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誓約する本願の意図

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>誓約する本願の意図

《十八願は未来の救いか》
   もう何年も前のことであるが、東本願寺の同朋会館で奉仕団に法話をした後、引率者の住職さんが私に直接会いに来られて、「さきほどのお話は死後の救いの話ですか」と批判的に語られた。
 ということは「死後の救いの話では現在の救いにならないのではないか」との疑問でもあった。

 このことでは、真宗以外からも同様な批判がある。たとえば創価学会は「浄土真宗は死後の救いを説くが、学会は現世の救いである」と強調するのが常である。

 ところで同朋会館での小生の法話は第十八願の話であった。第十八願は、

「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法」 (たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)

 であるが、この願の要は「信ぜよ、我が名を称えるばかりで、必ず浄土へ生まれしめん」という弥陀の誓いである。
 これについて丹山順芸師の『称名信楽二願希決』での十八願の領解は、

「我が誓願を信じて、我が浄土に生まれんとおもうべし、我が名を称へんずるを、必ずむかふべし」(一七〇頁)

「信ずべし、我が誓願、称ふるものを必ずたすくべし」(一七〇頁)

「乗れよ、我が船わたすべし」(一七〇頁)


  とあり、非常に分かりやすい。
 ところが「信ぜよ、我が名を称えるばかりで、必ず浄土へ生まれしめん」という十八願の内容は、一見、〈助かるのは未来であり死して浄土に生まれる時である〉と受け取られかねないのである。
 そのように受け取られる可能性があるのは、おそらく、弥陀の本願は誓約(約束)として示されているからであろう。約束が果たされるのは未来であり、その意味では浄土に生まれるのは未来であり、来世であるからである。
 しかしながら実際には、救いは本願を聞く現在に実現するのである。


《約束する本願の意図》
 ではなぜ本願は「もし生ぜずは、正覚を取らじ」で、「必ず浄土に生まれさせる」「必ず助ける」という未来の約束として私たちに示されるのであろうか。
 それは現在において、私たちを弥陀の本願に身をゆだねさせんがため、本願をたのましめんがために、未来形である誓約の形を取られるのであろう。  さて、第十八願の「至心に、信楽して、我国に生まれんと欲え」(至心信楽欲生我国)の三心は「我がまことの誓い(至心)を信じて(信楽)、我が国に生まるると欲え(欲生我国)」との仰せであり、「乃至十念せん、もし生まれずば正覚を取らじ」(乃至十念若不生者不取正覚)は「我が名を称えよ、必ず浄土へ生まれしめん」との誓いである。
 
〈至心信楽欲生我国〉の三心の中心は〈信楽〉すなわち「信ぜよ」であるが、それは「タノメ」「マカセヨ」の弥陀の願心であるから、十八願は「我にまかせよ、称えるばかりで必ず浄土に生まれしめん」との誓願であるといえる。

 宗祖はこの〈信楽〉が十八願において重要だと見られ、十八願を「至心信楽の願」と仰せられている。それは、第十八願は衆生に、弥陀の誓いを信ぜしめること、弥陀をたのませることを眼目としている願であると見られたからではなかろうか。

 弥陀をたのむ一念のところに、衆生は弥陀に摂取されて、正定聚不退転位に定まるのである。そうすると、衆生に弥陀の本願をたのましめることによって、衆生を摂取しようとするのが弥陀の本願の意図であるといえる。  衆生は弥陀に摂取され、衆生と弥陀は離れなくなる。いわば有限なる存在が無限なるものに摂め取られて一つになるのである。ここに普遍的な真実がその人の上に現実化し救いとなる。


《弥陀をたのませる誓い》
 ではなぜ、「若し生まれずば正覚を取らじ」すなわち「汝を浄土に必ず生まれさせる」という未来形で示される誓いが、私たちに弥陀をたのませることになるのであろうか。
 これについては、弥陀の本願力を乗り物に、衆生を乗り手に、本願力をたのむのを〈乗る〉と見て、乗り物に乗る場合で考えると分かりやすい。
 バスでも電車でも、乗り物に乗る場合、行き先が分からない乗り物には乗らない。乗り物があって、その乗り物が「さあどうぞ乗って下さい」といわれても、行き先が告げられなくては、乗らないし、乗れないし、たとえ乗っても不安である。

 だから乗せる側にしても、必ず行き先を告げるのである。大阪駅ではいろいろな方面の電車が到着する。必ず、「京都行きですから、お乗り下さい」とか「神戸行きですから、お乗り下さい」とか行き先を告げて、乗客を乗せるのである。行き先不明では乗客は乗りようはないのである。
 このように、生死の苦海にアップアップして漂流している私たちを、弥陀の本願力の船が来て下さって、ただ「さあ乗りなさい。まかせなさい」とだけの仰せではなくて、「安らかな浄土に至らしめるから」と行き先を告げて、「乗れよ、まかせよ」と仰せられるから、私たちは喜んで弥陀の願船に乗せていただくのである。目的地に着くのは未来であるが、乗る船は現在にあり、乗るのも現在である。船に乗れば目的地に至る前から安心が与えられる。

 そのごとく、阿弥陀仏は未来ではなく現在に、私たちをして安心して弥陀をたのましめんがために、〈至心信楽欲生我国〉で「我にまかせよ」、〈若不生者不取正覚〉で「必ず浄土に生まれしめるから」と、行き先を告げて喚びかけたもうのである。そこに大悲のご親切がある。
 では次ぎに、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉において、なぜ「乃至十念せん」と仰せられるのであろうか。
 これも阿弥陀仏は私たちをさわりなく、このままなりですぐに弥陀をたのませんがためのお心からであろう。 〈乃至十念〉は、「たった十声なりとも称えるばかりで」であり、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉は「なにもいらぬ、我が名を称えるばかりで助ける」の思し召しである。すなわち私たちを無条件に受け入れたもう大悲のお心を示されるのである。

  「称えよ」は「称えたら」ではない、「そのままなりで助ける」のお心である。何も条件を付けない無碍の救いであることを、「我が名を称えるばかりで」とお示し下さるのである。ここに大悲の極まりなきことが表されている。  これも先ほどの譬えでいうと、弥陀の願船は生死の海に漂っておぼれかけている私たちに「浄土に連れていく、そのままなりで乗ってくれよ。船賃はいらぬから」と、「タダで乗せたもう」すなわち無条件で乗せたもう仰せが〈乃至十念〉の大悲の御心である。
 それほどのご親切ゆえ、我が身は何一つ持ち合わせがなくてもそれを顧慮する要はなく、今のこのままなりで弥陀の願船に乗せていただく、弥陀をただたのむばかりである。
 「乗れよ、浄土へ連れて行く」とだけいわれても、乗るのになにがしかの船賃(条件)がいるのではないかと、自分の財布(自分の有様)に相談しなければならないとすれば、すぐにハイと乗れない。それゆえ、〈乃至十念〉の言葉は、無条件に私たちのありべのままを弥陀にゆだねさせんがための大悲の言葉であるといえよう。

 なお、付言すれば、実際の船に乗るには、手をかけ足を運ぶなどの手間ひまがいるが、弥陀の願船に乗るのは「乗せたもうとしる」(信知)ばかりで乗ったことになるのである。「乗せて下さる、ありがたい」と、仰せを聞き受ける、信じるだけで、不思議にも願船に乗ってしまうのである。物質の領域と心の領域ではこのような違いがある。
 宗祖が『尊号真像銘文』に、

「乗我願力というは、乗はのるべしという、また智なり。智というは、願力にのせたまうとしるべしとなり。願力に乗じて安楽浄刹にうまれんとしるなり」

 と仰せられているが、このあたりの消息を述べられたものと伺う。 《摂取不捨はキーワード》
 このようにして、衆生をして弥陀の願力をたのませたもうのであるが、それは、弥陀をたのむ一念において、衆生を願力に摂取しようとされるからである。弥陀と離れない身いわば弥陀と一つにならしめんがためである。
 阿弥陀仏が衆生を摂取し「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」こと、そこに真宗の救済は焦点を結んでいる。そういう意義からいうと〈摂取不捨〉は真宗のキーワードである。

 それは例えば、阿弥陀仏は「摂取して捨てざれば、阿弥陀となづけたてまつる」(「浄土和讃」)のであり、第十八願のことを「摂取不捨の願」(「歎異抄」)といい、本願の名号のことを「摂取不捨の真言」(「総序」)という。また阿弥陀仏の光明の用きを「摂取の心光」(「正信偈」)といい、信心については「信心のさだまると申すは、摂取にあずかる時にて候うなり」(「ご消息」)といわれ、正定聚については「摂取不捨の利益にさだまるを正定聚となづけ」(「ご消息」)といわれるように、「摂取不捨」は真宗の救済の核となる言葉である。

 してみれば、浄土三部経の説法は、衆生に弥陀をたのましめて弥陀の摂取にあわしめることを眼目としていると見ることができる。
 だから、法蔵菩薩の願行の御苦労が説かれるのも、阿弥陀仏は光明無量・寿命無量であり十二光の光徳がましますと説かれるのも、浄土が安楽であり清浄なる光明世界であると讃嘆されるのも、十方の諸仏が弥陀の名号を讃えられていると説かれるのも、見方によると、衆生に弥陀をたのましめんがための経説であるといえよう。

 また、第十八願に「ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と説かれているのも、私たちが救われ難き罪濁の存在であり悪道に堕ちるような身であることを知らしめることによって、弥陀をたのましめんがための経文であるとも伺える。  

《自然法爾章の弥陀たのむ信》
 第十八願が、衆生に弥陀をたのましめることを眼目としていることは、宗祖の『自然法爾章』にも明らかである。自然法爾章は、真宗における普遍的な宗教的真実を極めて本質的に表現した文であるが、それによると、

「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもわぬを、自然とはもうすぞとききて候う。ちかいのようは、無上仏にならしめんとちかいたまえるなり」 とある。

 弥陀は誓いを発されるが、その誓いの究極目的は無上仏にならしめんがためであり、それを実現せんがために、阿弥陀仏は衆生をして「今ここで弥陀をたのましめ」ようとはからいたもうのである。それを自然法爾章では「南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」と、端的に述べられている。
 ここにも、弥陀の誓願は「南無阿弥陀仏とたのませる」のが救いの要点であることが示されているのである。 《来世往生も弥陀たのむ信》

 さて、近代教学以前の説き方は、大方は「来世の往生」を中心に説かれてきた。それは間違いかというと決して間違いではない。近代以前の説教が「来世の往生」を説いても、その場合「死後に浄土に必ず生まれさせるから、我をタノメ、我にマカセヨ」と、「我をタノメ」の弥陀の仰せを必ず説いたに違いない。
 こういう説教はあたかも救いが死後であって、現在の救いとならないように表面的には見えるが、決してそうではない。過去の説教も、現世での弥陀をたのむ一念の救済を説いていたのである。だからこそ多くの妙好人や名師を生んできたのである。
「我をタノメ」と仰せられる弥陀は遠い未来ではなく、現在只今にましまして喚びかけておられるのである。その仰せに信順して弥陀をたのめば現在ただ今に、生ける弥陀に摂取されるのである。まことの弥陀に今ここで、現世のまっただ中であうのである。救いは今ここに実現するのである。

 だから、〈死後の浄土往生〉が説かれるのを聞いて、すぐにそれは、「真宗にならない」と思ったり、「現在の救いに関係がない」かのように思うのは早計である。

 現在に弥陀をたのむことが説かれるかぎり、浄土が死後の浄土として説かれ、死後の往生が説かれてもかまわないのである。要は今、ここで衆生をして弥陀をたのましむることである。弥陀たのむ一念に実在せる弥陀にあい、弥陀と離れなくなるからである。
 未来として説かれる浄土と、今の私たちを救いたもう阿弥陀仏とは同質の用きである。今私たちを助けに来ている弥陀の願船は浄土の用きの外にはない。だから、弥陀の願船に乗じた人は、現世においてすでに浄土の用きにふれるのである。〈弥陀をたのむ〉と、浄土の用きは現世の生活の上に現れてくるのである。


《清沢満之の弥陀たのむ信》
 来世往生を説かない清沢満之師も弥陀をたのむ一点で救われている。たとえば、師は阿弥陀仏の救済について、


「乃ち阿弥陀仏の摂受に就きて之を見よ。〈汝等衆生、一心正念にして我に来れ、我汝等の善と悪と智と愚とを問はず、一切汝等の為に其責に任じて、汝等を摂受すべし〉と。此の徳音を信受する者、誰か復自己の善悪智愚に就きて迷悶憂苦するものぞ」(「清沢文集」五十二頁。岩波文庫)


 と語り、自身が善悪の問題や真理認識の問題に悩み抜き、遂に「まるまる引き受ける」と仰せ下さる弥陀をたのんで安心を得られたのではなかろうか。それは『我が信念』に、


「何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分かるものでない。我には何も分からないとなった處で、一切の事を挙げて、悉く之を如来に信頼する、と云ふことになったのが、私の信念の大要点であります」(「清沢文集」九十九頁。岩波文庫)


とか、


「無限大悲の如来は、如何にして、私に此平安を得しめたまふか。外ではない、一切の責任を引き受けて下さることによりて、私を救済したまふことである」(「清沢文集」一〇三頁。岩波文庫)


 との信仰告白に伺うことができる。
 近代以前の人たちの多くは死後の行く末を問題(後生の一大事)にしたのであろうし、近代の清沢師は善悪の問題や真理把捉の問題に苦しんだ。
 どちらにしても、人がまことの救いを求めると、ついには「できない」「なれない」「分からない」という自己能力の限界にぶつかるのである。そういう人間の限界をあらかじめ知り抜きたもう弥陀は、すでに「汝を引き受ける、助けるでタノメ」と喚びづめに喚んで下さっているのである。    


《真宗の一流は弥陀たのむ信》
 ともかくも「弥陀仏の御ちかいの、もとより行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまいて、むかえんとはからわせたまいたる」のであって、〈南無阿弥陀仏と〉私たちを弥陀にたのませるのが弥陀の本願の目的なのである。
 来世の往生を語る旧来の説教であろうと、現在の人間の問題において語られる現代真宗の話であろうと、弥陀をたのむ信心において、普遍的な真実にであうことができるのであり、その真実は信じるその人の実人生に証しされていくであろう。

 こうして時代を超えて一貫して本願をたのむ信心が説かれてきたのが真宗の歴史である。『蓮如上人御一代記聞書』にも


「聖人の御一流は、たのむ一念の所、肝要なり。故に、たのむと云うことをば、代々、あそばしおかれそうらえども、委しく、何とたのめと云うことを、しらざりき」

「前々住上人、仰せられ候う。〈前々より御相続の義は、別義なきなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほか、別義なく候う。これよりほか、御存知なく候う。いかようの御誓言もあるべき〉由、仰せられ候う」


  といわれ、真宗は「たのむ一念」のところが肝要で、代々それが説かれてきたのである。 
 だから死後の浄土往生が説かれた時代も、その説教によって民衆は弥陀に救われてきたのであり、だからこそ真宗が連綿として続いてきたのである。  

 であれば逆に、現代の生活にそった語りであり、現代人の感覚に合った現代教学であっても、「弥陀をたのむ」信心が説かれなければ、「真宗信心にいざなう話」か、あるいは真宗人の願わしい「生き方の話」になるかであって、真宗信心そのものの話、救いそのものの話にはならないであろう。  たとえ死後の来世往生を説く話であっても、現在に「弥陀をたのむ」信心が中心に説かれるなら、それはまさに〈真宗〉であるといえよう。                               

                 (了)   (二〇一五年一月)