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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

輪廻と浄土教


 「輪廻と浄土教」  

●評判の悪い輪廻説
 迷えるかぎり「生あるものは生死を繰り返す」という仏教の輪廻説は近年、評判が悪い。そのせいか、「輪廻説はバラモン教から混入したものであって釈尊は輪廻を説かなかった」とか「輪廻説は人間の身分的差別を助長する邪説であって、仏教には本来ないもの」とか「輪廻説はこの世での苦楽の転変をたとえたもの」とか、あるいはそれに関連して「釈尊は死後に関しては沈黙され、説かれなかった」などと言われてきた。
 はたして釈尊は輪廻を説かれなかったのであろうか、あるいは死後については沈黙されたのであろうか。

●釈尊は輪廻を説いた  
 この点について、文献学的に歴史の釈尊の説法がもっともよく残されているといわれている『ダンマパダ』や『スッタニパータ』などの経典を読むと、そこには何度も輪廻や死後に関して説かれている。勿論それ以外の経典にも多く説かれている。
 この問題で、桜部建氏は『輪廻について』の論考で、初期仏教について「迷える者には輪廻があり、迷いを離れた者には輪廻はない、というのがその立場である」と論述されている。  
そして、釈尊が輪廻を否定されたというような説は、日本では和辻哲郎の『原始仏教の実践哲学』以来、ことに取り上げられるようになったと言われている。
 またスマナサーラ比丘は、このような釈尊の輪廻否定説はもともと近代の合理主義的考えに基づく西洋の仏教学者が主張しだしたのだと言われている。

●注意すべき輪廻説
  次ぎに、「輪廻説は人間差別を肯定する邪説である」との見解であるが、確かに、輪廻説は十分注意して了解しないと、受け取り方によっては、輪廻説は業報説とあいまって、人間に対する差別の縁を与えかねないからである。
 ただ、どんな教説も受け取り方によって、本来の意図から離れる可能性がある。たとえば悪人正機の説は凡夫の悪を肯定する論理になりかねないし、如来蔵思想は凡夫と娑婆を無批判に肯定する論理になりかねない。それと同様、輪廻転生説はそれを聞く人に、人の社会的階層的な差異はすべて個人の過去世の業報の結果であると、実体的に受け取るおそれがある。
 確かにそういう懸念があろう。しかし人間的な差別を根拠づける縁になりかねないからといって、輪廻説そのものを全面的に否定し、洗い流してしまうのは早計ではなかろうか。仏教の輪廻説が本来何を言おうとする教説であるか、その真意をよく伺うべきである。

●現世だけに収まらぬ輪廻説
 また「輪廻説は、現世の苦楽の状態を説明するために説かれたもので、死後にまた苦楽の境界に生まれ変るという話ではない」とする考えであるが、そう考え易いのは、現代における自然科学的乃至は合理主義的な物の見方や現世主義的な考えからの影響が強いように思われる。
 古代インドに起こり長い年月を経てきた仏教を、現代の科学的な合理主義や現世主義的な考えの範囲にすべて収めようとするのはとうてい無理である。

●輪廻説の意味するもの
 たしかに輪廻説は、一見荒唐無稽な話のように聞こえる。しかし、輪廻の原語である〈サムサーラ〉とは「流れ行くこと」という意味で、それは、妄執された五薀(我)が、知る働きと知られる世界として一体的に変転していくということであって、現在の私たちの生存全体も、過去からの五薀が変転してきた結果であり、現在、身をもっているということは、過去世から変転してきた五薀が取った一つの形であると教えられている。
 そうすると現在の〈人間の生〉が何らかの原因による結果と感受され、その主たる因は、誕生以前からの業因によると教えられるなら、現在の人間の生はすでに過去の輪廻の結果の感受であるという道理もうなずけなくはない。そうすればそれを未来に推し進めると、また次ぎに何らかの生の形を取り得るということも想念し得ることであろう。
 ただその場合、仏教ではそのつどの存在は、自らの業が感受した内容としての業感的存在であって、衆生の知る心を離れた客観的な実体として存在するのではないと説かれているし、輪廻は「人間の無知とか明知に関係なく実体的に存在するものではないのであって、無明の心によって作り出されるもの」(小川一乗氏)であれば、輪廻転生を客体的な実体として捉えるのは間違いであろう。  

●輪廻説の必然性
 その上で、輪廻説が説かれる必然性はどこにあるのかといえば、仏教学者の上野順暎氏は「輪廻説の本質は、人間の本質を精神となし、人生の目的を精神の本質自覚――即ち解脱とする点にある」と述べているが、人生の目的を解脱にあるとすれば、この世の生だけでの修道で解脱を成就するとばかりはいえないから、どうしても次の世での修道が説かれることになる。また輪廻説は因果応報説(業報)とも密接に関係し、その業報説では、この世の生の終わりに業報がすべて精算されるとはいえないから、当然来世が説かれねばならなくなるであろう。

●死後どうなるかは不透明  
  今日の私たちが輪廻説を聞いて、「そんなことはありえない」と否定することは簡単である。しかし、「死後どうなるか」という点において、それに替わるどういう代案があるのかとなると、私たちに納得のできるような見解は見当たらない。実際たとえば「あなたは死んだらどうなると考えるのか」と問うてみても、クリアーで誰にも納得できるような説明は聞けない。

●代表的な死後の説明  
 仏教においては法を得た者は涅槃に至るということは別として、「死んだらどうなるか」について、世界には大きく分けて三つの考えぐらいしかなかろう。
一つ目は「死後はいっさい無に帰する」という。その代表的なのが唯物論である。
二つ目は、キリスト教、イスラム教などで、霊魂は不滅であって、死後は不活性の状態で存続し、世の終わりに神の裁きを受けて、終末に天国乃至は地獄あるいは煉獄に入る、と説く。ただ今日のキリスト教では死後、信仰のある人はすぐに天国に昇天すると説く場合があるようである。 しかし、無信仰、あるいは不信仰の者はこの限りではあるまい。
三つ目は輪廻説である。仏教、ヒンズー教、プラトン哲学などである。
 これ以外は、「わからない」とか「あるのは現在のみで死後は問題にしない」というような思想的な決着など、いわば死後を問題にしない態度であるのが一般であろう。
 どれかを選ぶとすれば、私たちが仏教徒であればやはり仏教の輪廻説をもう少し前向きに受け取ってみてはどうであろうか。
 実際、現代、世界でもっとも影響力のある仏教はチベット仏教であり、テーラーワーダ仏教であるが、彼らは当然輪廻説に立っているのである。

●死後の闇に当惑する凡夫
 私たちは存在の真実を悟っていない無知(無明)の凡夫であり、それゆえ死と死後とに大いなる不安を感じて生きているものである。ことになんら専門的に仏道修行をしていない在俗の身ではそれが現実の苦しみである。
 そういう者に、『般若心経』のように直接に「五蘊皆空なり、空相にして、生ぜず、滅せず、老も死もない」という、いわば〈本来、生もなく死もない〉と説くとか、あるいは、「人はいつでも現在にしか存在していない。死後を問題にするより現在ただ今の事実に立て」とか「死というものは本来存在しない。今今の連続だけだ。現在そのものに生きよ」と言っても、多くの凡夫には及びがたいのではなかろうか。それは知者や賢者の道であろう。
 私たちの生活感情の現実はやがて必ず来る死におびえ、死後の闇に当惑しているのが実際である。ティリッヒも「現代人は虚無へ転落することを怖れている」と言っている。

●死後への釈尊の説法
  では、釈尊は死におびえ死後に当惑している凡夫にどういう説法をされたのであろうか。『サンニュッタ・ニカーヤ』には、
 ある時、在家仏教徒のナハーナーマンが「私は死んだらどうなるのでしょうか」という怖れを釈尊にうったえた時に、釈尊は次のように答えられたという。 「恐れることなかれ、汝の死は悪からず、汝の臨終は悪くはないであろう。マハーナーマンよ、ある人の心が、長い間信仰を修し、戒めを修し、学問を修し、捨離を修し、知恵を修したのであるならば、実にその人のこの肉身は、四元素(地・水・火・風)よりなり、父母より生まれ、飯・粥に養われたものであり、無常でついえ、摩滅し、破れ、壊れるものである。しかし長い間信仰し、戒め・学問・捨離を修したその人の心は上方におもむき、すぐれたところへおもむく」と。
 すなわち、「私は死んだらどうなるのですか」と怖れている在俗の信者に対して釈尊は、「死後というも現在の怖れだから、死後を問題にするより、今生きていることを問題にせよ」と言って、その素朴な問いを突き放されたのではなく、死と死後におびえている者に、「仏法を信じて生活しているから死後にはよいところに行く」と慈悲をもって彼を安心させるように説いておられる。

●凡夫の立場に立つ浄土教
  多くの者はやがて必ずくる死を恐れ、死んでどうなるかを怖れるものである。近現代でも、パスカル、それにベルクソンが「多くの者は、われわれはどこから来て、われわれは何であり、われわれはどこへいくのかという問題に困っている」と言っているが、私たちは「私は結局どこへいくのか」という生の行く末の問題に困っているのである。
 こういう凡夫の立場に立って説かれた釈尊の教説は、やがて浄土経典が説かれるようになったことを示唆しているのではなかろうか。
 しかるに、浄土教徒である私たちに、死後に至るべき浄土を説かず、そういう問いを起こしている者に対して、「死後よりも今生きているいのちの事実に目覚めよ」とばかり説くのは、「私は結局どうなっていくのか」と怖れおののいている凡夫にふさわしい教えではなくなっていく可能性がある。 

●方便を通して真実へ
 確かに死後の浄土往生を説くのは、方便であるといえよう、しかしその方便を受け入れることが、おのずと真実そのものに現在ただ今摂取されるという救いにあずかる。そこに真宗における真実方便の意義がある。

●往生浄土と輪廻は離れぬ経説  
ただ先述したように、仏教における輪廻説をどう考え、どう受け取るかは勿論十分に考慮しなくてはならない。
 けれども、輪廻説を否定し、死後は信心における大涅槃への帰入(往生浄土)だけを説くのは、真宗教義としては一方に偏しているのではなかろうか。
 いわんや「全ての人は死んだら大いなる仏のいのちに帰る」などと安易に言ってのけると、死んだら大自然のいのちのはたらきの中に帰るという唯物論的あるいは自然科学的生命観と同列に受け取られかねない。
 だから往生浄土を説く真宗の教相は、生死輪廻を説く教相と離すことなく説かれてきた。『仏説無量寿経』の説法もそういうスタイルになっている。

●釈尊の沈黙の真意
  なお「釈尊は死後の存在の有無については説かれなかった」としばしばいわれる点についてである。その根拠は「釈尊の十四無記」説であろう。
 釈尊のこの無記は、外道からの十四の問いに対して釈尊は沈黙されたといわれる事であるが、十四の問いの中で、「如来は死後に有であるか。如来は死後に無であるか」との問いに対して釈尊は沈黙された。そのことが根拠になって「死後については説かないのが仏教(あるいは真宗)である」かのように時折断定されるが、それは問題である。
 なぜならこの場合注意すべきは「如来は死後に有であるか無であるか」の「如来は」という点である。〈本来無我なり〉と悟った如来に対して「悟った如来は死後に有るか無いか」と問うならば、その問い自体が意味をなさない。なぜなら、〈我〉が本来無いもの、空であると悟った人(如来)に、〈我〉が死後に存続するかどうかという問いそのものがナンセンスだからである。だから釈尊は沈黙されたのであろう。
 そして、そのような形而上学的な問題に関わることは解脱への修道にさまたげになると考えられたからであろう。  釈尊は、民衆に説法をされる時は、死後に対して沈黙されたのではなくて、輪廻や死後にふれる説法をされたと伺うのである。       


       (了)   

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