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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

ありのままの自分を受け入れる道

  講題「ありのままの自分を受け入れる道」


 真宗の教えを聞いていくことによって、我が身の上に与えられる大事なことは、ありのままの自己が受容されてくることだと思います。  私たちは日頃、自分というものを何とか立てようと思い煩うことが多く、自分を立てることに疲れています。自分の値打ちを下げないようにすること、ことに他者からの「自分への評価」が下がらないようにすることに思い煩ってしまいます。
 自分の過失や失言をくやんだりなげいたりすることも同じ質のことです。反対に自分が自分を眺めて「私は結構いい人間なのだ」と思うことは実に愉快であり、また他者から「あなたはいい人ですね」なんて言われようものならこれほど気分のいいものはないのです。
  自分に惚れ、自分を愛し、自己に陶酔する人をナルシストと言いますが、もともとこれはギリシャ神話から由来した言葉です。  ギリシャ神話に出てくる美少年ナルキッソスは、ある時池をのぞき込みました。池の水面に映った自分の姿の美しさにほれぼれし、水際を離れることが出来なくなりました。そしてとうとう水仙になってしまいました。ですから水仙のことをギリシャ語でナルキッソスと言います。  

 この神話は自惚れの心理をみごとに表しています。
  逆に自分がつまらぬ人間であることを自分に認めたり、人からも「あいつはダメ人間だ」と軽蔑されることは、とてもイヤなことなのです。こうなると落ち込んでゆきます。私たちはそういうイヤな気持ちになりたくないし、落ち込むことを恐れます。
 それでどこまでも、自分はひとかどの人間であると自分も認め他者にも認めさせようと煩っています。自分(自分たち)を値打ちづけることにずいぶんエネルギーを注いでいます。学歴や職業や財産や才能や家柄など、その他すこしでも他より勝れたものを持とうとします。道徳すらも自分を飾る手段にしがちであります。ボランティア活動さえも自分の飾りにしかねません。そのように自分を少しでも他者より優位に置こうとしています。    面白いもので「うちの家系は」などという場合は、たいていもとの先祖を、公家であるとか、士族であるとか、庄屋であるとか、由緒ある神社の出であるとか、そうした昔の特権階級にことさら結ぶ付けようとします。

 明治以前の何時の時代でも支配階級はごくわずかで、下層階級がほとんどだったのですから、今日のほとんどの家系は下層民だったはずです。でも私たちは自分の家系を下層民に結びつけることをいやがります。それはすこしでも自分たちを上位に置きたいという願望がなせるわざです。  
 なお断っておきますが、支配階級とか下層民とかいうものが本来あるわけではありません。その時代に、武力と財力をにぎった者が支配者となり、彼らによって抑圧された人々が下に置かれたという、その時代の力関係によって人為的に仮に位置づけられただけのことであります。人間そのものはもともと平等であって、下層も上層もあるはずもないのであります。  
 自分を高く上げようとすることに汲々とし、煩っているのは、要するに自分に執われ、自分に縛られている自己執着のいとなみであります。  自分の一生をこのことに殆ど費やしてしまうことにもなりかねません。

 さて真宗の教えに生きるということはどういうことでしょうか。
 それは自分だけを高くあげることをしない道であります。自分を群生海(正信偈)の一員であること以上の高みに置かない道です。群生とは雑草が群れ生えていることです。そういう草々のなかの一本の民草に立場を置いて生きる道であります。
 社会的にどれほど能力があろうと名誉があろうと財産や学歴が高かろうと、そうしたものを自分の本質のように思いこんで他者の上位に自分を置こうと、しない道であります。たとえ才能が豊かであっても、それはたまたま恵まれたものであって、私の本質ではないのです。どんなに財産があろうとも、社会的な地位が高くても、それは私自身の本質ではありません。それらは縁あって自分に与えられただけのものにすぎません。

   親鸞聖人は貴族出身で、最高の学問を身につけ、極めて頭の良い超エリートでしたが、それをちっとも誇っておられませんし、それを自分の本来の価値だとも思っておられません。
 逆に、ご自分を煩悩具足の愚悪の凡夫とされ、「いし・かわら・つぶてのごときわれらなり」(唯信鈔文意)といわれています。凡夫というのは、迷えるタダビトという意味です。ただの人、それ以上の場所にご自分を置かれていません。ご自身を道ばたの石ころや瓦のような存在といわれます。一切の人々とであえる同じ低くみにご自分を置いておられます。しかも意識して無理にではなく、当然の如くにタダの人というまったき低みに立場を置かれています。  愚悪の凡夫を、自分の本質であると承認することはなかなか私たちは出来ません。口では言っても心の中では、悪人と思えず、悪人と認めることを嫌い、悪人であることを恐れています。----この場合の悪人とは煩悩具足の凡夫と同じ意味です。   迷妄を根とし、欲と怒りを深くたくわえ、ウソや偽りが多く、利己心を本質としている心の冷たい人間、それが私そのものなのだということを承認する、これが浄土真宗の自己認識であります。
   愚悪の凡夫が自分のまことの姿なのだと私たちは容易に認めません。それゆえ何か不都合なことがあると、すぐに弁解したり、他者のせいにしたりします。そうしないと自分が保てないのです。いつでも自分は善い人であるし、そうでなければやりきれないのです。  ですから悪いのはいつでも他者、あの人でありこの人でなくては困るのです。それほど自己肯定がしたいのが私です。心の冷たい人は自分であってはならず、利己主義者は他者でなくては承知が出来ないのです。
 そういう私が「私は利己心強く、欲が深くてごまかしの多い、まことにお粗末な人間です」と自分を承認し、そうした自己を受容する、そういう道があるとすれば、それは阿弥陀仏の大悲にあう以外にはありません。自分のありのままの愚悪な姿を「まことに私はそれ以外の者ではない」と受け入れることができるのは、阿弥陀仏の大悲においてであります。  

 阿弥陀仏はありのままの愚悪そのものの私をそっくり受容してくださるお方です。  私を「そのままなりでよい」と受容して下さる人は、全世界を探しても一人もありません。人間はお互いに責め合っているのです。私の悪をそっくり許して下さる人はいないのです。  
 私たちは、私の過失や失敗や悪行を、叱責してやまない人々の中で生活しています。それゆえ私たちは、人から責められないように、後ろ指をさされないようにと、びくびくしながら生きています。
 そういう私に汝と呼びかけ、「私はあなたをどこまでも受け入れて止まない。あなたのありのままで私は見捨てない」と常に喚びかけたまう如来のましますこと。その大悲の心に出会って初めて、自分のどうしてみようのないお粗末で惨めな自分を受容でき、そこに嘆きはないのであります。ただ如来の大悲が仰がれるのであります。  
 南無阿弥陀仏の念仏の声は、阿弥陀仏が私を受容してくださる声であります。
 愚悪の凡夫であり群生の一草であることを喜んで承認し、そこに自分を置いて生きることのできる道。その道をお念仏にたまわるのです。  
 自分一人を高みに置けば置くほど、人は孤独であり自己陶酔のとりこになります。私の栄光を自分の才能や人格、あるいは財産や名声や家柄などにちっとも置く必要にない道をたまわるのです。  

 そこにこそ、全ての人々と平等に出会える場が与えられるのです。ただし、阿弥陀仏の慈悲心に出会ったら、もう再び自分を特別視しないかというと、そこが凡夫たるゆえんで、ともすると自分を張り立て、自分を高みにあげ、人の上位に置こうとして止みません。   ですから一生涯阿弥陀仏のお照らしをこうむり、聞法を続けさせていただかねばならないのです。法を聞くことによって自分を高みに置こうとする野心を常に知らしていただくのです。 



*「歎異鈔講座」  
 たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄におちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。               
(歎異鈔第二章) (第八講)  

   今回は歎異鈔第二章のこの部分について共に学んでみたいと思います。
  ここで、親鸞聖人は法然聖人から「(念仏もうすものを助けるという阿弥陀の誓いまします故)念仏して阿弥陀仏に助けていただきなさい」との仰せをお聞きになり、たとえ法然聖人のこの仰せがデタラメであって、師にだまされて念仏して地獄におちても私は後悔はいたしませんと申されるのです。なぜなら、ほかの自力の修行をして、その修行を成し遂げて仏になれるような身であるなら、師の言われることに従ったがためにだまされて地獄に堕ちてしまったと、大いに後悔もいたしましょう。けれども、どんな修行をやってみても何一つ成し遂げることの出来ない身であってみれば、どっちにしても地獄にしか行きようのない身です。こんな者のために「汝のそのままなりを助けるから念仏申せ」と、阿弥陀仏の本願をお取り次ぎ下さる法然聖人の仰せをお聞きした上は、かれこれの思案はございません。ただこの仰せに従って阿弥陀仏に助けて頂くほかにこの親鸞には全く道はございません。

 しかも、阿弥陀仏の仰せに信順したとき、はからずも驚くべき救いが与えられ全く感謝のほかはございません。
  このような思し召しが歎異鈔のこの言葉から伝わってきます。そして、この箇所を読みますとあの「二河の譬え」が念頭に浮かびます。  

 二河譬は、唐の時代の善導大師の書かれました観無量寿経疏のなかの散善義に出てくる譬えです。これは譬えではありますが、弥陀の本願による救済経験をものの見事に具体化したもので、たんなる譬えという以上の現実味を帯びたものです。    
 二河譬を要約してみますと

ーーーある人が西の方角に向かって旅をしていると、忽然と河にぶつかった。その河の幅は百歩ほどであり、真ん中に小さな白い道があって向こう岸へと続いている。その道を境に、南の方角は火の河となっており、北の方角は水の河になっている。しかも南北ははてしがない。河の深さは底が無いほど深い。この白い道は幅が四・五寸ほどしかなく、しかも両側の河から火と水がかぶさるように迫っている。この道を進むと火に焼かれそうだし、水にのみ込まれそうである。 この人は後ろから群賊や悪獣に追われて、今この河にぶつかった。群賊と悪獣はこの人を殺そうとして追っかけてくる。この河を目の前にして、この旅人は次のように思った。 「この河は南北にほとりがない。もとに引き返そうとすれば群賊悪獣が迫ってくる。南北の方に逃げようとすれば、そちらからも悪獣や毒虫が襲いかかってくる。かといって、前に進んで小さな白い道をゆけば、火に焼かれるか水におぼれるにちがいない。いったいどうすればいいのか。引き返すならば殺される、かといってここにとどまっていれば群賊悪獣に追いつかれて殺される。前に進もうとすれば、火や水にのみ込まれそうだ。どっちにしたって死ぬことをまぬがれない。どっちにしても死ぬしかないなら前に進んで行こうではないか」 と思った時に、東の岸から「この道を行け」 と勧める声が聞こえ、また向こう岸(西岸)から 「汝一心正念にして直ちに来たれ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕ちることをおそれるな」 という声が聞こえた。この人はこの声を聞いて躊躇せず白い道をまっすぐに進んで無事に西の岸に到った。 ーーー

という譬えです。  
 この譬えは、人が真実を求めていく時、どうしてもぶつかる一線があり、そこにぶつかった人がどのようにしてその行き詰まりから脱却して、精神の新天地に出るかを経験的に譬えたものでありましょう。  
 真実への道はどこから求めてもよいでしょう。死の問題を解決したいでもよい。まことの愛を得たいでもよいでしょう。神や仏にあいたいでもよい。悟りを開きたいでもよい。人生の虚無感を脱却したいでもよい。ウソをつかない生き方をしたいでもよい。怒らない人間になりたいでもよい。まことの真理に目覚めたいでもよい。まことの信心が得たいでもよい。
 どの道でもよい、その道を徹底していけば、自分の力ではいかにしても超えがたい鉄の門にぶつかります。いかほどその門を叩いてもビクともしない。かといって叩くのを止めて元に引き返すことは死ぬこと以上に耐えられない。しかも叩いても叩いても門は開かれない。開かれないままの今の状態に落ち着くことは到底できない。進むことも出来ねば、引き返すこともできない。かといってこのままの状態にはたえられない。二河の譬えでいうと「我今かえらばまた死せん、とどまらばまた死せん、ゆかばまた死せん。一種として死を免れず」という状態にどうしても落ち込んでしまいます。  

   自力無効、観念無効、刀折れ矢尽きて鉄の門の前に倒れるよりほかなくなります。その時、不思議にも、求めていた真実そのものがこちらに一挙に恵まれます。鉄の門が向こうから開かれる。「そのままなりを引き受ける」という絶対の仰せが初めて聞くように骨の髄まで響くのであります。二河の譬えでいえば「一心正念にして直ちに来たれ。我よく汝を護らん」との大悲の仰せがこちらに届くのです。  

   なお「汝一心正念にして--------」のお心を、名師と言われた池山栄吉氏は「オネガイダカラスグキテオクレヨ」との仏のお心であると領解されたことはよく知られています。  親鸞聖人がいずれの行もおよびがたき身となり、もはや刀折れ矢尽きて、このまま暗黒の闇に滑り込んで行くしかなくなった時、はからずもよき人法然聖人から阿弥陀仏の仰せ「そのまま称えるばかりで助ける、そのほかになにもいらぬぞ」を聞いて「ああ、ありがたい南無阿弥陀仏」と念仏申そうと思いたつ瞬間、如来の大悲真実が聖人の身を貫いたのではないでしょうか。聖人はもうかれこれ言うことは何もいりませんでした。ただ不思議の誓願を不思議と仰ぐばかりでした。そこには理屈も何もない。法然聖人の仰せすなわち阿弥陀仏の仰せでありました。

 この仰せに随順して仰せのままをいただいているほかに信心はありませんでした。  この法然聖人の仰せにだまされて、浄土に生まれずして地獄に堕ちても、後悔はありませんと申されるのです。この絶対の大悲の仰せを受けずしては、我が身には全く救いの道は閉ざされ、虚しく人生を終わり、無窮の闇に入らなければならないことは必定(ひつじょう)。  その状態をすでに知り抜いて、今ここに「我、汝を助ける。そのままなりを任せてくれよ」と呼びかけたもう如来の仰せ一つがただ一つの救い、ただ一つの光、ただ一つの希望でありますといわれるのでしょう。

 いずれの行もおよびがたき身とは、八方ふさがった身ということで、先ほどの「返るも死、ここにとどまるも死、進むも死」といういわゆる三定死(さんじょうし)の身であります。
 聖人は三定死の行き詰まりの我が身に、法然聖人からお聞かせいただいた念仏往生の願がたった一つの脱出点となり、新しい精神の天地に出られたのであります。
 その確かな念仏往生の救済にふれたればこそ、続いて「弥陀の本願まことにおわしまさば」というお言葉が自然に口をついて出られたのだと思います。  

   ここで地獄をどう受け取るかは、各自の人生において違ってくるかもしれません。親鸞聖人は地獄をどう受け取っておられたのか、この箇所だけではよくわかりませんが、このまま死んでいくならば、極苦所であり、極悪所であり、暗黒所としての未来の地獄へ必ず堕ちることを「地獄は一定すみか」といわれたのかも知れません。それで十分意味は通じます。
 しかし、地獄は一定すみかぞかしのお言葉は、弥陀の本願をいただかなければ、今からすでに地獄であるというほどの切迫したものを感じます。実際、生きるに生きれず死ぬに死ねない状態で、活ける屍と化してしまうほかない身を、地獄一定といわれたお言葉の中に感じます。地獄一定の身に念仏往生の誓いが届いたのであります。

  「いずれにも ゆくべき道の絶えし身に ただ称えよの 大悲身にしむ」
   信仰はよく賭けであるとか、自己決断であるとかいいますが、私はかならずしもそうだとは思えないのです。目の前に選択できるものを置いて、それに対してどちらにしようかと賭けるというようなものではないと思います。あるいは、あれかこれかというときに、思い切ってこちらに決断するという風にも思えません。
 いずれの行もおよばず、いずれにも道が絶え果てた時、はからずも向こうから突然に、回向すなわち与えられるものではないでしょうか。こちらが賭けをしたり決断をしたりするような、そういう私の側からの手出しは一切無いのです。串刺しのように向こうから一方的に来るものと存じます。
   要するに自己の限界、いわば自分の知性の限界にぶつかり、私の側の知性的判断を一切からず、本願の言葉そのままから決定される出来事なのです。
 しかし、信心の成就は、個人の思議の及ばぬところがありますから、私のいうようなことだけしかないとは思いません。違った形での信心の展開があることも十分あり得ることです。                                               (了)
 

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