仏にお参りしていたら、災難不幸に遭わせないように、神仏は無事に守ってくれると、そのように勝手にイメージし、そのようにイメージした神や仏にお参りしておられたのだと思います。
 しかしながら、自分にとって都合のよい神や仏は、その老女の「勝手な思いこんだ神仏」ですから、実際に災難が我が身に降りかかって来た時、自分の頭に描いただけの都合のよい神や仏は消えてしまいました。同時にそのような「神仏へのたのみごと中心の信心」もはかなく崩れました。それが「神も仏もあるものか」という言葉に現れています。それは本当の仏ではなく、その老女の思いで勝手にデッチあげていた「仏」でしかなかったのです。      

 さて信心は仏から「たまわりたる信心」でありますから、信心の本質は仏心であります。この仏心が仏を感知させてくださるのです。信心に感じられる仏は、凡夫の妄念が作り上げた仏ではなく、主観的「事実」すなわち信実なのであります。幻想ではなくて事実なのであります。     

   以上要約しますと、無限者なる仏を客観的な外のものとして、その有無を論じても、それはナンセンスであります。仏は仏を感知する心においてのみ、その存在を知ることができます。
 それは、あたかも月を見ることができるのは、月の光が私の所に届いて来てこそ、月が見えるように。月の光が私の所まで来なければ、私の目だけで月は見えません。「月の光で月を見る」のであります。月を見ることができるのは月のはたらきによるのです。そのように仏を知ることができるのは、仏のはたらき(信心)によるのです。  
 もし仏を感知する心が単なる凡夫の迷い心であるとすると、その心に映じた仏も畢竟妄念の影にしか過ぎません。仏を感知する心は仏から与えられてこそ、真の仏を知りうるのです。                     (了)      


「真宗聖典講座」
『親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり』     (歎異鈔第二章)   


(第五講)    
 今回は「よきひとの仰せ」という「よき人」について考えてみたいと思います。
   善(よ)き人とは仏教では善知識といいます。善知識とは、「正しい教えを説き、仏道に入らせ、解脱を得させる人」のことです。ここでは正しい教えすなわち阿弥陀仏の本願を説いてくださる人のことです。  
 親鸞聖人にとっての善知識は法然聖人でした。         

   阿弥陀仏の救済の言葉すなわち本願は、最初釈尊(釈迦)の言葉を通して、私どもに示されました。それが「仏説無量寿経」です。仏説とは仏陀釈尊の説法のことです。仏陀釈尊が無量寿佛すなわち阿弥陀仏の救いについて説かれた経典が「仏説無量寿経」です。阿弥陀仏の救いを阿弥陀仏の本願として、初めてこの世に説き表して下されたのです。ですから釈尊は大善知識といわれます。  
 釈尊以後の七高僧はすべて、その時代の苦悩の衆生を代表して、ご自身の上に弥陀の本願をいただかれ、人々に説いていかれましたから、七高僧も善知識です。  
 その中、法然聖人は、平安時代の末期に、弥陀の本願を鮮明に説かれた偉大な高僧であります。その法然聖人から直接本願を聞かれて、弥陀の救済に預かられたのが親鸞聖人ですから、親鸞聖人にとって直接の善知識は法然聖人であります。          

 しかし、善知識は高僧だけではありません。また僧侶にかぎりません。弥陀の本願を説いて下さる人ならば、その人がどんな人であっても、聞かせていただく者にとっては善知識といえましょう。  
 蓮如上人は 「善知識というは、阿弥陀仏に帰命せよといえるつかいなり」(お文・二帖目十一通) と仰せられていますように、善知識は私どもに「阿弥陀仏をタノメ」と弥陀への帰命をおすすめ下さる方です。  
 法然聖人は親鸞聖人に「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、弥陀の本願に助けられて念仏申せとおすすめ下さったのです。法然聖人のおすすめが無ければ、弥陀の本願にもあえず、弥陀の本願を信じることもできなかったのですから、親鸞聖人にとって法然聖人は文字どうり真の善知識すなわち善き人でましました。               そのように蓮如上人は「つかいなり」といわれ、阿弥陀仏の仰せを取り次ぐ使い、使者であるといわれますが、お文一帖目第一通には「如来の教法を、十方衆生にとききかしむるときは、ただ如来の御代官をもうしつるばかりなり」と申されている如く、善知識を「如来の代官」であるともいわれています。それは、私がそれを聞くばかり、信ずるばかりで救われるところの阿弥陀仏の本願のみ言葉を、釈迦如来(釈尊)に代わって私どもに告げ知らせてくださるお方が善知識であるとの意であります。  

 ですから、善知識の言葉が、そのまま阿弥陀仏の仰せなのです。すなわち善き人とは阿弥陀仏の仰せを取り次いで下さるお方なのです。真宗のお説教のことを「おとりつぎ」といわれてきたのはそのためで、善知識は本願のお心をとりつぐお方です。  
 なお補足すれば、説法はそれほどの大事なことですから、七高僧のお一人の道綽禅師は 「説法のものにおいては医王の想をなし、抜苦の想をなせ」(安楽集) と仰せられています。法を説いて下さるお方を「私の重病をなおして下さる大変勝れた医者のように思い、また私の迷いの苦しみを抜き取ってくださるお方のように思って法を聞きなさい」と云われています。          

   真宗の善知識の教えを、「この方向に求めて行きなさい。」とか「この行を修すればいつかは救われますよ」というような、あたかも月を指さして月の方角を示すだけのように思うのは、理解不足であります。自力聖道門の善知識の場合はそれでよいでしょうが、真宗の善知識の場合はそれだけにとどまりません。浄土真宗における善知識は、私どもが「聞くばかりで救われる言葉」を語って下さるお方であります。阿弥陀仏に代わって、阿弥陀仏の仰せ(救済の言葉)を伝えてくださるお方です。真宗の善知識はそれほど大事な意味があります。          
 このことは、阿弥陀仏のお心を申さずに自分流の考えや思想や思いを語るなら、その人は真宗の善知識とは言えないでしょう。たとえその人の肩書きが教授であろうと博士であろうと、阿弥陀仏の本願の仰せをさしおいて、自分の頭で勝手に考え出したことを述べるなら、それは善知識とはいえません。 学問はなくても、僧侶でなくても、阿弥陀仏の本願を説いて下さる人は善知識でありうるのです。           

*    真宗の説教の場は、その説教者独自の思想や哲学や感想を語る場ではありません。つまるところ阿弥陀仏の本願が語られる場であります。 それゆえ真宗の説教をする人は、自分の勝手なはからいを慎み、自分の人生や苦悩に響いてくる阿弥陀仏の本願をゆがめることないように、心を空しくして本願のお心を受け取りかつ語るべきものです。その場限りの思いつきの感想や考えを、あたかも阿弥陀仏の言葉のように語ることは慎むべきことで、このことは常に心しておかねばなりません。  
 仏の言葉を純粋に正確に「取り次ぐ」ことは釈尊しかできないかもしれませんが、法を説く人はできるだけゆがみが少ないようにとの願いを持ち続ける必要があると思います。  
 真宗においては、説かれる本願の言葉が、そのまま救いの言葉であります。それはちょうど天空の月が阿弥陀の如く、月の光を地上で映す鏡が善知識の如くでありましょう。鏡が光っているのではありません。鏡はただ謙虚に天空の月を映すばかりです。もし鏡が濁っていたら月の光りはわずかしか映りません。また鏡が歪んでいると月の光も正しく反映されません。法を説く人は仏月の光をできるだけ正確に映し出すことに常に精進が欠かせないのでありましょう。  
 仏の言葉に凡夫の濁り水(邪見)が交わり、これが法を乱し、聞く人を混乱させ、救いを見失わせかねないのです。           
 ただ、善知識はどこまでも阿弥陀の救いを説き、かつお勧めくださる方であって、決して私たちは善知識その人に救われるのではありません。善知識という「人」に救われるのではなく、善知識の口から出ずる本願の言葉に救われるのです。昔から、阿弥陀仏は私どもに「来い」と招喚せられ、善知識としての釈尊は「ゆけ」と発遣されると言い表されました。  善知識は教え手であり、阿弥陀仏は救い手であります。その分限を間違って善知識を救い主のように思ってしまうことがよくあります。 善知識を私の救い手のように思ってしまうと、善知識があたかも生き神様や生き仏様のようになりかねません。善知識の個人的な能力とか超能力とか人格とかによって、その人を生き神様や生き仏様のように思い、絶対服従し、善知識のいうことに盲目的に従うことになる場合があります。  
 そうなるとオーム事件のようなことが起こりかねないのです。教祖をまるで生き神様のように思い、教祖の云うことを絶対化して無批判に従人を殺すことすら正当化して重大な犯罪を犯し、人を害し自らの人生を破滅にいたらしめました。
 今日でもときどき、宗教団体のリーダーとおぼしき人が、自分を「仏陀の再誕」だとか「イエスの再来」だとか云っていますが、そういうこと自体、己の姿を知らない自己陶酔者であって、そんな人を神の如くにあがめることは実に危険きわまりないことです。 浄土教の善知識はあくまでも人ならざる救い手(アミダ)のメッセッジーを、他の人々に伝える伝達者であります。          

 なお、法を聞く人が「あの人は私の善知識です」とはいえても、「オレはお前の善知識だからオレについて来い」といわれるものではありません。善知識は教えられている側において云われるものであります。真宗においては、弥陀、釈迦以外はすべて教えられ手でありましょう。  
 教法に教えられていく人が又、その人に教えられる人にとって善知識と受け取られるのであります。  
 また「死んだ子が私の善知識だった」ということをよく聞きます。わが子の死の悲しみが縁で仏法を聞く身になって、初めて人生の真実まことにあわさせていただいたというお方にとって、亡くなった子の導きでとの思いから「亡き子が善知識」と云われるのです。このように阿弥陀の本願にあわせていただく強い縁になってくれたという意味でいわれる場合もあります。                       
                        (了)    




『 信 心 夜 話 』   
「松五郎念仏語録その一」と私の領解  


一、松並松五郎師曰く 「岐阜に詣らせて頂きました。御縁が終わって或る師、 〈あなた、信心は如何ですか〉 と、 〈私、信心はありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏〉。 師は〈あなたの信は盲信です〉。 〈それではあなた様は解信ですか〉」 (私に云う。南無阿弥陀仏のほかに信心はない。ここで或る師が松並師を〈あなたの信心は盲信だ〉と批判した。「助ける」の仰せを信じるのは、理屈もなにもない。仰せのままを信じているより外はない。この端的な信心の実際が分からぬ人から見ると、何だか盲信、盲目的信仰としか映らない。赤子が親の言うことを、言われるままに受け取っているようなものだからである。しかし、鰯の頭的な盲目的信仰と真宗の信心とは質がまったく違う。松並師は〈あなた様は解信ですか〉と言われた。仏智の言葉を信じる信心は、理屈を超えた仏智の言葉が響いているより外にない。その風光が知れないで信心を語るとすると、それは大方、理屈や道理を聴いて、それをいったん自分の分別の物差しで測って、納得したことを間違いないと信じるという、いわゆる解信(げしん)に違いないのである。なお盲目的信心は智慧がそなわっていないから、正邪の批判がそこからうまれないし、仏の徳が与えられぬゆえ、まことの安心を経験できない。)  

一、松並松五郎師曰く 「日々夜々、念々の思い、今日今時の所作まで、算用が済んで成仏ましました姿こそ、今の南無阿弥陀仏なれば、思い思う心は、皆々おまけじやがな。これ以上だだをこねますと、南無阿弥陀仏様がいかにもお気の毒やで、今呼んでもらうだけでまけて上げては如何ですか。ちぎれちぎれの南無阿弥陀仏、いやいやのままの念仏、念(おも)い出させての南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と聞くだけで、まけてもらいましょうまいか、うまい事や、こんなことに、誰がした、南無阿弥陀仏。」 (私に云う。今の南無阿弥陀仏は、私の一切の思いも行いも底の底まで、末の末まで見通して算用済んだ上で喚びかけまします。どんな思いも知りぬいた上で助ける南無阿弥陀仏の中なれば、ただ念仏聞くより外はない。こんな思いではと、わずらうこともいらぬ。こんな行いではと、まどうこともいらぬ。いやいやながらの念仏のままが、おもい出させてくださって称えられる念仏。その称えるお声聞くだけ。こんなうまい話は世界中探してもあろうはずがない。不思議不可思議の南無阿弥陀仏。)  

一、松並松五郎師曰く 「弥陀が来て 弥陀が連れゆく 弥陀の国 弥陀の国ならおいらの国さ おいらの国なら弥陀の国」 (私に云う。これは手紙の最後に付けられた法歌。口に聞こえる南無阿弥陀仏は、弥陀が私のところえ来てくださっているお姿。この声聞けば「連れてゆく」の仰せ。弥陀の国が私の故郷、このいのちの故郷え「連れてゆく」との大悲の声。私のはからい全くいらず。念仏している姿は弥陀に連れられて、弥陀の国、私のいのちのふるさとに帰る姿。)  

一、松並松五郎師曰く 「念仏者は、〈わけ〉が判(わか)らぬまま念仏して居ても終(しま)いには、辻褄(つじつま)が合う。法義者は道理が判っても終(しま)いには、辻褄が合わぬ、わからなくなる」 (私に云う。判らぬまま念仏申していけば、念仏のほうから、理屈なしの大悲のまことを知らせてくれる。真宗の教義を聞いて理屈が判っても念仏申さねば、理屈超えた本願の不思議にはなかなかあえぬ。)                                 

                                  (了)
 

真宗大谷派 念佛寺

〒663-8113
兵庫県西宮市甲子園口2丁目7-20

TEL 0798-63-4488
FAX 0798-63-4488