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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

道徳とお念仏

   題「道徳とお念仏」  

 社会の中で生活していくためには、道徳を守ることが求められています。自分勝手なしほうだいのことをめいめいがしていたのでは、安心して社会生活がいとなめないからです。  
 道徳の内容ははいろいろありますが、「人に迷惑をかけないようにせよ」という一語に一番よく表されているように思います。「他人に迷惑をかけないように行動せよ」ということをお互いに言い合い、とくに子供を育てていく段階では子供に言い聞かす道徳はこの言葉が一番よく親が云っているのではないでしょうか。  
   しかし「人に迷惑をかけないように行動せよ」というこの道徳に基づいて、私たちは「人として本当に生ききれる」でしょうか。そのことを少し考えてみたいと思います。      「人に迷惑をかけない」ということを生活上の道徳として生きるときに三種類のタイプがあるように思います。  
 

第一の人。「人に迷惑をかけないように生きる」という道徳だけで安住している人の場合、ともすると自己批判が浅くなっています。「私は人に迷惑も厄介もほとんどかけていない」というような高ぶる思いに住していることが多いと思います。  
 子供に対して「お前は人に迷惑をかけてはいかんぞ」と言い聞かせている親の心のなかに「私は人に迷惑はかけてこなかった」という慢心がないとはいえません。  
 われわれ凡夫は「自分は人に迷惑をかけていない」と思いたいものです。そう思って生きると楽です。「自分は人に迷惑をかけて生きている」などと考えないように、知らず知らずしています。そう思うことはしんどくて落ち込んでしまうからです。  

 そういうように、凡夫は自分を楽にするために、常に自分を肯定することに傾くものです。      


第二の人。またある人はこう考えます。「なるほど私は人に迷惑をかけることが時々ある。けれども私も人から迷惑をかけられることもしばしばある。お互い様であって、私だけが悪くない」という風に居直ってしまうのです。これも一種の自己肯定であります。ともすると、「迷惑をかけること」そのことまでも肯定しかねなく、迷惑をかけることに対して申し訳ないという慚愧(ざんぎ)の思い、心の痛みが乏しくなります。この考えが高じると迷惑をかけることに歯止めがかからなくなります。いわゆる「人もやってるから俺もやる」となりかねないのです。      


第三の人。中には非常に責任感が強くまじめな人がいます。この人は、「人に色々迷惑をかけてしまって大変すまない。申し訳ない」という自責の念で、随分悩む人です。この人は大変まじめで結構ですが、これだけでは、人生に安らぎはついにやってきません。常に負い目をもって生活せざるをえません。  
 自責や後悔の念が高じますと、「自分のようなものは生きるに値しない」となって自殺に追い込まれたりします。    
 ただ人間は一生の内に第一の人になったり、第二の人になったり、第三の人になったりしますので、そういう三種類の人が固定的に決まって存在しているのではないと思います。  
 ただ「迷惑をかけないように行動せよ」という道徳だけで生きようとすると、どうしてもこの三種の生き方になってしまうのではないかと思うのです。  若くて元気でバリバリ仕事が出来ているときは「自分は人様に厄介をかけるような人間ではない」という思い(その実傲慢(ごうまん))で生きれましょう。しかし、病気になったり老人になったりするとそうはいきません。現実がそうは思わせなくなります。何かと人の手を煩わせることになるからです。最近のご老人がよく語られる言葉に「長生きもええけど、寝込んだりして若いもんに迷惑をかけてまで生きとうない。ころっと死にたい」というのがあります。

 この言葉には、若い人に迷惑をかけるのは気の毒であるという、若い人にたいする「思いやり」の気持ちがあることは間違いないと思います。けれどもそれだけではなく、「世話になり厄介になり迷惑になっているという負い目で生きるのは辛い、いやだ」という思いが強いのではないでしょうか。若いときのように自己を肯定しては生きれないのです。「役に立たない私」というコンプレックスが起こり、負い目とか自分に対する「なさけなさ」の念が起こってきます。  
 老人の自殺の原因は色々あると思いますが、「人の世話になり迷惑をかけて生きるよりは死んだ方がまし」という思いも原因の一つではないかと思います。    
 「私は人のやっかいに極力なりたくない」と頑張っておられるご老人もいます。その自立心は尊いと思いますが、何か肩肘(かたひじ)を張った頑固さ、それに「いつまでこうして一人で自立できようか」という、未来に大きな怖れを抱いておられるように見受けられます。    
 さてお念仏を申す真宗門徒はこういう問題にどう生きていったらいいのでしょうか。 その点で、足利源左同行の生き方に大変教えられます。    
 
源左さん(一八四二〜一九三〇)は、鳥取県気高郡山根村の方ですが、ある時智頭町の有志が京都の一灯園主西田天香氏を招いて講演会を開いたことがありました。源左さんも講演会に行きましたが遠いので、時間に遅れ、会場に着いた頃には丁度講演の済んだ後でした。天香氏も気の毒に思って宿で会われました。
 天香「おじいさん、きけばあんたは遠い所からおい出たのに間に合わなんだそうで悪かったなあ。歩いて来たそうで、しんどいことはないかなあ」
 源左「有り難うござんす。おらは、先生様に比べたら近い所だが、先生様こそ遠い所から見えて、おらどもに良いお話をなさったそうで、さぞ肩がおこりでしょうがや。打たせてつかんせ」。こう云って肩をもみつつ問答が始まった。
 源左「今日のお話は、どがなお話でござんしたな」
 天香「おじいさん、歳が寄ると気が短くなって、よく腹が立つようになるものだが、何でも堪忍(かんにん)して、こらえて暮らしなされや。そのことを話したんだが」
  源左「おらは、まんだ人さんに堪忍してあげたことはござんせんやあ。人さんに堪忍してもらってばかりをりますだいな」
 天香氏はこの答えが一度では分かりかね、「おじいさん、何と云われたか、今一度云うてくれんかな」
 源左「おらあは、人さんに堪忍してあげたことはないだけっど、おらの方が悪いで、人さんに堪忍(かんにん)してもらってばっかりをりますだがやあ」  
 この時同席された松尾さんのお話では、天香氏は「私が肩をもんでもらうような爺ではない」とおっしゃたとのことです。(「妙好人・因幡の源左」より)    

 まず、源左さんは自分が人に随分迷惑をかけていること、人に辛抱してもらうような厄介をかけてしか生きれない自分の生活の事実を十二分に認めています。  
 実際少し反省をしてみれば、私たちは随分他に迷惑をかけているのではないでしょうか。
 たとえば、自動車を運転すれば、騒音をまき散らし、歩いている人に身の危険を感じさせ、排気ガスを出して空気を汚しています。駅で携帯(けいたい)電話をかければ他人には耳ざわりになっている場合が多いのです。病院のローカを歩けば、その音をやかましく感じる患者さんもいます。善意で人に物を贈(おく)っても、それが相手には迷惑であることもしばしばです。これらはごく身近なものですが、間接的には、電気をたくさん使うとか汚水を流すとか紙を使うとかあるいはゴミを出すとか、そういうことが環境を悪化させています。それは他の人々に害を与えていることになります。もちろんもう一方の側から云えば、私は他者から迷惑を蒙っている被害者であるともいえますが、加害者であることもまちがいのないことです。他に対する加害者であることをまぬがれないのです。ですから、人に迷惑をかけないで生きることは不可能なことです。    

 源左さんは、人に迷惑をかけながらしか生きれない自分をよく承知していました。この点、私たちが「私は人にたいして迷惑をかけていない」と高ぶっているのとは違います。そればかりか、源左さんは常々、自分は迷惑をかけているけど、「人に堪忍していただいている私」であるとまで言い切っています。こういう源左さんですから、自分が人から迷惑を蒙ったときも、いたずらに腹を立てたり責めたりせず、柔軟な対応をされたのではないでしょうか。私たちは「自分は人に迷惑をかけていない」と思い上がっていますから、人からの迷惑を許せず、すぐに咎(とが)めることが多いのです。    

 さらに、源左さんはこのように「おらの方が悪いで、人に堪忍(かんにん)してもらってばっかり」の自分だと受け取っています。しかも、いたずらに自分を責めもせず、いじけもせず、落ち込みもしていないのです。そこには思い上がりからではない清らかな明るさがあります。  
 これはどこからくるのでしょうか。    
 それはお念仏からでした。源左さんがいつも仰っていたことは「おらがやな者を、親様ならこそ、ようこそようこそナンマンダブナンマンダブ」と仏恩をいただいていました。ここに源左さんが、人に迷惑をかけてしか生きれないことを慚愧(ざんぎ)しつつ、なおこの上ない喜びと有り難さの中に生きることの出来た秘密があります。    
 「迷惑かけていない」と驕(おご)るか、「迷惑かけてもお互い様」と居直るか、「迷惑かけて駄目な自分」と自分を責め続けて生きるか、どちらかに陥ってしまうしかない私たち。そんな中で、お念仏を申し、「そんなお前だから、見捨てない。お前の責任はこの弥陀が受け持つ。どんなに人に責められてもお前を私は見放さないよ」と喚びづめに喚んで下さる阿弥陀仏の大悲のお心につつまれて生きる。そこに初めて、人に迷惑をかけ厄介をかけることを「申し訳ないことです」と素直に慚愧しつつ、また人様にお世話になるときには素直にお世話していただいき「本当にありがとう」と心からその人に感謝していくという、いじけず、肩肘(かたひじ)を張らない、自然な生き方が生まれてくるのではないでしょうか。私えの「責め苦」は如来が共に負って下さる南無阿弥陀仏であります。    
 「私は誰の世話にもならない」というのも傲慢(ごうまん)であり不自然であります。そこには大きな「我」ががんばっています。「私は人の世話にならねばならない、情けない」と卑屈になるのも因縁を無視した自我の煩悩であります。  

 源左さんには、いわゆる佛教で云う「因縁にしたがう柔軟な生き方」がおのずからなされています。それはお念仏をいただく心から生まれてきたのだと思います。因縁に従うとは、人に迷惑をかけたと思えば素直に謝り、人のお世話になるときは感謝してお世話をしていただき、人の厄介にならねばならぬ時は素直にご厄介にならせていただく。また人のお世話をさせていただけるようなご縁がくれば喜んでさせていただく。これが人として自然で柔らかい素直な生き方でありましょう。  
 そうしたお念仏による感謝と慚愧の生活は、世の中を和らげしめる空気を生み出していくのではないでしょうか。  

 最後に一言申したいことは、「迷惑をかけられた」という側の問題です。「あの人に迷惑をかけられた」とか「厄介な目にあった」とか「人の世話をしなくてはならなくなって、困った」という受け取り方、考え方も深く反省してみなければならないと思います。「親の世話」を厄介なこととする考え、人の世話をしなくてはならない時、それを「面倒でイヤなこと」とする受け取り方。そこに、自分にとって都合の良いことは歓迎し、都合の悪いことは嫌うという、自己中心的な考え方(我執・我愛の煩悩)があるのではないでしょうか。                                                                                               (了)
 

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