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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

現実の受容

   題「現実の受容」


一、ある老人の嘆き  
 先日、テレビで、ある老人ホームにおられるご老人の姿が映っていました。その老人は、脳梗塞(のうこうそく)かなにかで左半身が不自由でした。そのご老人が、テレビのレポーターに涙して語りかけながら、「どうしてこんなになったんや」と怒りながら右手で、不自由になった左手を何度もぶっていました。その老人の嘆きが、見ている私に痛々しいほど伝わってきました。  
 たったこれだけの場面でしたが、このなかに、人生のありとある苦悩の縮図があるように思えました。  


二、理想と現実の溝  
 形は違ってもこの老人と同じ嘆きを大なり小なり、私たちも毎日のように感じているのではないでしょうか。この老人の悩みは「左手が昔のように自由に動けたらいいのに、動かない」ことに対する嘆きでありましょう。  
 私たちでも、「もっと収入があればいいのに不景気だからもうからない」とか、「子供がもっと勉強してくれたらいいのに、遊ぶばっかりで勉強しない」とか、「自分の性格に合った職場だったらいいのに、今の職場は私には合わないからいやだ」とか、「もっと美しい体形だったらいいのに、醜い私」とか、「才能が豊かな人間だったら素晴らしのに、私はなんて才能に恵まれないのだろうか」とか。  


三、苦悩の原因  
 つまり、人間はさまざまな理想とか願望とか欲求をもって生きています。しかし、現実はどうかといえば、私の思い通りにはならない場合が多いものです。自分の思いに反する現実にしばしばぶつかるのです。願い通りになることは少なくて、願いがかなわぬことがあまりにも多いのが私たちの人生です。佛教で「人生は苦なり」といわれる一面はこうした現実をいわれるのでありましょう。  
 一言でいえば「理想や願望と現実のギャップ」に人は一生悩まされて生きるのです。こうした人生の苦しみが除かれていく道はないのでしょうか。  


四、現実からの問いかけ  
 人々は思い通りにならない壁にぶつかって苦悩するのですが、そのことは、どうにもならない現実から「汝はこの現実をどう受け取るのか」と問われているのです。  
 この老人の問題では「あなたはゆうことをきかない身体である事実をどう受け取るのか」と問われているのです。 人生の問題は全て、「あなたは今の状況をどう受け取るのか」と問題提起が与えられるということです。  
 それに対して、下手な答えを出すと、それは出した人を苦しめます。「私は不幸です。ひどい災難にあいました。どうしてこんな目にあわねばならないのでしょうか。なさけない」というような答えを出すと、出した人がその応えに苦しめられます。 それこそ悪因苦果といわれゆえんです。 清沢満之は「苦痛は罪悪の結果なり」といわれました。苦しむということは自分が間違った受け取り方のためであるといわれるのです。  


四、現実を受け取れない姿  
 下手な答えとは、現実をうまく受け取れないからともいえます。現実を「受容すること」ができないため、現実を嫌い憎んでいるのです。しかも、この現実から逃げられません。そこに悩みや嘆きがあるのでしょう。
  先ほどのご老人の場合ですと、左手が不自由になって、どうしても治らないという現実があります。この現実に対して怒り嘆いているということは、左手が思いどおりに動かないという現実を受け取ることができないということではないでしょうか。  
 ではこの現実を「仕方なく負おわされた不幸」としてではなく、逃げも隠れもせずに素直に受け取るというような「受容」はできないのでしょうか。そのような道はないのでしょうか。  その道が見つかったとき人はまことの幸せを獲得したといえましょう。  


五、いつかは幸せをと  
 一般に、自分の願望や欲求が「かなう」のを幸せと見ているということは、自分の思い通りにならないときは「ふしあわせ」と思っているのでしょう。  
 こうして、多くの人は「いつか幸せになれる」ことを期待しながら、ついになれないままに世を終えます。    「いつかは幸せを」と願って生きているということは、今は不幸とまではなくても、幸せとは感じていない証拠といえます。  


六、願いに固執する自我心
 現在に幸せを感じないなら、「どうかして願いをかなえたい」と、どこまでも自分の欲求に固執して、自らも苦しみ人をも苦しめるのです。  
 物事が思い通りに行かないとき、人に八つ当たりしたり、恨んだり、人を責めて苦しめたりしがちです。そうした自分の願いに固執する心、それは自我心です。  自分の願いをもつことは結構です。ことに美しい願いをもつことはとても大事なことです。  
 けれども、自分の願いにあまり固執することは、おうおうにして自他を害するものです。 願望は美しくても、その願いにこだわる心に自我心があるからです。  


七、満たされない今日
 「ああなりたい、こうなりたくない」という欠乏感で生きていることは、今日ただ今は「みたされていない」のです。今日は一日は、いつの日か来るであろう「幸せな日々」(?)までの過程にすぎなくなるのです。ということは、現在ただいまの現実そのものを本当には受け入れていないのです。  


八、今の現実の受容の可能性  
 今ここの現実を「有り難い現実」として受け入れることが出来る道とは、どういう道でしょうか。  
 それは「いつでも、今、ここ」の私の現実に働きかけている阿弥陀仏の大悲の本願に気が付くことです。  
 どのようなみじめな現実にも阿弥陀仏の本願はかけられているのです。阿弥陀仏の大悲のかかっていない現実はありません。 経典にはそのことを「光明遍照・十方世界」(観経。光明はあまねく十方の世界を照らす)と表されています。  
 月の光があまねく世界を照らしているように、阿弥陀仏の大悲の願力は私の「今、ここ」の現実に常に働いて下さっています。
 そのしるしが今、念仏となって、私の口にあらわれてくださるのです。
 その大悲の働きは「若不生者・不取正覚」(もし生まれずば正覚を取らじ)の誓いとなって、喚びかけておられます。その誓いの内容は「汝の状況はいかようなりとも、我は汝の現実を引き受けて、きっと必ず悟りの境界である浄土に生まれさせる。安心して我に任せて念仏申せ」との仰せであります。端的に言えば「助ケル、安ンゼヨ」の大悲です。 この大悲を「どうにもならない現実」にいただく者は、今の現実を嘆いたり悲しんだりできなくなるでしょう。このような者を「助けよう」の大悲が今に仰がれるのであります。    自分の願望がかなわない現実であっても、如来の大悲を仰いで念仏申すとき、大悲の光明は私の苦悩を大いに和らげて下さるのです。  


九、無相さんの臨終の言葉  
 以前に述べましたが、木村無相さんが亡くなられる三日前のこと、私が病院にかけつけたときは、まさに危篤状態でした。身よりのない木村さんに付き添婦さんが一人ついているだけでした。その部屋は看護婦室の隣の部屋で、死にかけている人が入れられる部屋でした。  そのような状態の中ですから、無相さんの身体は苦しいよりなく、またご本人も自分が重篤の病いであることも分かっていましたから、まさに最悪の状況でした。  
 そんな中で無相さんは私に、苦しい息をしながら仏法の話しや心境を述べられました。横になったまま身動きもならない状況の中で。
 その時にいわれたお言葉の中でことに私の身に沁みましたのは  「私のような者に阿弥陀様がはからずも目かけてくださった。もうそれだけで何もいうことはない。このまま死んで行きさえすればよいのである。ありがとうナンマンダブツナンマンダブツ」 と阿弥陀仏の大悲のかけられていることを感謝しておられたことです。  


十、私の志願を満てたもう  
 この如来の大悲の真実は、いまここの現実に既に働いています。その真実にふれるとき人は、今ここの現実に充足し、現実をを真に「受容」するものたらしめられるのではないでしょうか。
 親鸞聖人は 「名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(行巻) といわれました。お念仏をいただいて称える者は、すべての迷い心の元が破られ、人の全ての願いが満たされる、といわれるのです。全ての願いが満たされるとは、お念仏によって、根源の願い(生死の問題の解決)が満たされると、そのほかのさまざまな大小の願いはかなわなくても、それがもはや苦とならないということでありましょう。

 藤原鉄乗師のお歌に    
光追う 人に光は  なかりけり      
光なき人  光を仰ぐ とあります。  
(夢や期待を追っかけ回している人に光はない。光のない様な今の現実において佛の光を仰ぐ人。その人はすでに光に包まれている幸せを見出す)

   今ここの現実に幸せを見出す人は、自分の願望ーーー人は生きている限り願望をもたずにはおられないのですがーーーがかなわなくても自分の幸せは壊れませんから、自分の起こす願いえのこだわりが薄らいでまいります。  


十一、恨みや憎しみを離れて  
 こだわらなければ、他者に対しての恨みや憎しみがありましても、その思いがとけていきます。「あの人のせいで私は不幸になった」「あの人が助けてくれなかったからこんな辛いことになった」という思いが次第に除かれていきます。自分の不幸や不運を他者の責任にすることからも解放されてまいります。  
 人に対する憎しみや恨みが強く残るのは、自分の望みを中心に生きようとするからです。たとえば、商売を繁盛させたいと願い、商売が繁盛すればそこに幸せがあると考える人にとっては、商売がたきが現れてお客さんを奪われると相手をひどく憎むようになるようなものです。  


十二、現実に立って生き抜く  
 よく現実を受容し、そこに幸せを見出す人は平和を生む人だといえましょう。  それは、現実にへたり込むことではありますまい。へたりこんで無気力になることとよく受容することとはまったく違います。  逆に現実を有り難く受け入れる人は、現実に立ちつつ、自分の力を生かそうと務める のではないでしょうか。                                                  (了)     
 

真宗大谷派 念佛寺

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