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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

アンコール遺跡への旅

                                           『アンコール遺跡への旅』  

  2004年12月13日。関空を午前に飛びたって、夜カンボジアのシュリムアップ空港に到着しホテルへ直行。12月14日。朝八時半ホテルにミニバスが迎えに来て、ガイドさんと出発した。      
 
◆宗教都城アンコールトム
  最初はアンコールトム。トムは十二世紀にジャヤバルマン七世(在位1181〜1218)が造った宗教都城で、周囲は12キロの環濠と高さ八メートルの城壁で囲まれている。この敷地の中央にバイヨン寺院がある。城内は静かな林で池もあり、多くの人が実にのんびりと掃除をしている。
 バイヨン寺院といえば、50ほどもある塔の外面を観音菩薩といわれる大きな顔が飾っている大乗仏教の寺院である。彫刻はかなり風化している。この観音のお顔は幾分微笑していて、私たちのイメージする観音菩薩とはずいぶん趣が違う。寺院の廻廊には当時侵攻してきたチャンパ族との戦闘場面や往時の生活風物が精密かつ芸術的に彫り込まれ、ジャヤバルマン七世によってもたらされた平和と発展を伝えている。すべて彫刻は砂岩の石に彫られている。この石の下には、鉄分を含んだ土をレンガ状に固めたラテライトが敷きつめられている。
 ただ、ヒンズーの神像たちは残されているが仏像はことごとく顔が削られている。というのはジャヤバルマンの死後に即位した王がヒンズー教徒で、シバ派のバラモン僧の勧告によって仏像をことごとく削いだといわれている。
 ジャヤバルマン七世は熱烈に仏教に帰依し、非常に慈悲行を強調したといわれ、インドのアショカ王とともに有名な仏教王である。国内に102カ所の施療院を建て、各地に道路網を整備し、121カ所の宿駅を設けた。彼は現代でもカンボジアの歴史で一番国民に人気のある人物だとガイドさんはいう。
 遺跡のあちこちで片足を失った人が乞食をしている。多くは今度の内戦時に敷かれた地雷にふれたためで、しかも政府の保証もないので、乞食するしかないとのことだった。1997年にポルポトが亡くなり、実質的に内戦が終わってまだ数年しかたたない。ポルポト一派はタイ国境近くに今もなお自治区をつくって住んでいるという。    

 ◆仏教寺院アンコールワット
  午後アンコールワットに行く。アンコールワットはアンコール王朝のスールヤヴァルマン二世が1113年に建てたものである。周囲は一辺180メートルの環濠で囲まれている。もともとヒンズー教の寺院で、その世界観に基づいて石で造営された。後代になって仏教寺院になり、ブッダ像が安置された。今も人々の信仰の対象となっていて、朝夕多くの現地人参詣者が線香や供物をもってお参りに来ている。こういう人たちに護られて、現在までこの建造物が維持されてきたのであろう。
 ワットはトムに近く、周りの環境がすこぶるいい。低木の緑の林に囲まれているなかにワットがあるので、近くまで行って初めてその姿が現れてくる。環濠の堀に舟を浮かべている人たちがいた。水草を掃除する人たちである。参道から入口までの石畳の道、門から入ると第一廻廊の門までさらに参道が続く。参道の側面では、上智大学の石澤教授を中心に現地人を指導して修復工事をしていた。石澤教授は現地人に遺跡修復の技術を伝えている。教えられた現地人が将来の遺跡復興指導者となるように指導しているとのことである。
 ワットは、テレビで見た時に感じたよりもスケールは大きく、景観はすばらしかった。中にも池があり、五つの大きな美しい塔が水面に映って実に美しい。第一、第二、第三廻廊がある。第一廻廊にラーマヤナやマハーバーラタというインドの叙事詩を題材にしたものや実際にあった戦闘場面などが長い壁面に、それは見事に彫り込まれている。最後に第三廻廊の中にある中央祀堂にたどり着くが、このお堂に上るには実に急な階段をやや這うようにして登る。もう十年も後にここに来たら、私はおそらく登ることはできなかったであろう。また降りるのも鉄線を握っての下りであった。     

 ◆江戸時代初期に来た日本人
  日本人で最初にこのワットに来たのは、1632年森本右近太夫一房で、ここをインドの祇園精舎と思いこみ、廻廊の石柱に、参詣したことを刻んだ。彼の書いた文字(要するに落書き)が未だに残っている。森本右近太夫は奇しくも私の高校時代の同級生であった森本栄二君の先祖である。森本君の祖父森本慶三氏は内村鑑三の熱烈な弟子となり、津山市(岡山県)の名誉市民となった。     

 ◆象のタクシーでバケン山へ
  夕方、日没を見るため小高いバケン山に行く。ふもとから見るとかなり急な登り道で、疲れた体にはとてもきつそうだった。ところがよくしたもので〈象のタクシー〉があり、一人15ドル。家内と二人で特設の木製乗場に上がって乗り込む。乗ったのはいいいが、まがりくねる登り道のため揺れが尋常ではない。身体がねじれる思いをしてやっと山上に着く。日没を見ようと各国の旅行者が群れをなしてカメラ片手にまっている。
 多くはデジタルカメラである。ここはことに白人が多かった。帰りは徒歩でおりた。下の広場で子供を含めた数人の現地人が素朴な民族楽器を奏でていた。とても音楽というレベルではない極めて素朴な大道芸で、いわゆる投げ銭稼ぎである。
 夜食はレストランに案内された。むこうの席で食事している一団の人たちが大きな声で話している。日本ではあまりこうした光景はない。韓国人の団体であった。あちこちの遺跡をまわると必ず小さな子供が土産物をもって売りに来る。わずか五歳ほどの子供が「これ一ドルよ」と片言の日本語で話しかけてくるから、どうして私たちを見て日本人と分かるのか不思議だった。
 というのは、現在、カンボジアの観光客で一番多いのは韓国人、ついで中国人そのつぎが日本人である。外見だけ見ると、私たちでさえ韓国人あるいは中国人と、日本人との見分けがつかない。顔も服装も持ち物も変わらないといっても過言ではない。
 しかるにここの子供たちは、私たちが日本人であることを一目見るだけで分かるというから、恐れいる。
 ガイドさんに訊くと「日本人の団体は歩くときに下を向いて歩く、韓国の人たちは前を向く。また韓国人は互いに大きな声をして話しをする。だから分かる」ということだった。民族性の違いはちょっとしたところにも現れていて、現地の人たちはそれで見分けるのである。    

 ◆ポルポト派に虐殺された骸骨
  12月15日。早朝、昨日ガイドさんから聞いていたポルポト一派によって虐殺された遺骨がまつられているお寺(ワット・マイ)にお参りしたいと思い、ホテルの前にたむろしているツクツク(バイクの後ろに二人がけの席がついている)に乗ってその寺に行った。寺の中庭に四面をガラスで囲み、その中にたくさんの骸骨を積み上げた塔が建っていて、それにお参りをした。カンボジア人の十人に一人は親族に犠牲者をもっているとのことである。
 隣りにある本堂に入ってみると、大きなブッダの座像が置かれている。お堂の壁面には釈尊の生涯のいろんな場面がややケバく描かれている。この絵を見るだけで教化がなされるようになっている。多くの少年たちがついてきてしきりに絵の説明をしてくれるが、言葉がよく分からない。いささかの寄付をして向かいの建物に行くと、それは愛知県の臨済宗の寺が寄付した建物で、子供たちを無料で教育する教室だった。そこに二、三人の若い僧侶がいた。
 この寺は上座部系の寺である。ただこうした若い僧侶たちがどれほどまともな修行ができるのか、それがすこし心配である。というのはポルポト時代に多くの僧侶が殺害され、ことに仏教界の指導者たちが犠牲になった。その影響でカンボジアの仏教界は立て直すのに相当苦労していると以前聞いたことがある。経典をパーリ語で読める僧侶はすくないといわれている。
 現地人ガイドさんの仲間の一人は一時出家した経験があるとのこと。一生に一度は出家生活を送るという習慣は今のカンボジアにもなお残っていて喜ばしい。現在、仏教寺院の建物は整備されつつあり、復興に力が注がれている樣子はこの地でも感じられた。     

 ◆寺院跡パンテアイ・スレイ
   午前九時すぎにパンテアイ・スレイに向かう。道中、カンボジアの人々の生活風景が続く。床を上げ、屋根は粗末なトタン、時には藁葺きのような屋根もある。庭に土のおくどさんがあって、大きな鍋が置かれている。家の中はさしたる家財道具もない。庭にハンモッグを吊して寝ている人たち。子供たちが裸足で遊び、犬がそばで横になっている。まだ朝であるが人が働いている風はほとんどないので、尋ねると「今年収穫が平年の倍あると、次の年は働かない、そういう風潮がある。怠け者が多い」とのガイドさんの説明。これは人間性の問題より人生観の差ではなかろうか。家の周りの多くの土地も耕作されているようには見えない。日本の農村のように山以外はどこかしこが耕作地であるのとはおよそ異なっている。
 パンテアイ・スレイ(九六七年頃)は当時の大臣が建てたこじんまりとしたヒンズーの寺院跡である。ここの浮き彫りはすばらしく、「東洋のモナリザ」と異名がある天女の像がある。アンドレ・マルロー(フランスの文化相で作家だった)が盗み出そうとしたとのこと。この像もかすかな笑みを浮かべている。カンボジアに来て印象的なのは、カンボジアの人は人に対して合掌しながらにっこりとほほえんで挨拶をする。これらの遺跡の彫像にもそれが見られるのはこうした伝統が昔から今に伝わっていると思われる。すこぶるいい伝統である。
 それに彼らは身体が小柄である。こういう民族からどうして今度の内戦のような、ポルポトたちによる百数十万人という一般民の殺戮が行われたのか、不思議である。思うにポルポトたち指導者はフランスに留学して過激な革命思想を学び、それを急進的に、風土も状況も伝統もことなるカンボジアで実行しようとしてあのような悲惨な殺戮を行ったのではないか。ヨーロッパの革命思想にかぶれたインテリたちの思想は強いニヒリズムを含んでいて、伝統文化を否定し、仏教を否定し、多くの僧侶を虐殺し、寺院を破壊して今までの貴重な伝統を一挙に葬り去ろうとしたのである。
 アンコール遺跡群のあるシェリムアップは現在ホテル建設のラッシュである。ようやく国内が安定に向かってきたこともあり、観光客が急増している。たしかにこの遺跡群は観光客を引き寄せる魅力が十二分にあるから、ここは国家にとって重要な外貨を得る場所である。
 午後は他のアンコール遺跡群を巡る。途中インスタントカメラを土産物屋で買う。日本製の217枚撮りが1000円だった。日本の缶ビールも80円ほどで、日本よりも安い。税金や流通が安いからだろうか。        

 ◆崩壊する仏教寺院跡
  さて、ジャヤバルマン七世が母の菩提のために建てた仏教寺院(タブローム)の遺跡に行く。建物は崩壊の過程をそのままに残したようになっている。大きな木の根が石造の建物を覆い、とても修復できる可能性はないとのことである。崩壊する美とでもいうべきか、とても神秘的である。中は相当に広い。
 次に彼が父の菩提のために建てたという仏教寺院(プレループ)に行く。これも大きな寺院跡であるが、崩壊の程度はタブロームよりだいぶましである。彼が愛したお后の像と、その后が亡き後に妹を后にし、その像も隣の部屋に残っていて、多くの人がお参りに来ていた。造形的に大変美しい女性像である。しかしこの寺院のブッダ像もことごとく顔が削られていて痛ましい。
   
 

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