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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

法味寸言集

 法味寸言集                  
                           佐々木蓮麿    

一、ナムアミダブツとは、おタスケに手を出す用事のないこと。  
一、自力をすてよとは、自力があってもなくても、おタスケに関係がないということ。  
一、今、生きていることが一大不思議。  
一、煩悩の始末がつかぬということは、如来のおみぬき通りの姿。  
一、五体がつまらぬようになるのは、如来に取られてゆく姿。  
一、信心や念仏をつかめば、浄土への道はふさがる。  
一、自分に覚(おぼ)えのないときが、如来様のおはたらきばっかりのところ。  
一、如来の勅命が私の安心。自分の胸に信心の沙汰無用。  
一、他力のおタスケとは、こちらがタノム前におタスケの仕事がすんでいるということ。
一、他力の信とは、私にはイキの切れるまで信がないと知らせてもらうこと。  
一、順境は仏からはなれやすく、逆境は仏に近づきやすい。  
一、誰の話を聞いても、よいところを取ってよろこべるのが念仏者。  
一、無実の罪をきせられても、言い訳のできぬが念仏者。  
一、眠るも醒めるも、我が力ではない。  
一、分かっても分からなくても、死ぬるときには用にたたぬ。  
一、他力の信とは、間違いのないことを間違いないと知らせてもらうのみ。  
一、しくじったと後悔するのは、自分の力を信じすぎた罰。  
一、恥をかいたと悩むのは、自分の悪を知らぬ罰。  
一、気にさわるもののあるのは、我が侭(まま)の証拠。  
一、希望は若さを生み、失望は老いに導く。  
一、感謝は世を明るくし、不平は世を暗くする。  
一、理屈の多いのは実行の少ない証拠。  
一、真実はあるがままの世界、人間の計らいが虚偽(うそ)をつくる。  
一、いかに結構な生活でも、慣れるとあたりまえになり、やがて不足がでる。  
一、願わざれども月は昇り、願えども月は沈む。  
一、小さな親切には感ずるが、大きな自然の恩恵には気がつかぬ。  
一、沈黙も自己防衛、雄弁も欺瞞(ぎまん)、共に利己主義。  
一、成功したと思ったときが、転落への第一歩。  
一、生活の不安も死の恐れも自分を頼った罰。  
一、助かると思うても未来の不安は去らず、助からぬと思っても現在は安らかである。  
一、将来食えるか食えぬかを心配するよりも、今食わせてもらっていることを喜べ。  
一、食えぬようにならぬかと心配するが、食えぬようにならぬ人は世界中に一人もいない。  
一、「死ぬ」という気持ちは、五体を自分と錯覚した罰。  
一、いかなる力士も、頂きものがなければ力が出ない。  
一、目が見えぬようになっても、メガネの力で見える。  
一、すべての悩みは、自分を守ろうとする心から起こる。  
一、人間は偉くなるほど悩みが深い。  
一、人間は智慧が進みすぎると馬鹿に転落する。  
一、仕事を楽しむ人が貴人、仕事を嫌う人は賤人。  
一、いかに力があっても無理は通らぬ。  
一、自信の強い人に感謝はない。  
一、収入の少ないのをコボスが、空気や日光もタダもろうていることに気がつかぬ。  
一、世の中に捨てるものは一つもない、なにかの役には立つ。  
一、物を生かして使うのが仏の道。  
一、信じても信じなくても、明日の日は来る。  
一,自分の意見も他人の主張も夢物語。  
一、心配して寝ても、安心して寝ても、必ず明日の日はくる。  
一、自分の役に立たぬことを喜ばしてもらえるのが念仏者。  
一、臨終に一言の慰めの言葉を聞く必要のないのが平生業成。  
一、たたかれて、またたたかれて死ぬ一つが私のねうち。  
一、困るというは仏から離れた証拠。  
一、やっかいな物のある間は踏みぞこないがない。  
一、聞くほかに信がないとは、自分の聞いたことに用事がないということ。  
一、御一流は聞き直しのいらぬ法、見直しのいらぬ安心。  
一、大往生とは、自分のすべてが如来に取り上げられること。  
一、人様のお役に立ったより、お邪魔した方が多い。  
一、社会に尽くしたよりも、社会のお陰を蒙(こうむ)った方が多い。  
一、苦から逃げれば苦は追ってくる。楽を追えば楽は逃げて行く。  
一、飲む水も食べるご飯も、浴びる湯も、仏の恵み弥陀のたまもの。  
一、如来のご恩にくらぶれば、つらい辛抱なんのその、朝とく起きて勇ましく、御恩は重し、身は軽(かろ)し。  
一、一輪の花にも無限の尊さを仰ぐ。  
一、子供を教えるより子供に教えられる方が多い。  
一、厄介な仕事や気にさわる相手が、御恩報謝のしどころである。  
一、何事によらず、最後は如来がお引き受けくださる、力一杯やることだ。  
一、参詣が多くても少なくても、喜ぶか喜ばぬかは自分一人の問題。  
一、子供が言うことをきかぬというてコボスが、実は自分の我が侭で苦しめられているのである。  
一、まことは言葉以前にはない。  
一、念仏は自己が如来に取られていく行為である。  
一、助かるとは、如来が私の主となってくださること。  
一、何をしても障りにはならぬが、また何をしても役には立たぬ。  
一、真宗では家を出てする修行はないが、家の仕事がみな修行。  
一、今為していることを為すだけ。今思っていることを思うだけでよし。  
一、念仏者は人に負けるのではない。仏に負けるのである。  
一、絶対他力とは、自分の力をお与えということ。  
一、正も固執すれば邪となり、善も誇れば悪となり、智もおごれば行きづまる。  
一、自己過信は孤独に導く、下等動物にも劣る点のあることを知れば世界は広くなる。  
一、恵信僧都は、観月の清澄な心境すら魔縁として捨離された。現代の観光ブームとは対照的。  
一、生活程度は高まったが、不足は絶えぬ。他力の恵みを知らぬ哀れさ。  
一、信仰運動も教化活動も尊い、しかし自我否定の関門を通らねば逆コースとなる。  
一、教団は亡んでも仏法は亡びないという信念が教団の生命。  
一、異教の攻勢よりも、それを怖れる心を恐るべきである。  
一、教団の焦りは教団の衰退の兆。  
一、幕末の先覚ー横井小楠は、競争主義の教育を評して「人材をつくる目的が、却って人材をつくらぬことになる」と批難した。現代人への厳しい警告。     
一、いかなる人間も、生き方ひとつで価値ある人生が送られるという確信を 与えるのが教育の要義。  
一、愚鈍な弟子には掃除をさせるのみで悟りを開かせた釈迦の教育。  
一、学校の成績は、人間能力の一面を示すのみ、他面では成績が逆転することもありうる。  
一、塙保(はなわほ)己一(きのいち)は鍼(しん)術では落第生、強記では古今無比の天才、   仏生寺弥助は文字では落第生、剣の道では無敵の鬼才。  
一、今日の一日、否、今の一念を離れては、生きた人生なし。  
一、古往今来、行きつまりなし、人間の欲と計らいが行きつまりを作るのみ。  
一、真の仏法は法の力で弘まる。人間が手を出すから生きた仏法が隠れる。  
一、目につく大善には「我」の汚れがつき易く、目につかぬ小善には「我」の汚れがつきにくい。  
一、体が衰えて行くのは、自分が他力に取られて行く証拠、自分のすべてが 取られたときが大往生。  
一、平和も主張すれば和を破り、他を導こうとすれば反発を招く。  
一、宗教の道に人間の理屈が入れば、宗教の純粋性は失われる。  
一、人間の理想は尊い、然し人間の行動が反理想的に働くから危ない。  
一、人間の一大迷信は、人間を万物の霊長と過信していること。  
一、病気のときは「治す」工夫も大切であるが、「治らぬ」ときの工夫も大切である。  
一、他人の言を聞かぬは我慢、自分の言を聞かそうとするは驕(きょう)慢。  
一、生きる意義を見出してこそ、万物の霊長と言える。  
一、生きる意義を見出さねば、百才の長寿も夢。  
一、われ生くるにあらず、他力によって生かされているなり。  
一、われ死ぬるにあらず、他力によって引き取られるなり。  
一、生死ともに他力の掌中なり。  
一、本当に在るものは、「今」の「ここ」の「自分」のみ、その他はすべて空想。  
、古往今来「行きつまり」なし。「行きつまり」は、人間の心がつくるのみ。  
一、世の中に無くなるものはない、ただ変化があるのみ、「我物」とつかむから無くなる。  
一、最悪の場合に備えあれば、いつも安楽。  
一、真の富は物を多く持つことでなく、物の価値を知ることにある。  
一、朝日を拝み、一滴の水にも感謝のできるのが最高の生活。  
一、現在の生活に感謝し、自己の仕事に生き甲斐を見出すことが最高の人生。  
一、人生五十年は夢、真の生きた人生は現実直下の一念に極まる。  
一、百才の長寿を願うよりも、今を永遠に生きることが肝要。  
一、今の一念に幸福を見出すことが、永遠の幸福につながる。  
一、幸も不幸も自己の責任、他から与えられると思えば苦が倍加する。  
一、拝み合う生活が極楽に通じ、ニラミ合う世界が地獄に通ず。  
一、他人を悪罵(ば)するは、自己を悪宣伝するに等し。  
一、外敵を無くする道は、自己の内に敵を見出すことにある。  
一、最後の勝利は、勝つ必要の無い身となること。  
一、破綻(はたん)なきところに宗教はあり得ない。成功者にとっては、宗教は狭き門。  
一、奪う者は徳が奪われ、与える者は徳が与わる。  
一、ご恩報謝とは、厄介な世話や、難しい仕事が喜びで出来ること。  
一、心配すべし、心痛すべからず。世話はすべし、悩むべからず。  
一、いかなる難事も、進んで引き受ければ快事となる。  
一、障りなき生活とは、人生は障りだらけと知ること。  
一、自力を尽くしてこそ、他力への飛躍(ひやく)がある。  
一、流行を追う者に落ちつきなく、享楽を求める者に満足なし。  
一、人を恐れる者は凡人、神仏を怖れる者は賢人。  
一、いかなる権力者も野心があれば不安が襲い、いかなる富豪も強欲なれば不足は絶えぬ。  
一、最も美しい言葉は讃歎(さんたん)にきわまる。  
一、世界の平和も和顔から、人類の幸福も愛語から。  
一、宗教の救いは、苦が無くなることでなく、苦が楽に転ずること。  
一、生かせて下さる力を仰ぎ、与えて下さる恵みに感謝す。   
一、人智の進むのはよいが、優越感の増上は危ない。  
一、楽を追えば苦から追われ、苦から逃ぐれば苦は倍加して追う。  
一、戦場の野にも小鳥は朗らかに囀(さえず)り、歓楽の町にも愁嘆(しゅうたん)の声あり。  
一、人智が進むと迷信は無くなるという考えは形を変えた迷信。  
一、人間の自覚や体験に用のないのが他力回(え)向の信心。  
一、一粒の米にも無限の恵みがコモリ、一輪の花にも絶対の技巧が輝いている。  
一、人間は自信過剰のため、大自然の脅威(きょうい)に悩まされる。  
一、他力の信心は、自分のつまらぬことに気づくほど喜べる。  
一、「他力をタノム」とは、タノム力もない自分と、他力によって知らされること。  
一、人間の苦しみは、他から与えられるものでなく、自己の欲心が招く。  
一、死を怖れつつ長命するは、不安の延長。  
一、他力を信ずる者に「死」はなく、自力をタノム者に「死」が伴う。  
一、現前一念のほかに生きた人生なし。  
一、独りを慎む者は神仏と対面している。  
一、神仏を否定する者は、真実の自己を見失うている。  
一、信念ということばで、我執をカムフラージュする場合があることを反省したい。  
一、科学は如何に進んでも、物と物との関係を知るのみ、物自体は永久に不明。  
一、人間の自性が利己主義であるかぎり、立派なことを言うほど嘘が大きい。  
一、科学の進歩は便利な世界をつくるが、天与の恵みを隠す。  
一、働くことを楽しむ者に不平や不満はあり得ない。       
一、物質を求め、享楽に耽(ふ)ける者には永遠の法悦なし。  
一、いかなる仕事も嫌えば難事となり、楽しめば快事となる。  
一、幸福は見出すもの、不幸は作り出すもの。  
一、渇する者には淡水に勝る美味なく、道を求める者は幼児の片言にも耳を傾ける。  
一、頭のよい人も、ウヌボレルと阿呆と言われる人よりも劣る場合がありうる。  
一、苦難の中に見出した喜びはコワれることはないが、苦難を避けた喜びは必ずコワレる。  
一、人生の破綻(はたん)は、ウソの生活が暴露(ばくろ)したに過ぎぬ。  
一、成功したと思ったときが失敗の始め。  
一、罪の弁解は罪の上塗(うわぬ)り。過失を隠すは、過失の倍加。  
一、自信が強いということは、見方によると慢心が強いとも言える。  
一、善も誇れば悪となり、正義も主張すれば邪義となり、平和も叫べば和を破り、教化も驕(おご)れば反発を招く。  
一、言い合いとなれば、理屈なしに負けられるが仏法者の徳。  
一、世間では「負けて勝て」というが、仏法では負けるだけですむ。  
一、妻に負け、子に負け、飼い犬にも負けられるが仏法者の徳。  
一、仏法者は相手に負けるのではなく、仏に負けるのである。  
一、自力を捨てるとは、仏力の前には捨てる自力もないと知ること。  
一、いかに困っても、現在に行きつまりなく、いかに安心しても、一寸先は闇。  
一、いかに仕事が多くても、一時に一事しかできず、いかに便利になっても、一時に多事はできぬ。  
一、科学万能の考えは行き詰まる。いかに科学が進んでも自然の理法は破れぬ。  
一、人智が進んで宇宙征服と言った誇大妄想を生んだことは人間の退歩。  
一、自己の無知無能が喜べるのは仏法者の徳。  
一、仏をタノムは、難易の問題ではなく、必然の道。本当に生きるためには、仏をタノマねばならぬ。  
一、仏をタノまねば未来を待たず、現在がおちつかぬ。  
一、仏教の道は、人間が教えを弘めるのでなく、人間が教えに殉(じゅん)ずる道である。  
一、仏教の真理は、最も古くして、また最も新しい道理である。  
一、現代人は智慧が進んだと言われるが、欲に目がクラムのは無知の証拠。  
一、迷信には神秘と功利が伴い、正信には明朗と感謝が伴う。  
一、他力の働きを知らぬ者には生活不安が襲い、他力の恵みを知らぬ者には生活難が襲う。  
一、人間の思想や体験に用のないのが他力回向の信心。  
一、明日は永遠に来ない。来るのは現在のみ。  
一、現在の一念を生かさねば、百才の長寿も夢。  
一、物の価値は見方による。物自体に価値があると思うから執われて苦しむ。  
一、いかなる智者も一寸先は闇。いかなる愚者も現在は明白。  
一、自分の力で生きていると思うは誤り。眠るも醒めるも我力でなく、心臓のコドウ一つも自由にはならぬ。  
一、生かされている者に生の不安なく、引き取られる者に死の恐れなし。  
一、生かされている者が、生きる権利を主張するは本末転倒。  
一、宗教の教えはツカムべきものではなく聞くべきもの。ツカメば理屈となり、聞けば信心となる。  
一、自信が強いと言えば立派に聞こえるが、我慢が強いと見れば浅まし。  
一、人間は競争を楽しみ、競争で苦しんでいる。救われるとは競争する必要のない身となること。  
一、清沢満之曰く「競争ハ力なき者ノ所為」と。味わうべき言葉だと思う。  
一、自分の立場で他を計れば必ず誤る。人間には他人の心を計る資格はない。  
一、物を大切にするは物を生かすことであり、自己を豊かにすることでもある。  
一、物を粗末にするは物を殺すことであり、自己を貧しくすることでもある。  
一、未来の浄土を否定しても、未来の欲望は消えず、未来の地獄を否定しても、未来の恐怖は消えぬ。  
一、世に知れず終わっても悔いのない者は、目に見えぬ大きな仕事をしてきた証拠。  
一、人生のあらゆる苦悩は、欲と無理から生ず。  
一、「自力を捨てよ」とあるは、「出来ないことは他力に任せ、出来ることは自力でせよ」ということ。  
一、他力の信には感謝が伴い、自力の信には不安と力みが伴う。  
一、幸福は見出すべきもので掴(つか)むべきものではない。掴めばやがて失う。  
一、文化の向上は、人間の欲望と正比例するが、宗教の法悦とは反比例する。古来の名僧や妙好人は、例外なく清貧に甘んじていた。  
一、科学万能の考えは妄想。科学が如何に進んでも自然の理法は破れぬ。  
一、現代人は自然の恩恵を忘れて、欲のために自然界を征服しようとするから、その報復として公害や奇病に悩まされている。  
一、宗教の世界では、自己一人の信が生命。いかなる信仰運動も教化活動も、自己の信がボヤけると妄動となる。  
一、教団問題の解決は、人間が作った教団を仏に返すことにある。  
一、勝つよりも負けることを喜ぶが念仏者の徳。  
一、「どうかなった」という喜びはくづれるが「どうにもならぬ」ままの喜びはくづれない。  
一、生涯、何等の弁解もせず、また遺言もせず、甘んじて死ねる者は仏と対面している。  
一、「教え手」になると相手から苦しめられるが、「教えられ手」になると相手から救われる。  
一、自己に向かえば、自分の悪が消えて他人の悪が見え、仏に向かえば他人の悪が消えて自分の悪が見える。  
一、真理は一言でも尽(つ)くされるが、また万言でも尽くされぬ。  
一、智恵が進むと迷信が無くなるという考えは一つの迷信。人智に限界があるかぎり、迷信の根絶は望めぬ。  
一、ご恩報謝とは、厄介な世話や、むづかしい仕事が喜びで出来ること。  
一、人間には自己を知らぬ愚と、自己を利する悪が伴うから正しい道を誤り易い。  
一、仕事に貴賤上下はない、心に貴賤上下がある。  
一、世界は如何に進んでも未完成の連続。人間は如何に幸福になっても不満足の流転。  
一、自分に都合のよいとき喜ぶは凡情。都合の悪いとき喜ぶが他力の信心。  
一、欲と幸福とは両立せぬ。欲の深い者は物質的には豊かになるが、精神的には貧しくなる。  
一、天与の恵みを知る者に貧富の差別はない。  
一、人に負けることは悔しいが、和合のできることは喜ばしい。  
一、未来というものが別に在るのではなく、現在のつづくところが未来である。いつも現在を喜ぶ者は、未来も必ず幸福。  
一、物に恵まれすぎると、物の「尊さ」と「ありがたさ」が判らぬようになる。  
一、勝つ者は仏から離れ易く、負ける者は仏に近づき易い。  
一、世の中に捨てる物はない。何かの役に立つ。物を捨てるは自己の世界を狭めること。  
一、天与の恵みは求める前に与えられている。求めて得たものは、やがて失う。  
一、今日の教育は偉くなる教育であるから、他を批判して強調ができなくなる。  
一、仏法を聞くとは、他のことを聞くのではなく、自分の本当の姿と、本当の幸福とを知らせてもらうこと。  
一、人間には未来をはかる知恵も、他人の心をはかる資格もない。  
一、独善的の者は、他人が障りともなり、また重荷ともなる。  
一、教団が亡んでも仏法は亡びないという信念が教団の力であり、仏法の生命でもある。  
一、人間の力で仏法を弘めるという考えが仏法を妨げる。仏法は仏力によって弘まる。    仏力を仰いで邪魔せねば、仏法は自ずから弘まる。  
一、「救い」には利益が伴うが、利益には必ずしも救いは伴わぬ。  
一、長命を願わぬ者はないが、信がなければ不安と不満の延長。  
一、長所も誇れば短所となり、短所も自覚すれば長所となる。  
一、善い行いには善い報いがある、というよりも、善い行いをするところに報われている。  
一、人間の相対性を知れば、他と争う必要が無くなる。  
一、永久に人に勝つことのできないのが念仏者の心。  
一、弱いのは卑屈の美化。強いのは我慢の変形。  
一、現代人は智恵が進んだと言われるが、欲に目がクラムは無知の証拠。  
一、別に他力というものがあるのでなく、自力の迷心を否定する言葉。  
一、自然界には差別はあるが境界はない。人間は境界を作って我他彼此の対立で争っている。  
一、蓮如は聖教の表紙が幾度も破れるまで読み続けて簡明な御文を作った。 現代の宗教家は簡明な聖教を難しく解釈して人を迷わせているか?に見える。  
一、フランシスコは、固定教団から離れて万物を神の啓示として拝み、万生を我が兄弟として愛した。  
一、去るものを追うべからず、来るものを拒むべからず。  
一、他人に対する批判の鋭いことは、自己に対する反省が鈍い証拠。  
一、如何に頭が良くても、自負心が強いと思わぬ錯覚を起こし易い。  
一、真実は「在るがまま」の世界。人間の計らいが虚仮の世界を作って自分を苦しめている。  
一、自分の何物かを残そうとすれば、未来は淋しく、自分の消えていくことに満足のできる者が仏の世界に生まれる。  
一、働くことに生き甲斐を知れば、当て違いには出会わぬ。  
一、欲の深い者は心が貧しく、欲の浅い者は心が豊か。  
一、善に対する固執は悪よりも強く、正に対する固執は邪よりも厄介な場合がある。  
一、知識が進んで苦悩が増し、交通が便利になって不安と危険が増す。すべて物事は一方的に決めることはできぬ。  
一、宇宙旅行をしても宇宙の極限はつかめず、医学がいかに進んでも死は免れず、いかに智恵が勝れても一寸先は闇。  
一、理屈を言わねばならぬようでは、法然や親鸞の念仏はわからぬ。  
一、和合の秘訣は、人間の相対性を知ること。  
一、「信仰を語る」のと「信仰で語る」のとは違う。一方は説明であり、他方は叫びである。  
一、人生の幸と不幸は「どうなったか」にあるのでなく「どう生きるか」にある。  
一、人間最高の知恵は、人間能力の限界を知り、絶対無限の働きに目醒めること。  
一、人間の知識は、限られたものの蓄積に過ぎぬ。自然界に限定なし。  
一、人間の悪癖は、物を固定化して執着する。然し自然界は固定化を許さぬ。そこに人間のアテチガイが生まれる。  
一、フランシスコ曰く「人間ハ行為スルダケノ知識シカ持タヌ」と。現代人への厳しい教訓。  
一、人間の価値は、その人の言葉よりも行為が雄弁に語っている。  
一、たとい癌の根治が可能となっても、死の恐怖は消えぬ。  
一、困り切ったときに、始めて他力に生かされている自分に目が醒める。  
一、念仏したから助かるにあらず、仏の本願に順うから助かるのである。  
一、人生は、すべてが割り切れぬ。割り切れぬままで割り切れて行くが他力念仏の道。  
一、人生に一言半句の慰めを必要としないのが念仏者の徳。  
一、わが子に詫(わ)びうる親でこそ、子を導く資格がある。  
一、宗教の道は、人間が教えを弘めるのでなく、教えの前に自己を空しくする道。  
一、自信教人信というが、自信のほかに教人信はあり得ない。自信即教人信である。  
一、他力の信心は、人間の意志を超えて叫ぶ。即ち仏力によって叫ばしめられるのである。古来の妙好人の言葉は、古くても時代を超えて人の心に響く。  
一、一言の弁解もせず、甘んじて罪を引き受けるところに罪は消える。  
一、他人から如何に非難されても、一言半句の弁解もできないのが念仏者の心。  
一、本心の願いに添わぬ道徳は偽善であって、不道徳よりも悪質。  
一、罪の弁解は罪の倍加。弁解せずに甘んじて罪を引き受けるとき、罪は消える。  
一、我見の強いのを熱心と誤解し、また信念と錯覚する場合のあることを反省したい。  
一、沈黙のままで充たされるとき、始めて大獅子吼(ししく)ができる。  
一、念仏の世界では、正反対の言葉でも両立するが、人間の世界では、同一の言葉でも対立する場合がある。  
一、どこかに一人でも気に障る者があっては、仏の浄土へは往けぬ。  
一、何事によらず「困る」というは我慢の報い。  
一、いかなる善事も「我」がつけば悪となり、いかなる悪事も改悟すれば善となる。  
一、仏をタノムが難しいと言うが、実は仏をタノマヌ方が難しい。仏をタノマねば未来を待たず、現在から救われぬ。  
一、いかに行き詰まったと言っても、明日は必ず来る。如何に安心したと言っても、一寸先は闇。  
一、公平な立場から見ると、世界は変化があるのみ。進歩と退歩は見方による。  
一、人生五十年は、一夜の夢が五十年延びたに過ぎぬ。時間の長短はあるが、やがて消えることを思えば夢に変わりはない。  
一、他人を排斥するは、仏から離れるわざ。  
一、貪る心は淋しく、与える心は豊か。  
一、いかに誉められても乗らず、いかに誹られても弁解できないのが念仏者。  
一、他人を責める者は孤独となり、自分を責める者は善友を招く。  
一、独り居ても淋しからず、大勢と居ても邪魔にならぬが念仏者の徳。  
一、人間は万物の霊長と誇っているが、他の動物に見られぬ苦悩がある。 一つに「取り越し苦労」二つに「取り返し苦労」三つに「思い過ぎ苦労」四に「持ち過ぎ苦労」等である。  
一、善も誇れば悪となり、悪も改悟すれば善となる。智も驕れば行きつまり、愚も自覚すれば行きつまりなし。  
一、自我を主張するかぎり、平和は望めぬ。  
一、人間が「判った」というは、判らぬようになる前提。「出来た」というは出来ぬようになる予告。  
一、人間は調子のよいときが危なく、調子のわるいときは危なげが少ない。  
一、すべて何事でも、あまりアテにすると、必ずアテチガイに出会う。  
一、世界は何事によらず変動の波に揺られている。人間の癖は、すべて物を固定化しようとする。   しかし世界の動きは固定化を許さぬ。そこに人間の悩みがある。  
一、人間は身勝手なもの。自分に都合がよければ他人の悪も善に見え、自分に都合が悪ければ他人の善も悪に見える。  
一、見方によると、人間は万物の劣長とも言える。生物の中で、人間ほど利己主義で悪辣な行為をする動物は他にいない。  
一、少なくて満足のできる者が長者。多く持たねば満足のできない者が貧者。  
一、合掌し合う世界が浄土への道。ニラミ合う世界が地獄への道。  
一、人智の進むのは望ましいが、その限界を知らぬと思わぬカベに突き当たる。  
一、現代人は人間のつくった規則に縛られて、自然の理法を見失う危険がある。  
一、人の長所を見出す者には善友が集まり、人の短所を見出す者は孤独になる。  
一、心から仏を拝めば、いかなる外敵も善友と変わる。  
一、生存競争に敗れても、自然の働きと恵みは消えぬ。  
一、仏道は法が主体となること。すなわち「法を語る」のでなく「法で語る」のでなくてはならぬ。  
一、近来は、よく親鸞教学という言葉が使われるが、これは反省すべきだと思う。親鸞は明らかに念仏の前に「学」を捨 てている。現代の親鸞教徒は、学の前に念仏を忘れているか?に見える。  
一、教団の悩みは、教団人が、仏の教団を私した結果ではあるまいか。教団を救う道は、人間の教団を仏に返すに限る。  
一、他力の信は仏と直結するが、自力の信は人間の計らいが仏をさえぎる。  
一、仏に向かえば、すべての外敵は自ずから消えて、同朋となり同行となる。  
一、生きる尊さと、働く喜びとを見出すことが人生における最大の幸福。  
一、拝む姿が最高の美容。ニラム姿が最悪の醜態。  
一、仏罰というものはない。幸も不幸も自業自得。  
一、自惚れる者は孤独になり、謙虚な者には善友が集まる。  
一、仏法は人に教えるものでなく、人と共に聞くべきものである。  
一、幸福は神仏に祈るよりも、額に汗して働く者に与えられる。  
一、仕事を厭えば疲労は倍加し、仕事を楽しめば疲労は半減する。  
一、真実に生きる者は、心が清らかで強く、虚偽の道に生きる者は、心が汚れて弱い。  
一、自分の心が和らげば外敵は自ずから消える。  
一、世の中で最も美しい言葉は讃嘆であり、最もきたない言葉は誹謗である。  
一、人間の失敗は自惚れへの警告。  
一、人間は智恵が進むほど問題が複雑化し、能力がすぐれるほど困難は深刻化する。  
一、月の実体を見た気持ちと、明月の美を見た気持ちと、どちらが仕合わせかを一度考えて見てはどうだろうか。  
一、いかなる不幸も、喜びに転ずるが念仏の利益。  
一、真実に生きる者は言葉が少なくて強く、虚偽に生きる者は言葉が多くて弱い。  
一、人間の裁きは権力で左右されるが、因果の裁きは何物にも左右されない。  
一、沈黙は言葉が心に残り、饒舌(じょうぜつ)は後悔が胸に残り、讃嘆には喜びが心に残る。  
一、いかなる苦悩も、それを対象化すれば消える。  
一、新しきを追うも、古きを守るも、ともに行きづまる。現在にすべてをかければ行きつまりなし。  
一、人間は悪よりも善に迷い易く、邪よりも正に執らわれ易い。  
一、親鸞の教えは、人間が真実を見出すのでなく、真実が人間を見出す道。  
一、他人の非を見出すに敏なる者は、自己の非を見出すには鈍である。  
一、天地自然は公平。不公平と見るは因果の理を知らぬ証拠。  
一、「説き上手」は自己を見失い易く、「聞き上手」は自己を見出し易い。  
一、人間の世界は「行き詰まり」と「矛盾」に満ちているが、自然法爾の世界には「矛盾」も「行き詰まり」もない。  
一、人間は外他の物を知る智恵は優れているが、自分自身を知る知恵は欠けている。  
一、自己の真実の姿を知るには、仏法を聞くに限る。  
一、非難や悪口を言ってくれる者がないと、いつの間にかうぬぼれるのが人間の本性。  
一、人生の根本目的を教えるが教育の要。人生に最後の安住を与えるが宗教の道。  
一、与えられた天分を自覚すれば、劣等感は消える。  
一、子のために苦しむというが、実は親の欲のために苦しむのである。  
一、人間は、いかに修養を積んでも利己主義の流転。世界は、いかに進歩しても未完成の連続。  
一、最悪の場合に備えあれば、いつも安楽。  
一、矛盾で苦しむが人間。矛盾で救われるが念仏者。  
一、親鸞は「善悪ノ二ツ総ジテモッテ存知セザルナリ」と言われた。これは善悪を否定されたのではなく、善悪の絶対化を否定されたのである。  
一、平和は常に与えられている。人間が小賢しく手を出すから破れる。  
一、自己過信は孤独への道。下等動物にも劣る点のあることを知れば世界は広くなる。  
一、天与の恵みを知れば、貧富貴賤の区別は消える。  
一、仏法を信ずれば転悪成善の益があるから、失敗も不幸もあり得ない。  
一、飢える者は一片のパンでも戴く。道を求める者は幼児の片言にも耳を傾ける。  
一、宗教の信仰は自己一人の世界。信者が殖えても減っても、自己の救いには関係なし。
一、自由を主張すれば束縛に苦しみ、平等を叫べば差別に悩まされる。  
一、永遠不滅の生命に目覚めることが生死解脱の道。  
一、人を愛して結果を思わず、人に施して報いを考えぬが念仏者の徳。  
一、他を咎(とが)めることは、徒(いたず)らに対立を深めるのみ。         
一、いかなる悪人も憎まねば障りにならぬが、いかなる善人もアテにすると障りになる。
一、愛と憎しみは心の裏表。苦と楽は世の表裏。  
一、善い物を持てば縛られ、悪い物を持てば悩む。苦しむ原因は持つことにある。  
一、他を責めるより、責めんとする自分の心を責むべきである。  
一、人間は偉くなるほど自己に対しては盲目となり易い。  
一、他を非難するスキを与えぬが報恩の念仏。  
一、説く言葉には「我」の汚れがつくが、讃える言葉には「我」の汚れが消える。  
一、「為して誇らず」「為さいで悔やまぬ」が念仏者の徳。  
一、天意は計り難く、天作は邪魔し得ず。  
一、目につく大善には汚れがつき易く、目につかぬ小善には汚れがつき難い。  
一、人生最後の勝利は不争の身となること。  
一、損得も勝敗も、幸も不幸も、即座に解消するが念仏の利益。  
一、信じてから救われるのではなく、「救われていること」を信ずるのである。  
一、生かせてくださる力を仰ぎ、与えて下さる恵みを喜ぶ。  
一、生存競争に敗れても生きる自信を失わぬのが他力に生かされている念仏者の仕合わせ。  
一、貧乏しても長者の気持ちを失わず、病気をしても健康な心を失わぬが念仏者の徳。  
一、働くことに生き甲斐を知る者には、失業も生活難も襲(おそ)わぬ。  
一、物を粗末にする者が貧者、物を大切にする者が富者。  
一、人生を修行の道場と心得れば、不平や不満は解消する。  
一、人間の苦悩は、すべて無理から生ず。能力の限界内で生活すれば苦悩はあり得ない。  
一、欲しいものやしたい事がある間は救われない。今の生活のままで充たされ、今の仕事に生き甲斐を感ずるところに救いがある。  
一、苦悩を如何に処理し、法悦を如何に獲得するかが人生の修行。  
一、下等動物は嘘を言わぬ、つねに本音を吐く。人間はつねに本音を吐かぬ。そこに下等動物の知らぬ罪悪と苦悩とがある。  
一、個人の自覚や体験に用のないのが他力の信心。  
一、自力を捨てるとは、自力も他力のお与えと知ること。  
一、物を大切にするは、自己を大切にすること。物を粗末にするは、自己を粗末にすること。  
一、人間は得意なときが危なく、褒(ほ)められたときが恐ろし。  
一、求めぬ者に進歩なく、困らぬ者に救いなし。  
一、優秀劣敗の教育は尊い人間性を歪(ゆが)める。  
一、物に執着するは、物に縛られている姿。  
一、宗教界に於ける対立抗争ほど大きな矛盾はない。  
一、人間の知恵は、客観界にのみ通用する。主観に対しては永久に盲目。  
一、すべて物を生かして使うが仏道。  
一、人間の愛憎は我が儘の変形。  
一、仏をタノマずに生きているのは、ゴマ化しの生活であり、不満と不安の延長でもある。  
一、今の一分一秒も再び来ない。大切に生かすべきである。  
一、世の中にうらやましいものがあるのは、餓鬼道へ行く姿。  
一、粗末な物にも尊い価値を見出すが仏道。蓮如は一片の紙切れをも大切に拾って頂かれた。  
一、絶対という語は、人間を迷わす言葉である。  
一、感謝は極楽への道。不平や不満は餓鬼への道。怒りや呪いは地獄への道。  
一、未来に生きる者には不安があり、過去に生きる者には後悔があり、現在に生きる者には不満がある。 救われるとは生き方の転換にある。  
一、事の如何に拘わらず、問題解決のカギは「我」をつのらぬこと。  
一、不平や不満を解消する道は、天与の恵みを知ることに限る。  
一、相手を咎める心のあるかぎり、相手から苦しめられる。  
一、人間も自惚れると、自然界を征服するといった誇大妄想を起こして、却って自然から征服されるのではあるまいか。現代の大きな悩みである公害も、その一つと言えよう。  
一、花は無心にして時が来れば咲き、時が過ぎれば散る。人間には欲と計らいがあるから、つねに行き詰まりに出会う。  
一、自分を仕合わせにするために、他を排斥するは全く逆コース。  
一、いかに苦しみ悩んでいるときでも、直下の一念に障りなし。  
一、他力によって生かされている自分に目醒めれば感謝のほかはない。  
一、世の中が如何に変わっても、生かされている喜びと、与えられている有り難さとは変わることはない。  
一、威張る心には淋しさが伴い、飾る心には疲れを伴う。  
一、他力の信には感謝が伴い、自力の信には慢心を伴う。  
一、善人もアテにはならぬが、悪人も捨てられぬ。  
一、自己の立場で他人を計れば必ず誤る。  
一、金が無くて困ったと言う者は、金が有っても困る。金に執われている証拠。  
一、順境は宗教の道をフサギ、逆境は宗教の道を開く。  
一、仏法を信ずる者には転悪成善の徳があるから吉凶(きっきょう)禍福(かふく)はない。
一、欲を離れる道は無上の大利を知るに限る。  
一、文化が進んで精神病が殖え、生活がゼイタクになって身体が脆弱(きじゃく)となる。   人間本来の道から離れてきた結果ではあるまいか。  
一、仏陀の教えは、何事によらず固定化を排す。  
一、正直に勝る交際術なく、慈悲に勝る処世術なし。  
一、神仏の存在を否定しても、他力によって生かされている事実は否定できぬ。  
一、学問は深めるほど不可解の領域が拡がり、知恵は進むほど未解決の問題が殖える。  
一、少なくて満足のできる者は、恵みの受け方が多く、多く持たねば満足のできぬ者は、恵みの受け方が少ない。  
一、悪を為せば苦しむ。悪を隠せば一層苦しむ。悪をゴマ化せばなお一層苦しむ。  
一、いかに仏理に通じても、鼻にかかれば仏者ではない。  
一、人生に終着点なし、いつも出発点。  
一、未来の浄土を否定しても、未来の欲望は消えず、未来の地獄を否定しても、未来の恐怖は消えぬ。  
一、「自力を捨てよ」とあるは、出来ないことはするな、出来ることは懸命にせよということ。  
一、人間は自分の考えを正当化し、絶対化するため、他と協調できなくなる。  
一、生死ともに他力の為さしめ、人間の計らう余地はない。  
一、「他力をタノメ」とあるは、生きる力のない者が、今、現に生かされている一大不思議に目醒めよということ。  
一、他力の信心は「ありがたい」の一語につきる。  
一、家の宝は秘蔵の珍宝でなく、家族の和合である。  
一、いかに物質に恵まれても、信が無ければ不足は絶えぬ。  
一、何事によらず善を見出す者が幸福、悪を見出す者が不幸。  
一、歓楽の生活は自己を見失しなわしめ、苦難の生活は自己に目醒めしめる。  
一、欲しい物の多い世界が人間、欲しい物の得られぬ世界が餓鬼、欲しくない物を与えられる世界が地獄。  
一、人生を聞法の道場と心得ば、到るところに仏はまします。  
一、宗教の真理は、最も古くして、また最も新しいものであらねばならぬ。  
一、仏の大慈悲を頂けば、すべての物に感謝ができる。  
一、金は使うべきもので、使われるべきものではない。  
一、自己の地獄一定を自覚すれば、外敵はおのずから消える。  
一、物欲に追い回されるは餓鬼道の姿。  
一、念仏したから助かるのでなく、如来の本願に順うから助かるのである。  
一、他力の念仏に生きるとき、人生のすべての問題が解決される。  
一、未来往生に安心のできない者に現在の安住はあり得ない。  
一、人を見捨てるとき、仏からも離れ、人を抱擁するとき仏に抱かれる。  
一、無言の行には、言(ことば)が心に残り、称名念仏には、言が仏に返る。  
一、飽食(ほうしょく)に美味なく、安逸(あんいつ)に感謝なし。  
一、相手の立場を理解することが和合の秘訣(ひけつ)。  
一、救われるための念仏が自力念仏。救われた喜びの念仏が他力念仏。  
一、真の勝利は他人に勝つことでなく、自己の欲心に勝つことである。  
一、世界の平和も、人類の幸福も、皈(き)するところは一人一人の心次第。  
一、迷信は人智の欠除により、正信は人智の否定による。  
一、信心は一言で決まり、多言で迷う。  
一、真宗の「学」は、学解(がくげ)を捨てるところに意義があり、真宗の信は、自信を捨てるところに生命がある。  
一、他力によって生かされていることに目醒むれば、生死の苦もなく、貧富の悩みも消える。  
一、他の誹りを苦にするのも仏と別れている証拠。  
一、人間には断言癖があるから対立が出来る。断言癖は自惚れの現れ。  
一、「わが子」という所有感が不幸者をつくる。  
一、親子夫婦と言っても他人の集まり、心が一つになると思ったらアテ違いに出会う。  
一、自我否定であれば、いかに説いても正、自我肯定であれば、いかに説いても邪。  
一、人間の最も尊い姿は合掌礼拝に極まる。  
一、いかなる苦悩も法悦に転ずるが念仏の大利益。  
一、人を導く秘訣は、相手の悪を自己の内に見出すこと。  
一、成績一辺倒の教育は、尊い人間性を見失わしめる。  
一、ご恩報謝とは、厄介な仕事が喜びで出来ること。  
一、眠るも醒めるも我力でなく、心臓の鼓動ひとつも自由にならぬ。すべてが他力の為さしめ。  
一、生かせてもらえる間は必ず生きられる。(現生正定聚)生かせてもらえぬときは必ず引き取られる。(必至滅度)心配無用。  
一、引き合わぬ仕事も、引き合うようになるのが報恩行。  
一、人生の意義を見出さねば、欲に駆使(くし)されて下等動物に転落する。  
一、順境に慣れると、逆境を超える力を失う。  
一、人目につかぬ小善を励むは、資本のいらぬ社会奉仕。  
一、無力無能の人間が、今、現に生かされている事実が、未来往生の証明。  
一、食のために働くのでなく、働くために食をとるのである。  
一、蓮如が「後世を知らざる者を愚者とし、後世を知る者を智者とす」と断言された一言は、実に人類に対する千古不磨の金言。  
一、人間は「金が無くては生活ができぬ」というが、下等動物は、金を持たずに立派に生活をしている。 人間も一度、下等動物の生活秘訣を研究してはどうだろうか。  
一、歴史に残る偉人や成功者も、権力を誇る政治家も、また羨望の的となっている富豪も、最後は夢となって消える。  
一、仏の慈悲で生きている念仏者は、平生も長者の気持ちで暮らされ、最後も往生の喜びで往く。  
一、信心は希望を生み、希望は若さを生み、若さは力を生む。  
一、死ぬときは五体にお礼を言うてこの世に返して行きたいものである。  
一、代償を求めぬことが宗教の大利益。  
一、生存競争に敗れても、生きる自信を失わず、不治の難病にかかっても、死の恐怖を感ぜぬが念仏者の徳。  
一、万人が救われねば自分も救われぬ。どこか一人でも気に障る者が居れば極楽には行けぬ。  
一、神仏に幸福を祈るは神仏への冒涜(ぼうとく)、自己への侮辱(ぶじょく)。  
一、老衰(ろうすい)して五体が役に立たぬようになるのは、仏に取られて行く姿。自分のすべてが取り上げられたときが大往生。  
一、「ありがたい」とは、知ることでもなく、感ずることでもなく、疑えぬ事実。  
一、世界はいかに進歩しても未完成の連続。人間はいかに幸福になっても不満足の流転。  
一、仏法を聞くとは、ありがたい話を聞くのでなく、ありがたい事実に目醒めること。  
一、現代は教育がないと言われるが、人間のする教育はない方がよい場合もある。  
一、死を恐れるは、五尺の肉体をわがものと錯覚した罰。  
一、身体がわがものでない証拠は、自分の身体と言いながら自分の自由にならぬ。  
一、聞いたことや知ったことは忘れるが、自性の煩悩妄念はモーロクしても忘れぬ。  
一、仏法を聞くとは、聞き分けるにあらず、聞きつけるにあらず、一生聞いても間に合わぬと知らせてもらうこと。  
一、古人をマネるは現代への冒涜(ぼうとく)、現代に流れるのは永遠への閉鎖。  
一、世の中に自分の力で作ったものは一つもないから、自分の自由にならぬのは当然。  
一、仏法に盛衰はない、仏法者の仕事に盛衰があるのみ。  
一、病気で死ぬのではない無常の道理で死ぬのみ。  
一、一生涯に百ペン病気しても九十九ヘンは必ず治る。しかし最後の一ペンは必ず治らぬ。  
一、病気の治らぬのを医者の罪にするのは無理、いかなる名医も必ず一度は治せぬときがくる。  
一、眠るときを覚えているものはないが、必ず眠る。醒めるときを覚えているものはないが必ず醒める。人間の気づかぬところに働く力は大きい。  
一、精密な人工頭脳が作られても、美しい情感は生まれぬ。  
一、真実のことばは公共のもの、人間がつかむから虚偽となる。  
一、利巧の極致は馬鹿に通じ、馬鹿の極致は利巧に通ず。  
一、浄土は行くところにあらず、他力によって行かしめられるところ、地獄は行かしめられるところにあらず、自分の業で行くところ。  
一、ウソ発見器もアテにならぬと聞く。仏智に照らされると、ウソをつかぬ人間は一人もないことになる。  
一、文化が向上するほど精神病と犯罪とが殖える。物質文化と精神文化とは一致し難い。
一、仏法とはあたりまえの道理、人間の迷いが別のことにする。  
一、宗教的に救われるとは、苦が無くなることでなく、苦が楽に転ずること。  
一、仏の教えは千差万別に分かれてても、要は人間の執着を捨てしめるのみ。  
一、為して求めず、為さいで悔やまず、知って誇らず、知らいで卑下せぬが念仏者。  
一、人生はすべてが矛盾、自然界に矛盾なし。  
一、現代人は退一歩して愚者の幸福を考えてはどうだろうか。  
一、人間の命を時間のみで決めるのは、人間を下等動物に落とすこと。  
一、収入の少ないのを苦にする者は多いが、生活に最も必要な空気や水をタダいただいていることには気がつき難い。  
一、名もなき一輪の草花を観賞する人は、千万金の盆栽を観賞する人にまさる。  
一、人間の自性が利己主義であるかぎり、賢く巧者になるほど悪は増上する。人智の進んだことが末法濁世とも言える。  
一、人類五千年の歴史は、人間の失敗史とも言える。曠世(こうせい)の英雄も最後は失敗に終わっている。  
一、真理は単純、大聖は平凡、大能は目立たず、大智は愚の如し。  
一、観光地の開発もよいが、自然美のこわされるのは淋しい。  
一、百姓の力で農作物をつくるというが、つくる力もお与えではないか。    
一、いかなる力士も、食物をいただかねば力はでない。いかに頭がよくても病めば狂う。
一、有名な芸能人の多くが新興宗教に入ると聞く。いかなる天才も人間のカベは破れぬ。
一、寝ずに心配しても、時がくれば明け、いかに安心して寝ていても、時が来ねば夜は明けぬ。  
一、平和を招来させる人は、自己が平和の破壊者と自覚した人。  
一、他から悪評されると、自分の世界が狭くなるようだが、浄土への道は広くなる。  
一、権利を主張すれば、自分の世界が拡がるようで却って狭くなる。  
一、他人の悪口はウソでも面白いが、自分の悪口は本当でも腹が立つ。  
一、何事によらず、問題解決のカギは「我」をつのらぬこと。  
一、仏前で子供を叱ることもあるが、台所で念仏することもある。  
一、自分の子でも憎いことがあるが、他人の子でも可愛いことがある。  
一、心が激したとき正しいと思うても、平静になれば正しくないことになり、平静なとき正しいと思うても、 心が激すると正しくないことになる。  
一、人間的に見れば、進歩のうらに退歩があり、退歩のうらに進歩がある。  
一、選挙粛正や政治の明朗化が叫ばれるが、人間に欲があるかぎりナンセンスに終わる。
一、政治の腐敗は、政治家が自己を修めないこと。教育の癌は教師が自己を導かないこと。宗教の堕落は、宗教家が神仏を殺すこと。  
一、人間の世界に理想的なものはあり得ない。政治にしても、教育にしても、宗教にしても、 あまり理想的な夢を見るから矛盾と混乱とを生ず。  
一、ノイローゼという病気は知識過重が原因、最適の妙薬は愚に皈(かえ)らしめる念仏であろう。  
一、人間は四、五百年も経(た)つと、地球上におり場所が無くなるといわれる。万物の霊長が受けねばならぬ悲劇か。  
一、万物の中で人間ほど横暴をきわめる動物はあるまい。しかもその罪を自覚していないところに末恐ろしい感じがする。  
一、自力を尽くしてこそ他力への飛躍がある。  
一、大宇宙を仰げば、幾万光年彼方の星を発見しても、宇宙ロケットを星の世界に飛ばしても児戯(じぎ)にひとし。  
一、名刀を大切にする人もあれば、草刈り鎌を大切にする人もある。どちらが本当かといえばどちらも本当。  
一、人間の失敗は、成功の夢が破れたに過ぎない。  
一、成功には不安が襲い、失敗には力が湧く。  
一、酒に呑まれるというが、アルコールの作用で隠されていた本性が現れたに過ぎない。
一、他人のことばを聞かぬは我慢、自分のことばを聞かそうとするは驕慢。  
一、所得の倍増は願うが、不足の倍増には気がつかぬ。  
一、得意なときが危ないとき、褒(ほ)められたときが恐ろしいとき。  
一、世の中が思い通りになったら、人生の妙味は消える。  
一、いかなる長所も「我」がつけば短所となり、いかなる短所も「我」がつかねば長所となる。  
一、死んだらどうなるか、を考えるよりも、今どうして生きているかを考うべきである。
一、人間の道徳行為はモノマネに過ぎぬ。よいことをしたと思うたとたんに悪に転落。  
一、人間は自分の考えを絶対化するから、動きがとれぬようになる。  
一、自己の真実の姿を知るには、仏法を聞くに限る。  
一、人間の愛憎は、わがままの変形。  
一、仏法らしいものを自分のうえに見つけたら、仏法とお別れ。  
一、他力の信は不吉の死を往生の喜びとなす。  
一、如来の本願を聞くとは、人間のかけひきのない姿を知らせてもらうこと。  
一、他力の行信は、行即信、信即行であらねばならぬ。行信不離という見方は、人間の計らいにおちている。  
一、如来の勅命のままナムアミダブツと称えるところに行信は具足するのである。  
一、念仏の行をはなれては、仏に出会う場所はない。  
一、本願をはなれた念仏は自力、念仏をはなれた本願は観念。  
一、地獄と極楽の道は、死ぬときでなく聞く一念に決まるのである。  
一、相手を咎める気持ちのあるかぎり、地獄道から逃れられぬ。  
一、弥陀をタノムとは、弥陀の勅命が聞こえたら自分の心のよしあしにとりあわず、勅命に順うて念仏すること。  
一、いかなる智者も、学者も、必ず行きづまる。行きつまらぬものはミダをたのんだ念仏者のみ。  
一、計らいをはなれるとは、喜んで計らえること。    
一、念仏者に生老病死なし。  
一、善知識を持たぬものに、他力の信心はあり得ない。  
一、仏法というものを自分の上に見つけたら、仏法とお別れ。  
一、仕事を厭えば老化現象が起こる。  
一、信仰に生きる人に倦怠なし。  
一、ただ一つしかない救いの手には、計らいをはなれてすがる一つ。  
一、人間の心のよしあしに関係なき救いこそ天下無比の教え。  
一、本願の念仏は「拒絶することはできる」が「頂けぬ」とはいえない。  
一、救われるとは、わが力が如来のお力に取り上げられること。無力無能のまま今現に生きている、全く他力のほかなし。  
一、救われるとは、如来の本願ーーまる助けのお慈悲ーーを聞きナムアミダブツーーありがとうーーとお慈悲をいただくときである。  
一、本願を信じるとは念仏を受けること。  
一、信心の内容は、大悲を仰ぎ讃えるーーこれが念仏であるーーのみ。  
一、本願を仰ぐ(聞く)ところに自力が消え、念仏するところに他力をいただく。  
一、口に称えるナムアミダブツーー聞くと称えるとが一つになるところーーが生き仏。  
一、念仏に「わたくし」がつけば自力、神秘がつけば呪術。  
一、念仏は「為す」という立場が「為さしめられる」という立場に転ずること。「我」が虚妄と知らしめられるとき、 すべての行動は為さしめられている行為にほかならぬ。  
一、念仏以外に教化も伝道もあり得ない。  
一、念仏をはなれた教化は不浄説法、教化をはなれた念仏は独善行為。  
一、いかに聞いても「聞いた」となれず称え、いかに称えても「称えた」になれず聞くのみ。聞称は一つ。  
一、「私が」と頭を上ぐれば迷いの道、「私を」と頭を下ぐれば浄土への道。  
一、今、現に生きている事実ありのままが一大不思議。このほかに仏なし。  
一、覚(おぼ)えのあるときも、ないときも、真実のお働きに変わりはない。  
一、「困る」「やって行けぬ」と言いながら現に生きている。これ他力と仰ぐほかなし。
一、「助かる」と心に思うても未来の不安は去らず、「助からぬ」と思うても現在は行詰まっておらぬ。  
一、「窮すれば通ず」というが、窮するのは自力、通ずるのは他力。  
一、いかなる場合でも道は開かれている。行きつまるとは心の仕事。  
一、他力をタノメば難事が快事となる。難事であるほど他力がハッキリする。  
一、自力とは、もともと無いものをあるがごとく錯覚しているに過ぎぬ。  
一、まことの念仏は自力でも他力でもない。ひたすらに大悲を仰ぎたたえるのみ。  
一、大行とは絶対の行ということ。絶対の行とは、それ以外に為すべき行為が無いということ。   自分に為したと思ったときも、為していないと思っているときも大行(絶対行)のなかである。  
一、みんなが平等に偉くなる道が民主主義。   みんなが平等に偉くなれぬ道が念仏道。
一、いかに世は悪化しても自然の美はこわされない。  
一、戦場の巷(ちまた)にも小鳥は囀(さえず)り、歓楽の町にも愁嘆の声あり。  
一、生活の不安も死の怖れも、自己過信の罰。  
一、剣道の極意は「風の柳」と剣聖はいみじくも言った。  
一、言い合いから殺し合い、「我」が「我」を殺す。  
一、時の流れも弥陀の導き。弥陀をタノムとは、人間生活の最後の支えを明確に知ること。  
一、無力無能の人間が、今現に生かされている事実が未来往生の証明。  
一、生命の永遠性を知るとき、往生一定の覚悟が生まれる。  
一、子どもの成績を苦にするは、親の欲。親の欲がまた子どもを苦しめる。  
一、子どもを可愛がるというが、気に入ったときだけのこと。気に入らぬときには叱っている。  
一、子どもを叱った後で、「これも可愛さが余(あま)って叱った」という。人間ほど嘘の上手なものはない。  
一、自他の区別をつけてる間は、愛を語る資格がない。  
一、金持ちは「借り物」が多いだけ、貧乏人は「借り物」が少ないだけ。「我物」と錯覚するから苦しむ。  
一、往生のとき、仏の光を拝むというは、煩悩がうすらぎ、他力の偉大さがハッキリしてきた現象。  
一、尽十方無碍光に生きた親鸞を限られた言葉の中に封じ込めてはならぬ。  
一、真宗の聴聞は、言葉や理屈を聞くのではない。仏智に照らされて自己を如実に知ることである。  
一、聞くとは、いくら聞いても解からぬことを聞くのである。又、聞いたことに用事のないことを聞くのである。  
一、念仏は自己が如来に取られて行く行為である。  
一、聞くとは、自分の胸に解る必要のないことを聞くのである。  
一、法門なき法話と、理屈なき談合が願わし。  
一、後世者の法門は、ただ一句でよし。義はなきにしかず。  
一、御一流は、聞き直しのいらぬ法、見直しのいらぬ安心。  
一、自分によくしゃべる程、如来の呼び声は聞こえぬ。  
一、自分が聞き分けるにあらず、自分が聞きつけるにあらず、自己そのものを聞くのである。  
一、「お助け」とは、真実の自分に還えること。「助からぬ」とは、自分以外のものを握っていること。  
一、饒舌に真言なく、沈黙に真心なし。  
一、厄介なもののある間は踏みぞこないがない。やれやれとなったら危ない。  
一、他力救済は、束縛の底に与えられる。  
一、懺悔告白にも衒気(げんき)(みせびらかし)が伴い、大言壮語にも稚気(ちき)がある。  
一、苦はその底を衝(つ)け、楽はその極まるを知れ。  
一、優柔不断が本当の姿、果敢断行は虚偽の美化。  
一、見識は傲慢(ごうまん)の美名、品格は虚栄の美化。  
一、徳をかくす要なく、愚を現す要なし。  
一、殊更なものは捉(とら)われ易く、平凡なものは流され易し。  
一、たたかれて、又たたかれて死ぬ一つである。  
一、一生落ちつけるのも念仏者、一生落ちつけぬのも念仏者。  
一、自己の破滅が大道の完成。  
一、自分として為しうることは、誰に向かっても謝(あや)まることと、頼むことである。咎める値打ちも、命ずる力もない。  
一、如来の存在は、不如意と死の事実が証明している。  
一、行き詰まるとは如来に出合っている証拠。  
一、自分の何ものかを残そうとするとき、往生の道はふさがる。  
一、心に何かしたいことのあるときは警戒すべし。心に何かいやなことのあるときは玩味すべし。  
一、十方衆生を自己の中に見出し、自己を十方衆生の中に見出す。  
一、世間のことや、他人のことを問題にしているところに念仏はない。  
一、他人の事を余所事(よそごと)に出来ぬ心が念仏である。  
一、如来に助けられたとは、他人の悪までが、すべて自分のものとして見えることである。  
一、救いとは必然に従うことである。  
一、捨てて置けば、どうなるかと煩うは自力の自惚れ、捨てておいても、どうかなると落ちつくは邪見。  
一、臨終に一言の慰めの言葉を聞く必要のないのが真宗の一流。  
一、昼は夜に移り、夜は昼に移る。区別をつけて煩うのが人間。  
一、他人を還相の菩薩と見るとき、自分は往相の道に出る。  
一、往相回向とは、ここに止まれぬこと、還相回向とは彼所(かしこ)に止まれぬこと。  
一、種類に差別はあるが、価値に差別はない。  
一、破壊はすべて嘘の暴露である。  
一、失敗は成功の本というが、失敗の外に成功はない。  
一、どんな精密機も狂いが来る。それは機械の罪ではなく、人間の妄想である。  
一、第十八願は人間で決められぬ世界。  
一、仏法不思議とは、今、自分が生かされている事実以外はない。   自分が生きていると思うとき不思議は消える。不思議と思ったときも不思議は消える。  
一、世を平和にしようとするところに平和はゆるぎ、人を導こうとするところに反逆をはらむ。  
一、仏法者は、自分の用に立たぬことを喜ばしてもらうのみ。
 

真宗大谷派 念佛寺

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