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『西田幾多郎の哲学と真宗教学』2

『西田幾多郎の哲学と真宗教学』2
 
●清沢と西田の問い
 浄土真宗の教法が普遍的な真理性を持っていることを現代において世界に提示する場合、やはり宗教哲学的に真宗の論理をあきらかにする試みが必要である。まだまだその取り組みは不十分である。
 この問題を自らの課題とした近代の人といえば、先ずは何と言っても清沢満之である。清沢は真宗の真理性をそれまでの教義概念の中で問うのではなくて、非常に普遍的な問いを立て、そこから応えようとしたのである。


 それが「自己とは何ぞや」という問いであった。そして「絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に、この現前の境遇に落在せるもの、すなわち是なり」と応答したのであった。

 現前という「今」と、境遇という「ここ」、今ここにいる存在(実体ではなく流動しつつある)を成立させている働きを「絶対無限の妙用」といい、『我が信念』では「無能の私をして私たらしむる能力の根本本体」と表したのである。そしてそれが真の実在であり如来であるというのである。
 浄土真宗だけではなく通仏教の教理に於ても、「真の実在」というものへの考察は乏しい。いな「実在などという考えは仏教ではない」という論者もいる。
 そんな中で人と真の実在との関係を、清沢以後、真剣に取り組んだのが西田幾多郎であった。

●世界の中にいる自己
 西田の論文は難渋であるといわれていて、実際読んでも分からない部分が多い。
 しかし西田が六十歳前後から七十五歳で死去するまでの間の諸論文は難しいながらも手応えがあり、惹きつけられる。ことに最晩年の論文は大変示唆多きものであるが、それは真宗の論理を考える上で貴重な労作となっている。
 今、西田の論文を引用するに当たって、分かり易く語られている西田の講演(「西田幾多郎全集第十四巻)から、世界と自己、実在と自己の問題に触れたところを長くなるが引用してみたい。


「これ迄哲学で考えられている実在界は色々あるが、然し要するに我々が外に見ている世界だということが出来る。つまり自分というものは、その世界の中にいるんじゃなくて、自分はそれを自分の外に見ているのである。つまりいえば知識の対象界、例えば物理学者の考えているような世界、物質界は我々に対立しているものである。我々が外に見ているもの、まあ物質から我々が出るというのもそう考える迄であって、それを考える私は物質ではない。
(乃至)我々の外の世界として見ている世界は本当の実在界ではない。さういふ世界は我々の自己といふものによって、主観によって構成された世界であるといふことが出来る。
(乃至)本当の実在界は我々が中にいる世界でなくてはならぬ。自分を包んでいる世界でなくてはならぬ。自分がその中にいる世界とは自分の知識の対象界ではなく、自分がその世界に生まれ、働き、死んで行くものでなくてはならぬ。それが本当の実在界と考えることが出来るものである」(第十四巻一七七頁)


 ここで西田は非常に大事なことを述べている。それは私たちが普通〈世界〉とか〈自然〉とか〈宇宙〉とかあるいは〈自分〉といっているが、私たちはそれらをなお「自分の外に見ている」というのである。対象的に見ているのである。そういう見方の典型が物理学者(自然科学者)の考えているような世界である。
 ただし、このような対象論理的に見る見方が間違いというのではない。そういう見方をするのが自然科学的見方であるということで、ただその限界あるいはその領域範囲をちゃんと自覚していなければならない。
 そういう見方が唯一の物の見方と考えるから、「物質から我々が出る」とか「意識は脳の産物である」とか「私の当体は脳である」というようにさえ考えるのである。西田は「それを考える私は物質ではない」と釘を刺す。

 ただ、こういう私の外に世界を考える思考形式はあまりにも一般化してしまっているので、「いのち」とか「自己」とかを考える場合にもほぼ同じ視点で見ている。それだけではない。アミダ仏とか浄土とかを考える場合も、こういう対象論理で考えて、〈浄土が有るとか無いとか〉〈アミダ仏がいるとかいないとか〉という果てしない論義が止まぬのである。
 そういう問いを考える前に、そういうことを「考えている自己とは何か、どこにいるのか」という直近の問題こそがまず考えねばならぬ課題である。その問題が解かれてくると、浄土なりアミダ仏という言葉が何を表そうとしているかが分かってくるのであろう。


●人間の根本構造
 そして西田が言いたいのは、「本当は実在界は我々が中にいる世界でなくてはならぬ。自分を包んでいる世界でなくてはならぬ。自分がその中にいる世界とは自分の知識の対象界ではなく、自分がその世界に生まれ、働き、死んで行くものでなくてはならぬ。それが本当の実在界と考えることが出来る」
という。これは西田哲学の核心の部分であるし、人間存在の根本構造にふれる言葉である。
 我々が既に「その中にいる世界」それが実在界である。今ここにいる自己存在に先だってある、私の存在を成り立たせている、そういう実在界、その〈世界の中にいる〉ということ。それがなくては、一瞬たりとも私の存在はあり得ず、「今考えつつある」ということもそれなくしてはあり得ない。
 今考えつつあるという絶対現在の事実(場所)、そこに自己存在があるが、この存在を成立せしめている実在界があるということ。その実在界を西田は歴史的世界とも絶対無とも、或いは矛盾的自己同一的世界とも表現する。  絶対無は、今ここにいるという存在の場を成り立たしめている場所であるから〈場所の場所〉という。しかもその根柢的な場所は色も形も無き無相のはたらきゆえ〈絶対無の場所〉ともいわれるのである。


●物あれば心あり
 この絶対無としての実在は万物のいのちの根源と言えよう。一般に〈いのち〉と言えば、私たちは物質的生物的ないのちを考えるが、生物的ないのちとして捉えるのは、すでに意識があるからである。
 大体、いのちといえば単に物質的生物的ないのちでしか考えていない。しかし、物質を物質と知るのは物質で無いもの、物質を越えたものがあるからである。それはいわゆる〈知る〉働きである。いわゆる意識があるからである。知る働きである意識がなければ物質界も宇宙も生物的ないのちも無いのと同じである。
 たとえば天体を研究している天文学者が何万光年先の星を天体望遠鏡で観測し分析しているのは天文学者に意識があるからである。意識の無いところには宇宙もなければ自然科学も無い。


●物質と意識は実在の二面
 しかも意識と物質は、どちらか一方に収斂されないし、又精神と物質が別々にあるのではない。西田は、


「精神と物質といふ二つの実体があって、それが結合するのではなく、矛盾的自己同一的世界の相反する両面である」(第十一巻三四頁)

「物質的世界と精神的世界との二つの世界があって互いに相関係するのではない。両者は一つの矛盾的自己同一的世界の両面、すなわち歴史的世界の表裏というべきものであるのである。世界が自己に於て自己を表現するといふ立場から云へば、内と外とも云ふべきであらう」(第十一巻三三八頁)


という。物質界と精神界は〈矛盾的自己同一的なる世界〉である実在における相反する二面である、二方向であるという。精神と物質は矛盾しているが不思議にも不可分である。実在の二面ということは物質面だけが実在の用きではなくて、精神面も実在の用きである。


●物質と意識の関係
では物質的な面と意識的な面とはどう関係しているのか。これについて西田は、
「普通には歴史的世界と云ふものが、単に空間的自己限定の世界と考へられて居る。併し単に空間的自己限定の世界とは、自然界たるに過ぎない。それは歴史的世界とは云はれない。歴史的世界は人間を含んだ世界でなければならない。


 旧き言表を以てするならば、主観客観の相互限定、その矛盾的自己同一の世界でなければならない」(第十一巻四三三頁)

といっている。
 意識的な面すなわち主観と、物質的な面すなわち客観とは「主観客観の相互限定」といわれているが、これはどういうことであろうか。これをごく身近な音楽経験から考えてみたい。
 バッハのフランス組曲をピアノ演奏で聴く。そうすると客観としての物質的音の振動が耳に入って、この振動が神経細胞を通して電気的な信号となって脳の聴覚野に届く。そうすると不思議にもえもいわれぬ美しいメロディとなって聞こえてくる。脳の聴覚野に物質的な振動が届くということまでは自然科学の説明で一応理解できる。しかし、それがなんとも言えぬ美しい内的経験として感じられるのはどうしてか。
 ピアノ演奏という客観的な現象を離れて音楽はない。自分の心だけで音楽経験はできない。一方、楽器なりで演奏をするところに音楽があるかというと、それを聴く私たちの心がなければ、音楽はありえない。壁に演奏を聴かせても何の反応も無い。また私の内心だけをいかに操作してもフランス組曲は生まれず、美しさは現れない。
 音楽は外にも無ければ内にも無い。内と外の因縁によって生じるのである。外の演奏は内に聴く心の情感に直接に影響(限定)し、私たちの心は外から入ってくる振動に関与(限定)する。 ただ、こう書くといかにも外の振動とそれを感知する心とが別々にあって、それから相互に関係すると考えがちであるが、そうではなくてどこまでも一つの経験を外と内とに分節しての記述である。(大体、外の物理的な振動というものも、人間の思惟形式を通して表したものである)
 これは音だけでなくて色についても同じで、西田は、


「我々に対して与へられると考へられるものは、何等かの意味に於て、我々の主観との関係に於て与へられねばならない。盲に対して色は与へられない。聾に対して声は与へられない、与へられるものは求められたものと云ふことができる。併し我々の視覚作用が色を生ずるのでもなければ、色が視覚作用を生ずるのでもない」(第六巻二二〇頁)


〈机の上にコップがある〉と見えていることと、私(知覚主体)が〈ここにいる〉ということとは同時存在的である。
 またここで「与えられるものは求められたものである」ということも意味深長である。〈ネコに小判〉といわれるが、ネコは小判が欲しいと思わないから、ネコにとっては小判は小判としての意味はない。小判が存在意味をもつのは欲する人間においてである。
 そうすると外なる物質的環境と内なる意識の面とは同時的に相互に限定している。それが一つの現実的な経験となっている。
 このことは音楽経験に限らず、私たちの経験全般にいわれることである。内即外、外即内であって、内と外とは離れないが又別である。不可分不可同である。


●実在と宗教的信
 そして主客の相互限定という場を成り立たせているのが〈絶対無の場所〉であり真の実在といわれるのであろう。
 こういう実在界は、
「自分がその中にいる世界とは自分の知識の対象界ではなく、自分がその世界に生まれ、働き、死んで行くものでなくてはならぬ。それが本当の実在界」(第十四巻一七七頁)
であると西田は言う。自己がその実在の中に生まれ、その中で働き、その中に死んでいくのであるから、実在界は生命の根源であると言えよう。こういう大きないのちを西田は一般者ともいい、


「深く大なる生命は、深く大なる一般を含むものでなければならない。かかる意味に於ての一般とは、個を否定する抽象的一般ではなくして、個をして真に個たらしめるもの、万邦その所を得せしめる底のものであるのである。我々はかかる一般者によって生きて居るのである」(第十一巻一八七頁)


と述べている。我々は一般者によって生きているという。
 そして西田は宗教的信心について、


「我々の自己の底には何処までも自己を越えたものがある、而もそれは単に自己に他なるものではない、自己の外にあるものではない。そこにわれわれの自己の自己矛盾がある。此に、我々は自己の在処に迷う。而も我々の自己が何処までも矛盾的自己同一的に、真の自己自身を見出す所に、宗教的信仰と云ふものが成立するのである」(第十一巻四一八頁)


といっている。自己を越えて自己を包み、自己の根柢になっている自己では無いもの、そういう働き(真の実在)において自己の存在がある。それを見出すことが宗教的信仰(自覚)であるという。
 これに関して上田閑照は、


「〈我を超越したもの、我を包むものが我自身である〉という自覚なのである。これは西田が最後まで貫く根本洞察の一つになる」(『経験と場所』岩波現代文庫。二二五頁)


といっている。
 自己でないものが自己を成り立たせている、いわば自己でないものが自己であるという絶対的な矛盾において自己が成立している。実在界は自己に於いて内在的超越であると西田は言う。


●内在的超越と真宗
さて、このことを真宗の言葉で言い表すとすれば、西田の言う〈実在界〉とか〈内在的超越〉は我々の生命の根源であるから〈寿命無量〉と言えるのではなかろうか。
 そして寿命無量の用きは物質的環境的な領域にも働いているが、同時に精神的な領域にも働いている。
 そして無数のいのち(西田は個物的多という)としての衆生の心の闇を照らし、内在的超越なる真実に目覚ましめようとして働く。そういう働きを〈光明無量〉というのであろう。光明無量はアミダの心光として衆生の精神的な領域に働く光である。それゆえ凡夫が光明なる如来を外の物質界に求めても見出すことは困難である。
 そして光明無量は用(はたらき)であり、寿命無量はその(体)である。譬で言えばローソクの光は用であり、ローソクそのものは体であるように、光明(用)と寿命(体)は離れない。
 であればこの光明に触れることが同時に寿命(アミダのいのち)に触れることになろう。
寿命無量は我々のいのちの根源であって、


「我々の自己が、我々の自己生命の根源たる絶対者に対する宗教的関係に於ては、智者も愚者も、善人も悪人も同様である」(第十一巻四一〇頁)


 私たちは善悪・賢愚のような様々な相違を越えている平等な寿命無量(絶対者)の中に在るのである。
 これが人と仏(光寿無量)の原関係であって、これは宗教的関係といえるから、人間存在の構造そのものがすでに宗教的構造である。だから宗教的な目覚めは決して人間の特殊な心理状態ではなくて、人(物)の存在の成立根拠への目覚めである。
ただ迷える衆生は自分のいのちの根源に無知であり、対象的に捉えたものを自己自身と執着しているのである。対象的に捉えられた自己つまり個体としての身体を、自分自身と見なして深く執着(有身見)しているのである。
 そこに老病死の憂苦を離れない苦悩の衆生となっている。この盲目的執着があるかぎり流転するといわれている。

 このような迷える衆生は自己存在の根源的な事実(いのち)に戻ろうという宗教心(菩提心)を起こすのであるが、「自力かなわで流転せり」で、衆生の側が対象的に光明・寿命の真実(アミダ仏)に至ろう、あるいは覚ろうとしても、不可能である。いのちの世界の中にいるもの(個物)が、背景となっている普遍的ないのちを捉えることはできない。
 しかしながら、逆にその普遍的ないのちそのものが光明・名号となって衆生に働きかけ喚びかけてくださっている。衆生を救わんとする大慈大悲の意志的言葉の名号となって衆生に喚びかけてくださる。それによって衆生は大悲の如来に気づき、如来浄土にであうことができる。それが本願念仏の法であろう。 


               (了)                                                                              

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