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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7-20

随喜について

題「随喜について」


一、ある画家の物語  
 故金子大栄師が、よくお話しされた仏典の物語に次のようなのがあったのを記憶しています。精確な内容は忘れましたが、 ···昔、インドのある国で、王様が、お城に新しく立派な回廊を作りました。
   王様は、その回廊の内壁を美しい絵で装飾したいと願い、国中で最も優れた画家を二人、城に呼び寄せました。そして期日までに、回廊の内側の北壁面をひとりの画家が担当し、もうひとりの画家がもう片一方の南側の壁面を描くことになりました。  
 早速仕事にとりかかりました。何日かたって、王様がいってみると、南側の壁には素晴らしい絵が描きはじめられ ていました。しかし、反対の北側の壁の画家はまだ絵を少しも描いておらず、ただ壁を磨いているばかりでした。それから幾日か過ぎましたが、北側の画家は絵を描かず、ただ壁を磨くばかりでした。  
 とうとう期日がやってきました。王様が回廊に行ってみました。そうすると、南側の壁にはそれはそれは美しい素晴らしい絵が描かれていました。そうして北側の壁を見ました。北側の画家は何も描かずに壁を磨いただけでした。 ところが、その壁に、なんと反対側の南側の絵がそっくりそのまま、ピカピカに磨かれた北側の壁面に映っていて、微妙に美しい絵が現出していました。  
 王様は感嘆して、磨いてばかりいた画家に、なぜ自分の絵を描かずに磨いてばかりいたのかと問いただしました。  
 そうするとその画家は「南側を担当したあの画家は全く素晴らしい。私のとても及ぶところではありません。私は彼の素晴らしい絵をこちらの壁に映そうと願い、こちらの壁を磨いたのです」と答えました。···  


二、随喜の善  
 この物語は、仏教でいわれる「随喜」という善がどのようなものであるかを語ったものです。  
 随喜というのは、他の人のおこなった善を、我がことのように喜ぶ、ということです。なんでもないことのようですが、この随喜はおこなった本人と同じ善を行うほどの価値があるといわれています。  
 ちょうど、壁を磨いた画家が、もう一人に画家の素晴らしさをたたえて壁を磨くことによって、磨かれた壁に相手の絵がすべて映るように。  そのように、他の人の善を、心から称賛する人は、同じ価値ある善を行ったことになるといわれるのです。  
 それどころか「大智度論」では,自ら善行をなすよりも他人の善行を随喜する方が功徳が大きいと説かれています。
 他者のおこなった善をたたえ、尊んでいる人の姿は、美しいですね。心が和み、なんともいえない平和な空気が周囲に流れています。
 それは善だけではありません。人の幸せについても同じだと思います。他の人が幸せになったり、安穏のためになったりすると、それを「本当によかったね」と我がことのように喜ぶ人の姿は、本当にすがすがしいものです。  


三、法敬坊の言葉  
 これに関連して、蓮如上人の「御一代記聞書」(二五一)には、上人のお弟子の法敬坊の言葉が伝えられています。
「法敬申され候う。とうとぶ人よりとうとがる人ぞとうとかりける、と。」 (法敬坊が「尊いお方であると尊ばれる人よりは、尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる) と申されたところが、蓮如上人が 「面白きことをいうよ、もつとものことを申され候う」 (おもしろいことをいうたものである。いかにも道理のあることを、法敬坊は申された) といわれたそうです。  
 他者の善や美点や優れた能力や幸福を、心から喜び、たたえ、尊敬する姿は、まことに夏の涼風の如くさわやかであり、清らかであります。  世の中が浄められるのは、まさにこういう空気によってなのだと思います。  


四、随喜をさせない自我心  
 随喜することは一見やさしいようで、純粋に随喜することはまことに難しいことです。    なぜなら、私たちの心には自我心が頑強に根を張っています。「オレが」「私が」と、自分を立てようとする心です。人に負けまいとする思いです。自分や自分のファミリーが、人よりも「優位に立ちたい」と思う心根が強く、そのため人が自分より「優秀なこと」を苦々しく思う根性があるのです。この心がある限り、随喜はなしがたいのです。    自我心の強い私たちは、随喜どころか大無量寿経(五悪段)には次のように、私たち凡夫の姿が鋭く説かれています。 
  「世間の人民、心愚かにして智少なし。善を見ては憎み謗りて、したいおよばんことを思はず」 (世間の人々は愚かで智慧も浅く、善い行いを見ればそれを悪くいい、その行いを見習おうと思わず)、 「 人の善あるを見て、憎嫉してこれを悪(にく)む 」 (人が善いことをするのを見てはねたんでにくむ) とあります。  

 他者の善を見て喜ぶどころか、憎んだり、そしったり、ねたんだりしかねないのが凡夫の姿であると釈尊は教えて下さっています。
 たとえば、他者が人助けをしたり、社会に貢献したりすると、自分もさせていただきたいと「したう」のではなくて、ケチをつけ、非難し、自分のところまで引きずりおろそうとするのです。自分がほめられるのはうれしいけれど、他人がほめられるのは面白くないのです。  
 こういう仏陀の言葉を聞くと、気持ちが悪くなるほどですが、これが凡夫の赤裸々な姿なのです。
 親鸞聖人は 「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり」      (一念多念証文)
 といわれ、死の息切れるまで、そねみ心やねたむ心がなくならない、それが凡夫の性質であるといわれるのです。  
 人の行う悪をきらうのはわかりますが、人の行う善を見て、喜べず、これを快く思わない。素直に人の幸せを喜べず、それどころか人の不幸を時によると「いい気味だ」とさえ思うような根性があります。  
 お寺(宮崎県)の婦人会で真宗の教えを長年聴聞している方が、「私の心はまことにあさましうございます。私の心は、隣の家に蔵が建つ音よりも、隣の蔵が崩れる音の方が快く聞こえます」と慚愧告白されたということをかって聞いたことがあります。
   こうした心をもっていることはまことに浅ましくも悲しいことであります。まさに地獄を作る心であります。
 このような私たちが作っている人間社会が、穢土といわれ、濁れる世といわれるのも無理はありません。
 このような世にあっては、随喜の善はまことにうるわしいものです。


五、浄土の菩薩  
 これにたいして、自我心を滅ぼした浄土の菩薩は、大無量寿経によれば、 「(菩薩は)嫉心を摧滅す、勝れるを忌まざるがゆゑに。」 (浄土の菩薩は嫉妬心を滅ぼして、自分にすぐれた方を少しもねたまない)
 と説かれています。浄土の菩薩は、悪の本である自我心が消滅し、全く浄化されているのです。自我心が全く浄化される領域がお浄土です。  


六、随喜はなしえるか  
 ではこの世において、随喜は可能なのでしょうか。  
 随喜はそれなりになされ得ると思います。全く純粋な随喜ではなくとも、また一時的であるにしても、随喜に近く、随喜に習うことは可能であると思います。  
 世の中には、生まれつき随喜ができるような恵まれた性質の方、清らかな性質の方もおられるでしょう。こういう人は蓮の花のように美しいお方だと思います。こういうお方のことを、前生が違う人と言われるのでしょうか。
 しかし、愚悪のわれら凡夫はそうはいきません。  
 では愚悪の凡夫にもし随喜が可能とすれば、どのように可能なのでしょうか。  
 それは、仏心をいただくことによってではないでしょうか。私たちには仏心はありませんが、私たちは、有り難いことに仏心がかけられている存在です。  


七、自我心の否定  
 私たちにかけられている阿弥陀仏の大悲心(仏心)にであう時、自分が「石、かわら、つぶてのごとくなる」(唯信鈔文意)者であることを喜んで承認します。
 高上がりをし、特別な人間であるかのように、自分を思い上がっている人間。それゆえ、他者の「優れる」を讃えることのできない人間。
 そのような心情で生活している中で、南無阿弥陀仏の心にふれるとき、「汝、チリやあくたのような者よ」と呼びかけまします阿弥陀仏のみ心に、自分の本来の姿を知らされる時、「そうです。私はそのような者でございます」と心から素直に認めざるをえません。    
そうした石や瓦のような、死人に等しき者を助けたもう阿弥陀仏の大悲の前に、「私が」「オレが」と、どこまでも自分を立てようとし、高みに上げようとする自我心が、一時的なりとも砕かれます。  
 金子先生が「念仏は自我崩壊の音である」といわれたのは、如来の大悲の前に自我が空しくされることをいわれたものと思います。  


八、随喜は如来の大悲から  
 「我が名を称えよ」の如来の仰せに、それほどまでに誓われなくては助からぬ愚悪の身を知らされます。
 そんな愚悪の身も、如来の大悲ありて、大悲ゆえに、まことにこの上なき果報をたまわるのであります。自己の功績や能力や行いによって、現在の幸せをつかんだのではなく、全く如来の恵みによってであること。   
 いと小さき者でありながら、いな、それゆえにこそ如来の広大なご恩にあずかる者。もはや小さな自分を立てる必要はないこと、そのことを感じる時に、他者の幸せを喜び、他者の善を随喜する純粋な思いが、如来の大悲を源として起こることもあり得るのではないでしょうか。                                                                  (了)  
 

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