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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

称える念仏に大悲の願心を聞く


   「称える念仏に大悲の願心を聞く」

  『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじ、と。已上

 また言わく、我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要

 願成就の文、『経』に言わく、十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう。

  宗祖は『行巻』において、最初の大行釈の後、十七願因願文、重誓偈の十七願意、十七願成就文、の次第で右の様に引用されている。この三文の中に第十七願の主な内容が表されていると思われる。
 まず十七願の因願は 「設い我仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して我が名を称せずは、正覚を取らじ」 であるが、この十七願を「諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく」と宗祖は仰せられている。  第十七願は、これらの願名から明らかなように、十方の諸仏に名号を讃歎されたいと誓われた願であるが、これは一切衆生に名号を与えんがためである。諸仏の名号讃歎は、歴史的具体的には、釈迦の説法としての浄土三部経であり、七祖における本願念仏の讃歎である。そして宗祖や蓮師の御教化、さらには有縁の善知識の説法は、本願名号を讃える諸仏の名号讃嘆に連なるものであろう。こうした名号讃嘆のおかげで私たちはお念仏をいただいて称える者となるのである。また、諸仏善知識方の名号讃嘆は弥陀の本願の真実性を讃えて証(あか)しされることであるから、それを聞く私たちは本願に対する疑いを離れることができるようになるのである。

 諸仏善知識の名号讃嘆(諸仏称名)を聞き、それによって私たちが本願を信じる者となる。このことは大経の十七・十八願成就の文に「十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。」として説かれ、又『観経』には、例えば下下品に、一生造悪の者が臨終間際に、善知識の説く〈本願念仏のいわれ〉を聞いて、本願を信じ念仏して浄土に往生した、と説かれている。
 このように経典に説かれているごとく、私たちは諸仏善知識の名号讃嘆(説法)を聞いて、本願を信じ念仏申すようになり、往生が定まるのである。

 しかし、善知識の法縁に会い、本願を信じて念仏申す日々の人生生活において、称えられる念仏は、善知識がそのつど、私たちの口に直接に名号を与えて称えさせ、聞かせてくださるわけではない。
 なるほど、私たちがお念仏申すようになったのは、阿弥陀仏からの直接の啓示でもなければ、阿弥陀仏の働きへの直観によるのでもなく、釈迦を初めとして、諸仏善知識方の御教化(名号讃嘆)という歴史の上の法縁を媒介としてである。もしこうした実際の教化にであわなければ、阿弥陀仏のお働きの中にあっても、それを知らずにいたであろう。だから諸仏善知識方の名号の称讃なくしてはお念仏が私たちに届けられもせず、称えられもしないであろう。

 こうした実際の御教化によって、本願を信じ念仏申す人生を送るようになるが、信心の生活においては、お念仏は凡夫である私の側から出てくるものではなくて、阿弥陀仏の本願の働きから現れて、今私の口に行ぜられてくるものである、と感知されるのではなかろうか。
 お念仏は、私の中から出てきたものではなく、弥陀の大悲の願力によって称えしめられ聞かしめられるものであり、弥陀が私の上にお念仏となって喚びかけ、ご自身を知らせたもうこと、そして称える御名において称えしめたもう弥陀の願力を、感知せしめられるのである。そう感知せしめるもの、それは信心の智慧であろう。
 名号は如来願力の表れであることを宗祖は重誓偈の十七願意に確かめられたと伺う。  宗祖は重誓偈の十七願の思し召しによって、十七願は阿弥陀仏が直接私たちに名号を聞かせようと誓われていること、しかも名号を聞くことは弥陀の説法を聞くことになるのだとまで了解されたと伺うのである。それは 「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要」 という重誓偈の行巻引用の文によって了解することができよう。

 弥陀は諸仏の名号讃歎を願われたばかりか、直接に名号を衆生に聞かせたいと願われたのであろう。それが〈我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは〉の文に表されている。この文に宗祖は非常に感銘を深くされたと思う。このことは、正信偈に〈重誓名声聞十方〉と示されていることによっても知られる。
 ここで「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは」といわれる〈名声〉という言葉からも知れることは、名となり声となって十方の衆生に名号を聞かせたいとの願が重誓偈における十七願意であり、その願が成就して、今、私たちの上に南無阿弥陀仏の声となり、いわば称名念仏となって、名号が私たちに称えられ聞かしめられる。それによって大悲の願心を知らしてくださるのである。
 このことから、衆生が称えるお念仏は衆生の側から起こるものではなくて、阿弥陀仏が名号を聞かしめたいと願われた願力・念力が衆生の口を通して念仏の声となって現れ、南無阿弥陀仏と耳に聞かしめられるのであると知らされる。なんという大悲のご方便であろうか。まことに、十七願は〈大悲の願〉である。

 しかも宗祖は、名号を聞くことは如来の直説法を聞くことであると、重誓偈によって確かめられている。そしてそのことによって、行者の念仏は如来の働きであることをさらに明確にお示しになったのではなかろうか。
 もともと、『行巻』の最初の方に引用された重誓偈の「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ」の文句と「衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」の文句は、大経重誓偈の本文においては離れている。それを宗祖はあえて結び付けて引用されている。そのことによって、名号を衆生に聞かせることと、衆生の上に弥陀が説法獅子吼することとは、離れないことを、宗祖は示されたのであろう。
 こうして私たちが称名念仏において、南無阿弥陀仏を聞かしめられることは、私たち一人一人に弥陀が直説法をしたまうことであると、領解することができる。

 また宗祖は第十七願を、南無阿弥陀仏の名号という〈言葉〉でもって衆生を導き、衆生にご自身を知らせようとされる願であると見られたのではなかろうか。
 宗祖は、十七願を「選択称名の願となづくべきなり」(大行釈)と仰せられて、弥陀は称名(御名)を選択し、これによってご自身を衆生に知られようとされていると見られ、『一多文意』には 「方便ともうすは、かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうをもうすなり。すなわち、阿弥陀仏なり」(一多文意)と述べておられる。
 また、宗祖が大事にされた『唯信鈔』において、聖覚が、十七願は 「名号をもって、あまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆえに、かつがつ名号をほめられんとちかいたまえる」願であると述べているが、宗祖もこの説に同感されたと思われる。
 なお、『行巻』に元照律師『弥陀経義』の「我が弥陀は名をもって物を接したまう」の文を引用されていることにもそれは表れている。
 すなわち阿弥陀仏は、一切衆生を救うのに念仏往生の願を起こされただけではなく、その救いを誓いの〈名号〉いわば言葉として、衆生に弥陀の救済を知らしめたもうことが伺われる。

 人間に真実への目覚めを実現するような言葉、それはまさに真実の言語でなくて何であろう。
 われわれが日常使っている言葉は情報言語である。言語にも情報(記述)言語もあれば表現言語もあり、命令・約束言語があって、宗教言語は表現言語の範疇に入ると、八木誠一はいう。名号は阿弥陀仏の救済意志を告げる表現言語であり、その機能は名号を聞く人間に、仏心大悲に目覚ましめる自覚喚起の働きがある。名号は阿弥陀仏の大悲大願に目覚ましめる働きがあるゆえ、名号はわれらに本願への目覚めを喚起する働きを有する表現言語としての真実の言葉であろう。
 そして宗祖は弥陀の名号は〈真如一実の功徳宝海〉と『行巻』の初めにいわれているが、このことは弥陀の名号は阿弥陀仏ご自身といっていいのであろう。なぜなら阿弥陀仏と南無阿弥陀仏の名号とはその体はともに〈真如一実の功徳〉であるからである。
 であれば、弥陀の名号の言葉は単に真実を伝える手段というようなものではなくて、真実の功徳たる阿弥陀仏そのものである、といえよう。

 阿弥陀仏とその名号は一つのものであれば、阿弥陀仏とは「摂取して捨てざれば阿弥陀となづけたてまつる」といわれるように、衆生を摂取して捨てない働きであるから、南無阿弥陀仏の名号は、そのまま「摂取して捨てない、必ず助ける」の仰せとなり、摂取して捨てない働きとなって衆生の上に現行したもう。
 阿弥陀仏は、衆生の上に「摂取不捨の真言(真実の言葉)」(総序)となって喚びかけたもうところの南無阿弥陀仏の名号なのである。 〈摂取不捨の真言〉である名号を我らに回向し、(汝を助ける)との大慈大悲の願心を私たちに聞かしめ、私たちを摂取不捨の利益にあずけしめようと働きたもう。それは第十七願のはたらきである、と宗祖は了解されたのではなかろうか。  こうして第十七願は〈往相回向の願〉ともいわれるように、名号を回向することによって、衆生に往相を回向成就したもうのである。

   さて、名号において誓いを聞かしめられるのであるが、その誓いをはどういう誓いであろうか。  それはいうまでもなく第十八願すなわち念仏往生の誓願である。端的に言えば「乃至十念せんに、若し生れずは正覚を取らじ」の誓いである。
 このことは、『ご消息』に 「法身ともうす仏を(の)さとりひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかいを、法蔵菩薩われらに回向したまえるを、往相の回向ともうすなり。この回向せさせたまえる願を、念仏往生の願とはもうすなり」 とお示しになっておられることからも明らかである。
 十七願の往相回向によって、衆生に回向したまえる願が念仏往生の願である。「称えるばかりで助ける」の願である。
 名号を聞くとは、「称えるばかりで助ける」の誓い、大悲の願心を聞くのである。「称えるばかりで助ける」の願心とは「まるまる助ける」の願心である。「汝をそのままなりで助ける」と仰せくださる広大な大悲の願心を名号において聞かせていただくのである。  称名念仏において名号を聞く、名号を聞くとは誓いを聞くのである。誓いを聞くとは「我が名を称えよ」と聞くのであり、「汝を助ける」の勅命(直説法)を聞くのである。その勅命を聞き受けた信心において正定聚に住し、正定聚に住するが故に滅度にいたるのである。
 このことは、法然聖人の 「ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こえにつきて決定往生のおもひをなすべし」(『西方指南鈔』) という仰せの上にも伺うことができよう。   

               (了)  

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