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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

人間の願いと仏の願い

 題「人間の願いと仏の願い」


一、第十八願   
 仏の願いは、仏が私たちにかけて下さっている願いです。その願いは、仏説無量寿経に釈尊が、法蔵菩薩の四十八願として、お説きになっています。
 その中の第十八願の願文に阿弥陀仏の根本の願いが示されています。すなわち
  「たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん、もし生まれずは、正覚を取らじ。」 現代語訳(わたしが仏になるとき、すべての人々が本当に疑いなくわたしの国に生まれることができるとおもいて、わずか十返なりとも念仏して、もし浄土に生まれることができないようなら、わたしは決してさとりの座にはつきません。)  
 阿弥陀仏は私に「浄土に生まれようと願って、念仏申すべし」との願いをかけてくださっています。この阿弥陀仏の本願こそ真実の願いであり、この願いに信順するところにまことの幸せが実現されてまいります。  


二、本願えの私たちの思い  
 さて、この阿弥陀仏の願いが、なぜそれほど重要な願いなのでしょうか。  
 一体、私たちはこの本願を聞いてどう感じるでしょうか。おそらく「このような仏の願いが私の人生に何の関係があるのかわからない」「私の人生とはかけ離れた空想の産物」「現実離れした単なる理念にすぎない」などと思う人が多いと思います。  
 にもかかわらず、親鸞聖人が、この仏の願いこそ永遠の真実であり、万人の救いなのだといわれるのはなぜでしょうか。それには深いわけがあると思います。  


三、人間の様々な願い  
  まず、仏の願いではなく、人間の願いを検討してみたいと思います。  
 たとえば、幼いときには、お菓子がやオモチャなどを欲しいとおもいます。少し長じますと、ゲームをしたいとか野球をしたいなどと思います。高学年になると、いい学校に入りたいとか、医者になりたいとか学校の先生になりたいとか恋人がほしいなどを願いとします。会社勤めをしだすと、上役になりたいとか、いい人間関係の職場で働きたいなどを願います。そのほか大きな家に住みたいとか旅行に行きたいというような願いを持ちましょう。  
 そうした願いのなかで一番多いのは何と云っても、健康と経済的な豊かさえの願いであると思います。老年になると、そこそこ生活できれば、あとは健康第一を願う人が大勢います。中には死ぬときは誰の面倒にもならずにコロッと楽に死にたい、というような願いまで持つようになります。  
 一般には以上のような願いにとどまりますが、さらに人間はもっと高いレベルの願いも起こします。  
 人格を高めたい、愛情の深い人間になりたい、真理を体得したい、聖者のような人になりたい、困っている人々への奉仕に生きたい、世界の平和に貢献したい、などという高い志願を持つようにもなります。  
 以上、人間が持つ様々な願いを列挙しました。  


四、人間の願いの限界
 こうした願いを検討してみますと、そこに限界がないでしょうか。  私は三つほどの限界を感じます。  
 まず第一に、個人的な願い(例、才能をのばしたいとか事業を拡大したい)や小さな願い(ゲームをしたい旅行をしたい)や利己的な願い(有名になりたいとか資産家と結婚したいなど)は、たとえそのような願いが実現しても、人間はそれで満足できるほど単純なものではないということです。  
 そのようなものが手に入れば一時は嬉しいですけど、しばらくすると当たり前になり、そのうちに不足がでてきます。いわばそのようなものだけで人間は真に満たされないのです。

 二つには、たいていの人が願っている経済的な安定とか健康についてです。
 この願いは人間の基本的な願いです。  
 しかし、人間はどれだけ財産があっても「食えなくなる」時がきます。どれだけ健康であっても「医者からも薬からも見放される」時がきます。 
 すなわち人はかならず死なねばならないのです。「死」という必然の前では、健康も富の豊かさも色あせます。
 そればかりか健康第一といっている「今」が「いつ死の病いに襲われるかも知れない」という不安を抱えてしか生きられません。  
 富と健康の願いだけではまことの安らぎはもたらされないのです。    

三つには、優れた人格者になりたいとか、社会奉仕に生きたいという願いは素晴らしいことはいうまでもありません。親鸞聖人も法然聖人も若き日、菩薩道を歩む聖者の道を尋ねられ励まれました。  
 しかし、「なしがたし」という壁にぶつかられたのです。理想は尊い、けれどもはたしてそれを、私が真に実践できるかとなると、出来る人もいるでしょう、しかし多くの人は脱落してしまいます。  
 愛の心の深い人になりたいのはやまやまです。しかし、何年いや何十年生きても愛の人どころか、いつまでたっても相も変わらぬ利己的な自分でしかありません。  
 「私を理想の姿に変えることが出来ない」という嘆きにおちいります。  
 このように、人間のいろいろな願いを突き詰めてみますと、どれもこれも末通らないものであり、限界にぶつかります。  もう一度もうしますと、人間の願いは、願いがかなっても満たされないか、あるいは不安や怖れをまぬがれないか、あるいは願いの実現が不可能という嘆きに帰するか、そういう限界をまぬがれません。  


五、仏の願いの真実性  
 その人間の願いの限界を見通して、万人にかけてくださっている願いが阿弥陀仏の本願です。
 「我が国に生まれるとおもうて、すなわち十念に至るまでせんに、もし生まれずば正覚を取らじ」の本願です。
 私をどこどこまでも追いかけて助けずにはおかない、浄土に生まれさせずにはおかないと寄りそい、もし生まれなかったら法蔵自身が仏にはならない、とまでの大悲のまごころが、私にかけられています。 
   妙好人の鈴木ソノさんの言葉に「若し生まれずばとまでいわれる、その若しは、私のためでありましたか」と、いつもこの本願の「若し生まれずば」のお心に落涙されたそうです。

「仏はよくよく業のひと 
 むなしく暮れゆく私を  
 それほどかわいいか  
 なむあみだぶつ」

 と松並さんも感泣しておられます。親鸞聖人の 「そくばくの業をもちける身にてありけるを助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」 のご述懐も然りでしょう。    限りない慈悲のまことに触れるとき、人は心の底から満たされるのです。与えて下さる如来大悲の恩徳に、「身を粉にしても報ずべし」とまでのかたじけなさを聖人は感じておられます。  

 さらに、死を怖れ、死にゆく人生に、憂いと淋しさをどうしようもなく抱いている私たち。富と健康をもってしても、この死への憂苦をまぬがれない私に、 「浄土に生まれることが出来ると安心してよいのだよ。きっと必ず弥陀が浄土に生まれさせる」 との阿弥陀の本願を聞く人は、初めて、死んでいく人生を「浄土に生まれ往く人生といただける幸い」へと転じるのです。死への憂いは、浄土へ生まれ往く安らかさへと転じるのです。  
 また、自分の人間性を変えることが出来ず、宿業煩悩の身を浄化することも出来ず、いつまでたっても人格者などにはとうていなれない私に、「汝の人間性の始末は私がする。そのままなりを私に任せて念仏してこい。かならず浄化して仏にするから」 との本願の仰せは、このままの自分が阿弥陀仏に受容され、私の完成は阿弥陀仏が責任をもちたもう、深い深い大悲に驚かざるをえません。
 ここに、いつまでも変わらないお粗末な私のままで有り難し、という恵みをたまわるのです。  


六、本願は善の源でもある  
 しかも不思議なことに、何にも出来ない者にもかかわらず、少しでもお役に立ちたいとの善なる心がご本願のお心から催されてくるのを感じます。
 まことに念仏は大善であり大功徳です。阿弥陀の本願は善の泉であります。  


七、人生の分かれ目  
 人間の願いに固執して生きるか、それとも仏の願いを受け入れて生きるか、人生の重大な分かれ目がここにあると思います。
 仏の願いの深甚なるを思うにつけ、仏の願いを聞いてすぐに「私に関係ない話」と捨て去る人の多いことは非常に残念に思います。
 仏の願いは私の人生の本質を徹底的に観察した上で起こされた願いです。凡夫の小さな知恵で早計に判断して、軽く取り扱うことは大いにつつしむべきことであります。                             (了)  
 

真宗大谷派 念佛寺

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