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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

一切衆生平等往生

    題「一切衆生平等往生」


一、一切衆生平等往生
   阿満利麿氏に「法然の衝撃」という著書がある。なるほど法然聖人の存在は、佛教の歴史や宗教の歴史のみならず、人類の精神史の上で衝撃的な意味を持ってきたし、現在もその衝撃は続いていると言える。親鸞聖人はその衝撃を普遍的な真理として公開した人である。
  難しいことはさておいて、それほどの衝撃を歴史上に与えたのは、法然聖人が明らかにされた「一切衆生平等往生」という点である。一切の衆生が皆共に平等に救われる道は「コレだ」と示されたのが法然聖人である。単なる理想としてではなく現実に可能な道として与えられたのである。  


二、法然聖人と遊女の問答
 それを一つの実例でもって学びたい。
   法然聖人(以下、聖人)は、当時の支配者によって、「法然の唱える仏法は正法に背き、国家をみだす」ということで、厳しい弾圧を受け、還俗させられて、四国に流されることになった。播磨の室の泊まり(室の津)から塩飽島に渡る時、一そうの小舟が近づいてきた。舟には女性が乗っており、聖人に尋ねるのであった。(以下、問答風に書いてみた)。
  遊女「私は卑しい生活をしており、罪を重ねてまいりましたが、こういう私のようなものはどうしたら救われるでしょうか」 と。彼女は遊女であった。今で言う売春婦である。
 聖人「もしその生活をやめてまともな世渡りの道があれば、速やかに今のような生活を捨てなさい」
 遊女「止めたいのはやまやまでございますが、外に生きていくすべがございません。いかがしたらよいでしょうか」
 聖人「命がけになればそのような生活から足を洗うことができるのではないか」
 遊女「私は心の弱い者で、仰せのような、身命をかえりみないほどの強い志を起こしようもございません。このような者はどうしたらいいのでしょうか。私どものような罪深く心弱き者には救いの道はないのでしょうか」
 聖人「もし外に生計の方法もなく、またきっぱりと今の生活から足を洗うほどの強い志もなければ、生きるためにはやむをえません、今の生活のままもっぱら念仏を申しなさい。阿弥陀如来は、そなたのような罪の深い者のために、万人を救おうとの広大な誓いをお立てになりました。ただこの大悲の誓いを深くたのんでお念仏申していきなさい。あえて卑下することはありません。救われて浄土に生まれることに疑いありません」

   この聖人の言葉を聞いた遊女の喜びはいかほどであっただろうか。その後、この遊女は何年かは遊女の生活を続けながらお念仏を申していたが、ついに髪を下ろして尼僧となり、庵に住んでもっぱらお念仏の生涯を送ったといわれている。(原文は最後の資料参照のこと)  


三、生活環境は変えがたい
 この話しには大変大事な事が言われている。それは生計を立てることについてである。  自分の職業や生計の手段について、浅ましいことをしていると、心が痛むことはないだろうか。生活のために、他者に害や望ましくないことをしていないだろうか。私も商売を少ししたことがある。その時感じたことは、商売をして損をしないようにするにはどうしても正直一辺倒では商売は難しいということである。どうしても嘘を言うことが少なからずある。本心では良い商品でないと思っていてもいざ人に売る段になると、いかにも良い品物のようにいわねばならぬ。品物の値打ちからいって安くはないのに安いようにいったりする。また人間生活にとって不必要な物や害になる物さえ売らねばならぬ。農業でもどうであろうか。人間の健康にとって害にならないような農業をしているかどうか。利潤第一で、食べる人の健康は第二第三のことになっていないか。「もうかりさえすれば」という浅ましい心で仕事をしていないか。漁業も同じである。それに他の生き物を殺すことが多い。殺さずにすむ仕事はないか。
  生活のためにする浅ましさ、貪欲さ、虚偽に心が痛む。なんとか正しく清らかな生活をしたい、世の為になるような生活手段はないだろうかと思う。  正直で人のためになるような経済生活でありたいと思うが、簡単には職業を変えることは出来ない。独り身ならまだしも、一家の生活がかかるとなると、今まで積み重ねて、ノウハウもよく分かっている今の仕事を離れることは、また一からやり直しである。そうなると収入は激減し、家族は路頭に迷うかもしれぬ。
  生活環境は容易に変えられないのである。職業を変えたくても変えられない、そういう者に、聖人は「その生活が止められなかったら止められないままにもっぱら念仏申すべし」といわれる。
   いやそれどころか、盗人や売春婦や殺害を事とする武者にも「今の悪業の深い生活がどうしても止められなかったら止められないままもっぱら念仏申してゆけ」と言われる。今で言う刑事犯罪人に「悪行が止められなければ仕方がない。また悪行をきっぱりと止めようとするほどの尊い勇気もなければやむを得ない。止めれないままもっぱら念仏せよ、必ず救われる。罪人を救う大悲の誓いあり」と説かれる。  
 現代でも、こんな事を言うと世の識者から糾弾されるような言葉である。  


四、人間性は変えがたい
  さらに注目すべきことは、そうした浅ましい生活環境を変えることが難しいだけでなく、変えようとする意欲や意志が乏しい者も、見捨てられないのである。悪行を止めたく思い、悪行から足を洗いたいとは思うが、思い切ってそうするほどの精神力がない者、意志が弱い者、そういう者も見捨てられない。そういう者に「身命を捨てる志もなくば、ただその身ながら専ら念仏すべき也」と言われる。
  人間は生活環境だけではない、より根本的に言えば自分の人間性を変えることができない。これが壁となり悩みとなる。自分の性格や素質や人間性を変革できない者はどうしたらよいか。ここに人間の根元的な問題がある。
 それにたいして、聖人は 「念仏もうす機は、生まれつきのままにて申すなり。先の世のしわざによりて、今生の身をば受けたることなれば、この世にては えなおし改めぬことなり。たとえば女人の男子にならばやと思えども、今生のうちには男子とならざるがごとし。智者は智者にて申し、愚者は愚者にて申し、慈悲者は慈悲ありて申し、慳貪者は慳貪ながら申す、一切の人みなかくのごとし。さればこそ阿弥陀ほとけは十方衆生とて広く願をおこしましませ」 といわれる。即ち人間性は、ちょうど男が女になりたいと思ってもなれないと同じで、変えれないのである。だから愚かな者は愚かなまま、貪欲な者は貪欲なまま、愛の乏しい者は乏しいまま、念仏せよ、弥陀の本願は一切の衆生を念仏一つで救うと誓いまします、と聖人は告げる。  


五、底辺からの救い  
 以上の述べたこと、一つは職業を変えることの困難な者、悪行による生計すら変えれない者にも、救いの法が本願の念仏であり、二には、自分の人間性や素質を変えることのできない弱き者にも、救う法が本願念仏の法であること。この二つは、私たちが救われたいと願うときに必ずぶつかる問題である。
  例せば、昨年マザーテレサさんが亡くなられた。彼女の奉仕生活は世界中の人に感動を与えた。
  それでは、彼女がしているような生活にあこがれて、私が真似できるかというと、とても出来ない。何故だろうか。それは今の生活を変えることが非常に難しいからである。家族の生計が成り立たないからである。それに、家族の生活を犠牲にしてでも、困窮している多くの人々のために身を捧げたいというほどの強い理想心が愚悪の私にはないのである。
  もっといえば、悪行をこととして生活している者も、おいそれとそこから足を洗えないのである。  
  この問題に「今の生活手段を変えたいと願っても、どうしても変えることができず、悪しき自分自身を少しも変えることのできない者よ。そのままなりで御名を称えよ。阿弥陀仏に、汝の責をになう大悲の願まします。一筋に阿弥陀をたのみて念仏申してゆけ」と、聖人は仰せられる。
  この答えはしかし、聖人の勝手な考えではなく、仏説無量寿経の説く内容なのである。ここに人間のギリギリの現実に即した道がある。これ以外は、実際にはごく少数の人のみが許された道、多くの人にとっては単なる理想かお題目にすぎない。  


六、善の可能性は弥陀にあり  
 一言付言しておきたい。室の津の遊女はこの大悲の言葉に従って念仏し、盗賊の耳四郎はこの聖人の言葉に信順して、念仏の生活を始めた。遊女の生活は続き、盗賊の生活は続いた。
 しかるに、念仏にこもる阿弥陀の大悲は次第に称える者の心に浸透した。大悲の智慧は称える人の心を浄化していった。遊女はついに遊女の生活を離れる縁が到来し、耳四郎は盗賊の生活を離れる縁が当来した。彼らは髪を剃って仏道一筋の生活を送るようになったということである。彼らが救われたのもお念仏の大悲の力であり、悪業を浄化してゆき悪行の生活を離れる因縁を熟せしめたのも阿弥陀仏の大悲の徳である。  
 これは悪に即して、かえって悪から離れしむるという、不可思議な道。人間最後の光がここにあると思う。   
  ただし、聖人はこのようなことを公の場で公開したのではない。なぜなら、我が身の悪に悩み、心を痛めている者であってこそ、阿弥陀の深重の大悲に気づくのである。もし、我が身の悪を「これでよい」とそのままに肯定する邪見の者が、この聖人の言葉を聞くと誤解をし、佛の大悲に気づかず、己の悪を弁護し肯定しかねないから、聖人は問題を抱えた人に直接に口伝えにお話しをされた。  


七、還相による救い  
 では、悪を羞じず、どこまでも邪見に固執する者はどこで救われるのか。
   そのことについて、聖人は還相を説かれた。己の悪を羞じず肯定する者を、今すぐに救うというわけにはいかないけど、浄土に往生して佛の徳を身につけてから迷いの世界に還ってきて、そうした邪見の者をも救うていくのであると言われている。
  ここに一切衆生平等往生の法が全うされている。  
 人間は努力さえすれば、自分も社会も良くなると理想的に考えている人にとっては、聖人の言葉は鼻持ちならない、いな危険な言葉ですらある。しかし、現実の自分をありのままに見据え、自分の姿を深く凝視する時、人間の救い、すべての人の救いは、この道をおいて外にないではないかと言わずにはおられない。                    


七、資料(法然聖人の言葉)
  室の津の遊女に示されける御詞  
「述べるところ、まことに罪障かろからず。酬報またはかりがたし。過去の宿業によって、今生の悪身を得たり。現在の悪因にこたえて、当来の悪果を感ぜんこと疑いなし。もしこのわざの外に渡世の計略あらば、速やかに悪縁を離るべし。たとい余の計略なしというとも、身命を顧みざる志あらば、またこの業を捨つべし。もしまた余の計略も無し、身命を捨てる志もなくば、ただその身ながらもはら念仏すべきなり。弥陀如来汝がごときの罪人のために、弘誓をたてたまえるその中に、女人成仏の願あり。しかればすなわち女人はこれ本願の正機なり。念仏はこれ往生の正業なり。ふかく信心をおこすべし。あえて卑下することなかれ。罪の軽重をいわず、本願を仰いで念仏すれば、いかなる柴の扉、苔の筵なれども、所をきらわず臨終の夕べには、弥陀如来無量の聖衆と共に来たりて引摂したまわんがゆえに、往生疑いなきよし仰せられけり」                               (石井教道編・法然上人全集)  
 

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