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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

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〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

『西方指南鈔に学ぶ』

『西方指南鈔に学ぶ』


法然の法語、消息、伝記、行状などを宗祖が八十四歳の時に集成された『西方指南鈔』は、宗祖が心血を注いで編纂された書物として大切に拝読すべき書である。しかも宗祖の真筆本が残されていて国宝に指定されている。
『西方指南鈔』に輯録されている法然の法語には宗祖のみが伝えているものが六篇あり、その中には宗祖が直接法然から聞き取られたものもあると考えられている。


●念仏往生の願の信心
 さて、真宗の救済論は善導の十八願解釈から始まるといっていい。法然は『選択集』本願章において大経の十八願を引用した後、続いて善導の十八願釈を引用して、これが十八願の本意であるとした。この願を念仏往生の願と名づけ、念仏往生の願を信じる信心によって浄土に往生することをあきらかにした。これを正確に伝承したのが宗祖である。
 念仏往生の願とは大経十八願の〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉を誓いの内容とし、それは〈十声なりともわが名を称えるばかりで浄土に往生せしめる〉というアミダの誓いである。
 法蔵菩薩は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉すなわち善導の願釈では〈称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚〉と、易行の至極である称名念仏を往生の行と誓って、「一声もわが名をとなえむものをむかえむ、といふ御ちかひ」(西方指南鈔。親鸞聖人全集分冊本八。一九〇頁。法蔵館)を建てられたのである。
 法蔵菩薩は、いつでもどこでもだれでも行じうる易行の中の易行である称名念仏を選び取って、「称我名字と願じつつ 若不生者と」(道綽讃)と誓われた。ここに一切衆生の資質に条件を一切問わない救いの大慈大悲のお心が表されている。このことは『選択集』本願章の難易の義に詳しい。ここに一切衆生を平等に救わんとするアミダ仏の広大な大悲心が示されている。
 宗祖は『一念多念文意』に、

「本願の文に、乃至十念と、ちかいたまえり。すでに十念とちかいたまえるにてしるべし、一念にかぎらずということを。いわんや乃至とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」(聖典五四〇頁)

と述べられ、また『ご消息』には、
「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり」(ご消息。聖典六〇六頁)、
「行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば」(ご消息。聖典五七九頁)
と記されている。さらに『歎異抄』ではご自身の領解を「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と仰せられ、念仏往生の願を信じる信心を表明されている。


●修行は念仏往生の願成就の為
 そして『西方指南鈔』には宗祖のみが伝えている法然の、
「阿弥陀佛の名号は餘仏の名号に勝れたまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずば、名号を稱すとも、无明を破せざれば、報土の生因となるべからず、諸佛の名号におなじかるべし。しかるを阿弥陀仏は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉とちかひて、この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて、今已に成仏したまへり。この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり」(親鸞聖人全集分冊八。二一五頁)
という法語がある。もし〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉という念仏往生の誓いがないなら、アミダの名号は余の諸仏の名号と同じであって報土の生因とはならないという。
 これによると法蔵の願行は〈この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて〉といわれるように〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉の誓いを成就せんがための永劫の修行であることが強調されている。〈我が名を称えるばかりで往生せしめる〉という念仏往生の誓いの成就がなければ、たとえ仏の功徳が収まっているアミダ仏の名号を称えてもそれは報土の往生の因にはならないとまでいわれるのである。


●信心正因・称名報恩説
 ところで真宗のお説教でしばしば、
「法蔵菩薩は一切衆生を平等に浄土に往生せしめたいとの誓願を起こし、永き六度万行の修行をして、その功徳を南無阿弥陀仏の名号に成就して、この名号六字を衆生に聞其名号せしめてくださる。その名号を聞き開く一念に願心が信心として衆生に回向され往生が決定する。第十八願の〈乃至十念〉は信心のところに自ずと湧出する仏恩報謝の念仏である」
と説かれる。

 これには『安心決定鈔』等の影響があると思われる。『安心決定鈔』には、 「弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七は、この願を信ぜしめんがためなり。この願を『礼讃』に釈したまうに〈若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚〉といえり。この文のこころは、十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏にならん、衆生往生せずは、われ正覚をとらじ、となり。かるがゆえに、仏の正覚は、われらが往生するとせざるとによるべきなり。しかるに、十方衆生いまだ往生せざるさきに、正覚を成ずることは、こころえがたきことなり。しかれども、仏は衆生にかわりて、願と行とを円満して、われらが往生を、すでに、したためたまうなり。十方衆生の願行円満して、往生成就せしとき、機法一体の南無阿弥陀仏の正覚を、成じたまいしなり」(聖典九四三頁)
と説かれていて、法蔵菩薩は一切衆生を往生せしめたいと誓って願行成就したのが南無阿弥陀仏だから、この名号を聞くと、
「ああ、はや、わが往生は成就しにけり。十方衆生往生成就せずは、正覚とらじと、ちかいたまいし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆえに、とおもうべし」(安心決定鈔。聖典九四六頁)
とあり、名号を聞信する一念に助かると説かれる。すなわち、法蔵菩薩が一切衆生を往生せしめたいと願って修行されたのは、「十方衆生 若し生まれずば正覚を取らじ」であって、そのために一切衆生に代わって願行成就され、往生せしめたもう功徳を名号に成就した、と説かれるのである。

 ここでは法然が感激した「〈称我名号 下至十声〉若不生者 不取正覚」の仏心は注意されていない。もっぱら十方衆生に代わっての往生の成就のみが強調されている。
 こういう説を受けて、大経本願成就文の〈聞其名号信心歓喜〉の、その名号とは、衆生の往生の願行を成就した功徳を具足する其の名号であり、それを聞信する一念に浄土への往生が決定するのであると言われるのである。
 ここには「一声もわが名をとなえむものをむかえむ」という念仏往生のお心は表されていない。
 こうして、
「アミダ仏の名号のいわれを聞くと言うことは〈汝の往生の因は全て仕上げた。そのままなりで助けるぞ、助かるぞ〉との名号のいわれを聞くことであり、それを聞く私は〈ああ、私の浄土に生まれる因は全て仕上げられていた、私をこのままなりで助けて下さる〉と聞き受ける。その一念に名号の功徳はそれを聞信する機に回向され、浄土に生まれて仏に成ることが定まる。
 そしてこの名号を聞信するなら、自ずから〈如来様なればこそ、ああ有難い〉と感謝報恩の称名念仏が申されてくる。称名念仏は信後の仏恩報謝のお念仏である」
と説かれるのである。こういう教相は「信心正因・称名報恩説」といわれてきた。たしかに他力の信心がよく示されているといえよう。しかしながら、法然や宗祖の書かれたものとの色合いの違いを感じるのである。 
 それは蓮如上人以後、自力の念仏を嫌う余り、称名念仏はすべて報謝の念仏とされ、聞其名号の名号は願行成就された大善大功徳の往生成仏の因としての名号であると説かれるので、名号は称名念仏とは別の如き感がするのである。
 このように名号と称名とを分け、称名を離れて〈聞其名号〉という場合、名号を聞くというのは実際にはどういうことになるのであろうか。それは、名号六字のいわれを善知識からお説教で聞くことになるのであろう。


●念仏往生・信心正因説
 一方、念仏往生の信心に於ては『西方指南鈔』で法然は「声につきて」といわれる。
「たれだれも、煩悩のうすく・こきおもかへりみず、罪障のかろき・おもきおもさたせず、たヾくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」(親鸞聖人全集分冊九。二四〇頁)
とある。
 すなわち念仏を称え、念仏の声を聞く。そこに誓いを聞くのである。「一声称えるばかりで往生せしめる」との念仏往生の誓いを聞く。念仏申している者にとってこの誓いは必然的に「まるまる引き受ける」「そのままなりで助ける」の大悲心あふれる仰せと聞こえる。この仰せを称える念仏において聞くのである。そこに信心が決定してくるのである。
 こうして、聞其名号において大悲の願心が凡心に感応され信心となるのである。
 そこでは名号を聞くままが信である。
 以上の点を香樹院徳龍師は簡明に言っている。

「或る同行、翌朝、御暇乞いの御礼に参りければ、(香樹院師の)仰せに。
 念仏するばかりで、極楽へ生まれさせて下さるるのじゃほどに。それを念仏する計りと云えば、また称えるに力をいれる。そこで法然様の仰せに、差別が出来たのじゃ。ただ称うるばかりで助かることを、聞くのじゃほどに。他の同行えもよう云うてくれ」(香樹院語録。五四頁。平楽寺書店)
と。 

 ただ、このように「一声称えるばかりで」との仰せを聞くと、人間の側に一声欲しくなるが、この仰せを聞くばかりで助かるのであって、人間の側に一声の念仏も往生に要求されていないことは自然に知れるのである。いわゆる「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(歎異抄)に往生は決定するのである。  
 そして実際の聞法に於ては、念仏往生の願である「我が名号を称えるばかりで浄土に往生せしめる」と聞き始める時から称名念仏が始まるのが自然である。たとえ始めは自力の念仏であっても、称えながら念仏往生の広大な大悲の願心を聞いていくと、時至って念仏往生の大悲の願心が聞き開かれる。


●念仏往生は自然の大道
 ところが自力の称名念仏を嫌う余り、名号と称名を分け、名号のいわれを善知識から聞くのを「聞其名号」と押さえ、聞く一念の後において仏恩報謝の思いが称名念仏となって表れると説かれる場合、信心もなく有難くもなく念仏を申す人に対して「汝の念仏は〈阿弥陀様、御助け下さる事有り難うございます〉とお礼を申し上げていることになっているのだ」と指導される。
 いわば、初めから自力の念仏ではダメだと否定し、有難いとも何とも感じていない念仏に対して「実は御助けに報恩感謝していることになっているのだ」と受け取らせようとするのはやはり不自然な感が否めない。
 ところで、本願を聞く聞法の初めから信心具足の念仏であることは不可能ではないが極めて難しい。  
 初めはお念仏の心が分からなくても「煩悩具足の汝よ、我が名を称えるばかり助ける」の念仏往生のお心を聞いて念仏申すようになり、お念仏申しながら本願のお心を聞いていくところに「弥陀の名号称えつつ 信心まことにうる」(冠頭和讃)ことになっていくのが自然ではなかろうか。
 自力の念仏を初めから否定し、果遂が誓われている二十願をただ信仰批判として否定的な意味だけに受け取るのは宗祖の思し召しでは無いであろう。
 以上、『西方指南鈔』を読んでの一感想である。       


               (了)                                                                              

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