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真宗大谷派 念佛寺は西宮市にある東本願寺の末寺で

TEL. 0798-63-4488

〒663-8113 兵庫県西宮市甲子園口2丁目7−20

貞信尼物語

 『貞信尼物語』  改訂増補版                                                    大須賀秀道編                  
                 序   
 
道を求るもの多し、されど生を賭して道を求るものまれなり。ただ「法ありて死するも法なくして生きじ」と婦女子にしてその終生を道に委ね、碎礪刻苦、勤めて己まざりしこと貞信の如き、他力真宗において未だかつてあらざるなり。   彼の偉人名家の宗系、高僧碩徳の言行燦然として一代にかがやけるもの、これを伝うる世に其の人あり。ただ時流を超脱し形骸を土木にして、名塵利埃かつて其の心に點せず、永く外をくらまして内にまもり、死して声迹の湮没せんとするもの、伝えてこれを不朽にすること、必ずしも好事のためならんや。特に婦女子にしてつとに人生の大事に目ざめ、知識を尋ねて千里をいとわず、あまねく当時の名師を歴訪し、いたるところに厚信の同朋を求め、これに対し自己救済の一道を参究するに、つねに己が全き生命を打ち込みて、終始退転せざりしこと貞信なれど伝えらるるは貞信のみにあらず、中に香樹院あり、一蓮院あり、香月院あり、開華院威力院あり、是等諸師の伝うべくして伝えざりしもの、流れて貞信に伝えられしもの多し。況や通徳寺の如き、大道師の如き、其の他妙忠尼お園の如き、世にかくれたる信仰家の面影がことごとく貞信の物語に星の如くかがやけるに於いておや。   おもうに貞信の一代、つねに飽くなき求道の心にかられ、東西に諸大徳の腹底までくぐり、諸方に名高き信者のはらわたを探って、持って日夜大悲に目醒め、倍々信力を試練し、ただ最後安立の一関を突破するのみならず、何を縁としても常に中心の覚醒を持続せんとせり。ただ貞信の親しめるは、同じ真宗安心の系統にあっても、能歸の信相に重きを措く方にあらずして、香月院の流れを汲めるほうを重く談ずる系統なりき、殊に一蓮院師を真の知識と仰いで熱烈に敬慕の情を傾けし如き、これ通徳寺が「貞信お前のいうことはな、香月院や一蓮院の言うことじゃで、悉く金言じゃが、人が聞いて過ちするから用心せい用心せい」と戒めたりという所以なるべきか。されど知れや貞信が報徳を仰ぐは世の常のお任せ主義の法体安心にあらず、洵に彼女の怖るるは、飢餓にあらず死にあらず、そのおそるる所、邪見にあり、放逸にあり、懈怠にあり、法なくして生くるは一日も彼女の忍び得る所にあらず、故に其の平生の行状自力臭きまでに機を責めて、勇猛精進に念佛勤行するのみならず、常人のたえられぬ苦修難行をかさねて、この人なれば聖道自力にても証の開かるべく思わるる程なりき。殊に社会の因習に囚われず、古き型にはまらずして、信仰も行業も時代より超越せるものあるは、ここに貞信の貞信たる所以を見るべし。   されば貞信は学び易からず、若し尋常の人、直に之を学ばんとせば、却って虎を描いて猫に類するをまぬがれじ。かの通徳寺は、常に貞信の人となりを嘆賞しつつも、他の同行に対しては「お前たち決して貞信の真似をするでないぞ、貞信は一世二世の人ではない、貞信の真似をするでないぞ」と警められしと、されば現世の真宗にあって、ただ学ぶべきは貞信の精神にあり、其の形骸にあらず、いたずらに其の型にのみはまらんとせば、それ既に貞信なきなりされば本書を紐解くもの、深く思いを其の精神に潜めて、まず赧然として己が邪見放逸に省み、平生の懈怠に愧じてただ願力の不思議に目醒め、称我名字の本誓に立ちかえりなば、貞信は永く世に生きて伝わるべきなり。        大正五年八月十一日                                   京都渉成園畔の僑居にて                                      編者誌す


         再序 本書さきに刊行せられて、広く世に読まれ、厚志の人の愛誦を得たり。爾来二十余年、その間、大戦を経て、古版すでに朽廃せり。法蔵館主其の版を新たにし、且つ拾遺増補せんを乞う。予老齢これを督し、且つ序言を再びするは、分外の慶びなり。   おもうに戦後の日本は、百事遷伝して、人心亦一変せり。されど真実のみは、永劫にも変わらず、貞信、女性にしてよく本願真実に徹到し、其の生活に念仏の救済を実証せり。これ愚痴にあらず、いわゆる広大勝解の人なり。されば「仏法は知りそうもなき者が知るぞ」と宣ひ、「尼入道のうれしやありがたやと喜ぶを見て人が信をとる」とは、まさに是にあり。まこと「後世を知るを智者とす」とはそれ貞信の如きをいふか。   特に当時に於ける教界の龍象、競いて心を磨けるもの、この物語に伝持せられるのみならず、幾多妙好人の群像悉く収めて本書にあり。その言々句々まさに是等人々の神に染めるもの、萬世にも朽ちざるなり。もしそれ実際理地には、一塵をも受ざれど、仏事門中には、一法をも捨てず言えり。真宗安心の歴史の流れは、香月院一蓮院により、否定の面は顕彰せられたれど、さらに圓乗院香山院等の伝えたる絶対肯定の面あり、貞信は当時の総会所で、清林寺通徳寺二師に深く私淑したるも、同じく当時示談方として御文安心を強調せられた順應寺大量師に触るるなきが如く、宮川妙忠尼と交わりを深うしても、南濱おかるを訪ねざりしものの如し。これ人々機縁まちまちなれば、心の傾き亦おのおの別なりといえども、苟も真実を求るに忠なるもの、その両端を叩いて中正を釆らざるべからず、予さきに『龍恩語録』の編あり、露命なほ枯草に止らば、他日亦『大量語録』を著し、世に問はんことを欲す。予にあってこれ火中より実を持ち出す思いに外ならざればなり。                       昭和二十五年八月二十二日       
                           秀道七十五翁識す      

例言
一、 本書は大正五年始めて刊行せられ、当時貞信の物語逸事等二百二條を録載せり。爾来二十余歳、今更に拾遺増補して二十三條を加え、再刊せしめたり。  

二、 再刊に当たりては、さらに内容を整理し、文献をも改修するが本意なれども、老後視力衰耗して、その労に堪えず、僅に仮名遣いを現代風に改め、各條票出位置を換えしめたるのみなり。  

三、 初刊の「謝言」に載せし如く、本書編集の資料は、主として相馬得恵氏から提供せられ、その他松澤祐然・同祐猛・柏樹徹・武田雷雄・小松原操子等の諸氏より聴ける所多し。初版刊行の後、野田たづ子・植村弥三吉諸氏よりも聴く所ありき。多くは物故せられしがここに過現の各位に対し謝意を表する  

四、 初刊に載せし写真念持仏五劫思惟の御像は、浄林寺経蔵安置の佛体にして磯長から御供の本尊は下新棔吉氏内佛に安置せられるものとのこと、福田見昌氏から注意せられ、尊像写真も恵贈あり、ただ遺憾ながら出版所の都合で、老尼の写真とともに割愛せり、ここに正誤し且つ感謝する。  

五、 所収の話材は、言い続ぎ語りつげる伝説で、必ずしも悉く正確を保しない。「物語」としては、歴史性よりは、宗教性を重んずる。                            
貞信尼物語    
                          大須賀秀道編  

一、 身命を顧みず 
  昔から求法のため己が身命を捨ててかかつたものは、随分婦人の中にも少なくはないが、それは多く聖道自力で修行する女であった。もしも自力の修行なら我身出離の一大事、不惜身命の思いで取りかかり、何もかも打ち捨ててしまうのが当然なれど、この他力浄土門で、聞法の為に一生の間生命がけで求めてつとめて止まなかった女がある、それは北越の貞信尼である。  

二、 生家    
 貞信尼は越後の国中蒲原ゴオリ新関村字下新本間新作の新宅に生る、呱々の声をあげたのは文政十二年八月十七日であった。父は徳兵衛といい、母の名はひいという。貞信の俗名は  ゆきというた。本家の本間氏は地方屈指の資産家であって、当主は新潟県の県会議長にもあげられ又県農会の副会長ともなられており、法主や御連枝の御下向の際にもお立ち寄りになるほどの名誉の家柄である。それで貞信の生まれたる新宅というも徳兵衛までに九代になっていて、なかなかの旧家であり、何不自由もなき家にあって幼きより貞信は自愛深き父母の手にて育て上げられたのであった。  

三、 遁世の動機    
 貞信がまだ幼少の頃であった、或夜のこと父母は貞信のすやすやと眠れる枕辺に蝋燭点してフトその横顔を眺め、「どうもこの子は貧相に生まれて来た、このように貧相ではこの子の生涯が案じられる」と嘆き語らうのを、貞信は幼心にも聞き込みて、その後永くこの事を忘れず、成長の後もいつもこれが心に懸かりて、もし嫁入りして子供でも出来たなら、親子路頭に迷うようになってはならぬ、我が身一人なれば飢え死にしても凍え死にしてもかまわぬからと、それより生涯独身にて終わらんとの決心をし、それが遁世の動機ともなつたということである。  

四、 法なくては生きじ    
 貞信が、自ら己が出離を求める為には、身命を惜しまずと決心したのは、まだ幼いときの事であった。その動機はといえば、幼年の頃に背に嬰児を負いて子守りをしつつ、お寺の御堂の縁で、障子越しに法話の声に耳を傾けていた。その法話の中に、    『法ありて死すとも、法なくては生きじ、法ありて死するは、衲種(?)懐にあり、法なくて死すれば沈迷長劫』という古徳の法語を委しく述べたので、それを聞ける彼女は幼き胸に刻みて忘れず、既に深く覚悟せる所があったとは、後年に自ら物語れる所である。

五、 破鏡の身    
 然るに十四歳の時に、フトした因縁あって父母の命ずるままに郷里より一里隔たれる五泉町の呉服屋某の家に嫁入ることとなった、定めし一時は鴛鴦の契りも睦まじき事であったろう。されど貞信が胸の奥には忘れんとしても忘れられぬ或物が既に刻みつけられていた、『法ありて死すとも法なくては生きじ』との覚悟は到底之が為に棄て去る事は出来なかった。彼女は世の常並みの妻女となり主婦となり母となって、うかうかと夢のような一生を終わらんには、あまりに強き自覚を持っていた、所謂己に眼醒めたる女であった。己が出離の為には身命をも惜しまじと決心せし彼女は、当時に在って嫁という型にはめられ人形のように取り扱われて、一生を終わることの運命に対し、また現に家庭にわだかまれる煩累に対し、夜な夜な眠られぬ程にうら若き心をいためたに相違いない。     終に貞信は日々神明に対して祈誓を籠めることとなった。『若しこの家に縁あるならば一生難のないようにして下され、若し縁なき身なれば早く早く離縁してくだされ』と、百日の間毎日参詣のあゆみを運び、満願の日には空さえ凍る越路の寒中に、冷水を浴び麻の着物一枚となって参詣せられた。これぞ神明の方便にや、貞信はそれより病の床につき、始終病身者となってしまうた、それで先方でも『末の見込みなし』と思いて、終に不縁となりて実家へ帰ることとなつたれば、貞信はこれぞなく大悲の御計らいと、それよりいよいよ終生独身にて聞法に心を傾けることとなったということである。  

六、 自ら剃髪す    
 貞信が剃髪したのは、十九歳の三月三日である、兼ねての望みであったが母親が不服で許さざりし所、其の日に両親は本家本間氏に説教あれば貞信を家に残して参詣せり、隣家の源太という十七歳の若者が将棋ささんとて貞信を訪れしに、貞信突然曰く『源太さ、わしや髪を切って尼となろうと思う』と、源太怪しみて『そんな馬鹿なこと言うものでない』と誡むれば、貞信気色を損じ二階へのぼりて下りざれば、源太怪しみて二階上がりみるに、手づから鋏にて髪の毛を半ばはさみ断っている、驚きて大音あげて留め、馳せて両親に告げに行きしあとに、貞信は半分斬った髪で其のまま隣村岡田村善精寺に行き住職義喚師に乞いて残れる髪を剃り落として夕方に帰宅した。  其の後は母の実家五十嵐甚蔵が貞信をつれて禅宗の庵に入れたれど一週間もいて帰宅し、両親にむかいて『どうぞ真宗の尼にしてください』と願うたということ、而して貞信の檀那寺は四ツ谷村浄林寺で、貞信という法名は同寺住職乞廣慧師の命ぜし所である。  

七、 上京して法を求む   
 初めは郷里にあって、有縁の知識に随い聞法の筵につらなっては、後生の大事に心をよせいたれど、いかで真の知識をもとめずば、此度の出離生死の疑いをはらしがたしと思い、それには京へ上がりて真の知識を求めんものと、幾度か父上に京都へ参詣の事をこえども、父上はうら若き女の身にて一人遠き旅路に上ること危うければとてなかなかに許したまわず、 又路用をもあたえたまわねど、明日も知れぬ生命何を捨ててもと思いつめし貞信の一念、 みすみす一大事の後生に悩みて吾家に居るべくもあらず、弘化四年十一月、終に意を決して僅かに二百文を所持し、身にみにくき粗服をつけしまま、ひそかに吾家をぬけ出てかよわき女の脚にふり積もれる白雪踏みわけつつ、はるばる京へ上ることとなった。これ貞信が  十九歳の時のことにて、それより七年の間、毎年必ず京都へ参詣せられた、其間には百日間も野宿ばかりして上京帰国したこともあった。  

八、 歯を抜いて形を毀つ    
 貞信二十六歳の時には、殊更に己が歯を悉皆抜き取ってしもうた。これはまだ若き身の独身生活せんに、うまれつき相応に容貌美しくて、男より思いなぞかけられんこといまわしければ、自ら形を毀ちみにくくなりて己が節操をたもたんためでもあったが、亦自己にとっては、かくもせば浮き浮きした心を離れて、いよいよ後生に大事やかかるべしと思ってのことであった。     今の世に、僅か一歯の虫食いにも気を痛め、黄金の義歯なぞする身の、徒らに世事に絆われて、出離の大事に心止まらぬこそ、げにはずかしきことではないか。  

九、「浮草を岸につなぐや蜘蛛の糸」   
 二十九歳の時に、江戸松本屋より貞信に『どうぞ隠居の世話をしてもらいたい』と相談あり、貞信承諾しければ、江戸より通し駕籠にて迎えに来たり、貞信は江戸へ出ることとなった。     当時、現如上人未だ新門様にて江戸の浅草御坊に居たまいしが、貞信いろいろとお世話申し上げ、御襦袢下帯等御洗濯申上ぐるに、『貞信が洗濯すると美しうなる』との仰せ、その筈の事、貞信はいつも新しう仕立てて献上していたのであった。然るに松本屋隠居の死後、主人耶蘇教に帰したれば、貞信それより松本屋に帰らず、再び京都に上った。     京都では鹿ケ谷に住して三年間念佛していたがそれより又帰国して三ヵ年の間、山に入り念佛していた。それは貞信の姉の縁付きいたる同国山崎の田代氏居宅の付近にある山で、そこに庵を結びて住んでいた。初めはほんの掘建ての柴の庵であったから、毎年一度づつ建て替えたが、其の後は大工の建てたる家に住まって念佛三昧に日を送ること四年間、即ち貞信が五十歳より五十六歳まで七ヵ年間、此の間は一日にただ蕎麦粉一合宛食べていた。  

十、 常に懐剣を離さず     
 貞信若年の時女の身にて一人旅したり、一人で居ることは甚だ危険なりとて、父母が固くいましめたれば、父母に向かい自ら誓いを立てて若し人より後ろ指さされるような浮名を立てることもあらば、直に首を渡すべしとて、常に懐剣を離さずに所持していた。若し人から難題を言われて危き折には、先ず自害して操を完うせんと決心したのであって、五十歳までは寸時も離さず懐剣を所持せられた、護身の為ではなく自殺の為の懐剣であった。

十一、京のところどころに     
 其れより五十九歳にて再び京に来たり、知恩院の徳林院に一年間住居し、此の間は米一合にうどん粉の四番粉を加えて食し、其れより歌の中の中山清閑寺に二三ヶ月、法福寺に一年、高台寺に一年、其れより東寺付近の在家に一年、その間は東寺と興正寺に日参し、其れから高台寺内の月真院に久しく隠れ棲み、七十歳の時に国元へ帰られた、即ち明治三十一年であった。  

十二、高台寺の隠棲     
 貞信が高台寺の月真院へ隠れるに就いて自ら口にしていた所は、『道傍に犬の子でも死んでると、見苦しいとて人がこれに菰をかぶせておくようなもので、わしも段々と邪見になって、この邪見が人に染ると悪いで、東山に他宗の菰をきて人に隠れて寝ているのである』というのであった。其時は郷里をブラリと立ち出て、全く世を隠れ京で静かに往生する覚悟であったと見え、郷里へすら音のたよりもせなかったので、貞信は不実な人であると腹立てた同行すらあった、其でよくよく親しき友でなくては己が居所を知らせず、常には 東洞院上数珠上ル永続講へ出てきては、訪ね来れる人々に会って仏法の物語していた。      月真院内の住居というも僅か三帖敷きほどの狭い炭部屋であって、三方は悉く壁で、一方のみ光線が入る、我知友が初めて訪ねて行きし時など、夏の頃なりければ、その室に小さい蚊帳の片はずし、奥の方に内佛が安置してあって、そこには朝顔の花のみ切ったのを佛器に入れて、子供のままごとのように並べて供えてある。入り口の辺りへ座らせられて、主の尼に向かえばこの暑さのみぎり襤褸の袷みたようなのを着て一方口から差し込む日影を浴びつつ、チンと座って南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏というている。『貞信さん、こんなところで暑くはございませんか』といえば、『ハイ南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏、あなた方はお暑うございますかいな』という、モウ恐れ入る外はなかったということである。  

十三、老後の帰郷     
 貞信はこの月真院で命終する覚悟でいたけれど、郷里の山崎の姉が逢いたい逢いたいと言うて来るので、明治三十一年に七十歳で帰国せられたが、生家の庭園内へ主屋から続きに四帖半の小室を建てて迎えられ、貞信はそこに長閑に念佛していられて、明治四十四年三月七日八十三歳で、美わしき往生を遂げられたのであった。  

十四、真の知識     
 貞信が京都にて御教化を蒙りしは香樹院師を初め、開華院師、威力院師、護法院師、法宣師等にて、かく広く其の頃の諸大徳に接して提撕を蒙りしことなるが、念佛一行に満足し、其の上にて定散心と奮闘して、晩年にいたり明信佛智の境に達した。殊に一蓮院秀存師に御縁厚く二十五歳のときに、師を真の知識とたのみしより、御存命の間は偏にその御教化を受けたこと八年間であった。

十五、一蓮院に対する恋慕渇仰     
 一蓮院師は、万延五年閏三月二十九日、京都高倉学寮にて遷化せられたのであるが、貞信は時に三十二歳にて、御往生の後七日ほどは日々慕わしさ懐かしさに、涙が止めどもなく流れてかわかなかったとのことである。人が一蓮院の事を何とか言い出しますと直に声を上げて泣き出された。まことに『盲人が杖を失うたような思いであった』と後からいつも話されたことである。      それで貞信は常に『一蓮院様の通りに聞かせて下さる御方があるならば、唐天竺までも尋ねて行きたい』と心がけていた。然るに在る時出羽の国に一蓮院師の通りに聞かせて下さる御方があると或る人から伝え聞きしたので、モウ御目にかかりとうて矢も盾もたまらず、京からはるばる越後路を経て、三百里もある所を女の脚で幾日となく歩いてわざわざ訪ねて行った。      かく三百里の道をも遠しとせずに、逢いたい逢いたいの一念ではるばる出羽の国まで尋ねて行き、さて其の方御目にかかってみれば何とその御僧は何でもない売談風の説教者であって、越後へも度々出張せられたことがあり、世間でじゅうにひとえとあだ名せられる程な評判なヤソシの御僧であった。実際貞信が明け暮れに思いこがれていた一蓮院師とは似ても似つかぬ方であったので、貞信はガッカリと力を落としてしもうた。無理もない、かかる場合に、誰だとて失望落魄せずにいられようか何とかしてモウ一度御目にかかりたいとおもうても、日本国中何所にも一蓮院師のおられようはずもなく、かねの草鞋で尋ねてあるいたとて、一蓮院師に似た方とても、尋ね得られるめあてはない、さればとてわざわざ三百里も遠方まで尋ねて行って、あわれなんだといってミスミス引き返して戻られるものでない。帰るに帰られず行くに行くべきところもない。ああ貞信は如何にしたであろうか。  

十六、尾花澤の霊佛     
 其時、貞信は力おとしてとほうに暮れてしもうたが、いつか彼の胸に一すじの光明がひらめいたと見えて、頻りと『此辺何所ぞに霊仏は在らさぬか』『尊き御仏の安置せられし御寺はなきか』と人々に聞きあわせたというのであった。聞けば尾花澤というところに、柴崎弥左衛門といえる大家がある、此人の隠居所を庵寺として、御本尊は源信和尚の  御作佛の阿弥陀如来にて、村に死人ある度毎に、御身に汗を流し給い、其他霊験あらたかな如来様とのこと、貞信は『それならば』とまたも疲れた脚を引きつつ、十三里も隔つ尾花澤に往き、その庵寺に詣でて、『暫くの間、ここで静かに念佛申させて頂きたい』と頼みければ『志のままに』と許されたので、貞信はこの庵寺でお給仕の尼僧と両人にてともに念佛して居られたが、毎夜裸体になり釣瓶に水三杯宛かかりて『どうぞ未来助かる事を聞かせて下され』と祈願をこめければ、おりおり夢にもあらず幻にもあらず、赫奕と光明かがやきて大きな御姿の如来様を拝んだと申すことである。  

十七、「ただ念佛せよ助かるぞ」     
 さて其年も暮れて、翌年の元日の夜の夢に何方よりか人が来て、貞信に向かい『どうぞ吾家へ来て、未来助かる謂れを聞かせて下され』とたのむゆえ、その人と一緒に往ったけれど、『ああ何と聞かしてやってよかろうか』と思案していたれば、如来様が三尺程高いところにいつもの御姿にて現れ出でさせ給いて、『ただ念佛すれば助かるというて聞かせよ、それも大儀で称えられぬとなら、おぬしが称えて聞かせよそれを聞いて往生するぞ』と告げ給う。『アラ嬉や』と思う中にやがて夢は覚めてしもうたが、貞信はどうも不思議で不思議でならぬ。      あくれば二日、夜のあけてからも其事を思うては喜んでいた所へ近所のものが来て『越後の尼さんに来て頂きたい』と頼みに見えた。夢のうちの事を思い合わせつつ直に往ってみたれば、病人があってそれに聞かせてくれよとのこと、ますます不思議に感じて前夜の如来様のお告げの通り『ただ念佛せよ助かるぞ』というて聞かせたれば、病人の申すよう、『私は悪い事という悪い事はみんなしつくして、人から悪事の上前を取って、悪い事をお上に告げては金を取り、何でも悪いことはみなみな致したものでござる』というゆえに、貞信言うよう、『その悪い事を悪いと気づき、最早あやまって改めたら、モウ憚ることなく念佛申せ、念佛申せば助かるぞ』と聞かせたれば、そのもの大に喜んで念佛申されたとの事である。庵に帰って後で聞けばそれは或る部落の人であった、又翌日、『今一度来て頂きたい、御目にかかり御礼を申上げたい』とて頼みに来たと申すこと。貞信は此時より人に勧めるに、只御念佛一つ勧めるに更に憚りなくなったと、自ら語られたことで、時に貞信は齢三十九歳であった。  

十八、香樹院師の観察      貞信、香樹院師に御目にかかる度毎に『念佛申せ 念佛申せ』と仰せらるるので、或時『念佛申せとの仰せは聞かいでも、念佛は申しているので、チト有り難い事を聞かせて頂きたいもの』と心に思いつつ御前へ伺候した。      香樹院師、その心を見ぬかせられてか、仰せに『おぬしが何程聞きたいと思うても外からの碍りと内からの碍りと、無量の碍りがあって聞こえぬのじゃ。念佛申せばその碍りがなくなるでそれで俺が念佛申せというのじゃわい』と仰せられたので貞信は師の鋭きめがねに胸に釘うたたるる思いして、恐れ入ったとのことである。  

十九、「内で念佛居さっしゃれ」     
 一蓮院師、或時夜中に香樹院師の所におい出なされたれば、貞信も何ぞお聴かせに預かろうとコッソリ後からついてゆかれた。      一蓮院師申上げるよう『和上、お聖教の御文面から窺えば明信佛智と明かに預けますけれども、私の腹にとりましては、少しも明にござりませぬ』と申上げたれば、香樹院師の仰せに『そうじゃでそうじゃでお前よそを聞いて歩かずと内で念佛申して居さっしゃれ』 との御授け、此お話を貞信は襖の外で盗み聴きしていられた。     其後一蓮院師、貞信に対して『貞信貞信、香樹院師なんどの云われたお言葉というものは、タッタ一言でも広大なことじゃぞ』と仰せられるので、『如何なる仰せでござります』 と申上げたれば、『そうじゃ、わしが或時に不審があって聞きに往ったら、「お前余所を聞い てあるかずに、内で念佛申して居さっしゃれ」と仰せになったが、其時には香樹院は情な い御方じゃ、折角聞きに来たものを懇ろに聞かしてくれたらよさそうなものに、あまりに つれない御方じゃと恨んだことだが、今思うて見ればそうではなかった、如来様が助けて 下さるるので、私は念佛申すばかりであったわい』と仰せられたとのこと、貞信の物語で あった。  

二十、他への意見できない我身の懺悔じゃ     
 貞信、或時『お聞かせを蒙るには、叱られねば徳が取られぬぞ』と人から聞いて、一蓮院師様に叱られたいと思うて、ワザと驕慢の事を述べて、『私はモウ善知識の御化導を踏台にして、如来様の頭の上にのぼるような聴聞でござりまする』と申上げた。      一蓮院師、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念佛なされつつ貞信の顔の穴のあく程に見つめてござり、落涙しながら『そういう者があるゆえに五劫の間御思案を下されたかいのう』又も暫く見つめてござって涙と共に『そういう者があるゆえに兆載永劫の間御苦労を下されたかいのう』との仰せに、貞信余り余りの有り難さに胸の迫る思いであった。一蓮院師は更に、『これは他への意見ではない、我身の懺悔じゃが、わしは、昔は鼠色の衣を着て日に二食で二萬三萬と日課をくる人を見るとうらやましかった、同じ出家でありながら、あんな殊勝な日暮をなさる御方もあるのに、わしは浅間しき日送りをすると思えば、なさけなかったが、今思うて見ればそうではなかった、わしもあのような殊勝な姿や殊勝な心があったりしたら、その殊勝な姿をたのんだり、殊勝な心をあてにして、如来様をたのままいものを、姿にも心にもたのみどころが何もないで、如来様をたのむばっかりで、わしが一番しあわせものじゃと思う』と仰せられたれば、貞信は今叱られることも徳を取ることも打ち忘れて『そういうお慈悲でござりますか、そういうお慈悲でござりますか』と感涙畳に浮かぶほどであった。それより一入一蓮院師を真の知識としてお慕い申上げたとのことである。  

二十一、邪見も驕慢も其まま佛法      
 或歳、一蓮院師が越後へ下向せられし時、御法話の終に、『わしが此国へ来たに就いては、御一同に頼みがあるで、どうか聞いて貰いたい。それは外ではない、どうか是からわしの帰ったあとも、銘々に手のまい足のふむ所を悉く佛法になってひぐらしをして貰いたい、これが今度わしが此国へ来て御一同へのたのみである』と懇ろに仰せられた。       法話の果てて後に、貞信は直に御座敷へ罷り出て、御礼を申上げいかにも当惑の面持ちにて『只今の御聞かせ、手のまい足のふむ所を喜び喜び佛法三昧になりてひぐらしをせよとの仰せなれど、此貞信は日夜手のまい足のふむ所は、邪見と驕慢とばかりでござります。とても佛法三昧の生活など出来ませぬが如何に致しましょう』とお尋ね申した。       其時一蓮院師の仰せに『邪見と驕慢とは善いものではなけれどもそれを止めてからなら聖道門じゃ、今は邪見も驕慢も止めてからではない、邪見が起こったら南無阿弥陀仏、驕慢が起こったら南無阿弥陀仏と喜んだら、直に佛法になろうがいの』と諭されたしと。  

二十二、御報謝まで楽になっては  
 或時、貞信、一蓮院師の前に出て申上るよう『おいおい聞かせて頂きまするほど楽なことでござります』と。       其時、師の仰せに『そうじゃ、助けて下さることは如来様が助けて下さるるで楽なことじゃけれどもなあ御報謝まで楽になってはならぬ程に、御報謝は誓いを立ててきばるのじゃほどに、何でもオノレヤレと思うてきばるのじゃ』とのおいましめであったと。  

二十三、理屈に落ちるな
 一蓮院師、或時の仰せに『たのむがこうじゃ信ずるがこうじゃとアンマリ言うて却って理屈に落ちることが出来る。如来様が助けて下さるると喜ぶのが、それがイッチ有り難いぞえ』と。  

二十四、『歎異抄』に「本願にほこる心のあらんにつけてこそ他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ」  
 又或時、貞信に対しての仰せに『本願にほこる程に信じてみたいものじゃ』と。  

二十五、自身は現にこれ
 又或日シミジミと述懐したまうよう『他のことはこうでもあろうかと察して見る位じゃが手前のことはよう知っているで、如来様にお恥ずかしい』と。  

二十六、手柄を弥陀に
 或時の御教化に『どうもなられもせぬが、微塵ほどでもこうなったということがあれば、他方は立たぬ、其まま助けられて永劫の手柄を此の弥陀にさせてくれよと如来様は仰せられるぞ』と。  

二十七、難儀させる為ではない
 又のお聞かせに『如来様が己をたのめたのめと仰せらるるは、助けとうて助けとうてたまらぬのじゃ、助けたいが御胸一杯なれども、それがどうしても衆生の心に通らぬ故に、それを徹そう為に、己をたのめと仰せらるるのじゃ』とくれぐれも仰せられしと。

二十八、気がすまぬでいやいや参る
 或朝、御本山の晨朝に、毎朝見える貞信が参詣の姿見えざりしかば、一蓮院師は案じて帰りに貞信の宿へ立寄らせられた。其時貞信『今朝は御本山へ参詣懈怠いたしました』と申上げたれば、師の仰せに『わしは気が済まぬで参るのじゃ、御恩がとうとうてまいるならよけれども、気済ましのような参詣じゃ』と述懐したまいつつ、ほろほろと落涙せられしとぞ。  

二十九、信心の奥の手
 貞信、或時平生のお聞かせの外になんぞおく深いことでもないかと思って、一蓮院師に『どうぞ信心の奥の手を聞かせて頂きたい』と乞うたれば、師の仰せに『信心の奥の手とて外にはない、ただこのままながらの御助けじゃ』と。  

三十、二種深信
 又の時、貞信は『どうぞ二種深信の思し召しをお聞かせくだされ』とねがいたるに、師のたまわく『計らい止めたが器の深信、弥陀をたのむが法の深信、ただ助けて下さる事を喜ぶばかりじゃわいの』と。  

三十一、助け給えの解  
 一蓮院師、当時講者として名誉なる江戸浅草別院へ御出張の事が何かの故障で中止となれる時、貞信に対して仰せられるよう『江戸へ出張を命ぜられたが、ツイ邪魔がはいってやめになった、そのかわりに善いことを見出した』と、貞信『それは何でござります、お聞かせください』と申上げたれば『そうじゃ、御聖教に助け給えとあるは、お助けに邪魔をせぬことじゃとお知らせくださった、有難いなあ』と仰せられた。  

三十二、日に日に緊張させて
 貞信『明日は三河へ参りまする』と、お暇乞いに参った。  其時師の仰せに『道中するには心得がある、一丁往ったら死ぬかと思え、二丁往ったら死ぬかと思え、とかく長綱張ると鷹揚になる、イクラ力の強い相撲取りでも、二間や三間の所に綱を引くとタルミが来る、一尺か二尺の綱は子供でもタルミはこぬぞや』ともおいましめであった。  

三十三、宿縁有り無し  
 或時、師の御教化に『目の形もなければ鼻の形もなく、耳の形もなくヤケポタみるような罪人を御膝の上に抱き上げさせられて、悲しかろうがこらえてくらせ、あつかろうがこらえてくらせ、弥陀の正覚取った其時は、汝を先駆けに助けてやるほどにと仰せられては、血の涙をホロリホロリとおこぼし遊ばされた。其涙のかかった衆生が弥陀の本 願に御縁があるのじゃぞよ』と、これは貞信がいつも涙ながらに物語る御教化の言葉である。  

三十四、「親鸞六十に及び候へども自身発起して一遍の念佛にても今日まで称えたるを待たらず」
 又の時の御教化に、『悪人女人其ままで助けて下さるるということを聞かせて貰うた上からは、有難うないの嬉うないのと言うて居られる時節ではない。真実の親様が我等を待ちかねさせられて、黄金の蓮台をゆるぎ出でさせられ、極楽の東門に立ちかかり、正覚大音響流十方の御声で、己をたのめ必ず助けてやるほどにと、喚んで下さるる、其お呼び声が響きあらわれて、称えらるるのじゃほどに』と。  

三十五、逃げようがない  
 一蓮院師、或時貞信に対しての仰せに『どうかなれとおっしゃったらなられませぬと逃げようもあろうが、其ままと仰せらるるに逃げようはないではないか』と。  

三十六、大学者でも知られぬ  
 又の仰せに『わしは是まで骨折って聞いたが何を聞いたやらと思うてみれば、どうもなるのではなかった、如来様が助けて下さるるということだけ、ようよう聞いた、是は三国にひびきわたる程の大学者でも知られぬことじゃぞや』と。  

三十七、?啄同時  
 又の時の仰せに『如来様が助けて下さるる時、助けてくださるぞと如来様がたのまれる。御助けにあずかったので、助けて下さると言うことが知れたのじゃぞ』と。  

三十八、一念に前後なし
 貞信に対して又の仰せに『如来様が助けて下さるると言うことだけ聞こえたら、モウ其れでよいのじゃ、あともなければ、先もないぞよ』と。  

三十九、「帰命とは本願招喚の勅命也」
 或時の御教化に『仰せだけで安心してしまえ、仰せを聞いて我機へ戻して安心しようと思うは、深くたのむではない、仰せだけで安心してしまうが深くたのむじゃ』と。  

四十、弥陀をたのみ切った腹でなくては言われぬ言葉
 貞信三河より帰京して早速に伺い申せし時、一蓮院師お歓びにて『三河から帰ったか、何ぞ土産があろう、三河の土産を聞かせて呉れよ』との仰せに、貞信こたえて『或人が香月院様に、たとい天が地となり地が天となるとも御助けに間違いないと頂き上げますると申上げたれば、香月院様の仰せに、それほど丈夫でのうても御助けに間違いないぞやとのお聞かせでござりましたとこういう話を聞きました』と申上げたれば、一蓮院師『今一度聞かせて呉れよ』との仰せに、貞信前の通りに繰り返して申上げたれば猶も『モウ一度聞かせて呉れよ』と三度ほどお聞きになり、つくづく感じ入られた面持ちにて『ああ香月院などの言われた詞というものはタッタ一言なれども、弥陀をたのみ切った腹から出なければ言われぬ詞じゃぞや』と仰せられた。       其れについて貞信も亦『一蓮院様へ何度も聞かせる様に思うたらそうでのうて、私に此御詞を味わわせるために、かく何邊ものべさせて下されたのであったか』と深くよろこばれけるとぞ。  

四十一、骨折りどころ  
 貞信、或日一蓮院師に対して、我が心のあさましくて仕様のないことを申上げた。 其時師の仰せに『如来様はそういうものを助けるが至って得手じゃと仰せらるる。相撲取りでも、二つ三つの子供を負かしても、手柄にはならぬ、関取をなげればこそ手柄じゃ、心の仕様のないことに骨折る人はあれども、御恩に対して骨折る人は少ないものじゃ』と。  

四十二、摂取  
 貞信又の時、師に対して申し上げるよう『私はこんなことではこんなことではと逃げるような心でござります』と。師の仰せに『如来様はそれでもそれでもと追いかけて下さるるわいのう』と。  

四十三、聴聞育ちより親様育ちへ
 一蓮院師、或日の仰せに『貞信貞信不審が起こったらモウ余所を聴きに歩かずと、御内佛の戸をあけて、こんなものをどうしましょうとお尋ね申せ、きっと助けてやると仰せらるるぞ』と。  

四十四、従順   
 師、常に貞信に対しての仰せは『したがい習え したがい習え』ということであったと、それでも貞信も常に『何事も従順にせよ、娑婆のことまで従順になってこそ、如来様の仰せがすなおに受けられる』と人に勧められた。  

四十五、「佛法は無我にて候」
 師、いつもいつも『負けることに骨折れよ』と仰せられ、『人に勝とうとするは驕慢なり、負けようとするは佛法なり』と諭された。    

四十六、證誠の舌  
 師、貞信に対して『こなたは何と思うているか、私は御殿に参る度毎に、御庭の白洲に敷ける砂を見て、此砂の数だけでもおびただしいことなるに、恒河砂の砂の数ほどに仏様が、念佛申す者が地獄へ落ちたならば、我等が舌は腐って地に落ちるであろうとの御誓いなれば、舌を拾うたら疑うがよいぞえ』と仰せられしと。  

四十七、参る姿、堕ちる姿   
 又貞信への御詞に、『貞信、向こうを眺めるは極楽へ参る姿、こちらは眺めるは地獄へ行く姿じゃぞ』と。  

四十八、着物は箪笥へ      
 一蓮院師、或時の御教化に『着物は箪笥へ容れてある、蒲団は長持に容れてある。其れを着物を探すに長持を開けて、、蒲団を出したり入れたり何遍してみても長持から着物は出ぬ。箪笥を開ければ直に出る。この機を開けて見れば、落ちそうな所ばかり、南無阿弥陀仏の中開けて見れば、助かりそうなところばかりじゃ』と。  

四十九、「堤燈につりがねよりもつり合わぬちりの浮世に後世の大山」      
 又の御詞に『千両の無盡金が追付け取れると思うたら、二十四文の借金は苦にはなるまい、この娑婆は二十四文じゃぞや』と。  

五十、孝子の飴、盗跖の飴      
 或時、貞信に対して『貞信、おまいはヅシというものを知っているか、あれは昔慈悲ある人が、寒中に魚を暖めてやるためにこしらえた道具であったそうだが、末世になったれば、魚の命を取る道具になってしまうた』と仰せられたれば、貞信承りて申上げるよう、『私は善い善知識に逢わせて頂いたを、驕慢の種に致しますのでござります』と。  

五十一、助かるつもりは驕慢に紛れ易し      
 或時のお訊ねに『貞信、おまいは助かるつもりか、助けられるつもりか』と。貞信こたえて『私、何の助かる甲斐性がござりましょう』と。其時師の仰せに『助けらるるつもりなら、御恩があるぞい』と、ただ助けらるるつもりでいて、御恩を忘れて暮らすもの、現に世間に多きことなるべし。  

五十二、何れも御親切と受けよ      
 貞信或日、師に対して聴聞の心得を問いかけるに師は『易う勧めて下さるる人があったら、御誓いそのままじゃと思うて頂け、むつかしう勧める人があったら、聞き難い御法ということを知らせてくださるると思うて聴聞すれば、どちらもありがたいぞえ』戸仰せられた。       又の仰せに『三人寄れば必ず我師あり、善き人を見ては其人に見習おうと思え、悪い人を見ては、ああいうことではないと思えばどちらも師匠じゃ』と。  

五十三、心偏に病子に重し      
 或時の仰せに『貞信貞信坊主の中でも、香樹院なんどは殊勝な人じゃ、それから見ると己は浅ましい、それでも如来様に問うてみれば、チョッとも不審はない。殊勝な香樹院師が可愛うござりますかと伺えば、鈍なわたしを一番可愛がって下さるると思えば、チョッとも不審はないぞえ』と。  

五十四、薄紙一重が脱れたら      
 貞信、或日師に対して『私の胸のうちは薄紙一重がとれかねまして』と申上げたれば、師の仰せに『誰も、これまでは仕終せたがここで薄紙一重が脱れたと思うが、そこが自力と他力のわかれ目じゃ、助かる身になって助かるではない、助かれぬものを如来様が助けて下さるるのじゃ』と。  

五十五、泰山に躓かず小石に躓く      
 或時の仰せに『皆が雑行や雑修があっては往生が出来まいかと案ずるけれども、心得顔や物知り顔と仰せらるるのは知らぬ顔じゃ』と。  

五十六、五劫思惟の仕直しよ      
 貞信、或時『私は殊勝な心がほしうてなりませぬが』と申上げたれば、師の仰せに『如来様が、五劫の思案を己に仕直しをせよというのかと仰せらるるぞ』との御一言に、貞信恐れ入りたりと。  

五十七、今も必堕無間の身を      
 又或時に貞信『ヒョット落ちたらどうしましょう』とお尋ねしたれば、其時の仰せに『ヒョット所ではない、必ず落ちるものを如来様が必ず助けてやろうと仰せらるるのじゃわい』と。  

五十八、若し生きたら      
 貞信又『若し此なり死んだらどうしましょう』と申上げたれば、師の仰せに『若しというはソンナ所につけるのではない、若し生きたらという所につける詞じゃ』と。      

五十九、偽作と言う銘      
 貞信或日一連院師に対し『同じくお聴せに頂けるなら、ドウゾ御正意のところを』と願いたれば、其時師は直に『御正意なぞが聴きたいとは』と仰せになって、暫く貞信の顔を見守りつつ『其れなら言うて聞かそう。或者が高い代償で茶湯茶碗を買うた。名人の作であると言う。されど真物か偽作かが疑わるるので、わざわざ其名人の所へ尋ねて往ってそれを見せた。名人これを見ていうよう、これは私が造ったものではない、併し私が造ったものではないという銘を入れてあげましょうと、これは自作でない多作なりという銘を入れてくれた。偽作は偽作なれど偽作という銘が入りたれば、其茶碗が真物よりも価値のあるものになったという話があるからな』と諭されたしと。  

六十、一蓮院師の臨終      
 貞信、或同行に語るよう、『御講師様の御臨終に信次郎さんは背よりおかかえ申し、貞信は御手を持ちて、何かおたずねしようかと思うたが、声が喉へつまりて一言も出ず、只涙ばかりでございました。私の泪が御講師様の御手にかかりますと、パチリと御眼を見開き、あたりを見廻しなされ、「如来様の御慈悲で、又逢う国があるぞや」と仰せられました。おかくれの後、日本国中にワシに聞かせて下さる御方はない、若しあったなら唐天竺までも行こうものと、七日七夜泣き明かした、食わず寝ずになきましたが、それでも涙はつきずに泣いておりました、今から思いますと、あの涙はようもつきなかったことよと思われます』と、貞信は一蓮院師の御臨終のことを話すにはポロポロと涙を流すのが常であった。  

六十一、お稚児様の夢      
 貞信又曰く『其時私の前へきれいなお稚児様がお立ちになって、何故そんなに悲しむのじゃ、一蓮院が居らずともワシが聞かせてやる ついて来いと仰せられ、御後を慕い行きました。余り疲れました故モウ何里程来ましたとお尋ねしましたところ、仰せに、七里程とのこと。私は七里位の道に疲れたことはありません、余り疲れました故ドウゾ此処にてお聞かせくださいませと申上げたるに、仰せに時と所と時節がある故今少し来いとの仰せ、それで暫く行きますと、大きな苔のむした高座の如き物がありました。お稚児さまは真ん中に向き直りなされて、法然様は南無阿弥陀仏という御文を御覧なさる度毎に、御落涙遊ばしたはどういう訳か知っているかと、私は何も存じませぬと申しました。するとお稚児様は、それなら言うて聴かせよう南無阿弥陀仏はそのまま助けてやるというお言葉じゃと仰せられました。余り有難さに泣いていますと、お逮夜の鐘に夢覚めまして、御本堂へお参りいたしましたところ、御新門様の御姿が夢の裏のお稚児様によく似てお出でなさるる故、恐れ多い事ながら、よく御顔を拝み上げますと、お稚児様と同じ御顔で御出でなさいました。其故御門跡様はいよいよ仏様の御再来と喜びました。どなたが何と言うてもわしは行き仏様と思うてお恭い申します。私は御新門様御誕生ましまさぬ時から御傍にはべれども、恐れ多いこと故御顔を拝みしことなく、此時始めてシミジミと拝みました。』と語られしとぞ。  

六十二、手を握られたのじゃ      
 香樹院師、或時貞信に対しての仰せに、『少しでも後生大事ということの思い知られて、念佛申すようになったのは、如来様に手を握られたのじゃぞよ』と。  

六十三、悪魔、善知識      
 又の仰せに『如何なる善人でも念佛申す妨げになるなら悪魔じゃと思え、如何なる悪人でも念佛申す助けになるならば、善知識じゃと思え』と。  

六十四、「聴聞に心を入れ候はば仏の御慈悲にて候間」      
 香樹院師又或時の仰せに『貞信、ただ精出して聴聞せよ、精出して聞き聞きすると、訳の分からぬなりに、助けて下さるるということに訳が分かるからな』と。  

六十五、一切の聖教、六字を信ぜしめんが為なり      
 又の時の仰せに『貞信、わしはな京に三百函 国に三百函、都合六百函の書物を見あかした、其れ程の書物を見あかしたけれども、ただ念佛して助けられると言うて聞かする外はないぞよ』と。  

六十六、貧人の宝を得たる心で      
 貞信はいつでも人にむかってはこのようなことをいうていた。『ああ申し訳がない、うかうか日暮してお念佛を忘れているのは、小判を道傍へまきちらし、それを拾わずに、閑暇な時に又拾おうと思う様なものじゃ』と。  

六十七、和歌      
 貞信は時々事に触れては、御恩の尊さを三十一文字に寄せて自らなぐさまれけるが、其中に、  
 何ゆゑに三世のほとけはもろともに 御舌をのべて誓ひますべし        
 世を渡る橋も渡らで我はただ 六字の中に寝たりおきたり        
 露ほども佛意にかなふ身にしあれば 證も誓いもいらまじものを        
 聞くだにも罪ほろぶなる六の字を こころのままに称ふうれしさ        
 西へ行く御法をすてて東路へ 帰る我が身を迎へとるとは      という如きいずれも優に尊き歌である。     

六十八、出入りの息を念佛に      
 貞信、若き時、香樹院師に、『お念佛とはどれだけ称えたらようござります』とお尋ね申上げたれば、師の仰せに『無駄息つかずに、出入りの息を念佛にいたせ』と仰せられたれば、それより貞信はどうか寝ずにおりたい、食べずにおりたいと思うて、一生懸命で念佛の稽古をしたと自ら語られしとぞ。       貞信、後に或人へ此事を書き送りて『其時の思ひには寝ずにもおりたい、食はずにもおりたいとけいこいたしましたが、一つとしてまにあふものはございません、邪見放逸のなりで如来様が助けてくださるぞとやうやうと頂きまして、ちぎれちぎれの御念佛を申すばかりなれば、御遠方の所わざわざ尋ね下されても、何の所詮もなきことかと思ひます』云々と書き添えてあった。  

六十九、妙善尼      
 これは貞信が越後高田の妙善尼という厚信な尼から聴いた話であるとて、時々物語られたことである。その妙善尼というは、更に己が信仰の告白したることもなく、常に間断なく念佛せられるばかりであった。あおこで尼講中の同行ども言うように、『妙善さんは西山鎮西のお念佛ゆえ御開山の御供は出来ぬぞ』と、妙善はそれを聞いて大きに心配して、亡き泣き寝入りたりけるに半夜に『妙善妙善』と呼ぶ声があるゆえ目を醒まして見れば、まくらもとに丈六の如来様が現れて宣うようには、『我名を称うる者を迎えとろうとは弥陀の誓いじゃで、おぬしが念佛申そうと思い立った其時に、極楽は大きな蓮華が咲いて待っておるで安心して念佛申されよ』との御告げであった、此様な御告げを蒙ること、三晩にも及びたれば、夫れから人が何を言うても頓着せず、いよいよ精進に念佛してめでたく往生したということであると。  

七十、宮川の妙忠尼      
 江州長濱より半里程なる宮川といえる所に、其頃妙忠尼という至って厚信な老女があった。   妙忠尼、同じ村のおとしという婦人に、どうか信心が得させたいと、三ヶ年が間も毎日毎日其女の許へ通うた。あまりしつこく通い来るので、其家の主人がうるさく感じて、妙忠尼が入ることの出来ぬように、家の門へ垣を結うたれば、それでも尼は訪れ来って『これが黒鐡の柵というものかいな』とて、家のうしろへ廻って其婦人に遭うたとのことである。  

七十一、八木濱の嘉右衛門     
 其頃に当たって、同じ長濱の近在に八木濱というがあって、そこに嘉右衛門という信者がいた、只今でも嘉右衛門さんといえば、名高い厚信の人として其界隈に名が残ってる。       然るにこの嘉右衛門が、妙忠尼を慕いて、どうか一度聞かせて貰いたいものであると、たびたび尋ねて行ったけれども尼はいつも『おそろしいおそろしい』と言うてはかくれてしまう、どうしても会おうとしない。そこで嘉右衛門は、或日妙忠尼の居る所へ突然往きおうて、『お前は俺がおそろしいおそろしいと言うて、いつたずねても会うては呉れぬが、何がそのように恐ろしいのであるか』と直と手元へきりこんでたずねた。其時妙忠こたえて『そうじゃ、嘉右衛門さん、おまえは聴聞育ち、私は親様育ちありがたいこと南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と、ただそれだけの答えであったけれども、嘉右衛門はこの一言がグッと胸にこたえて食べていたものを悉くその場ではいてしもうたとある。       其後嘉右衛門は再びたずねゆきて、『ホンに貴女が聞かせて下さったればこそ、このように助けられました』と礼をのべましたところ、尼は猶も『おまえはまだ臭みが抜けませぬぞ』と言いけるに、其時も嘉右衛門はまた嘔吐したとのことである。  

七十二、南無阿弥陀仏様が極楽へ連れて行って下さるる      
 妙忠尼は是程な信者であったれば、貞信尼も深く此尼の信徳に帰していた。然るに此の妙忠尼が常に言うていた言葉は『誰が何と言うてもかと言うても、南無阿弥陀仏様が極楽様へつれて往って下さるる、これだけを忘れなよ』というのであった。同村のおとしという婦人に、三ヶ年間毎日毎日通うて話したのも外のことでない、ただ弧の詞だけ、同じこと一つ言うては帰ったのであったとのこと。       貞信尼も此の『誰が何と言うてもかと言うても、南無阿弥陀仏様が極楽様へつれて往って下さるる』という妙忠尼の詞を生涯自分にも喜ばれ、又人にも常に此の詞を言い聞かせ、書面を出すにも必ず此の詞を其中へしたためられた、又命終前に佛法の最後の物語をせられし時も、亦此の言葉を述べられたということである。  

七十三、おすえ蘇生物語      
 江州の高宮におすえという若き女あり、常に貞信の教を受けて念佛を喜びけるが、五月十二日に死して極楽へ往生し、それより蘇生せし時の物語に『貞信さんが、いつでも南無阿弥陀仏様が極楽様へつれて往って下される、これだけを忘れなよと教えて下されたが、まことに言うていられた通りであった。お浄土はよいところで、かあさんも往ってござる、おばあさんもおいで、ねいさんもおいでおいで おいでおいで』と申すばかりにて、七日間永らえて命終せられたということもあった。  

七十四、婆々にはとうとう信心を得させて下されずに      
 命忠尼も元より目出たき往生を遂げられたことであったが、その臨終間近くなりて『わしは生涯信心が得たい信心が得たいと骨折ったが、親様は偉い御方で、婆々にはとうとう信心を得させて下されずに南無阿弥陀仏様を下さることにしておくれた』と言うて、深く御恩の程を歓ばれたということであるが、此の『信心を得させては下さらねど、南無阿弥陀仏様を下さることにしておくれた』とは味わえば味わうほど深い深い味の出る詞ではないか。  

七十五、木ノ濱の新七      
 貞信の物語に、江州木ノ濱の新七の所に、或人尋ね行きければ、『おまえは遠方からわざわざ尋ねて来て呉れたが、此の新七には変わった心があるかと思うて来たであろうが、わしじゃと云うて変わった心はないわいな、おまえの心とわしの心と一寸も変わりはないわいな、おまえのその心がわからなんだら何遍でも相談に来ておくれ、その心が変わったらわしは用事がないで来ておくれなよ、おまえのその心なりでよいのじゃけれどそれを得心してくれぬ丈が不足じゃわいな、此の新七は必堕無間と云う大きな高札おいねて頭のあがる身ではないわいな、おまえやわしのような片輪な者は、とても有難い信者にはなられぬで、このまま助けてもろうまいが、うまいことじゃうまいことじゃうまい身にしてもろうたわいな、なにはゆずりても御助け一つはゆずられぬ云々』といいけるとぞ。  

七十六、俗事に通ず      
 貞信は固より恬淡寡欲にして、少欲知足の金言に叶い、金銭をむさぼるような心のなきことは勿論、身を捨てて後生を願い、無我になりて御慈悲を喜びけるも、決して彼の愚昧にして世上のことに何の心得もなき同行とは異なり、俗世間のことにもよく通じいたり、同じ佛法仲間のうちに、くらしむき不如意であるとか又は借銭でもあるもの、貞信に相談をかける時には、貞信は吾家の事のように、一々考えてはその方策を立て、かくかくの仕法にしたがよいと新たな商法をおしえてやれることもありけるとぞ。  

七十七、人に遠慮気兼ねせず      
 又気分も快活にして人に対して隔て心を持ったり遠慮するようなことはなく、高台寺におりしときも、本山へ参詣していて昼飯時にでもなれば、知れる六条の家に行きて直に『お板を一膳よんで下されや』とつかつかと入り来るを常とし、『また遠慮せぬ婆がきたぞ』と言われる程なりしとぞ。されば人から与えるものはこころよく之を貰い受け、他人に用立つものは直に之を人に与え誰にも用立たぬものだけ自分に用ゆるという風であった。又施主の目の前にて其品を直に与えるが常であって、或知友が永続講で遭いたる時も今貰うたばかりの真綿を呉れるので、辞退したれば『あなたは佛法の御用に立つ大事の身、お弱いでどうかこれを召して、身体を大事にしてくだされや』と言いつつ、かたはらにいたる施主のほうをかえりみて、『そうじゃねよいね』と言える姿態の無我なりしこと、今も思い出されると語られた。  

七十八、真如堂の夢      
 貞信、或時真如堂にて昼中うたた寝していた時に、そこへ小僧の如き人来たりて自分の手を曳いてつれて行く、そして七里位も行ったと思うたれば、白洲のような広い所に、二枚敷き位の石あり、其上に人が乗っていて『法然上人は佛という字を拝む毎に落涙なされたと言うがどういう訳か知っておるか』との仰せ、貞信『存知ませぬ』と申上げたれば、其方の仰せに『佛という字は汝を助けると言う字じゃ、菩薩では助けたくても助けることが出来ぬ依って菩薩様の座れる蓮華は少し萎んでおる、佛様の蓮華は皆開いておるのじゃ』と聞かせられて、なおも『此の事を人に言うなよ、人に言うと謗るので徳が少のうなる必ず言うなよ』と仰せられた。夢さめたれば南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称うる声が聞こえて、実に尊いことであったとのことである。  

七十九、火事場のような心中      
 貞信、常に人にむかいて言うやう『わしの心中は火事場のようである、どんな火事場でも、貞信貞信と呼ぶものあれば返事は致される、火事場の如き心中より、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えさせていただくばかりでございます』と申されしとぞ。  

八十、口の佛法       同じく常の詞に『わしは口が動くばかりで腹には佛法は少しもない、口の動くばかりがわしの佛法であります』と。  
 又曰く『一たび如来様の御勅命にお受けした上は、モウ口一つじゃ、口一つにて首より下には何も用事はない』と常々申されしとぞ。  

八十一、自力が悪ければ如来様が他力にしてくださる      
 北越に一信女あり、貞信尼の前へ出る度毎に『どうもどうも此の心が』と胸の苦痛を申上げたるに、其時に曰く『それ故に念佛申すのじゃ、わしやお前はなんというたとて自力で我心どうにもならないのじゃ、只口に称うるばかりじゃ』と。       信女は更に『それでも貞信様、私はお念佛申しますけれども、人からも自力といわれるし、私もなおなお自力のように思われてなりません』と申上げたれば、貞信『ナニ自力が悪ければ如来様が他力にしてくだされる』。信女『それでも私の念佛は虚(から)のように思われまして』、貞信『虚で悪ければ如来様が実を入れて受け取ってくだされるわな、そんなことはどうでもよいからただ称えなされ』との仰せであった。  

八十二、お念佛に助けらるる      
 此の信女、或時、五劫思惟の如来様を拝みながら、貞信にむかって『世間の人様は涙を流してお喜びなさるるのに、私ばかりは生如来様と信じさせて頂きながら、それほど有難くも感ぜず、涙も出ず、まことに悲しうございます』となげきたれば、貞信『世間のお喜びなさるる御方は全生がちがうのじゃ、わしやお前は到底喜べぬような奴ゆえに、親様が念佛せよと仰せらるるのじゃ』とのお諭しであった。何と申し出ても貞信は『それ故に親様は御成就の南無阿弥陀仏、お前の口に称えられ給うお念佛に助けらるるのじゃ。わしはと師をとって、聞いたことは皆忘れ、言うたことも皆忘れてしまうが親様のお助け一つだけ残りました』と聞かせられたとのことである。  

八十三、叱られては徳を取る      
 貞信尼、或時の物語に『わしは異解異安心が恐ろしき故に、十九の時より五十の歳まで難儀をした』との話、又『若い時上京していろいろの御講者様方に、お育てを蒙りましたが、或御講師の前で領解を述べましたところ、お前は十九や二十歳で此老僧を馬鹿にすると仰せになって、襖を閉じてしまわれました。其時私は外のお同行へ面目なくて困ってしまい、宿の御方に聞きますとお前様があまりに立派なことを仰せらるる故ぢゃ、醜いところを打ち出してお聴かせに預かるものじゃと教えられ、今度は彼方へ行っては叱られ、此方へ来ては叱られ、其度に徳を取らせて頂いて歓びました』とのお話であった。  

八十四、真如堂へ祈願      
 御維新の始め廃仏毀釈の輩、多く国に跋扈し、或は寺院を合併せよとか、或は僧侶を還俗せしめよなぞ叫びて法難の盛んなりし時、貞信は御門跡様の御苦慮あそばさるるを聴き、何卒弥陀の冥助を乞いて、御身に過ちなからしめんとて、寒気の折毎夜毎夜鴨川にて水浴し垢離を取り、其れより洛東真如堂を参詣した。かくて夜な夜な心をこめて参詣しけるに、或夜内陣にてさも気高き殊勝なる声響きて『南無大慈大悲の阿弥陀如来様、願わくは自力の迷信すてて他力の本願に帰して、順次の生には真実報土に往生とげさせたまえ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と唱えるのを聴いた、いかにも神々しきお告げであった、不思議の思いを為して翌朝堂番の人に『昨夜誰ぞ外に参籠せし人ありか』ときけば『いや昨夜は外に誰も通夜した人はいない』という。かかる事其後五六度にも及びければ、貞信フト心ずきて『さてもかかる自力の祈願をせんよりは、我身の出離を心掛くべしとの如来様のおぼしめしならん』と思いつきたれば、其れよりフッツリと声も止みて聞こえぬようになりけるとぞ。  

八十五、三島の蓮光寺      
 貞信、三島の蓮光寺にて、境内なる地蔵堂にて一夜を明かさんと思うて頼みけるに『遠慮に及ばず寺内に宿すべし』とて,親切に寺内に止めて貰うた。       和尚熟熟貞信の様子を見て『お前は何かのぞみがありそうなが何がのぞみじゃ』とのお訊ね、貞信こたえて『私、何ものぞみはありませぬがただ出離一つがのぞみでござります、出離一つがどうぞ仕遂せたいと存じます』と。和尚曰く『お前は何宗じゃ』。   貞信『私は王法は額に当てよ佛法は内心にたくわえよと教えて下さるる真宗でござります、実に王法も守られねば信心もないで真宗とも申し上げられませぬ様なことでござります』。和尚曰く『わしも始め真宗であったが、真宗では此儘のお助けで出離一大事のものはないようじゃが』貞信こたえて『私はまだその此儘の教えが聞こえませぬので実に当惑しております』と申上げたれば、和尚『其れならば多武峰阿弥陀寺にわしの師匠があるで、手紙をつけてやるから信心を頂いて来られよ』との仰せであった。       さて翌日其寺へ参詣し、其夜は一人境内の松の木の下にて月明かりに『観経』拝讃して夜を明かし、翌日和尚に御目にかかりければ、『お前の国から尼が三十人来るで一緒に聞かせてやる』と仰せられた。間もなくその尼達が来合わせて一緒に念佛した。其時は風さえ凍る寒中なりしも、貞信が下に着ていた袷は汗雫になったとある。その時貞信深く感じて、念佛さえ申せばお誓いじゃものと喜び喜び念佛申し念佛申し二週間滞在いたされたとある。  

八十六、断食苦行      
 貞信、慶應二年、一蓮院師の七回忌に相当する年、師の生前に於ける教化の報恩の為に、三州三ヶ峯山にて二週間断食にて念佛称えていたことがある       此山は宝飯(ほい)幡豆(はず)額田の三郡の境にそびゆる高山にて、山上に小さき観音堂あり、例年盆の十七日に諸人参詣すれども、平常は更に参る人もなし。昔から天狗が棲むと言い伝えて、昼も寂しき物凄き所なれば、夜分そこに泊まる人などかつてなかりしとぞ。貞信は独りそこに宿せしに毎夜毎夜怪しき獣出で来れども更に害を加うることはなかりしという。       ただ三日目の日、貞信水汲みに行きつつ思うよう、『世上で断食断食とやかましく言うけれど、自分はすでに三日になれども別に変わりたることも為し、断食は左程にむつかしきものにあらず』と思いければ、俄かに体がびりびりとして力落ちてしまい、少しの水が持てぬようになりたれば、ああ慢心ほど恐ろしきものはなしと語られしとぞ。       二七日過ぎて暫くして山を下り、岡崎町の懇意なる同行角伊に来って、その介抱を受け、暫くの後にもとのからだに復したりけりと。  

八十七、胃腑の強い人      
 貞信はよく断食するとか、一碗の蕎麦粉で一日を過ごすとか、いかに出離の為に一命を捨てし身とは言いながら、難行自力の修行しても悟りの開けそうにあり、又真如堂に参籠するとか、知恩院に行き五重相伝を受けてみたり、または受戒してもろうたことさえあって、何やら自力くさく雑行雑修にてはなきかと思われる程なれど、ここが貞信の貞信たる所以にて、決して他の因襲にのみ囚われたり、旧来の型にのみはまってしもうて、徒に世間の思惑のみを顧みる世の尋常の同行と異う所であった。貞信にあっては、その中心から発動する強い求道の思いにかられ、すでに出離の一大事に己が一命をなげうっておれば、他から何と見られようとも、ただ己が心の落ち着く所へと進んで如来の大悲を味わおうたのである。       是に就つて貞信に私淑すること多き或名師は、自ら所感を陳べて曰く『貞信は至って胃腑の強い人で、常人では食べられぬものでもそれを食べて悉く消化してしまう。尋常の人では自力や雑業雑修になることでも、貞信の信力ではそれを悉く消化して他力にしてしまう』と、これは貞信の事跡を読むものが、深く注意して食傷してはならぬ点である。  

八十八、尾花澤で詠める歌      
 貞信は一蓮院師の没後、出羽に行き霊佛を求めて尾花澤にいたことがある。尾花澤の渡合家は尼が泊まっていた宅で、其隣に尼が毎夜通って念佛した生佛と呼ばれる霊佛がある。(現今は白鳥村の工藤氏方に在すと)貞信、渡合家に冬かけて半年滞在し、出立の時に詠める歌に、 なげきつつ今日しも君にわかれては 又逢ふ国のあるをたのまん          後の世の花の臺の友とする 身さへしばしの別れかなしき          くり返し猶猶常に称へなん この玉の緒のあらん限りは ただし後の一首は一蓮院師の詠である。  

八十九、いろは四十八首       
 その他に貞信の遺詠としては、三州岡崎の鍋田奥瀬両氏の印施せられた『尊号要文』の付録に載せてあるいろは四十八首がある。いかに貞信が老後歌に寄せて法味を愛楽せられたかが知られることであれば、ここに録出する。            いにしへにいかなる契りそめおきて、三世のほとけの誓いをぞきく          ろくろくに聞きわけてもせでいろいろと、物知り顔のさても見にくき         
 はからはず南無阿弥陀仏と称ふ外、思ふも言ふも迷いなりけり         
 西へ行く道としなくばなかなかに、老の寝覚めの淋しかるらん         
 ほのぼのと春の陽気に向かひなば、はや参らばや母の別院         
 へだてなき深き御法の恵みにて、隔て心もうすらぎにけり         
 とりつめて聞く気もあらぬ身なれども、無常の風は急げとぞふく         
 千代八千代かけて祈るぞ大谷の、清き流れをにごさじものと         
 理屈にもはづれた弥陀の慈悲なれば、理屈離れてすがるばかりぞ         
 ぬすびとの心の底を尋ぬれば、懈怠不沙汰の無慚無愧より         
 流転してまた値ひ難き御法をば、おろそかに聞く心にくさよ         
 おこたらず勤むる人も懈怠なる、我が身も共につれられてゆく         
 我思ふ心のうちぞ有と無との、中を流るる南無阿弥陀仏         
 かぎりある命も過ぎてほのぼのと、八十路が春を早迎へけり         
 世を渡る橋も渡らで我はただ、六字の道に寝たり起きたり         
 たらちねの深き恵みに育てられ、おさな心に南無阿弥陀仏         
 蓮台に乗り得るまでは妄念の、心ながらに南無阿弥陀仏         
 そろそろと歩み習ひし幼子の、老て八十路の歳を経にけり         
 つらつらと過ぎし昔を数ふれば、危うき道の橋のかずかず         
 念佛の声もろともに妄念の、心ながらも南無阿弥陀仏         
 歎きつつ闇路をたどる賤の女に、我をたのめの弥陀の御頼み         
 らちあかぬ心ながらもみなかみの、流の水の障りおそるる         
 無始よりの罪も障りもそのままに、救ふちかいのたのもしきかな         
 うどん華の花のさかりに生まれ来て、花のうてなにつれられてゆく         
 井の中の蛙とひとし老の身は、南無阿弥陀仏と啼くばかりなり         
 法の道知らで空しく過ぐる身を、つれゆく母はここに居るぞよ         
 老いぬれば浮世もかろく渡りけり、重き御恩の袖にすがりて         
 繰り返しなほなほ励み称ふべし、出入りの息の通ふ限りは         
 山よりは高き教の恵みにて、危き身ぞと思ひ知らるる         
 待ちかねて歎くとまでのおなさけは、たれに聞けとの心ずくしぞ         
 けだいして歎く心の心のなき時も、只そのままに南無阿弥陀仏         
 深からん罪もおそれぬ弥陀なれば、深きお慈悲の底やなからん         
 恋しさは待ちかねたまふ母様の、お呼声なる南無阿弥陀仏         
 円満の月のひかりに今ははや、濁れる身にも南無阿弥陀仏         
 手習いのほうびにもらふ硯箱、老の褒美は南無阿弥陀仏         
 あら嬉し誓の船に乗りぬれば、むべあたたかき母の手枕         
 さかりなる花の姿も人ごとに、憐れと思へ老のしらなみ         
 きく人もきかざる我も諸共に、摂取の網に救はれて行く         
 夢の世を夢と思ふも夢なれど、南無阿弥陀仏は実なりけり         
 目に見るも耳に聞くのも妄念の、心ながらに南無阿弥陀仏         
 身にしみて寒さは老のならひぞと、思はば急げ南無阿弥陀仏         
 死して後我身に添ふる宝には、南無阿弥陀仏にすぐるるはなし         
 縁つきて花のうてなに生まれ出て、世々の迷ひの物語せん         
 火の中や水の中にも幾万の、心づくしの南無阿弥陀仏         
 もろもろの神も佛も捨てし身を、助くる母の心ゆかしき         
 精出してつとむるにだにさもなくば、忘るる時ぞなほ憐れなり         
 すなほなる柳の枝を見るにつけ、ゆがみながらに南無阿弥陀仏         
 京田舎南無阿弥陀仏を称ふれば、国もゆたかに民も安かれ  

九十、三州その女    
 三州田原のおそのといえば其頃名高き厚信な女であって、今日までその名が人口に残っている、道を求めては千里をも遠しとせぬ貞信のことであれば、深くおそのを慕いて、その感化を受けしこと少なくなかった。それで貞信は常に他に対して、おそのより聞いた所を物語っては、自分も法味を愛楽した、その物語れる所は、貞信の心に深く感じて有難しと思える事柄で、是によって今日おそのの面影の知られるばかりでなく、同時に亦貞信の信念の程も窺われることであれば、ここにその三つ四つを記すこととする。  

九十一、矢矧の月影    
 或時越中の圓満寺(開悟院講師)が三河へ出張して、七日間の御法話をせられた時に、おそのは一座も欠かさずに聴聞していた。       いよいよお訣れとなった日に、おそのは座敷へ罷り出て、御講師に向かい『永々御懇ろの御化導有難うござりましたが、此のそのは何もかも残らず忘れてしまいました。どうぞ御形見にタッタ一言お聴かせにあずかりとうございます』と申上げた。時に御講師やや暫らく黙っていさせられたが、何と思し召してか突然と仰せに『お園や、聴けば其頃矢矧の橋が流れたそうなのう。』おそのこたえて『ハイ左様でござります。』講師重ねて『あの橋は流れそうもない丈夫な橋であったがのう。』お園『さればでござります、この度は非常の洪水でありましてあの丈夫な橋もとうとう流れてしまいました。』講師、言をつよめて『そうか、非常の洪水で橋は流れたか、お園、それでも天上から映って下さる月影はヨモヤ流れはせぬであろうがや』と仰せになると、そのお詞の終わらぬ前に、お園はにっこりとして『御助けの月はまんまと写って下さりました』と申上げたれば、講師もうちほほえまれつつ『物には滓ののこるということがあるものじゃが、滓ものこさぬように聴聞したというは其の事じゃいのう』とお誉めになったとのことである。       これは貞信から伝えられた話であるが、僧純師の『妙好人伝』四編下巻 にもその女に就いて矢矧の橋の話が出ている。或時お園は矢矧の橋を通りし時に、いたく御恩に感じて言えるよう『摂取の橋に不捨の欄干、いかなるそのでも落ちようがない』というてよろこんだとある。矢矧といえば三河で名高い橋のことであれば、お園に就いて是等の話は矢矧の端とともに広く人口に膾炙して、法味愛楽の助縁となったことに相違ない。  

九十二、法体の名号でお助け      
 お園は無我に法を貴み喜ぶばかりにて、人々が随喜の余り所々へ招きておはなしをうけたまわりたいといえば『私は何も存じませぬが、此の堕ち行くものを必ず助けるぞよの仰せ一つを信じ奉りて、よきにつけてもあしきにつけても御報謝の称名を喜ぶばかり』と言うのみであった。       其頃出羽の西光寺という僧が、池鯉鮒の正念寺へ御出でになり御化導ありし時にお園は御前にまかり出で、己が領解を申上げるよう『かかるいたずら者をもそのままのお助けでござりまするか』と。西光寺叱って曰く『それは法体というものじゃ』と。お園直に申上げるよう『左様なれば法体の名号でお助けくださいますか』と、西光寺更に叱って曰く『それは一方聴聞というものじゃ』と。それでもお園は厭な顔もせず『ああ一方ならぬ浅間しきそのじゃ故、其れならいよいよ一方聴聞でお助けくださりますか』と喜び喜び申上げたれば、さすがに西光寺もモウ叱ってみようもなかりしとぞ。  

九十三、機体ならばどうしませう      
 お園の歓びはいつもこうであった、何と言われても心底から法の尊さが仰がれるばかりであったと見える。或人が『お園さんお園さん、人がお前を法体じゃと申しますに』と咎むれば、お園は嬉しそうな顔をして『有難うございます、若しも私が法体ならばどうしましょう』とこたえたとのことである。       よくよく実際に大悲の味われて御助け一つに疑いの晴れた身でないと、やれ法体やれ口称募り其れでは異安心ときかされると、直に心がぐらついてしまうものである。  

九十四、一心一向とは      
 或人、お園に『一心一向ということをきかして下され』と尋ねたれば、お園はこたえて『一心一向に弥陀をたのめとは仰せられますが園は存じませぬ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と称名して『こんなことじゃそうにござります』と言うていた。       凡てお園が人に何か問われたときの答えには『じゃそうにござります』とか『こんなことじゃげな』と語尾を結びて、決して『こうじゃ』と断定的の言葉を用い、自身の言うたことにはせざりしという。是等もお園がひとえに法を仰いで私をまじえざる無我の心から出でしものなるべし。  

九十五、滓になったらどうしよう      
 お園が平生念佛の称えぶりが、普通の人が傍から聴くに、何やら有難そうにもなく、味なさそうな念佛であった。       或若者が之をあざけって『お園さんお園さん、お前の念佛はカスにもならぬぜ』といえば、お園は少しもさからわず『有難い、おらそれは初耳じゃ、わしの称うる念佛が若しやカスになったらどうしましょう、それがカスにならぬとは、有難や有難や南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と言えりしとぞ。  

九十六、団子汁の談合    
 お園の団子汁の談合というのが名高いものであった。若い女同行なぞがいつも談合の席にて『お園さんお園さんモ一度団子汁の話をきかして下されや』と乞うと、お園はいつも嬉しそうに語りだすのである。『あの夕方になりますと、女中がお汁拵えて、それへ団子を入れて下から焚き立てますね、すると団子に煮える気はないけれど、火の力でひとりでに煮えあがりますね、煮えあがったろ思う頃にはすくい上げてくださりますよ』と、自分がいかにも団子のようなもので、光明のお催しで救い上げられる姿をさとしたものであるが、これをお園の口から聴けばいかにも有難う聞かれて、いつも若い人々を歓ばせたことであった。  

九十七、築地御坊の御再建   
 或時、江戸築地の御坊の御再建の出来たときに、お園は参って立派に建ち揃うた御坊を拝観し、其時に『この様に御殿も出来上がり、御表門も出来上がり、御裏門も出来上がり、お成りのに前にまた焼けてしまうたら、善知識はさぞ御残念にござりましょう・・・』と述懐しつつ、其れより己が胸を叩いて『この様に御殿も出来上がり』、    又己が耳を指さしては『表御門も出来上がり』、口に手をあてては『御裏御門も出来上がり、・・・お成りのない前に焼けましたら、如来様はさぞ御残念でござりましょう、火をつけたは他ではござりませぬ、この園でござります、火付けの咎によって背手にくくられて、無間地獄に送られていく姿を如来様が御覧なされ、ヤレ待てお園、おぬし一人をやりはせぬ、弥陀も後ろからついていく・・・、落ちる私は自業自得で仕方もないが、大悲の親様までとは勿体ない』とポロリポロリと涙こぼして南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、稍暫く念佛して、『どうやらお成りがあったそうにござります、御報謝の御裏門から御出はいりがござります』と言うて歓ばれたと、いつも貞信は其手まねまでして語られた。  

九十八、お園の詠んだ歌    
 お園の詠んだ歌の中に疑いの歌とて、         
 疑ひよここききわけていんでたも そちが居るゆえ信が得られぬ         
 疑ひにここをのけとは無理なこと むねをはなれて何所に行きましょ         
 疑ひよ是非行かぬならそこに居よ そちにかまはず信をとるべし         
 疑いは何所に居るかと問ふたれば かわりに出て来る念佛の声    
 というのがある。其れから又磯物で詠んだのに、         
 わかめにて人のあらめは見ゆるなり 言はぬがひじきのりの友達    
 という同行へ誡めの歌もある。其れから又、         
 口の戸のあくたびごとに心せよ 病は入る禍は出る    
 とある如き、いずれもお園の歌として貞信の語り伝えし所、何より尊き心得である。  

九十九、藤川で或信者へ      
 美濃の藤川で、お園が或信者の門前を通り過ぎしに、家内が之を見つけて、『ああ今田原のお園さんが通る』と言えば、平素お園を慕いおる其家の主人は走り出て見れば、モウ遥か向こうに行くお園の後姿が見える。それで後追いかけて、『お園さんお園さんどうか一言きかして下され』と声をかくれば、お園はふりかえって『モウ思うことも言うこともいりませぬゲナ、如来様が助けてやると仰って下さりますゲナ』と言い捨てて、後も顧みずにサッサと行ってしまうたということ。  

一〇〇、お園の相続人      
 お園はいつも同行の間を廻りて、無我なる歓びに多くの人々を佛法に引き入れ、又御本山へお取持などを進めていた。然るに嘉永年間七十余歳にて病にかかりたれば、自分が居なくともお取持の出来る相続人をと求めて、其れは貞信より外になしと見込み、貞信をつれてなじみの同行へ一々顔見せに歩いて、『わし同様にどうかたのみます』と言うて廻った。其れからは貞信はお園の顔を貰ろうて、同じように三州や江州辺りのご同行の間をお引き立てしつつ、本山のお取持ちをたのむに、同行も歓んで御本山へ納金の外に、貞信へも志を出すに、貞信は決して自ら受けず、次回に尋ぬる時は必ず其志に対する御本山の収票を渡すという風で、本山の出納係の松井外記も深く貞信を信用して初めから領収帳を渡しておくほどであった。されば諸国の同行も『貞信さんにおたのみすれば一番に安心じゃ』と上納金を托する事となり、お園の後をついで大いに御本山のお取持ちせしとぞ。  

一〇一、骨と皮とに身はならばなれ      
 三州に居られた時、一日或寺にて開華院講師の法話を聞いた。かねて能弁の誉れ高き講師なれば、其法話の中に、『西へ行く筋一つだにたがわずば、骨と皮とに身はならばなれ』という古歌を引いて、詞あざやかに出離大事の覚悟を諭されたれば、聴衆感に入っていずれもありがたいありがたいと叫んだ。       時に貞信尼は、黙して其れを聴い
ていたがつくづく思うよう『只ありがたいと喜んだだけでは何の所詮もなし、どうか此歌の通りに実行したいものである』と、直に懐に所持せし路銀は、財布のまま悉く講師に差し上げて一文無しになり、三河から郷里なる越後に向かいて旅立った。東海道を西へ西へと歩いて、腹の空くにも脚の疲れるにも、ただ『骨と皮とに身はならばなれ』と思うて進んだ。日も暮れかけし4時過ぎに箱根の山に上ろうとしたれば、茶屋の主人の言うよう『山にはこの頃ごまの灰が出て物騒である、女中の一人旅、モウ暮れますぞ、其れより今夜は此処に泊まって、明日ゆるりと越えたがよいぞ』と親切に告げ呉れたけれど、尼は泊まるべき路用もなければ、其れも顧みずに山に上った。程なく日はトップリと暮れたが忽ち大の男一人、貞信の前にヌット現れた。貞信曰く『麓にてきけば、護摩の灰が此処には居るとのことなれど、まだ一向眼にかからぬ、どんなものか』と尋ぬれば、男肩をそびやかして『護摩の灰とは俺のことじゃ』という。貞信更に恐れず『わしは小さい蝿かと思うたら、お前さんの事か、そんならお前さんは何を商売するのでござる』と問うに、男『俺は盗賊じゃ』という。貞信『折角じゃがわしは何も所持せぬ』といえば、男何と思いてか『俺は盗人はすれど、僧侶のものは取らぬ、明日は親の命日ゆえ、御経一巻読んで貰いたい』とて布施なればと少しの銭を与えられて別れたとある。  

一〇二、善光寺の葛湯      
 其れより信州に出て、善光寺に参詣して御通夜せんとしけるに、荷物を持ちては通夜を許さず、依って門前の乞食に荷物を預け参詣しけるに、三日目の夜暁近くなりて、如来様、貞信尼告げて云く『汝久しく断食して空腹なるべし、之を与えとらせん』とて、一つの茶碗に何やら容れてあるを賜う。貞信おしいただいて之を飲みけるに、葛湯の如きものにて其甘きこと甘露の味わいとは斯くの如きかと思いて頂いたということ。さて翌日に柏崎の同行より、金二両恵みを受けたるに、一両は如来様へ上げ、一両は前の乞食に礼に与え、又一文無しになりて帰郷しけるに、それより帰宅するまで少しも空腹を覚えず、善光寺にて頂きし葛湯の不思議なりしこと、いつも自ら物語られけるとぞ。  

一〇三、法宣嗣講      
 大阪の善覚寺法宣嗣講、東海道を道中のみぎり、貞信は三州知立の宿にて、師に御面会申し、未来の一大事に就いて御尋ね申せしに、師は『此処は道中ゆえ今晩宿まで来い』と仰せられた。依って御駕籠にお伴をして勢州桑名の本陣まで参りたれば、仰せに『タノムというはどう聴聞しているか』と、貞信こたえて『はいタノムというは助けてやろうと仰る仰せにお任せ申すことと聴聞致しました』という、師は更に『それなら信ズルというはどう聴聞された』と訊ねる。貞信直に『信ズルということ、其れは仰せに順うことと聴聞致しました』と申上げる。法宣嗣更に進んで『然らば深ク信ズルとはどう聴聞致されたか』と問う。貞信『はい深ク信ズルというは、計らい止めて仰せに順うことと聴聞致しました』という。師は猶も追及して『併し其源があろう、源を言え』との訊ね『其源と言えば只で助けて下さることと聴聞致しました』という。法宣嗣なじって曰『ナニ只でお助け、そんなら道中に居る彼の雲助が、念佛一遍も申さずに、松並木の下でコロリと死んでも助かるかな、只で助かる位なら、三世諸佛はナゼお見捨てなされたか』と。貞信こたえて『そうは聴聞致しませぬ、如来様が五劫に御思案なされ、兆載永劫に御修行下され、タノム機も信ズル心もあなたの方で御成就遊ばされ、聞かせて与えて助けようぞと思し召しつかせられたゆえに、私は只と聴聞致しました』という。法宣嗣未だゆるさず『それは御化導じゃ、その源があろう』との仰せ、さすがの貞信も『其れは存じませぬ』と申上げた其時師の仰せに『モウ今晩は遅いで明晩にせよ』と。       貞信は翌日も後からお伴をして道中し、晩に関の宿の本陣へ参りお尋ね申せば、『モウ早やお休み』とのこと。依って又其翌日も御伴して、晩は石部の御宿がお泊りゆえ、お後を慕いて参り、同じ宿に泊り込み、隣室でご様子を伺えば、御膳の最中ゆえしばらく控えて、漸くに出て見れば、師はモウまたもおやすみなされた。随行の言うよう『今晩もお休みゆえ、明晩は是非逢わせるから来い』とのこと。依って翌日もまた一日お後から歩いて大津の宿丸金へ参りヤットお目にかかった。然るに師の仰せに『其の方も折角是まで参ったらヨモヤ御真影様へ参詣せずには帰らぬであろう、わしの宿は京都の佐野勘じゃ、そこへ訪ねて来い、聞かせてやろう』と仰せられた。貞信終いに京まで上り、佐野勘へ毎日毎日お尋ね申し、やっと四度目にお目にかかることが出来た。其時の師の仰せに、       『其源というは、我名を称うるものを、必ず迎え取るという御誓いが源じゃぞよ』   とタッタ一言お聞かせ下されるばかりであった。       貞信が辞し去れる後に随行が法宣師へ『あれ程に聞きたがって、毎日毎日あの様について来ますのに、モ少し早く聞かせてやって下さってはどうでござりますか』と申上げたれば、師は微笑ませ給い『あれはモウ聞こえている、聞こえておればこそ此処までついて来たのじゃ』と仰せられたとのことである。  

一〇四、威力院師の伝授      
 威力院師、或歳に御生国なる越後へ帰られて、是から御出立という際に、貞信に対して仰せられるよう『極楽参りには伝授がある、おぬしに極楽参りの伝授を許すから参りなされ、世には百疋伝授ということがあって、お金を出さねば伝授を許さぬものじゃが、わしはおぬしに極楽参りの伝授を只で聞かしてやるから参りなさい』との御言、それで貞信は何でも伝授許して頂きたいものと毎日毎日御後を追うて参ったが、幾日も幾日もご自慢のお話ばかりで更に伝授下されなんだ。  

一〇五、千代尼詠ずらく「千なりや蔓一すじの心より」      
 其れでも貞信は御後を慕いて、或日沼垂というところまで参りましたが其時威力院師、貞信に対して『今日こそは伝授許してやるシッカリ聞きなさい』と、其れより威儀を正して示し給うよう『世間に千成瓢箪というものがある、左の枝を持ちて揺すると左の瓢箪ばかり動く、右の枝を揺すれば右の瓢箪ばかり動く、梢を揺すれば梢ばかり動く、根元を動かせば全体が動く、御法義を歓ぶ機類が三通りに別れて居る、一つは信じて助かろう、一つはたのんで助かろう、今一つは疑い晴れて助かろうと思っている、其れは皆梢じゃ、左右の枝じゃ。その根底をつかまえることじゃ。本願の根底は我名を称えるものを迎えるとの御誓いが元じゃぞや』と仰せられた。  

一〇六、正宗の名剣      
 其時、更に語り給うよう『たのめば助かる信ずれば助かる、称うれば助かるというも、其れは皆梢じゃ、其根元がある、知っているか、其根元といえば御誓いじゃぞ、おぬしが忘れるとわるいで、喩えて聞かそう、昔は正宗という名剣があった、いつまでたっても錆びるということはない、鉄が異うかというにそうではない、同じ鉄ではあるけれど鍛えようが違う。火に入れて焼いては打ち、水に入れては撃く、たたく度ごとに錆が  残らず飛び出る、錆が残らず出てしもうて鋼鉄ばかり残りしものが正宗の名剣、それでモウさびるということはない、おぬし達がお誓いばかりを幾度も幾度も聞くじゃぞ、出ては叩かれ、聞いては打たれ、聞いてたたかれたたかれすると雑行雑修の錆が飛び出してしもうて、錆のなくなりし所が、モウ錆びるということのない御信心の名剣じゃぞ』と宣い、更に語を強めて仰せになるよう『若し人がおぬしに正宗の名刀をやろうと言うて差し出したら、どこを持ちて受け取るか、端を持てば落ちる、中を持てば切れる、ただ鍔元へ手をかくれば持てる、何でも根元を聞くじゃぞよ』と授けられしを、貞信は深く感じ入っていつも人に物語ったということである。  

一〇七、三祖一致      
 貞信、或時威力院師に対して、元祖吾祖及び蓮師の御勤めの相違に就いてお尋ね申上げた。『称えよと仰せらるれば称うるにかかり、信ぜよと仰せらるれば信ずるにかかりたのめと仰せらるればたのむにかかります、どう頂いたらようござりますか』と。       其時に威力院師の仰せられるよう『それならば三祖の思し召しを一口に聞かせてやろう、よいか、元祖は称えよとの御勤め、吾祖は信ぜよとの御教化、連枝はたのめとの仰せ、それを一口に言うてしまえば称えるばかりの御助けと信じた心の有だけが、後生助けたまえじゃぞ』と。  

一〇八、土屋師との問答       
貞信、加賀の土屋師に対して『聞かして貰うたら少しは善くなるように思いましたが却って悪くなりましたが如何でござります』とお尋ねしたれば、土屋師『貞信、おぬしが何ほど悪くても、堕ちるより大きなことはあるまい』との仰せ、貞信恐れ入って『ハイ左様でござります。』土屋師『よいか、どう思うてもおぬしは堕ちるより外はない、落ちるで助けると仰せられるのじゃわい』       貞信更に『たのめと遂せられるればたのみにかかり、信ぜよと仰せらるれば信ずるにかかり、称えよと仰せらるれば称えるにかかりまするが、茲はどう頂くのでござりますか』とお尋ねすれば、土屋師『その仰せは元があろうがや、たのめと仰せらるるも、称えよと仰せらるるも、必ず助けるの御誓いを聴くのじゃ』とのお答え。       貞信進んで、『源空は己に得たる心地にて喜ぶと仰せられるに、私はどうもまだ握ったようにおぼえませぬ』と問うに、土屋師こたえて『おぬし其れは違うぞや、おぬしが手に握るのではなかったわやい、落ちる者を如来様が握って極楽へつれて往ってくださるのであったわやい。』貞信『其れは有難うござります』と歓べば、師『其れが如来様の御慈悲を手に握ったというものじゃぞ』と。       貞信『それならどうぞ貴僧の御腹底をお聞かせくだされ』と請えば、師仰せに『わしの腹底か、わしの腹底はな、貪欲と瞋恚の火が燃えておるが、おぬし達はこんなものがないゆえ、珍しいで聞きたいかや』と。貞信『私はそんなものは聞きたいた事はありませぬ、何ぞモット有難いことをお聞かせくだされ。』師『ナニ有難いことを聞かせよと、それは俺は言えぬ、おぬしに着物をやれば有難がるやら、金をやれば有難がるやら』とからかう。貞信『着物や金は貴僧に頂こうとは思いませぬ、どうぞ助かることをお聞かせ下されませ』とこうに、土屋師『それならば如来様に聞かっしゃいのう、阿弥陀様は丁度石榴の実のつまったように、一切衆生を胸の中に詰めさせられて、落としてはならぬ迷わしてはならぬと思し召す御心が現れ出でて、我をたのめと仰せられるのじゃ』とお聞かせにあずかった。  

一〇九、文類聚鈔の大要      
 開華院法住師、三州赤羽の御坊にて『文類聚鈔』の講釈を五十日間遊ばされし時に、貞信は女の身でありながら日々欠かさずに難しい御講釈を念佛称え念佛称え静かに聞いていた。或日御講師は貞信にむかいて『おぬし少しは講釈が分かるかや』と、貞信こたえて『左様でござります、私はトテモ御講釈はむつかしうて解らぬものかと思いましたれば、おいおいとお聴たしますると、少しは解ったように思えます』という。講師『ナニ解ったと、どう解ったか、言うてみよ』とのお尋ねに、貞信『さればでございます、文類聚鈔と申す御開山の御聖教は、此度のお浄土参りについて、私に入用なものは悉く与え、私の困ったものは皆引き受けて、助けてやろうと仰ることじゃと頂きました』と申上げたれば、講師もいたく感じ入らせ給いて『そうじゃ、文類聚鈔の大体その通りじゃ、言うて見るならば、江戸から三河へ荷船が来て、荷物を下ろして其れから帰るに空船では帰らぬ、又その船へ三河の産物を積込んでいく。今も萬善萬行恒沙の功徳を私へ与えて下されて、帰りには困ったものを皆積込んで下されるのじゃ』と宣いともどもに御恩の程を喜ばせ給いけるとぞ。  

一一〇、私は気違いでござります      
 貞信、或時に江州野洲の浄満寺様にて、『一念のたのみ心は如何な心持ぞ』と訊ねられ、その返答が出来なんだれば、其時浄満寺様から『香樹院や一蓮院に蒙りながら、御存命の間に何でたのみ心をお聞きもうさなんだ』というご意見を蒙り、あまりあまり後悔やら残り多いやらで、守山の旅籠屋にて一夜を泣き明かした。       その翌日に檜林の虚空に声あって、『たのみ心というはそのまま助けてやるというこ じゃぞ』という。それが正しく一蓮院師のお声であったので、貞信は『私の受けはさてさてそのまま助けるの御呼声が私のたのみ心になるでござりましたか、そのまま助けるの御呼声の聞こえた所がたのみ心でござりましたか、ここが如来様の助けずばおかぬとある御心が、私の落ちる魂へ御届き下されたのでござりましたか』と頂きあげて、あまりあまり嬉しさに大声あげて泣いて居られたが、そこへ一人の武士が通りかかり『おまえはお腹でも痛むのか又は泥棒にでもおうたのか』と怪しみ尋ねられ、貞信は面目なさに『私は気違いでござります』と答えられたれば、武士は『気違いが気違いと自分で知れるのは結構じゃ』と云うて行き過ぎられたとあり。貞信は此事を或友同行へ書き送れる後に『五十年と過ぎし事ゆえ忘れておりましたが、日野の田鶴様がお尋ねにつき、書いて送りましたが、ついでにあなた様へも申上げます、これはあなた様への意見ではない、我身のざんげで御座います』と書き添えてあった。  

一十一、護法院師      
 貞信、護法院師に、たのむということを御尋ね申したるに、師の仰せに『貴様等は実ばかり聞いておる、元から聴けばわかるぞや、蓮如様は八代目じゃ、御開山は信ぜよと仰せられ、法然様は称えよと仰せらるる、称うる計りの御助けと信じた心有りだけが助け給えじゃぞ』と。       護法院師、浅草御坊にて法話に『疑い疑い念佛申しても化土までは往けるぞ』と仰せられた。貞信、後にお座敷に出て『それなれば疑い疑い念佛申しても化土までは参らせて下されますか』と申し上ぐれば、師は断乎として『化土まではきっと往ける』と仰せられた。貞信聴いて大いに喜び『私地獄にさえ落ちねば充分でござります、これで腹がふくれました』と申上げたれば、護法院師そこをおさえて、『それみよ、貞信そこが   弘願他力じゃぞや』と授けられしとぞ。  

一十二、わしの自督はどこにあるやら      
 貞信、或時三州高濱の恵勇師に、『あなたの御自督をおきかせ下され』と請うたれば、恵勇師は『どこにあるやらどこにあるやら』と目を閉じて両手で何やら探し廻す真似をせられる。貞信曰『あなたは平生、千里行けども地を離れず、万里行けども天を出ず、広大無辺の御助けぞと毎度のお聞かせではござりませぬか、然るにその様にお探しなさるのは、如何なるわけでござります』と申上げたれば、其時仰せに「如来様の御助けはその通りじゃが、わしの自督はどこにあるやらどこにあるやら」と又も目を閉じて手探りせられる。仍て貞信は『まだその様に探してどうなされますのか』と申上げたれば『かく探して探して探し終いには参らせて下されます』と仰せられしと、これは貞信がいつも相馬師に語られた所であるとのこと。  

一十三、三河の恵勇師      
 この恵勇師というは、越前の生まれで香月院師の門下であって十歳代の頃から講師に常随給仕していたが、天性厚信の方であったと見えて、講師はこれを見込んでか、多くの弟子の中で、この方ばかりは学者にせずに純粋な信者にしよう、有難い坊さんに育て上げようというので、いつも恵勇師に対しては有難い安心のお話をして聴かせられ、学問のことなぞはあえてお話にならぬ。たまたま恵勇師から何か学問上の不審を立てて承ろうとしても、お答えさえもなさらなかったとのことである。       かく恵勇師は天性信念に心厚き方であった上にも、香月院師から特別な教育を受けられたことであるから、実に無我な歓びの僧分となられたことであった。其頃、彼の三州牛窪の長松と申せば、香月院に育てられた名高い信者であったが、恵勇師に帰依して、三河の名物にするというて、講師に乞いてこれを三河へつれて帰った。から恵勇師は高濱に小やかな庵を結んで、是一庵と名乗って専ら地方でお引き立てをしていられた、師につれそわれた坊守のオートさんというも、又名高い信者であって、長松を初め数多く香月院随喜の同行が、この高濱の庵に集まって、法悦の思いを語り合い、彼等信者の仲間で『隠居さん隠居さん』と呼ぶのは、この恵勇師のことであった。  

一十四、高濱同行      
 この恵勇師の教化も、一時はその高調に達して、高濱同業といえば外とは少しちがう所があって、自ら一派を為して居り、同じ御相続いたすにも、ニコニコと嬉しそうな顔をして佛法のことを物語るという風であって、義筋をさばくとか、領解の型を述べるというようなこともない。       恵勇師も常に人に対して『案じる、案ぜぬ、はっきり無茶苦茶、わけてわからぬ信後のひぐらし』と此様なことをのみ言うていたとのことである。或人が『五十年も聴聞しましたけれども、どうもなりませぬから一口御聞かせ下され』とこえば『ああテコでこじてもどうもなりませぬ、五劫の御思惟といえばタッタ一口に言うけれどもそれはそれは永いことでござります』とこの様にこたえられた。  

一十五、土場の勘助      
 土場の勘助なども、恵勇師の流れを汲める一人であった。勘助、或時御本山へ参って御影前に居る行儀が甚だ悪し。或同行が見かねて『御真影様の前にてその無作法は何事ぞ』ととがめたれば、其時勘助ニコニコとして片足を御前へつきだしつ『行住坐臥もえらばれず』といい、更に又片足をつきだして『時処所縁もさわりなし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』という。其同行もあきれて『一体お前は誰から聴聞しているのじゃ、三河なれば一色(雲英(きら)講師のこと)か、西尾(占部師のこと)か』と問えば、『そんな青二才の小僧なぞと違う』という。『然らば誰である』かといえば、『俺は香月大講師様に育てられた』とこたう。『どんなことを教えられたのか、外とは違うのか』といえば其時勘助『外のほうは聞いて佛になることを聞かして下される、香月院様は佛になされて下さることを聞かして下さる』とこたえたとのことである。  

一十六、宅島の浅右衛門      
 かく三河には田原のおそのがある。恵勇師がおる、有難い同行が多くいたので貞信も三河が慕わしかったと見え、彼の地で多くの御縁が結ばれ、平生語る所も三河に関しての事実が多かった。       香月院講師が、赤羽御坊へ御出張の際に、西尾から一人の武士が来て、事によらば講師と議論でもしてやろうかとの下心で『どうか真宗安心のすわりを聞かして下されよ』との所望であった。其時講師の御答えに『わしは講師じゃ、講師は法の問屋じゃで、学問のことならわしに尋ねるがよいが、安心の据わりとあるならば、それはよく心得た同行にお聞きなされ』というて、取り合おうとせられなかった。そこで武士は『さらば然るべき信者を此処へよんで頂きたい』と乞う。傍の人々講師が誰をよべと仰せになるであろうかと思うていると、其時講師は『早速宅島の浅右衛門を呼びにやれ』との仰せであった。       この浅右衛門というのは非常に歓ぶ方であったけれど、余り法の方を強く言うので彼は法体募りじゃとて人々が忌み嫌うて、御坊へも近寄らせなかった程のいわば異安心者であったが 講師の仰せであるから仕方はない。すぐに使いを立てて迎いにやると、浅右衛門はその迎えを受けて、大いに歓び『誰もよんでくれてないの此奴、平生は行けぬ所じゃが、御講師さまからよんで下さればこそ今日は行けるのか』とすぐに使いの者と家を出で道すがらも『行かれぬ所じゃけれども、来いよの仰せがあるゆえ、行かれぬ所じゃけれども来いよの仰せがるゆえ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と、御坊へ参り上がりて、御講師から武士に対して他力安心の据わりを述べよとの仰せをうけて、直に其っま『参れぬ爺々ではありますけれど、参れよの仰せがあればこそ、このまま助けて頂きます』と申し述べたれば、香月院はそれを聞いて、『真宗安心の据わり、其れより外はない、差ひかえ写し止めて京への土産にせよ』と仰せられたとのことである。  

一十七、牛窪の長松      
 この浅右衛門が或時牛窪の長松を訪ねて『弥陀ノ本願ヲ信ゼズシテハ、フット助カルトイフコトアルベカラズと、御文に仰せられたが、どうぞ信ズルということをきかして下され』という。長松言う『それは俺もわからぬで、これから京へ上って御講師に訊いて来て聞かせてあげる』とて直に草履を穿いて出かけようとする、浅右衛門之を見て『そんなに急なことをせんでも、何かついでのあった時でよいから聞いておいて下され』という。長松答えて『人から不審を尋ねられ、それを知らぬとて便々といていられようか、一大事じゃから是から直に上京いたします』と立ち出でようとする。浅右衛門、気の毒がりて『其れならば路銀を差し上げるから』というに、長松『俺に用意もある』と言い捨てて、そのままに出発し、夜を日についで三日三夜かかりて上京し、香月院の寓を叩いて御目にかかり『弥陀ノ本願ヲ信ゼズシテハ、フット助カルトイフコトアルベカラズと御文に仰せられますが、この長松は任せるとまでは頂いたが、まだ信ずるとまでは頂きませぬで、一言お聴かせに預かりとうて、わざわざ上って参りましたから』と申上げたるに、講師は小首傾けて稍暫く御思案の後『明日は講釈やめて、講者立合の上で調べて聴かせてやろう』との仰せ。そこで宿へ下って待って居ると、翌日学寮から御使いで『調べがついたから出て来い』とのこと、早速参上致しますると、諸者方列席の中へ呼び出されて、御講師より『昨日不審の趣き、今一応申し上げられよ』との御命、そこで長松は前の通り『御文について任せるとまでは頂いているけれど、信ずるとまでは頂けませぬ』と申し述べますと、御講師傍を顧み『五乗院其の方代わって授けられよ』との仰せ、そこで五乗院師進み出で、長松に対して『その信ずるということは佛祖善知識の仰せに順うことじゃわいのう』と渡された。長松は更に『その佛祖善知識様の仰せは如何なる仰せでござりますか』と問えば五乗院師仰せに『何程慾が起ころうと、何程腹が立とうと機の様いえば鬼でも蛇でもそのまま救うとある仰せじゃわいのう』とのお授けに、長松『左様な仰せなれば信ぜられます、信ぜられます』と歓び歓び躍り上がる思い出、またまた三日三夜昼夜兼行で三河へ帰り、浅右衛門に聴いたままを語りて、互いに喜びおうたのことである。  

一十八、三河の七三郎と伊賀の三左衛門      
 又三河には昔七三郎という厚信な同行があって、この七三郎が伊賀の三左衛門を尋ねて行った時に、草鞋の紐をときながら『三左さん、三河の爺がわざわざたずねて来ましたが、どうか一念の場をタッタ一言聴かして下され』と乞えば、三左衛門『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、有難うございます、それさえ知らぬ者でござります』という。七三郎歓んで『そういう御慈悲でございますかいのう南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と、此様なことばかり滞在中互いに言い合うては歓び暮らし、いよいよ帰国するとて出立のとき草鞋の紐を結びつつ『三左さん、三河の爺が折角尋ねて来たことなれば、どうか土産に一念の場をタッタ一言聴かして下さいな』といえば、三左衛門相変わら『有難うございます、それさえも知らぬ者でござりますが、このままで御助け下されるそうでござります。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と歓べば、七三郎も『ああそういう御慈悲でございますかいのう、有難うござります、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と御礼を言いつつ立ち去れりと、是等も貞信の語り伝えた所である。  

一十九、冥加を恐る      
 貞信冥加ということを深く恐れ、何につけても御恩を味うた。旅するにも人の捨てた草鞋を拾うてはいた。 あるとき三州の同行二三人と上京の折に、大津逢坂山の辺りにて、街道の牛糞の上に握飯の喰い残りの落ちているのを見て『もったいなし』とて之を拾い上げ、傍の水にて一寸清め、それを口中に入れて、京都まで呑み込まずに、口をモジモジさせて、冥加ということを味わわれたと、当時実見せし同行の物語であった。  

一二〇、江州の妙恵      
 江州の妙恵というは、日夜称名に余念なき念佛者であった。寺の役僧とがめて『お前は十九二十の念佛して居るが第十八願にならねば真実報土へは往かれぬぞえ』と、妙恵聞いて大いに歎き、『ああ香樹院様がござるならばお尋ね申そうに、誰に聞きに往きようもない、若しもこの念佛で真実報土へ往けぬならどうしよう』と泣き泣き寝られたれば夢の中に香樹院師現れて『十九二十の念佛でも精出して申して居ればコロリと第十八願に?け込むぞや』との御告げ、翌朝この夢のことを役僧に語りたれば『それは御和讃の通りじゃ』と申されたとのことである。  

一二一、石田のいそ女      
 江州石田のいそ女十七歳のとき、病気にて美濃大垣へ行きけるに、香樹院師大垣へ御下向につき、いそ女申上げるよう『私は後生が苦になります、案じられて夜も睡られません。どうぞ一言お聴かせにあずかりとうござります』と乞えば、香樹院師其時いそ女に対して『そうか、それならお念佛が称えられるかえ』と。いそ女いわく『ハイお念佛は称えさせて頂いて居ます。』師いわく『そんなら称えてみよ』いそ女従順に『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と申せば、師『今一度称えてみよ』女『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』『モウ一度称えてみよ』『南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』『ああ念佛が称えられるというは仕合せのことじゃのう、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とおどってよろこべよ』と諭された。いそ女生涯此御教化を語り出してはよろこばれたとのことである。  

一二二、出羽のせん女      
 これも貞信の物語である、出羽の国にせん女という厚信な女があった。或時、三里の山越えをして或寺の初夜に参詣をなし、その帰り路に狼の一群が不意に現れてか弱い せん女をとりまいてしもうた。そこでモウこれはかなわぬと思い、大地に伏して一心に念佛していたれば、何の音もないゆえ頭をあげて見たれば、狼は遠くににげてしもうていた。そこで其の時せん女の歓びに『ああ狼にさえ嫌われて見捨てられてしもうた此のせんをも、お見捨てのない親様とは如何なる御慈悲でござりますか』と歓ばれしとぞ。  

一二三、三河の大道師      
 貞信が教化を受けたる三河の圓楽寺永井大道師は、自力臭き程の念佛者にて、日課四萬遍、それも無阿弥陀仏の一字まで丁寧に唱え生涯に阿弥陀経三十萬巻を読誦せられた。これは法然上人の仰せに小経十萬巻は決定往生とあるによりそれを三遍繰り返されたのである。大道師の詞に、 『満々の人々如何様に申し候共、称我名字は本願の御誓いなり。深く信じて念佛したもうべし。併し称える方に目をつけず、称えれば間違わし給わぬ若不生者の御約束と決定すべし。往生の大益は佛の所作なり、念佛は行者の所作なり、所作違いはこれなきよう。信相続の念佛は三神大劫の修業の代わりと思い称え給うべし。大道と熊谷と同意して約束の念佛は申し候様、やろうやらじは弥陀の計らい、世人は約束の念佛は申さず、やろうやらじの沙汰ばかりする』 と、これにて師が信仰の一班がうかがい知られることである。

一二四、信心の裃、念佛の紋服      
 大道師貞信に対して『真宗は念佛宗、念佛門、念佛の信者、念佛に行者なり、念佛門に入れば極楽の門には入れたようなものなり。門が塞がりてあれば出入りは出来ぬぞ』と、何につけてもただ『念佛せよ念佛せよ』とのみ仰せられる。そこで貞信申上げるよう『世間で何所へ行って聴いても信心が大切との御教化、念佛を勧めてくださる御方は少のうござりますのに、貴僧はいつも念佛念佛と仰せられ、更に信心の御沙汰のないのは、何か物足らぬ思いが致します』と不審を立てましたれば、其の時の大道師の仰せに『信心が大切なことは謂わずとも知れたことじゃ、たとえていうなら明日は礼服着用して出よとお触れがあったな、裸体で裃つけては出られまい、下に紋付着ることは謂わずとも知れたことじゃ、信心信心と言うて信心の裃つけよと云うたら、念佛の紋付は知れたことじゃ』と。  

一二五、阿呆の一つ覚え      
 大道島田の仰せに、『邪険の浅間しいのと言うて退くは御誓いではない、慙愧して御手許へ進むが正意、極楽参りの近道は、称我名字の御誓いを深く信じて念佛すれば間違いない、称我名字称我名字というばかりではならぬ、称えねばならぬ、称えたとて称え心を力にしようより南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称えてみれば、此の身に称えられての佛力、此の身にたのまれて信ぜられての弥陀の願力、若不生者の御誓いを深く信じて念佛し給え、数萬の人如何様に申し候共対手にならず、阿呆の一つ覚え、明けても暮れても称我名字の道一つ行く、必ず極楽へ往ける』と。  

一二六、口称募りにはなれぬ      
 かく大道師は、熱列に称我名字の本願をたたえ、念佛一行の信仰を皷吹したれば、地方の僧侶はかねて嫉視の目をみはり謗難の唇をそびやかして、師を以って称名正因の邪見となし、口称募りという名目にてまさに本山へ御糺しを願い出んとした。       然るに心ある僧侶は『同じ組合の法中でありながら、本人へ一応の忠告もせずに本山へ訴えたとあっては、これは穏当でない、一つ忠告してみてそれをきかぬ時に訴え出るが順当である』とて、二三名連れ立ち圓楽寺に推しかけて行き『貴僧の安心は口称募りではないか』と詰問したるに、大道師は深く其厚意を謝し『わしのように懈怠で一向念佛も称えられぬものを、口称募りと仰せられますか、申し訳がない、なかなかどうして口称募りには南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と恥じ入る態度に法中も感じ入って、本山への訴え出を見合わせたりと。  

一二七、お前のお内佛に聴くに限る      
 近き村の一老女、大道師の許へ参って、自己の領解を陳べることいかにも安心の筋目正しく點のうちようもない程であった。師は静かに聞き終わって仰せられるよう『わしはな、凡夫じゃゆえお前の心中の善し悪しは言えぬ、お前の心中のことはお前の家の如来様にお聴き申すに限る、サアこれからお前の家へいって如来様にきいてあげよう』と直様にお立ち出でになって二里もある道を念佛称え称え行かれる、老女も御後について行った、其家へつくと師は御内佛の扉を開けてシミジミと礼拝せられたが、前御領解に引きかえて仏壇は埃だらけ、お華も枯れかけていたので、何も仰せられぬのに老女は恥じ入って涙ながらに懺悔し、其れからは真の念佛行者となったとのことである。  

一二八、信心と念佛      
 貞信は念佛往生と深く腹をすえて、其上に大悪の願力を味うていたことであるから、此の大道師に帰依せられたことと見えて、いつも大道師の教化を伝えて人に物語られた。  或時大道師、貞信に対しての仰せに『筍が欲しいならば藪が入用、念佛の藪さえ出来れば、信心の筍は自ら出る。御飯は水ばかりでは出来ぬ、念佛の米を入るれば出来る』と。  又の仰せに曰『念佛はツブシきくぞ。硝子は綺麗でもツブシがきかぬ、薬缶はきたなくてもツブシがきく。信心と念佛とも亦このようなものじゃぞ』と。  

一二九、通徳寺『手記帖』の中に      
 大道師と同じ時代に、盛に念佛を勧められたのが彼の美濃の通徳寺であった。貞信も亦久しく此の通徳寺の化導に浴し、いよいよ称我名字の願力をたのまれたことであった。通徳寺の『手記帖』の中に貞信が総会所へ出て己が領解を述べたることを記して『貞信尼の出言に、どうぞ私の不足の御意見に預かりとうござります。御手厚い御化導を蒙りながら、心中の浅間しさ申し訳はござりませぬ。如来様へ向かえば壁に向こうたも同じこと、念佛申しても味もなければ尊うもなく只噛む様なことでまことに勿体のうござりますと、心底より謝り入り、懺悔深くして畳へひれ伏して落涙しての懺悔なり、かく述べながらいつも念佛三昧なり、念佛口にたえまない、参った姿も志し深く諸人に勝れたり』とある。あたら貞信のまじめに涙ながら領解述べる姿が眼前に見られるようである。  

一三〇、貞信の真似をするな      
 通徳寺はかくも貞信に感じていられたが他の同行に対しては、いつも仰せになるよう『お前達、決して貞信の真似するでないぞ、貞信は一世の人にあらず、貞信の真似をするなよ』と警められた。これは水火の中をも辞せぬ貞信が勇猛精進の態度、とうてい常人の学び得られる所でない、たとえ真似をしたとて、到底五年十年と継続することは出来ぬ、一時は燃え立つ思いで猛烈になっても身も心も到底続かず、直と廃としては却って自分で自分を疑うことにもなるから、かかる注意を与えられたものであろう。    

一三一、歓喜も慚愧もお誓いではない      
 大道師、或時貞信に対して仰せられるよう『通徳寺様は道心があるで、慚愧があるが、此の大道は道心がないで慚愧がない。八年が間此の事が苦になりて、御講者という御講者にお尋ね申さぬ御方もなく、御講者の腹を皆くぐりて見たれども皆念佛往生に腹をすえてござるなり、その中或る道心ある方の仰せに、お前、歓喜も慚愧もお誓いでないぞえ、称うる者を迎え取ろうが御誓いじゃぞえと仰って下さった其の時、此の大道は嬉しかった』との御物語があった。  

一三二、型にはまらぬ所作      
 貞信が中心のおちつきは専ら念佛往生の誓願に腹をすえて、行住坐臥の称名に精をはげまし、而もあたたかき大悲のふところに抱かれて親一人子一人の情味にあこがれていたもので、固より純粋な真宗の安心であったけれど、其平生の行業に至っては、到底世の常にはまった信者の所作を以って律すべきものでない、全く御門徒としての慣習や作法のほかに超越して、頗る自由にひろいくだけた所があって、更に因習に囚えられず、そこに貞信の信仰の生命が生き生きと流れていた。  

一三三、道傍の地蔵様へお華を      
 貞信は仲の良い同行を訪ねて行くのに、他の土産なぞ持っては行かぬ、いつでも先方の如来様へ供げるようにと、美しいお花の一束を持っては行くのである。       然るに其途中で道傍に地蔵様でもあってお花が枯れてでもいると先方へ持っていくべきお華を悉く地蔵様にあげてしまい、ていねいに拝んでいる。伴の同行があきれて『それは何としたこと、雑行雑修ではないか』とたずねますと、貞信は微笑んで『それならあえて話しましょう。貞信は二夫を並べずで、女が一度人の女房となったら決して他の男に肌身は許さぬ。併し他の男が吾家へ客に来ればヤハリ挨拶もし茶や菓子を出すとか時が来れば酒飯を出すとか相当のあしらいをせずばなりますまい。今も其如くで地蔵様を信ずるではないけれど、この娑婆へ御済度に来ていて下され道傍に立って寂しそうにしてござるのに黙っては通られませぬから』と答えたとのこと、かく貞信の心には道傍の地蔵様まで生きていられるのである。  

一三四、籾の如来      
 それで貞信の参詣するも、ただ吾本山ばかりでない、真如堂に参詣せしこともある。東寺付近の在家に住んだ時は、東寺と興正寺とへ日参したこともある。其の他霊佛と聞けば千里を遠しとせずに参拝した。       江州長浜に籾の如来というがある、それはある観音堂に阿弥陀如来が安置してある。秋の頃其境内へ籾を乾かしておいたに、主が留守中に俄雨が降ってヤレ濡らしたかと急いで駆けて帰ってみれば、もう誰やらが籾を入れてしもうてある。誰の所為か更に知れぬ、然るに如来様を拝すれば御顔に汗が流れて籾が付いているので、さては如来様が入れて下されたのであったかと、其れから籾の如来と称せられていたが、貞信はこの如来の御姿がかの柴崎弥三衛門の家の霊像に生き写しで尊いとて、慕わしさの余り幾度も参詣に行ったとのことである。  

一三五、五劫思惟の念持佛      
 それで貞信が己が内佛に御本尊として朝夕御崇教申上げていたのも、通常御本山から御下げになる絵像や木像ではなくて、五劫思惟の尊像とて法蔵因位の御苦労の御姿であった。       この尊蔵は元河内国磯長の叡福寺(聖徳太子御廟の御寺)の宝物で、毘須竭摩天の御作と伝えられるほどの霊像であった。通常骨と皮とに痩せ果てている御姿とは異うて、五劫の御思惟の満足した福智円満の御相好である。貞信は一度此れを拝んでから有難うてたまらぬ、なんとしても思い切られぬので、住職に『どうぞ譲って頂きたい』と願い出たれど、容易に許されない、然るに貞信は其後も慕わしさの余り毎年となく或は七日或は十日同寺に至り、其御像の前を離れず昼夜念佛することいと殊勝なので、住職大いに感じ入り、この木像は貞信に有縁の御相である、佛堂に在すよりは貞信の御守申さば如何程か衆生済度の出来させたもうべく、それも当寺伝来の御木像なれば寺外に出す訳は叶わね共、合寺の節他寺より御出なされし御木像なれば、一層の事に是を尼に貸し渡さんと、或る時貞信の来たれる折にその旨を漏らしたところ、貞信歓喜身のおき処もなく、住職の指図に任せ借用証を認め、嬉しさの余り財布の有り金三円何銭一厘も残さず当座の御礼と同寺に寄付して、御木像を負うて同寺を辞し、門外の一河を渡りて同行の家に落ち着かんとせしに哀しや嚢中無一文にて渡し銭を償うべきよしもなければ、無銭の橋を廻りて三里の道何の苦もなく同行の宅に着きたり、其の時の話を貞信自ら語って曰く『私は余り嬉しく有り難く歌を謡い謡い道を勇んで行きました。其歌というは阿弥陀如来を殿御に持てば娑婆の貧乏は苦にならぬと申すので、是をうたいましたときのうれしさは』と如何にも嬉しそうに話された。其御叡福寺より御木像の借用証を尼に返し有縁の佛像永久に御崇敬してくれよと、全く尼に付与せられた。                  

一三六、尊像の借用証       
一、坐像弥陀佛木像    
但裸体      右は貴寺の御秘蔵の処私多年信仰仕居候て今般御尊像に常随給仕仕度志願にて恩借の儀御依頼申し候処承諾被下難有奉存候即ち本日より来る二十三年十月まで借用中は香華灯明等の御供養等は決して懈怠致さざるのみならず貴寺に於いて右像御入用の節は何時にても返上可致候依って尊像借用証如件                    越後国北蒲原郡下新村住  当時江州長濱近在朝日村西方寺住            
                  本間 貞信  拇印
明治二十年十月十六日     河内国石川郡太子村  叡福寺御中    

一三七、作法に拘らぬ供養恭敬      
 貞信は明け暮れ此の尊像に仕えて、活ける御佛のように其大悲に触れていた。御敬いも別に式や作法に拘泥せぬ。御佛飯の外に菓子でも饅頭でもお茶でもお肴でも何でも供える、夏の頃庭に咲いた朝顔の花だけつまんで猪口に盛って御前へ陳べるようなこともした。某信女が訪ねた時は、幾つかの小皿へ小さい梅干を一つ宛て入れて供えてあった。貞信はいつも『この如来様はわしの子の様に思へて、かわゆうてかわゆうてならぬ』という、その如来様の相好が不思議にも貞信に似ていて、拝むものが『貞信さんのようで』という。   貞信は知己の同行の死去する毎に、其前で小経千巻宛読誦するのが常であって、読経の時に御本尊が度々助音致されたり、或は白毫相から光明を放つというような奇瑞もあったとのことである。この御本尊は只今は越後の自宅本間楯吉氏の内佛に安置せられている。  

一三八、独棲の件      
 彼の高台寺の月真院に隠れていた頃の御本尊も亦この尊像であった。『道端に犬の子でも死んでいると、見苦しいとて人が菰をかぶせておくように、わしも段々邪見になってこの邪見がお人さんまで伝染してはすまぬで、東山に他宗の菰をかぶって、人に隠れて寝て居るのである』というのが、月真院の炭部屋に居た趣意であったから、貞信は容易に人に己が居所を語らぬ、この頃貞信といえば信者仲間が慕うて『どうぞ一言聞かせて聞かせて』とついて来てならぬから、貞信はなるべく人に見られまい見られまいとッ隠れていて、本山へ参らずに、真如堂などへ参詣したのも一つは其の為であったということ、故にこの五劫思惟の尊像は独り居の貞信が唯一の伴侶として朝な夕な彼を慰めたに相違ない。  

一三九、鼠      
 其頃月真院では間貸しをしていたので、貞信の外に幾組かの奇寓者が居て、寺内に鼠が沢山に出た、其れで鼠が捕らえられて殺されようとすると、貞信は其人達の手から貰い来って、己が三畳敷きの縁の下に飼うておく。然るに或る日其鼠が何所からか二朱金一つくわえて来た貞信へ御礼の為と思ったであろうか、何処かから盗んで来たのであろうかと、貞信は院内の人々は勿論、近隣までも聞いて歩いたけれども、何所でも亡うなったという家はない、そこで貞信は其二朱金の遣り場に困って、御本山の賽銭箱へ投げ入れたとのこと。  

一四〇、御絵像と倶に萩見      
 或秋の日のたそがれであった。友の同行が貞信を高台寺の庵に訪れて門から入ると、萩の花が咲き乱れた庭に貞信が寂しう独り立っている。迎えられて倶に庵に入ろうとすると『暫く待ってよお移しせねばならぬから』という。何のことかと見れば、縁の柱に如来様の御絵像がかけてあった、『貞信さん、それは何のためか』とたずぬれば、貞信は微笑みて『イヤ余り寂しいから如来様をお伴れ申して一緒に萩見をしていた所である』と物語ったので友の同行も奥ゆかしきことに感じたとある。此れ等も御尊像を活ける親の如く仲良き伴侶の如く思うている貞信でなくては出来ぬ所行である。  

一四一、美濃紙へ描いた本尊      
 是に就いて貞信の御本尊は五劫思惟の尊像であったと聞いているのに、御絵像とは如何にしたことかと思うて、相馬師に尋ねたれば、それはこうであった。三河知立在の牛田というところに上田林蔵という信者があって、其人が岡崎のほうへ転宅したが、屋敷跡に茶席が一つ残っていた。其れで相馬師に『そこへ来ていて毎日三部経を読んで頂きたい、貴僧が来て念佛していてくるれば』というので、ツイ行くことになり、其の時貞信から五劫思惟の尊像を借りてお伴して行くことになった。それで貞信は庵には後に御本尊がないから相馬師に描いてくれよという。『わしは画なぞ書いたことがないから』といえば、貞信は『いや貴僧が描いてくだされば何でも良いから』というので、言われるままに美濃紙一枚へまずい如来様のお姿を描いたれば、貞信はよろこんで『これでよい』と表装して御本尊のお留守中、内佛に安置していられたが、庭前へ持ち出して一緒に萩見をしたのはおそらく此御絵像のことであろうという。    

一四二、椿寺の尊像      
 貞信は五劫思惟のお姿が深くしたわれたと見えて、一歳江州を歩いていた時に、椿寺の尊像を彼の維新の廃仏毀釈の際、寺の和尚が質においたというのが、流れ流れてある小道具屋の店頭にあった。貞信は尊さの余りこれを四両で買うて御敬いしていたこともある。これも通常の骨と河との御姿ではのうて、福智円満の御相好で、貞信は山崎にこもりて五六年間此尊像の前で念佛していたことがあったが、後にこれを橋田村字四屋浄林寺に寄付して、只今でも同時の経蔵に安置せられてあるとのこと、同時の前住職松澤祐猛師がわざわざ来訪して物語られた。  

一四三、薄茶をまず御尊像へ      
 播州いし女、初めて高台寺の庵に貞信を訪れし時、『国はいずく』とのことに『播州から』と答えたれば、貞信如何にも慕わしげに『播州かいナア播州かいナア一蓮院様の御国の人かいナア』と言う、勧められて座につけば、抹茶を入れてくる『ああ此の乞食のような尼が抹茶とは』と見ていれば、節くれた手でも茶碗の扱いや袱紗さばきは手に入ったもの、一服立てて自分にくれるのかと思っていたれば、クルリと廻って五劫思惟の念持仏の前へ献げ『どうぞお薄を一つ召し上がれ』と慇懃に供えた。其れからまた一服たてていし女の前へ勧め『あなたもどうぞお相伴を』と言うたので、最初から恐れ入ってしまいけるとぞ。  

一四四、故郷の友への書簡(書簡一)      
 かへすがへすも、たれがなんというても、かというても、なむあみだぶつさまがごくらくへつれていってくださるといふことを、わすれぬやうにして、おねんぶつを、おんまうしくださるやう、たよりうれしくおねがひまうしあげ      ふみしてもうしあげまいらせさうらう。まづとや、このあいだは、さむさのじかふあい なりさうらへども、ごさんもんさまには、ごきげんよく、ごけどうなしくだされさうら うこと、ごどうぜんさまによろこびいることにさうらう。 あなたさまににも、ごきげんよく、いらせられさうらうよし、うけたまはり、なにより うれしく、ぞんぢまいらせさうらう。ついては、わたくしこと、じゃうたうしきの、す みしだいにくにもとへ、かへりたきこころもちもござさうらへども、またごせんざ、ご によぶつも、あいたきこころもち、あるにつき、あなたさまのごふしんまうしこしの、 ことををもひだし、こころのなきさうもくでさい、じせつがきたればはながさき、じか うになれば、もみじも、こうやういたしますもの、いわんや、わがなをとのうるものは、 かならずむかへとる。もしたすけずんば、ほとけとはならじとの、おちかへのある、お ねんぶつなれば、となへてまいられんはづはないと、をぼしめして、こころじゃうぶに、 おんまうしくださるやうと、ぞんじて、つひにふでとも、もちつけぬ、わたくしなれば、 わかりにくくはござりましやうが、くれぐれもおねんぶつを、おとなへくださるやう、 おねがひもふしあげます。ほとけさま、  
おつむりのなかのにつけさうおがんでは なむあみだぶつ
びゃくごうさうおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおまゆをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおまゆをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおめをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおめをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおみみをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおみみをおがんでは なむあみだぶつ
おはなをおがんでは なむあみだぶつ
おくちをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおかたをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおかたをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおてをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおてをおがんでは なむあみだぶつ
おむねをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおひざをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおひざをおがんでは なむあみだぶつ
ひだりのおあしをおがんでは なむあみだぶつ
みぎのおあしをおがんでは むあみだぶつ
おだいざをおがんでは なむあみだぶつ
なほまたごふしんもあらば なむあみだぶつ
ありがたきときも なむあみだぶつ
うれしきときも なむあみだぶつ
かなしきときも なむあみだぶつ
しやうじやうのときも なむあみだぶつ
ふじやうのときも なむあみだぶつ
はらのたつときも なむあみだぶつ
よくのこころのおこったときも なむあみだぶつ
あさおきるにつけても なむあみだぶつ
よるとこにいるときも なむあみだぶつ        
しんぶに、おさめて、おわすれなく、たれがなんといふても、かといふても、なむあみ だぶつさまがごくらくへつれて、いってくださるといふことを、わすれぬやうにして、 なるだけは、ひとにしれぬやうにして、ひそかにしておねんぶつをおとなえくださるや う、おねがいまうしあげます。 すえのふでながら、ごかないさまはじめ、おどうげう、みなさまへ、よろしく、おんも うしくださるやう、おねがひまうしあげます。                                貞信より     佛子廻    

一四五、通徳寺様の教化
 『気を強く勤むれば自力となり、法を強く勤むれば邪見に陥る』とは、求道者にとて 誰でもまぬがれがたき病弊であるが、貞信の常に教へを受けていた通徳寺様も、念佛往 生と深く信じた上に、更に一方には定散自力の心と闘いて他の一方には邪見の心起こさ ずに、進んで明信佛智の地位まで到達するようにと懇ろにお引き立てになった。 通徳寺様のの常の仰せには『聖道門には縦令有の見を起こすこと須弥山の如くなりと も、芥子ほどの無の見を起こすべからずということがある、菩薩には七池沈空の難があって、空におちついたら容易に浮み上ることは出来ぬとある。今他力の信心に於いても怖るべきは定散と邪見とであるが中にも邪見が最も悪い、このままでお助けと安心してしもうて、少しも出離を求める誠意のなきは邪見である、たとい定散自力に陥ることがあって、念佛を励み善根功徳まで修するはまだしも取柄があれど、邪見に陥ったら助からぬぞ』と恒にきびしう誡められた。  

一四六、邪見に陥らぬよう  
 貞信の信仰は世の尋常の信者と異うて、最初から難行自力に近いような傾向があった。女の身でありながら求法の為には身命をも惜しまず、少しもつらいとかこわいとかいうことは知らなんだ。ある講者が北国へ行きしとき、貞信もついて行きけるに、例のみぞれが降るので、貞信は俵のカマスを頭にかぶって行く、講者も見るに見かねて『これへ乗れ』とて旅籠へ乗せてやったとある。また美濃の国で有り難き法縁にあい日の暮れた時、大木へ上り、木の枝で一夜を明かしたこともあった、事実貞信は木登りが上手であったという。また冬の旅路に火葬場で暖をとり一夜を明かしいたれば、隠坊が化け物かと驚いたと言う話もある、其様にまでして念佛を励んだものである。何にせよ貞信では『おそろしいは未来である、未来がおそろしければ此の世には何も恐ろしいものはない』と言うのが彼の主義であった。それで世間からは『貞信さんのようなれば自力聖道でも悟りが開かれるに相違ない』と謂われる程であったのも、恐らく定散自力にはなるとも邪見に陥らぬようにとの用心でもあったろうか。       何か知らねど今日の信者から見れば貞信は余程何やら自力臭いと思われる程の行為があったが、恐らく邪見を怖れたからで『邪見を人に染してはならぬ、モウ如来様に助けられるばかりだのに、横着を人にうつしてはならぬ』と戦々兢々と勤めていた。

一四七、幽冥界の感応
 又誰でもこの定散の自力臭いと思われる方へ傾くというは、因果応報の信念と根拠となるから、自ら幽冥界に交通が出来るようになって、頻に感応道交の奇瑞なぞが顕れるものである。  前にも書いた如く貞信は友の同行が死ぬと五劫思惟の尊像の前で千部の小経を読誦した。それがもし浄土へ往生の出来た人だと楽にお経があげられるというで、彼の人は目出度い往生が出来たということが知れる、然るに往生の出来なんだ人であるとお経がつらくて読まれぬ、時にはどうしても読まれぬと言うので、僧分の方に頼んで代わって読んで頂くことすらもあった。   越後の某女が祖先の為に貞信に読経してもらい、後で『吾家の祖先の頃はまだ他宗であった』と語れば、そのとき貞信は『道理で何か知らぬがお経を上げるのに骨が折れてならなかった』といわれたとある。  

一四八、弘智法印入定の寺      
 貞信は四十四歳の頃、同国野積の弘智法印入定地付近の阿弥陀堂にて、蕎麦粉一碗ずつ食して念佛して居られたことがある。庫の寺は真言宗で一千年巳前の古刹である、愁訴も御流罪の節に御立寄りになり七日間も御参籠になって、海辺のことであるから此海が四国までも続いているかと、当時御流罪の法然上人がしたわしさの余り『別れ来て国ははるかに隔てどもこころは同じ弥陀の浄土へ』と一首の御歌を詠ませられ、鉈一丁で刻まれたという木像もある、ともかくもその様な伝えのある寺であるから、貞信はしたわしう思うたのであろうか。  

一四九、幽霊の子      
 寺は今でも入定の相なる弘智法師の遺骸を安置している、寺の縁起によれば、法印は四百年巳前に下野国に生まれて、幽霊の子であったという。即ちある大家で若い女房が死去して1年も後に或日のこと一人の乳呑児を負んだ順礼が来てその家へ泊めて貰うた。然るにその順礼の容貌が余りに死なれた奥様に似ているので、下女共が主人にそのことを物語ると、主人は『そんな筈はない、確かに死んで葬式までしましたから』と言う。『それでもご様子がそのままであるから』とのことに主人は『然らば何処からどうして来たか尋ねてみよ』樋歌。そこで下女が其女に生国を尋ねると、其答えに『私は当国の者で、観音様へ夫と供に一子を授けてくださるように願掛けし、もし願がかなえば三十三ヶ所へ御礼参りすると御約束した。然るに此子が出来たので御礼参りして今帰ったのである』と言う。其事を主人に告げるとまさしく胸に思い当たる所があるので、『然らば明朝逢うて見るから今夜は寝かせてやれ』と言う。かくて明朝になったが何時までも起きぬので、襖をあけて見たれば乳呑児がスヤスヤ眠っている。蒲団をまくってみたれば順礼の女はいずにただ死んだ女房の位牌がコロリと出てきた。その子供の育て上げられたのがこの弘智法印であるというような奇談が伝わって居て、貞信も定めし聴いていたことであろう。  

一五〇、奴塚      
 この法印が七十有余になって、高野山へ参詣するとて、馬に乗ってここを通られた、フト三寶鳥の鳴く音を聴いてこの声をたよりにとこの寺へ詣でられ、『ここぞ我が入定の地である』とて、かやや栃の実のみ食べて修行していられた。今でも寺から四五丁の辺りに瀧が落ちているその傍に法印が苦行の旧跡があって、初めは岩窟の中で入定していられたのである。昔ある佛法厭いの武士が、この入定の姿を見て、『こんな相で千年万年と生きているものか、モウ張子の人形も同じ事、もしまだ生命があるならば我が槍を受けてみよきっと血が出るであろう』と無法にも手練の槍を抜いて突きさしたるに、如何にしてか法印の遺骸はヒラリと身をそらして、槍の尖端は岩を突いた、かつて一度も誤った事のない槍が斯くも狂うたので、武士は如何にもと感じ入り、直に髷を切って出家し、終生此法印の遺骸に仕えていた。その武士の墓が今でも奴塚と呼ばれて寺内にある。  

一五一、自力の行業  
 貞信が参籠せられた頃は、境内に大きな立木が生え茂っていて、森閑として物凄い所であったということ。然るに女の身で此処に籠って蕎麦粉一碗を食としていたということ。貞信は何等か此弘智法印について、己が信仰を練り鍛えようしたに相違ない、初め二週間読経していたが、弘智法印或夜現れて『読経よりも念佛せよ』と勧められたので、更に四十日間念佛していられたということも貞信が幽冥と通じて何等が感応する所ある生ける信念の或一面であった。   これから見ると貞信が東寺へ日参したことのあったというも、何か弘法大師を有難う感ずる所があったのかも知れぬ。又佐渡の人で真言宗の一僧が一日に十萬遍の称名を欠かさず、まだ三十歳の人であるが、食物は一日に一碗だけ、寒中でも非常な薄着で、いつも虚空に佛を拝むというのが居た。貞信は此僧が非常にすきであった。前に書いた如く三河の山で三七日間も断食したことのあったという如き行為も、貞信は何処ぞで学ぶ所があって之を実行したのに相違ない。   それで貞信は浄土門の中でも、鎮西流の方に何等か引きつけられる所があったと見えて、智恩院で五重相伝を受けたことがあったばかりか彼の流れの三部の仮名御所という聖典は貞信の平生に愛読するところであったということ、是等はいずれも貞信の胃の腑が強くて聖道でも自力でも悉くよく消化して、明信佛智の上の喜びを増す助縁にしてしまうのであるから通常の信者の必ずしも真似をすべき点ではない。ただ如何な行業も一度は徹底して味わわずに居られぬ貞信にとっては、是等が悉く彼の心に溶け合うて求むれば求むる程、苦めば苦む程、悪人救済の大悲が高く高く仰がれたのであった。

一五二、病癒えぬる友へ(書簡二
 たよりうれしく、御へんじもふし上まいらせそうろう。まづとやわたくし事は御びやうきをうけたまはりしより、日々やや御本ぷくあらせられ候やう、いのり候に、おしからざりしいのちとは、あまりつれなき御ことば、御本ぷくとうけたまわりし、うれしさを、御びやうきをききしなげきにひきかえて、此うれしさをなににたとへん、わがみ事は佛ぽうのなきものゆへ、ぐちのしんぢうを御めにかけもふし候。それを此れなりで、おふじやうして、ほんぐわんのてがらをみせたまへとは、いかなる御ぢひの親さまやら       ぐちあんどん                                    むどうしんより  めへどふちしきさま  御もとへ
  かへすがへすもそのなりでみたにたすけられて、やうごうのてがらをみだにさせてkれとは、いかなる御じひの親さまやら  

一五三、貞信の無欲  
 貞信は至って無欲で金銭を身につけようなぞ少しも思わなかった、人から一両貰えば 二両ほどこすというのが彼の天性で、浄林寺の老院の未だ幼い頃、他家では小経一巻で二十銭のお布施だが、貞信は五十銭である、月忌に小経六巻あげて三円貰うたこともあった、その他真綿とか煙草とか気の毒な程にくれるという風、其れでも未だかつて金銭や衣食に不足したり不自由を観ずることはなかった。それは貞信の生家が富裕であったばかりでない、其信徳は誰からも敬愛せられて、若きときから親になってやるという婦人が五人もあった程である、或時、人相見があって、貞信の相をつくづく見て言うよう『此の人は行く先到る所に小判の降る人じゃ』と申されたとある。殊に老後には貞信に読経を乞い又は示談を頼みにくるものが至って多かったので、貞信は逃げて隠れるようにしていたが、其れでも世間の信者から金品を貰うことすくなくなかった。されど貞信は己を奉ずることが至って薄く、冥加を慎みて、其単純な生活に費用とて更に要せないから其諸方から施された金品は悉く三宝供養の用に供した、特に月真院に居た頃、新潟辺りの信者から、いかに思い思われて、金銭をみつがれていたかは左の書面で知られる。  

一五四、近江屋ちせ女へ(書簡三)    
 明治二十五年頃、京都にあって、黒鳥屋白井三七に托して新潟近江屋ちせ女宛に送れる書面 たよりうれしく、文してもふし上まいらせそうろう。まづとや此間もみじのさかりなれば、あなた様御いでもあらせられ候らはんと、こころまちいたしおり候ところへ、みそや御内さま御いで下され、こまごまの御はなしをうけたまはり、御しんせつのほど、うみ山ふでにはつくしがたく、まことにまことに袖をしぼるおもへにぞんじ候。なをまたつむぎじまのはんてん、金三円おくりくだされ、なんとも御礼のもふし上げやうもなきありがたきしやはせにぞんじ候。さやう候へば、ほうおんこうすみしだいには、阿みだきゃうせんぶ御れいのためによみたき心がけにぞんじ候。なをまたわたくしのおせわをなし下さるところとおぼしめし、御しんせつによた様ひこ蔵様へまわたをおくりくだされ、御しんせつのほどまわらぬふでにもふしつくしがたくぞんじまいらせそうろう。つづいてほどしまより金十円おせわなし下され、これまたいわんかたなくありがたくぞんじ候。ここにもふしわけもなきことあり、さうぞくこうの   御みやうごうさま、御さげをねがひくれとの事につき、いろいろとてをまわし御ねがひもうし候へば、さい京にて金子御上なされ候らひても、御めやうごう様はくにもと御てづき様へ御さげになるの御さほうなれば、いわんや御べついんにおさめの事なれば、三じゃうべついんへ御さげになり、それよりおてつぎ様へ御さげになる事なれば、もはやべついんに御さげになりてあるとの事に候へば、さやうおぼしめしくださるやう御ねがひもふし上候。        わたくし事は、おいぼれの身なれば、さむさのおりとてもとてもくにもとへかへる事はできかね候。はるあたたかになり候へばかへりたき心もちこれあり、またはこれがさい京のいとまごひかとおもへば、御せんざ御にう仏にあひたき心もちもこれあり、さやうに候らへば、ふかくあてにはなし下さらぬやう御ねがひ申し上候。くにはとほくへだてても、おたがひに御念佛をわすれぬやうに心がけ候へば、ごくらくまいりのひとつどう中をいたしていると御ぼしめして、御念佛おこたりなくおんとなへ下さるやう、なるだけひとのめにたたぬやうにして、ひそかに御となへ下さるやう御心がけせんいちにぞんじ候。ちかひのなきくさやきでさい、じせつがきたれば花がさき、又はもみぢともなる事なれば、いわんやおちかひのある御念佛なれば、となへてごくらくへまいれぬはづはなくと心がけて、さきたのもしくくらしおり候らへば、うきよのあぢきなき事もさのみくともならず、月日をおくり候ゆへ、かならずわたくし事御安じ下さるまぢく、すえのふでながらみなみな様へ、よろしくもふし下さるやうねがひもふし上まいらせ候。かしこ。                                   貞信より         おちせ様へ        かへすがへすも人のめにたたぬやうにして御念佛御まふし下さるやう、くれぐれも御ねがひもうし上まいらせ候。          

一五五、同じくちせ女へ(書簡四)    
 明治二十七年二月十九日京都高台寺にありて、新潟古町六番町高木ちせ女に宛てて送れる書簡  御文下されありがたく、はいしまいらせそうろう。そののちみなみなさま御きげんよくいらせられ候事、なによりうれしくぞんじ候。さて御本山様においては、とうてん御いん門さま、おかくれあそばされ、これ又しゆうたんのいたり、さりながらわたくしも今にもいのちのおわれば御ひざもとへまへり、あみだにょらい様をはじめ、くわんのんさまもせいしさまもひざぐみで、おはなしもふし上げるも、やがての事とこれ又なによりたのしみ、さてれひねんのとほりあいかわらず金一円おくり下され、わたくしをはじめ、おこと様(吉田おこと、本願寺旧家中にて貞信が無二の友達)よろしく申しくれとのおふせに候。さてほかに金三円おきようりゃうとしておくり下されいづれかたへおさめ候や、あなた様の御いでまではいしゃくつかまつり候。わたくし事は、あなた様の御きゃうをはじめ、みなさまの御きゃう、六せん七ひゃくくわんよみ候へども、いまだなかばに候へばこころせわしきゆへ、もふし上げたき事は山々に候へども、まづはあらあらめでたく。かしこ。        すへのふでながら、御どうぎょうみな様によろしく御もふし下さるやう御ねがひもふしあげまいらせそうろう。                                      貞信より       おちせさまえ        かへすがへす御じゃうきやう、御まちもふし上まいらせそうろう。  

一五六、御同行様方へ(書簡五)
 たよりうれしく、文して申上まいらせそうろう。まづとやこのごろはじこうもよろし      く、御念佛もふすには、まことによきじせつなれば、さだめて御はげみまされ候らはんとよろこばしくぞんじ  わたくし事は、こうしやう御どうぎょう様の御ひきたてにより、日々念佛しやうぎやういたしおり候らへば、御あんじ下さるまじく候。なを又わたくし事は、御念佛申すは、くわじのなかよりしなものをとりだす心もちにて、はげみたくとぞんじおり、ひとこえとないればひとこえだけ、たからがわがみにつくとぞんじ、人様にたとへわらはれても、そしられても、むりうのたからが身につき、十方のしよ佛にほめられて、いのちおわればごくらくへつれていって下さるかとおもいば、うき世の人にわらわれても、となへたき御念佛とせへせへ心にかけ申し候。      なほ、又御しんせつに、いんぽうのところ御こころにかけさせられおもへもよらぬ金子たくさんにおくり下され、ありがたくいただき上げ申し候。           
金二いん 三まいかたや おみせ様
金一いん まへかたや おばば様 
金一いん あぢかたや おばば様
金一いん あぢかたや おかか様
金三十せん みそや おかか様   
   御めいめいに御礼申し上るはづなれども、まはらぬ筆ゆえに、此だん御ゆるし下さるやう御ねがへ申上げまいらせそうろう。                       
               貞 信        御同行様方へ   
 おもへしる人こそなけれよのなかを   ゆめまぼろしといふはいふとも    
 しづかなるみ山のおくもなかりけり   もとのこころをつれてゆく身は    
 ここもうし又ゆくさきもさぞあらん   おなじうきよにおなじ身なれば       

一五七、御縁として読ませて頂く(書簡六)    
 明治三十年一月十三日、高台寺内月真院に居れる頃自ら認め新潟市近江屋高木ちせ女に送れる書簡        はつはるの御ことぶき、めでたく御いわへ申し上げ候。まづとやこのうち、ぜんぢしきさま御きげんよく日々御けどうなし下され、御どうぜんさまにありがたきしやはせにぞんじまいらせそうろう。あなた様にも御さわりなく御念佛御そうぞくあそばされ候や、なによりめでたき御事にぞんじ候。さて又さくねん御しんせつに金五いんおくり下され、みやうがにあまるしやはせにありがたくおしいただきちやうだへいたし申し候。おふせおごとく金三いんはせんぞだいだいの御念佛申しやうとのおふせ、これまたなによりうれしくぞんじまいらせそうろう。阿みだきやう一まん三ぜん四ひゃつくわんよむくどくと、御念佛一ぺん申すくどくとおなじ事と御きかせにあづかり候らへば、なによりめでたき御ぼしめしとぞんじ候。おうせのごとく、一いんは御こうらふそくかひもとめ、一いんは花みりやうとしてよしだ様おあげ申、御ことさまもよろしく御礼申上くれるやうとの御ことにぞんじ候。      なを又あぢかたや様より金二いんのおきやうりやう、五拾せんらうそく御こう御おくり 下され、これ又ありがたきしやはせとぞんじこれを御いんとして御きやうさまを上させていただき候ゆへ、よろしくあぢかたやさまへも御もふし下さるやう御ねがひ申上まいらせそうろう。                                     貞 信 たかぎおちせさま 御もとへ

 そのままときくにつけてもなみだかな    かぎりなきみをすてしよびごへ    
 よぶこへをただたよりけりたびのそら    ゆきふらばふれかせふかばふけ    
 かへすがへすもたれがなんといふてもかといふても、なむあみだ佛さまがごくらくへつれていって下さる。    

一五八、老後の帰国  
 貞信が高台寺の月真院に隠れ棲みて、京都を終焉の地と定めていたが、郷里で山崎の姉が一度逢いたい逢いたいと言うので七十歳で帰国した。其の時連れ帰ったのは新潟市古町通の黒鳥屋白井三七である。此人は格別貞信とじっこんであったから商用で上京する毎に、いつも新潟辺りの同行から貞信への懇志をとりついだものであるが、なにぶんていしんが老年で独居しているので、不時の病気などが案ぜられて、前から月真院の門前の饂飩屋に貞信の保護を頼んであった。明治三十一年に上京の際もまづその饂飩屋で聴くと、尼さんは近頃少し御病気で、お勧めして医者に診て頂くと、どの医者の診断も同じ事で『あの歳で余り粗食するから体力が持ちかねる』との話、そこで三七は案じつつ、貞信にあいて『近頃病気だったそうなが』とたずねると、貞信は『イヤ別に大したこともない』というている。そこで三七は『貞信さん、よう思うてみなされ、此様に同行がお前に志を運ぶのも、どうぞお前に一日も長生きして一口でもきかして貰いたければこそそれをお金は残らず人に施し、まずい物ばかり食ているとは何事じゃ』と厳しく諌め、其れから三七は言うよう『あれ程に山崎の姉様がこいこがれて、是非さびしいから帰ってくれよと何遍も何遍もたのむのに、お前は明年は明年はと一年延ばしにして帰らぬとは何事じゃ、もう父母もないお前じゃ、父母がなければ姉様は父母も同様じゃ。その年寄った姉様の心もくまず、数多い同行のたのみもきかぬとは何事じゃ、聞かぬなら聞かぬで此の白鳥屋にも所存がある、モウ二度とお前にあわぬから』と特にじっこんの間とて遠慮なしで言い放ち『それなら是で長のおわかれするから』とツト立ち去ろうとした。黙って聴いていた貞信は、三七の袖を捕らえて『待ってくれ、それなら思案してみるから』という。そこで三七は『思案するとあるなら聴こう、俺は是から大阪へ行って用を達し七日目に立寄るから其時に返事を聞こう』と約束して立ち去った。然るに大阪の商用が意外に手間取って三四日遅れてから月真院へ尋ねると、貞信は『アアお前はモウ寄らずに帰ってしもうたかと思うていた』と大変案じていた様子であった、そこで三七『俺は寄るって言うたら寄らずに帰る男じゃない、どうじゃ思案はきまったかえ』と訊ねると、貞信は事もなげに『ああ帰ることにした、どうぞつれて行って下され』と言うので三七は多年の懸案解決して郷里の同行も定めし喜んでくれるであろうと喜び遺産で『帰って下さるか帰って下さるか、其れなら出立の準備せねばならぬ』と言えば、貞信『ナニ別に準備とていらぬ、如来様の御伴さいすれば』と僅かな道具や何かは知る辺の人たちに与え、五劫思惟の御本尊のみ大切に供奉して汽車に乗った、何分老齢で少し病気でもあったれば、東京までの切符は求めたが『ナア貞信さんお前が疲れたら何所でも降りて休むから』と言うて、時々『どうじゃ』と訊ぬれば、貞信は『まだ行けるまだ行ける』『退屈はせぬ』と静岡もいつか過ぎて品川まで通して乗った。長野から三七は商用の都合でわかれたれば、貞信は独りで下新へ帰着したと、是は黒鳥屋の直話である。  

一五九、念佛宗じゃ
 明治三十一年に七十歳で帰国した貞信は、それより十三年間郷里に在って静かに余生を念佛の草庵におくるかたわら有縁の人々をみちびいた、もっとも帰国後三四度は上京して御真影を拝し、その都度二三百円も本山へ上納したことであるが、とくに縁ある人々の外は世間にその生死すら知らずにいたのは、貞信が世を忍んで世間に知られることを好まなかったからである。郷里で御法座の席なぞいつも貞信の姿が見えたが、僧分の人なぞ誰もその様に尊い信者とも気づかずにいた、能くあること寺の本堂で説教前に参詣が退屈紛れに世間話を始めると貞信は例のするどい調子で『愚痴宗じゃあるまい、念佛宗じゃサア称えなさい称えなさい』と言うて、念佛称えさせた。貞信が発起で大きい数珠をくる念佛講というのもこの趣旨で始められたのであった。貞信の家では今でも家中集まって毎夜寝る前に線香一本の間念佛をする、それは戦争のときに家内を慰める為であったが、それがツイ習慣となったのであるという。  

一六〇、そのまま持ってお帰りなさい  
 貞信の郷里から一里隔つる程島に老女あり、一日来って安心の一途につき『誰は何という、彼は何というがどちらが真実か』と正否の判断を貞信に求めた。貞信に曰く『お前が人の所へ行って菓子をあげる、其人が貰わぬと言うたらどうなさるか』。老女『何でも受けてくれよ』と言う、貞信『それでも受けぬと云うたらどうする』。老女『仕方ないから持って帰ります』。そこで貞信『そうだろう、今もお前の言うことわしは一つも受けぬ、受けぬからそのまま持ってお帰りなさい』と言うたとある。        後のとき他の同行がこの老女をそしって貞信に『どうぞ我慢の角を折ってくれよ』と言うたれば、貞信曰く『あの人よりわしの方が悪いでなかなか意見は出来ませぬ』と。  

一六一、人に腹立てさせぬ方が  
 ある人が貞信にむかいて、『あの同行は筋目の正しき聴聞である、お聖教のお詞通りに勤めなさる』と言いければ、貞信曰く『ナニお聖教にかのうよりも、人に腹を立てさせぬのがイッチ如来様のお喜びじゃわいの』と。  

一六二、わしでさえ是程に嬉しい
 北越の一信女、一日貞信を訪れしに、差支しなければ泊まって行けとのこと、たまたま四ツ谷の御老院も来られて、炬燵のぐるりに対座した、信女、御老院に『どうも喜ばれませんがなんとかして・・・・』と言えば、貞信『そんなことはどうでもよいどうでもよい、念佛だけお称えなさい、念佛だけ称えれば如来様が思うてよいことは思わして下される、喜ばして下されるから』と言う。『ァゝ、そうでありました』と念佛称えますると、貞信はニコニコとして喜んで『わしでさい是程嬉しいのに、如来様がどれほどお喜びであろう』といわれるので貞信さんに誉められたさに、それが嬉うて称えましたとは、信女の述懐である。  

一六三、常の勤め  
 貞信の常の勤めに『草木でさい花の咲く時節が来て花が咲くのに念佛して佛になられぬことはない。草木の因(たね)でさえまけば生えるのに、此の念佛は正定業、正しき因だもの、生えぬということがあろうか』と。  

一六四、願力の不思議で助かるのじゃ      
 一信女、或時心に不審が起こった故に飛んで貞信の許に行き『どうも不審がはれません』と言えば、貞信『よう来たよう来た、わしも四十まではホントウのおちつきが出来なかった、人は貞信は心安く聞かせると仰せられるが、わしは心安く頂いたでない』など仰せられた。そのときの御話に『わしは日本国中の名所旧跡参らぬ所もなく』とのこまごまのお聞かせになり『その御方が長崎まで尋ねたが願力の不思議で助かるのじゃ』と仰せられた。それでも貞信様はマダ奥の手があるように思うた故、色々手をかえ品をかえてお尋ねしたがいつも『願力不思議で助かるのじゃ』と仰せられました。  

一六五、ありべががりで  
 ありべががりで助けて下さる御慈悲じゃ、ありべががりということは、今日はきようのなり明日はあすのなり、その上鬼見た様な心が起ころうともそのまんまという事じゃ。  

一六六、我等が所作
 往生は如来様の所作、唱うるは我等が所作、所作ちがいこれなき様、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。

一六七、六字の歌      
 貞信の遺詠として六字の仮名を冠字とせるものがある。      
 何ほどの罪やさはりはあらうとも   助くる母はここにまします    
 無始よりの深き教へにめぐまれて   鬼も六字にまるめられけり    
 ありがたやたうとや称ふばかりにて  いのち終われば花のうてなに    
 弥陀たのむほかにたのみはなかりけり 三世の佛のすてしみなれば    
 大願の不思議に助けられし身は    忘れまじきぞ弥陀の御恩を    
 佛恩はつとめばかりと思ひしに    ただうれしやと称ふばかりぞ     

一六八、新潟の二十日講      
 新潟の二十日講というは安政時代から貞信が取立てた講であって講員が五六十名位もあった、御消息は興正寺派から頂いている、今日も猶継続して、毎月二十日及び七日(貞信命日)には法座が古町通八番町近江屋に開かれる、此家の隠居高木ちせ子というは、古くから貞信と最も親しみの深い方で、貞信が新潟へ出ればいつも此の近江屋に寝泊りして、台所であり合わせの物を食べつつ、念佛を称えていた、最も貞信が行く家は佛法があろうとなかろうと、一遍行った家へは何遍でも行くが、新たな家へは容易に行かぬ、それで佛法のない家でも貞信といえば喜んで迎えたもので、近江屋の如き佛法があれば最も多く近づいていた。本書に載せた書面によっても、新潟に於ける貞信帰依の信者がこの近江屋を中心としていたことが知られる。新津は更に下新へ近いので此処にも貞信中心の講が結ばれて月々に貞信が出てなかなか盛大であったという。  

一六九、読経五千巻(書簡七)    
 明治四十二年春、貞信が郷里の下新本間家にありて、代筆にて近江屋に遺せる書面   寒さきびしく候処、あなた様には如何遊ばされ候や、さだめて御そうけんの御事とぞんじまへらせ候、わたくしもただ今はどことてあしき処もなけれども、としよりの事ゆへ、時せつがら本家へも御うかがへもせず、御ぶさたしたし、内のうちだけやうやうじゆういたしをり候まま、御しんぱいくださるまじく候。 一、 あじかたやのおきやう千ぐわん、はじめまして、かなやいがらしじんぞう    おつか様しになさり、かなやのおきやう千ぐわんよみ、あなたのもれいるねんのとうりぐわツきおさめに千ぐわん。ぐわツきはじめにせんぐわん。くわじのときのむしくやうせんぐわん。五せんぐわん本月十日までにやうやうよんでしまいましたゆへ、これ又御安しん被下度候。じせつがら御身御たいせつになしくだされたく、まずはとりいそぎ御うかがひまで、あなかしこ        
 二月十二日   本間貞信より      近江屋様  御まえに

一七〇、喜ばれぬでさあ称えましょう      
 或時小松原操子の許に九州の客人来って『折角越後へ来たことだが御馳走よりか誰か有難い人に会わせてくれよ、生涯の思い出ともなるから』との希望であったから、それならばと貞信の家へ案内した。然るに折悪しく尼が留守であったから、そのまま帰るのも本意なければと、持佛の五劫思惟の像を開扉して共に拝礼を遂げた。然るにその客人やや黙って拝礼していたが非常に尊がって『どうも御鼻の端から光明を放たれてよく拝まれぬ、此様な霊像は始めて拝んだ、誰に会わずとも是さへ拝ませて頂いたらモウ充分だ』と頗る満足せられ共にくるまを列ねて帰りますと途中にフト貞信が新津から帰って来るのに出会うた。そこで操子はくるまを下り『貞信さん、お前に叱られると思うたが九州の客が是非と言うので今日案内したがお留守であった、折角此処で会うたからそこの茶屋の二階で一口はなしてください』といえば、貞信機嫌よく承知した、そこで茶屋の二階へまづ貞信と客人とを上げて、操子は車代払うて後から上がるとその客人が泣いて喜ぶ『どうも不思議だ、前に拝んだ尊像と此の庵主と全く同じ面相だ、五百里あっても、此の如来様にあいさいすれば充分じゃ、生佛にあえば充分じゃ』と喜ぶ。そこで操子は『私は佛様を見ても生佛と拝まれぬは何としたことであろう』と嘆けば、貞信曰く『喜ぶ人は前世がちごう、おれやお前は喜ばれぬでサア称えましょう』とて喜び喜び念佛を称えられた。  

一七一、慧澄律師      
 或時の物語に、慧澄律師様という二百五十戎を持ちなされる方があって、椿の蕾を持ちて南無阿弥陀仏ととなうれば花が咲くほどの大徳に在した。其頃江戸の嗣講師様(五乗院)蓮田の中に庵を作っていられたが、律師様時々御遊びに御出でになるに、湯水まで御持参である。貞信其節お茶の御給仕しながら『どうぞ佛になる道をお聞かせ下さいませ』と申せば、仰せに『念佛もうさっしゃれ、外に佛になる道はない程に、お前はそんなら衲に何故二百五十戎を持つかというであろうが、これは律師といわるる世渡りの仕事じゃ、百姓は鍬鎌を持つ、商人は算盤を持つ、わしは二百五十戎、世渡りの仕事じゃ』との御話であったと。  

一七二、如来様の御意      
 操子、或時、貞信さまにむかいて『念佛せよ念佛せよと仰せられるゆえ、只あなた様に喜んで頂こうと思い、無暗に称えて居りましたが、今ようよう何故に称えよと仰せられたのじゃ、称うれば御誓いにかない佛にして頂ける故に称えよと仰るあなた様の御心が知れましたように思われます』と申上げたれば、貞信様は『それは如来様の御意じゃ、只称えるお念佛が御本願にかなうのじゃ』と仰せられました。    

一七三、そんなことはどうでもよい      
 又或時私は『小さい此身体を雲程の大きい御慈悲につつまれたような感じが致します』と申上げたれば、貞信様は『そんなことはどうでもよいのじゃ、称えるのじゃ、信じて称えるのじゃ』と仰せられましたとはこれも操子の物語である。  

一七四、佛前で丸裸の念佛      
 貞信、或時越後にて同信の友達を尋ねたりけるに、夏の頃とてその友達は丸裸のままにて佛前にて念佛していたが、貞信の入り来るを見て言うよう『湯から上って余り心地よいにつけ、佛前で念佛していました、如来様は様はうちの御方じゃでよいが、タマに来られたお前に恥ずかしい』といいたりけるとぞ。  

一七五、受けるもの信ずるもの      
 新治にむかい、貞信問うよう『近頃何か聞いたことはないかえ』と、新治答えて『そうじゃ、仰せを間違いないと受けるものはあれども、仰せのまま信ずるものがない』と言うたので、貞信『ここぞ』と深く感じけりとぞ。  

一七六、自己の問題      
 或人貞信に『私はいかに聴聞しても明かになれません、一層他宗にでもなって念佛三昧してセメテ化土までも往生したい』と歎き聞えた。  貞信曰く『きかれぬゆえ如何したればきかれることやらと心配する人もあるのに、聴くことに障りがなければ、又聴くことをやめるなどと小言をいうような私になり』と、我身に引き受けての尊き物語りがあった。  

一七七、薄茶      
 或日手次寺裕然師、日没後に貞信尼の宅を訪う、尼喜び迎えて早速到来の薄茶の缶を出し『是は此の間東京の御方(本間録郎氏)より送って頂いた御茶でありますが、自分で口切するも勿体ないと思うてそのままにしておきましたが、幸い今夜は尊方がお出で被下たで口切を差し上げて私も御相伴を致しましょう』と将に茶杓を採らんとした、祐然師辞して『夫は折角御馳走のことなれども夜分に銘茶を頂きますと兎角眠損うて困るから明朝戴くことにしましょう』といえば、時に尼は両手を拍って嘆じて曰く『夫は御結構のことであります、私も薄茶などは好きでなかったのが、眠損いたい許りにて無理に呑み初めましたが、近頃は段々と悪い癖が付きまして、何程飲んでも眠損われませんで長の位置や御恩の称名に懈怠して眠ってしまいますので申し訳がありませぬ』といわれたので、祐然師返す言葉もなく只ゝ慙愧の至りであったという。       貞信は壮時夜中に称名の絶えるを恐れ何卒して眠らぬようにと茶碗と薄茶を袂より放さなかったということである。

一七八、称える自力称えぬ自力      
 巻町(新潟県西蒲原郡)の某老女、祐然師に告げて曰く『私も貞信様の御勧めに依ってしきりに念佛を称えましたが、親切な同行が来てお前は其様に念佛を称うは結構なれど、若も自力になって往生を仕損じては大変じゃと言うてくれました故、私も近頃は念佛称うるをやめました』と、そこで祐然師老女に対し『自力他力は称うる念佛に依るのでない、称うるに心にある所以』を懇示して千弁萬語を費やした。後の時貞信に逢い右の始末を物語りしに、貞信大いに嘆じて曰く『それはまあー気の毒なことでありますね、何ぼ自力でも称うる自力はまだよいが、称えぬ自力ではほんとに仕方がありませんものねー』と。  

一七九、銘剣の持ちどころ      
 才津村(新潟県三島郡)の水澤何某に、貞信語りて曰く『ナンボ正宗の名剣でも先を持てば落ちるし、真中を持てば手が切れるし、ツカさえ持てば何程の敵が来ても持った刀で怪我する気遣いはありません、只ゝ勅命の手元につかまりて念佛する外はありません』と。  

一八〇、信心勧れば遁げてしまう 
 或時、祐然師に貞信語りて曰く『御当院様、極楽へ参りたいとも思うていぬものに、御信心戴けなどゝ無理に勧めてくださいますな、皆逃げてしまいますからね、どうぞ其様のものには念佛の尊いことをどこまでも聞かせて下さいませ』と。  

一八一、五乗院講師の教化
 或時、祐然師に語りて曰く『尼は五乗院様の御説教をたンだ一座おぼえております、五乗院様が御講師様におなりになされて「もー京都へ上った上は学問と討ち死にするつもりだから、二度と江戸へは帰らぬ」とて御出立なさるるので、永ゝ御育てをこうむった江戸の同行衆が御名残を惜しみ「ドウゾ御別れの御説教を」と御願い申したので「爾らば明日出立の晨朝に一座説教をしてやろう」との仰せに、江戸中の御同行「今日は五乗院様の御説教の生涯の聞きおさめ」と、未明より御堂一杯につめかけて、今お出でましか今お出でましかと待っていたに、四つ時近くになりて漸く高座へ御登りになりました、其の時の御説教が「皆々早朝良い参られて奇特のことである」是は御挨拶の御語でありました、ナンボ御講師様でも未明からつめかけているのでありますものコレ位の御挨拶はなさらねばなりますまいが、其次の御語に「特に壇上に御立ちかかりの阿弥陀如来様はお前達の罪の持ち合わせの身代ありだけ引き受けて助けてやろうと仰って下さるから有難う喜んで念佛さっしゃれや、法座はこれまで、五尊に御礼をとげて退散致されよ」と早や高座よりお下りなさるる。その下り際に「併し罪の持高減らしてはすまぬほどに」と言い残してサッサと御立ちなされてしもうたので、沢山の参詣人はまだ讃題でも始まった計りと思ううちに高座よりお下りなされたから、驚いて「御講師様はどうなされたのじゃ」とドヤドヤいうので、高座のもとに参っていた耳の堅い同行が一同を鎮めて「もー御説教は済んだのじゃ」と知らせた一同はいよいよアキレ返り「早や済んだとはドウしたのじゃアンナ短い説教があるものか」と苦情をいう、そこで前の同行一座に向かい「おまえたちは長い御話しでさえあればありがたいと思うが、今朝の御話しは誠に短いことではあるが、至極ありがたい御説教であったのじゃ」という、一同は其様なありがたい御説教を我々は聞き損じて残念である。ドウイウ御話でありましたドウゾ知らせて下され』というので、前の同行はサレバ今の御化導は「皆々早朝ヨリ乃至スマヌホドニ」との御示でありたよと取次した、一同「ソーであったかソースレバ我々も有難う戴かれた」と善知識の御講師様はモー座敷に御衣を脱いで御座るころになってからヨウヨウ一同がありがとうなりかかつたというおかしいことでありました。       然るに御堂中の五十三の同行から不審が起こって、「今日の御説教ではタノム大事の一念がわからぬ、如来様が罪の有るだけ引き受けて助けてくださるるという位のことでは信の一念がどこに立つか」と随分面倒になって来ました、御講師様は何の御存知もなく御急ぎの御道中のこととて、早や御駕籠はご出立になり、槍まで立てて下に色々と、御盛んな御道中でありましたが、御堂の議論はとてもかわかぬという有様、そこで一人の男が是はこうして議論している場合ではない、今聞かねば生涯聞かれぬ一大事と思い、裸足のままに飛び出して五乗院様の後をおつかけ、一里計りの所で群集の人をおしわけて御駕籠にすがりました、五乗院様は御駕籠を止めさせられ自ら御戸をあけさせられ「何ぞ不審がありて来たかや」との御尋ね、ソコデ今の男は大道に下座し申すよう「今朝の御化導誠にありがとう戴きましたが、どうもたのむ一念ということがわかりませぬので参りました」其時御駕籠中よりの御さとしに「おまいたちは漆で付けたように、しっかりとして参るつもりだが夫はどうもならぬので、このぐらぐらとした心中のままで引き受けて助けるゾーと仰るのじゃが、こう聞いたら左程悪うもあるまいがのー、いやなら早く断りをいわれよ、断りがおそくなるともう佛になってしまうぞ」と仰せに、今の男は「ははあ・・・・」と感じ入る姿を五乗院様御覧遊ばされて「親爺それが早や歓喜の相じゃわい」と仰せられたが、今の男はまだ腹に落ちかねて「そんなら一念の立場はどこにあるので」といわせても果てず五乗院様「何をぐずぐず言うて居るのじゃ、一念の立場はおまいが今ハハーと云はぬ先にすんでいることじゃがや」とおさとしなされたところ、今の男は大道にひれ伏して今日までの心得ちがいをあやまりはて涙にむせびて御別れしたとのことであります。       此時に五乗院様は生き佛でござる、という評判が立ちました、そのわけはドコの人か御存知遊ばさぬ今の男に「漆で付けたように云々」との御示し、その御示を受けたとこは塗師屋でありましたので、いよいよ深く感じ入ったわけで、生き佛に在さねばかかる適切のお話はできるわけではないと諸人の取沙汰でありました。私もこの五乗院様の御説教だけは余りの短いので今に忘れませぬぞ云々』と。

一八二、矢張高慢のままの話が
 三河国の仰信者七三郎、御開山の御跡をしとうて越後の御旧跡を巡拝し、刈羽郡の三郎左衛門に向かい『越後は祖師聖人の有縁の土地で信者も沢山御座るであろうが、長ゝ御旧跡を巡ってきたけれども私が運の悪いのでありがたい信者に遂に一度もあわれなんだ』と言う。そこで三郎左衛門曰く『私も関東初め諸国二十四輩もまわって見たが実にありがたい信者は一人もなかったね』其時多惣次なるもの、三郎左衛門の言葉を咎め『信者は一人もなかったとはイカニモ高慢な話にならぬかい、同じ話をするのも七三郎殿のように私が運の悪いので逢われなんだというてほしや』と申せし時、傍にいたりし貞信曰く『イヤイヤ信者のまねなどするよりは矢張り高慢のままの話が、ソレデヨイソレデヨイ』と。  

一八三、貞信の自督  
 刈羽の新澤村の彦左衛門(明治四十四年八十八歳にて在命)我身の不束なる自督も云わず、源三郎と共に突然貞信に向かい『あなたの自督を聞かせて下され』と申出せし時、貞信は暫く黙然としていたが、やがておもむろに語りていわく、『どこぞに檀那様の少し貧乏になりかけた家で、年齢などは七十でも八十でも良いがやもめ爺がござられたら、私を後妻に世話をしてもらいたい、是が私の自督であります』と云々。  

一八四、深く相手になられぬ人
 貞信或時、語って曰く『江州臍村の膏薬とて名高き膏薬屋の老母は厚き信者でありましたが、この人のいわるるには、たとい座敷へ御話に出ても念佛の声の先に立たぬ人には深く相手にはならぬと思えと時々聞かせられました』云々。  

一八五、無愛無疑
 貞信曰く『江州彦根の大徳の仰せに、折角遠方より参詣しても御座が欠けてあわずに帰る時に、ツマラヌ事であったと口説の山をなすは並々の同行であるが、たとい御座に欠けてあわれずともいよいよ難値難聞のことを知らせていただいたとシミジミと御本尊様に御礼を申し念佛して帰る人こそ、余計な物集めせぬ信者にして、無愛無疑とは あらはるるというはこんな形を仰せられたのじゃと教えて下されました』云々。  

一八六、三斗刻の長老   
 三河遠江の堺に三斗刻(さんどばり)という名高き浄土宗の寺あり、此寺に六字の名号を刻みし大なる石碑あり、この六字に三斗の水を入るる事を得る程の大字の刻まれてあるが珍しくて三斗刻の名あり、住職は無二の念佛行者にて、貞信其行化を慕い、数日此寺に宿りて念佛修行せし折柄、此寺の長老に心得善からぬ一人あり、ある夜貞信の寝間に忍び行き、浅ましくも情を通ぜんことを求む、貞信気の毒に思い、懐中より    円金一枚を出し、懇ろに自身の応じ難きを述べドウゾ此金にて茶屋楼に遊ばれんことを望む、長老は恥じ入りたるにや円金を受けとらずして去る、日を経て又この事ありしが、すべて前の如くに終わった、その翌年のこと今の長老京都に上り、本山知恩院へ参りしに、自身の名義にて円金二枚の寄付札の掲げあるに驚き、何人が此金を上納せしやと役僧に訊ねしに、四十歳近き背の低いこれこれの姿の尼が来て三河の御出家某様より御預かり申し来れる金なりとて、先般上納せりとの話にて、サテハ貞信尼がと思い付き、長老イヨイヨ慙愧やる方なく、大に発心し、表裏相応の堅固なる念佛行者とはなれりという。  

一八七、如来様の覚悟を  
 身の国の某同行数年聴聞の甲斐もなく安堵の思ひに住しかね、末代無二の信者は貞信尼なるを聞き及び、態ゝ百余里の道を運び越後に尋ね入り、漸く貞信尼逢い、慇懃に来意を述べ『ドウゾあなたの覚悟を分けて聞かせて下されませ、私も同心させて戴たや』と願いしに、貞信は大に驚き『夫は折角遠路より御尋ねでありますが、私如き卑しいものの覚悟なんどが、何で御話出来ましょう』と敢て語るところなく、只佛のみを称えいるので、某はイヨイヨ困り果てて、『この身が聞法の器でなければこそ聞かせていただくことの出来ぬ哀しさよ』と恨めしげに歎きければ、貞信曰く『私の覚悟などをお話したとて何になりましょう、何にもならぬ私の覚悟なんどを聞いて下さるより、如来様の覚悟を聞いて下されや、この如来様の動かぬ覚悟たった一つにて』とかたりだせしときなにがしは忽ち大悟徹底して廻心懺悔の涙をこぼし安堵決定せりという。  

一八八、老婆盗難を喜ぶ  
 貞信語って曰く『私の知人に江州の某老婆があります、この人独身ものにて念佛を深く喜んで居られましたが、或夜覆面の男一人忍び入り、老婆を起こして金を貸してくれと頼むので、老婆は「何程の金が入用でありますか」と問う、件の男は「有り金残らずたのむ」というので、老婆は「ヨクヨクの御難儀がござればこそ夜分くして来られたのであろうに、哀しや沢山の貯えもなし」とて財布残らず取り出せしに、二十円あまりあったので「コンナ少しの御金では定めて足りますまいがドウゾ私の諸道具中何なりとも用立つ品があるならば遠慮無しに御持参下さいませ」といいつつフト老婆は思い付き「ああ捨てていく此の世の為にさえ此様に寝ずに働く御方さえ御座るのに、永の後生の一大事を助けて貰うた私が何で寝てなどいられましょう」と、其男にはかまわずに早速御内佛に御燈明を上げて余念なく翌朝まで念佛せられたがやがて夜も明けぬれば、御佛飯でもたかんものと、佛前より退けば夜前の男はいつのまにか立ち去りしが、金子はそのままに置いてあるので老婆はイヨイヨ気の毒に思い「折角出してあげた此金を私が念佛のみしてあしらいが悪かった為に取らずに行かれたは残念やなー、昨夜のお方は善知識、御陰で念佛喜ばせて貰いました、御礼の為に此金を御本山に上げましょう」とて直に京都へ上納せられたとは、とても我々(尼自身)の真似でも出来ぬ御方でありました云々』と物語られた。  

一八九、『宿かさぬ怨みもはれて野辺の月
 貞信昔五泉町(新潟県中蒲原郡)本間啓吉なるものに嫁したりしが、やがて破鏡の悲に逢い、十九歳を一期として娑婆に用事の身を離れ、剃髪して念佛修行の身となりき、老後同地に至り啓吉の店前を過ぎる度ごとに、大道の中より同家を拝み、黙語懺悔して曰く『私はこの家を離縁さるる時、鬼より恐ろしき姑さんよと御恨み申した事の勿体なさや、若し此家の姑さんが可愛がりておいて下さろうものならば、今頃は孫や子供によりかかり果て、後生も菩提も知らずにおったであろうに、ああここな姑さんは私にとっては大の善知識アレホドニ迷うて居たかった私を無理やりに後生にもとずかして下された大恩のある御方を御恨み申せしことの哀しさや』と人目も厭はず感謝の涙にくれ果てしこと再三なりしという。  

一九〇、離縁の事情      
 貞信が嫁入りした五泉町の本間啓吉というは、本家本間新作の番頭の新家を持ちしもので、舅姑があったが何処にもあること、姑が意地悪でいつも貞信を苛めた、貞信は八幡の社へ毎日歩を運び『もし因縁ならば母の心の和らいで一生難のないようにして下され』と祈ったとあれば、いかに後生に目覚めた女でも、相当に嫁たる道をつくしたに相違ない。       然るに夫は商用で留守であり、其妹に密夫があって、貞信と枕を並べて寝ていたるに、夜中に密夫が来て手探りに取り違えて貞信の頭を撫でた。まことに晶々として潔き雪子の貞信が心に、到底忍び得られる事情でない、又姑の心は少しも改まらず、かかる場合に万一姑から難題でも持ち出されては申し訳がないと、『それで若しも此家に縁ならば一生無難にして下され、若しも縁なき身ならば早く早く離縁して下され』と祈ったのであった。終いに病の為に不縁となってからは、貞信はモウ五泉の地は踏まぬと決心し、飽くまで意志の強い女であったから、五泉の町へは足を踏み入れず、そこを通らねば行けぬから手次浄林寺へも参らなんだとある。されば前条の記事は老後のことであったに相違ない。  

一九一、光西寺の老僧      
 江州石田の酒屋の老母が、ブマの光西寺の老僧に尋ねた『わしは五十を過ぎたら念佛三昧で居たいと兼ねて思うていたが、只今では念佛がちぎれちぎれで誠に浅ましいことであります、いかが致しましょう』と申上げた。       其の時老僧こたえるよう『それは大事なことじゃぞな大事なことじゃぞな、わしは若い時から姿には衣を着袈裟をかけて、門徒教導は看板にしてきたのじゃぞ、心の内には、どうもならぬがどうせいヤレヤレと、一堤げさげて、片方には娑婆の五欲を一提げさげて、上げも下しもならぬなりで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と頂くばかりで、今度の凌ぎはさせて下さりますの』と仰せになったと、いつもいつも貞信は物語った。  

一九二、尾州大野の老僧
 尾州大野の或寺の老僧、齢は百余歳で、老耄せられた後も、いつ行っても千篇一律、同じことを言うて聴かせる、それは   『わしは若い時から、後生の大事が苦になりて、名所旧跡参らぬ所もなく、名僧知識尋ねぬ御方もなく、知識を尋ねて長崎まで渡ったが、ただ誓願の不思議に助けられて往生をとぐるなりと信じて念佛申すばかりであった』。   といつも同じ事のみ言うていられたと、これも貞信の常の物語であった。

一九三、箱根の一夜
 明治四年の頃、御門跡現如上人北海道開拓に御下向ありて、御帰京の時、貞信は脇野町(三島郡)妙恵尼と共に青森まで御迎えに出て、始終御駕籠に従い御道中の御召物の用意等を承りしが、江戸よりは御共勢も大に増し箱根に御泊りの夜は旅宿少うして尼達の宿るべき家もなし、依りて妙恵と共に野宿をもして終夜念佛せんと覚悟した。時しも中秋の月空に澄みて、月明かりに道を尋ねつつ山に入りしが怪しき小屋に老夫一人にて焚き火しつつあるので、一夜の宿を求めしに、老父は『何の食事も夜具ももたざればそれで辛抱が出来るなら泊まられよ』と言う、両人喜んで其家に上がり炉辺に座して念佛せるが、老父は炉中にある指の如き大きさの薩摩芋を五つ両人に与えたので、これをあぶりて夕飯の代わりと食し、旅の荷物を枕として共に念佛せしが、いつとなく妙恵は眠りて念佛の声も出ぬ、貞信は冷たい手を以って妙恵の腹をなで『ドウダイ目を覚まして念佛申すまいか』と引き立てられしが、妙恵は又もやいつか眠り出す、貞信は又もこれを引き立てていうよう『妙恵サ目を開いて見やっしゃれ、家の内に寝ていてアレ御月様が見ゆるがや、生涯給金取らずに暮らす人でさえこの様の小屋に辛抱して送る親爺も有る事じゃに、我々どもは後生不足のない大きな給金を貰うた身の、此アバラ屋に不足はいえぬ、せめて一夜の宿を貸して戴いた今晩は寝ずに念佛して働きましょうぞ』と夜もすがら称名相続せりという。(妙恵より祐然師へ直話)  

一九四、深い地獄へ落ちる身      
 貞信の家内のもの打ち寄りて取り取りの話しせし或時『治郎吉(同族)様の内は身代には何の御不足はないが後生は一向御願いなさらぬは誠に御気の毒のことよ』と嫁が言うた。 其の時貞信は打ち驚いて其言葉をさえぎり『姉さん姉さんお前は何を言うてござる治郎吉様の御方々はたとひ死んでも左程深い地獄に落ちる気遣いのないのじゃから、  如来様が後回しにしておいでおるので、私とおまへは今ここで取り外せば底のない深い地獄へ落ちる身じゃから如来様が取り急いで私共の方へ先に手をかけて下されたので、ホンニ思えば私共はあの御方々に申し訳のないほど浅ましい悪人であるのじゃから、夢にもその様の事は思うて下さるな』と誡められた。  

一九五、称名正因といはれては      
 巻町渡辺大半の老母は、常に貞信に随喜の人でありしが、世間のものが貞信尼は称名正因なりと誹謗するを聞いて、衷心甚だ残念に思うている所へ、貞信ブラリと、巻町へ来られる途上にて老母にであい『オヤマヤ珍しやあなた様ドチラヘ御出でなされました』と尋ねたるに『尼は国上の御寺に宿がりして七日計り念佛を称えさして頂いて、今日は巻町まで参りました』と言うに、大半の老母は『アラ情けなや貞信様あなたがソンナ事をしておあるきなさるから、世間の人は彼方様を称名正因じゃと言いますわ、ホンニホンニやめてください』と口説きけるに、貞信尼はいと嬉しげに『それはマア私のような懈怠者、正因になる程称えた覚えのないものを、称名正因と言うてくれる人がありますかい、ソー云われて見ればいよいよ称名を励まねばなりませぬの・・・・』。  

一九六、他人交じらずのお話      
 巻町大半の老母と古寺氏の家内とを集めて、貞信は『今夜こそ他人交じらずの御話をしましょう』というて、しきりに念佛しつつ余言なし、両人は『他人交じらずの御話とは』と暫く不審のまま念佛してありしが、貞信曰く『何にも云わずに念佛一つをかく称えさしていただくのが、他人交じらずの御話であります』と。  

一九七、病気見舞に行きては      
 貞信の親族田代老母、病気危篤にて、嫁のらく子見舞に行かんとするとき、貞信は嫁にいうて曰く『病人の所へ出たら苦しいかの難儀であるかのと問わんでもよい、夫はきまった事であるから何にもいうに及ばぬ、只病人の頭の佛様の肉髻相のあるところを拝んで念佛三遍、次に左の眉、次に右の眉、次に左の目、右の目、夫より左の耳、右の耳、次に鼻、次に口と此十ヶ所を次第に拝みて念佛三遍ずつ称えてやるが何よりの見舞にて、ソーすれば病人の苦痛も薄らいで来ることじゃから、必ずその通りにして下され、併し側に人がござって拝みにくかったら、心の内に拝んで口の内に念佛して、人目に立たぬようにして下されよ』とくれぐれも教えけるという。  

一九八、たわ言にも御相続      
 貞信、往生の三四年前瘧(おこり)を患い、発熱の為『アア熱いアア熱い新津まではどの位ある』と汽車にでも乗っている夢心地の中、たわ言に御相続の詞、嫁に言うと思うたれば自らにいうので、香月院様の御化導とて『妄念妄執の心を止めというにもあらず、と仰せらるるで、かまいないほどに、ほっておきなされほっておきなされ、おまいのようなグズグズと言う者は世界にタントあるわいの、わけのある者のように思うて居ったのに、わけのわからんなりで助けて下さるると喜ぶのがイッチ有難いことだわいのう』と言われけるとぞ。

一九九、臨終の事      
 貞信臨終の模様について、楯吉妻女より聞けるままを記さんに、明治四十四年二月 二十六日夜までは無事で食事も家族と共にしていたが、二十七日頭痛の為に床ばなれおそく如何にせしかと庵室をうかがえば、帯を解いて炬燵に在り熱も高く平生と様子違えば、驚いて医師を迎え診察を乞いたるに流行性感冒とのみたてであった。翌二十八日は軽快、両日は米の粥を摂取した。三月一日夜もそば粥など食したれど、医師の診断では肋膜の気あれば一週間は大事にせよとのことであった、二日三日は何の変わることもなく、四日夕方になって少し様子がちがい、更に医師を迎えたるに『知らせる所があるなら知らせよ』との注意があった。五日も昼の間別にさわりがなかったが、夜の十時ごろから苦しうなって不眠の状におちいった、医師の勧めにより其夜遅く諸方へ危篤の発信をした。楯吉長男郁太郎が水を呑ませると、貞信は大変に喜んで、水を呑む毎に、        
 唇をぬらす末期の水筆を これ忘れするなよ南無阿弥陀佛    
  といいながら『この水の味いだけはいつになっても変わらない、コンナいきいきした水をどこから汲んできてくれるか南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏』と喜んでいた。又子供などが内佛の御勤めなどする時には、病室で助音などする事もあり、『今助音なされましたの』と尋ぬれば『わしは何もわからぬ、夢に助音したかのう』といふ、又重き枕の間にても、微かに聞ゆる詞は香樹院様の御法語だとて『誓願の御不思議で御助け下さるるわいのう、王法も仁義もドッチも大事じゃでのう』といわれた。又、『誓願の不思議で助けて下されるということさえ知らせて頂いたらそれで充分じゃ、あとは念佛するばかり』と独言とし、又其から『通徳寺様通徳寺様』と言うていられた。 六日未明に昏睡状態におちいり、静に人のさわらぬようにねかせておいた。何となく大事の模様にて家内中が心配した。其夕方に小松原操子来たって看護の手伝いをした。何やら口をきらずに言うているが解らぬ。その夜九時ごろに『阿弥陀経』一巻を常よりも大声にて読み始め、若一日若二日の所など指折り数えて読みおわったが其れよりは顎が下がって唇がただ動くのみであった。十時頃全く床を離るばかりにムックリ起きて、操子が諸手に抱かれ、かけたる着物を払いのけ払いのけ只口にウンウンという微かな念佛の声のみである、ただフックリとした顔の気色で、衰えた相はない、十二時頃楽にさせる為に医師を迎えて注射して、静に横に寝させた。おおよそ三四時間の間昏睡が続いて医師は、夕方までは大丈夫とのことであったが、ついに七日の午前八時十分に往生せられた。十一日に葬式が行はれた。平生御縁におうた身はいずれも集まって母親にわかれたように悲しんだ。

二〇〇、手柄は弥陀に(書簡八)      
 日々いかがあらせられ候やらんと、おあんじふし上候ところ、御文下され、あんしんいたし、ありがたくはいしまいらせそうろう。わたくし事は佛ぽうげもなけれども、おじにわかれてかなしさのあまりに、ばん事をすておき御念佛ばかりをちからとして、 日ちやをおくりもうし候。あなた様には、わたくしのやうな佛ぽうげもなきものに、御たづね下さるよりは、にょらへ様に御たづね下されませ、おふたかたににょらい様はそのままでみだにたすけられて、やうごうのてがらをみだにさせてくれと、おふせられるであらふ。   おもへつくしあんじつくして今ははや ほとけまかせとあきらめにけり     
  わたくし事は六月一五六日ごろに御めにかかりたくぞんじ候間、おさしくりなされて、御うちに御いで下さるやう御ねがへもふし上候。御めんどう様ながら此ほうめやうくわこちやうえ御のせ下されたくねがへ上申候。                       むどふしんより      ほふいつものを御さいそく   ぜんちしきの様        かへすがへすもいい文下され、まことにまことにあんしんして御念佛もふしおり よろしく佛様へ御礼もふし上下さるやう。  

二〇一、佛法に死びと、落ちるに千人力(書簡九)      
 御文下されありがたくはいしまいらせそうろう。おふせのごとく佛ぽうのことにつきては、しびとなれどもおちる事につきては、せん人りき、あけくれあなたさまは、佛だんもなきところにおきまして、さぞさぞおさむしゆいらせられさうらはんと、あけくれわするるひまもなくおもいづめ、いきなき事をおもふより御おんをおもふて御ねん佛申せば、あなたさま佛も御よろこびとぞんじながらわすれ、いかなおろかなわたくしに、かかる御ぢひの御たまづさとは、佛さまより御てまはしと。       
 ひかれよくちかへやはあるありがたく  みにしみてみるきみがたまづさ        ひかれよくここちこそするもらさちの  ちかへのふねかきみがことのは      
はづかしながらわたくしこそ、よくからだばかりをだいじにおく、ねまきなどたくさんよせおき、おなさまのところへおくりたへほどありますゆへ、たへしてふじよふはいたしませぬゆへかならずかならず御しんぱへくださるまじく候。 佛だんはわたくしのおもいどふりにいたせば 、四五か月もかかりますゆへ、ふるきものをかへうけ、しふく一月じゆにして、二月にはさうさうその御ちへまへ(る)こころづもりに候へば、さやうおぼしめし下さるやう御おねがへ申し  六かじゆみづまへをすまし、それよりない佛をみまはり、やうやう廿八日御日中にまへり、廿九日に御文はへけんいた(し)すぐに御へんじ候ゆへ、わかりかね候とも御さつしの上御くみとり下さるやうおねがへ申上候。      
  むどうしんより   めへどうの  ぜんぢしきの  御もとへ      
 ふまりやうしとも、しよもつはなになりとも御らんにいれ候やうおうせられ候。  

二〇二、三師の化導(書簡十)      
 さくねんのびやうきより、まことにまことに○わすれましてかなしくもののおしへてくれるあとよりわすれまして、あなたさまの御てがみはいけんいたしまして、おどろきいりました。わたくしもこうじゆいんさまにも、つうとくじさまにも、御えんがありましたが、じょうきょうののぼりのせつ、御どうぎゃう三人つれて、ふたばんつうとくじさまに、とめていただきました。そのとき御らふいんさま、御びやう中のなかより、おまへたち、念佛申ていさつされ、念佛申ていると、によらいさまがおもいだしてよい事はおもいつかせて下さるし、すててよいことは事はすてさせて下さるゆへ、せへだしてとなへなされ。御いちごんいただいでかへりました。  こうじゆいんさまは、むだいきつかわぬやうこころがけて念佛申せとおふせられました。御うた        
 念佛のこへだにくちにたへせづは  みなよりひらく信じんの花      
こうじゆいんさまの御ししやうこうぐわついんさまの御うたに        
 くちにただ南無阿弥陀佛をとなふれば  みなよりひらく信じんの花       
おもへいだしてみればみるほど、そうまのおしへをおもちなされたならば、みなみなさまおしへにかなふやうになられましやう、わたくしもそうまさまのおしへもこうむりましたゆへ、わたくしのはらぞこは御ぞんじゆへに、わたくしにおたづねなさる事があるならば、どうぞどうぞそふまさまに御たづね下さるやう。  

二〇三、一蓮院師の仰せ      
 『このたびの浄土参りは、如来の仰せに順うばかりなり。仰せに順うとは、仰せを聞くことなり。仰せを聞くとは、仰せの通りになることなり。 その仰せとは、おれが助けてやるで念佛申せ、おれが往生の大事を引き受けてやるで念佛申せの仰せなり。 其れをお受けして、一生涯念佛申すことなり、お助けを喜ぶことにあらず、お助けをたしかに思うにあらず。お助けに助けられて、ただ「南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛」 』と示されたことであった。  

二〇四、口から火を吐く同行      
 近江長岡に、大変御念佛を喜ぶ女がいるというので、貞信はわざわざたづねていった。然るに其女のいうのには『来てもただお念佛称えているのならよいけれど、有難い御法義のお話などするのなら折角だが来て下さるな』というので、貞信は『それならばお念佛の外には、何も申しますまいから』というて、其女と一緒に毎日念佛称えていた。 或日、貞信は其女にむかい、『どうしてその様に念佛称える身となられましたか』と尋ねますと、其女の語るよう『実は私は良人を持って、沢山に子供もありましたが、良人は至って佛法に熱心でいつも御座参りばかりいたしますのに子供等はみんな私にブシつけて、自分ばかり聴聞に出ていました。それで自分はつまらぬ、此様に毎日子供の世話ばかりしていて、少しも聴聞できぬとはと、いつも歎いていましたが、どうしたことかいつも寝てから結構な夢をみることがたびたびありました。ある夜の夢に、良人が他の同行と何か語り合うているのをみますると、二人共口から炎を吐いています。ああ怖ろしい、我慢や勝他の心で、参詣したり佛法の物語すると、あの様に口から火を吐くのであるか、ああ自分はただ念佛していよう。参れずとも佛法のお話せずとも、念佛ばかり申していようと、それからは斯うして念佛ばかり申す身となりました』と物語られたということである。  

二〇五、文七如来      
 これも江州佐野に発願時という寺がある。編者も嘗てその寺の傍をくるまで通った覚えがある。ところで今は春、その寺に文七という寺男がいた。実直に働き、しかも無欲で法義を喜ぶところから、皆が『文七如来文七如来』と呼ぶのであった。 檀家に葬式があると、道師の背後から朱の大傘さしかけるのが寺男の役目であった。そこで文七大傘さしかけていると、葬式のお勤めが高調に達し『如来浄華の聖衆は正覚の華より化生して』という所へいたると、文七モウ我を忘れて『そうじゃげな、そうじゃないかそうじゃないか』というて調子ずいて踊り出した。その踊る姿が余りに滑稽なので、会葬の人々皆がどっと哄笑してしもうた。厳粛な葬儀の席も朱傘かついで踊る文七のため、全くこわされてしもうたから、寺へ帰って住持は、所がらもあろうに、何とした所行であるときびしく意見せられた。文七謝り入って、今後決してそんな真似は致しませぬからというので、其次の葬式にも例によって大傘もちに伴れていったところ、またもや『如来浄華』の和讃になると、感激の余り踊りだしてしもうた。まことに不都合ではあれど、有難さの余りであってみれば、寺を追い出すわけにもいかず、それからは他の男を傘持ちに雇うて、葬式には文七を伴れていかないこととしたという話である。  

二〇六、貴僧も見ていたか      
 この文七、寺にいて或夜の事何となく挙動が怪しい。最前からそれに目をつけ、陰からのぞいていられるとも知らず、抑え難い性欲にかられてか、文七は下女のやすんだ 部屋へ夜這いに行こうとしたが、その途中フト『如来様が』という自責の思い入れして、そのまま己が部屋へ引返し、蒲団の中で正信偈六首引きのお勤めしていた。 さて翌朝になって、住持が文七に向かいて『昨夜遅くお前何しに起きてきたか』とたずぬれば、文七もう恐れ入って『見ていて下さるのは如来様が見ていられると思うたのに、御住持あなた様まで見ていられたのか』というて謝ったとの事である。  

二〇七、毎日が報恩講      
 或日この文七が広庭の掃除していた、ところへ檀頭の一人が忙しそうにやってきて『文七さん、明日は宅の報恩講、念に一度の御佛事じゃ。餅もつかねばならず、お花もあげねばならず、障子の貼換え、家や庭の掃除、そして諸方への案内やら、こうしてお寺への招待、それはそれは大儀のことじゃぞえ』と言えば、聞いていた文七『なんじゃ年に一度位の報恩講、そないに大儀がるということがあるものか』と嘲った。すると檀那はムッとして『年に一度ぐらいと言うけれど、マサカ二度も三度も報恩講つとめる家もあるまいが』といえば、文七すぐに『あるともあるともおれたちは年中毎日が報恩講じゃ』というて、威勢よく寺の庭を掃き清めるのであった。  

二〇八、わたしは、気ちがい(書簡十一)      
 いちれんいんしさまの、ごぞんめいのうちに、なんでたのみのこころを、おききもふさなんだと、御いけんをこうむり、あまりあまりこうくわいやら、のこりおふくやら、もりやまのはたごやにて、いちやなきあかしました。あくるひに、ひのきばやしのところで、こくふにこへありて、たのみこころといふは、そのままたすけてやる。それがしこうしさまの御こへでござりました。わたくしのうけこころは、さてさてそのままたすけるの御よびこへが、わたくしのたのみこころになるのでござりましたか、ここがにょらへさまの、たすけずばおかぬとある御こころの、わたくしのおちたるたましいへおとどきくだされたので、ござりましたかと、いただきあげて、あまりあまりうれしさに、おふごへあげ、なへておりましたが、いちにんのおさむらへ、とふりかかり、おまへはおなかでもいたむのか、またはどろぼうにでもあふたのかと、おたずねゆへに、めんぼくもなし、わたくしはきちがへでござりますと、もうふし上げたれば、きちがへきちがいとしられるのなれば、けつかうじゃとおふせられました。        
 さてこん日もおめでとふ       なむ阿弥陀佛        
 (この一通の書簡は、江州日野の野田たづ様から、編者へ寄贈せられたもの、前に出せる第一一〇条と参照せられたい、宛名も自名もないけれど、尼の自筆である)      

二〇九、龍田の清林寺      
 大正五年十一月十二日に、野田たづ様、編者の宅を訪ねられ、そのとき貞信について 色々とお話を承った。貞信京へ来て初めは清林寺様の化導を受けていた。この方は藤枝 智眼と仰せられ、通徳寺様と同じく総会所の示談方をおつとめになり、漢籍の学者であ って、宮原木石翁も『通徳寺さんに清林寺さん程の学力があったら、鬼に金棒だが』と 言われた。 貞信はこの清林寺に教化にあずかっていたが、ツイ死去せられたので、通徳寺様を訪ねて教えを乞いけるに、その時通徳寺の仰せに『お前はここへ出てきたが、一大事の後生はよそへおいてきている。ただ清林寺が死んだからというので、これからおれに聞かしてもらいたいというのであるか』との厳しい御意見であった。貞信恐れ入って頭が上らず、それから心を傾けて通徳寺の化導を受けたとのことである。  

二一〇、念佛を大切にせよ     
  この清林寺も常に念佛を勧めて、総会所の御糺しでも、同行の領解に対して『それでは称我名字の御誓いということを疎かにしている』と叱られた。その叱られるお詞に何ともいえぬ力があって、頭に響いていつまでもとれなんだということである。病中の述懐にも『極楽を急ぎて願ふこころなし、わすれずはげめ口の念佛』とあった。       どうしたことか、中風をわずろうて、物が少しもいわれぬようになってしまい五十音の書いたのを見せると、字を拾うて用を足す、その拾うた文字が「オネンブツヲタイセツニセヨ」というのであった。  

二十一、滋味を避ける      
 たづ女ある時、月真院で会うたれば、貞信のいうよう『先月来た時に、好い肴を下さったので、お陰で腹の工合がようなりました。けれど、只今或人が死んだので精進してるゆえ、今度はモウ下さらないよう』という、それでお精進のおカズをこしらえてあげた。後の日に訪ねたら『先達て下さった精進もの、月真院の後生が病気で、出養生していられるから、あんたの名をいうて、少しでも手をつけたらあげられぬから、其のままに差し上げました。したらこれをあげてくれよとて海苔を下さったから』という。このように尼は、こちらがどうぞ食べてもらいたいと思うても、なかなか食べてくださらなかった。       

二十二、新太郎と貞信      
 あの新太郎というは、一蓮院の若党であった、初め二十四輩巡拝の旅に出て、、信根を養おうとしたが、一蓮院のところで若党が入用だということを聞き、それなら一層一蓮院の若党となって常随給仕した方が、佛法が聞かれるであろうとのことで、若党に棲みこむこととなった。 貞信も一蓮院を慕い、その教化に浴していながら、新太郎とは何となう気が合わない。決して悪うは言わないけれど、師の滅後にも、一度も面会していない、それは二人共に一師の化導を受けてはいても、その戴きぶりに相異があった。それは『弥陀大悲の誓願を』の一首の和讃、一蓮院はこれを喜んで、いつも話されたことであったが、その中新太郎さんは前の二句『弥陀大悲の誓願を深くしんぜん人はみな』というのが深く心に触れて有難う頂き、貞信の方は後の二句『ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀佛をとなふべし』というところを尊く頂いていたもので、二人して二句ずつ頂いたのであると貞信はいうていた。  

二十三、貞信の好きな禅僧      
 ある禅僧、己が出離に大事を懐き、座禅を励めども悟道に入らず、一度は香樹院師を尋ねんとせしも、それよりは生如来とある善光寺へ参詣した方がと思い立ち、はるばる参詣したところ、門を入って石壇のところで、少年僧に出会い、それがいかにも尊き様子であったれば、禅僧は直ちに『出離の大事そもさん』と訊ねた。小僧答えて『ただ一心に念佛せよ』という。 禅僧曰く『妄念起こらばいかん』。 小僧『妄念起こらば起これるままにて念佛すべし』と。ここに禅僧『さてはそうであったか』と、大悟一念深く感じたれば、今まで前にいた小僧、かき消すように姿が消えてモウ見えない、『さては如来の出現にてこそ』と、それから禅僧は一心に念佛を励まれた、貞信はこの禅僧が好きで、よくこの事を話された。  

二十四、体を練る      
 通徳寺の仰せに、『信心は相撲の四十八手の如し。いかに手を知っていても、体が弱くては土俵で勝てぬ。それで体をねらねばならぬ。その体を練るのが念佛である。』と。  

二十五、責め道具      
 又同女の話に、通徳寺様はこれが責め道具じゃからとて、線香を何本も持ちて本堂へ行かれ、それがともる間念佛せられる。又いつもお経をよんでいられる。何か用事があって、中途で声をかけると、また初めから読み直させられるので、それを知ってる人は、用事があっても、声をかけるものがなかった。  

二十六、永続講のお増さん      
 永続講(東洞院上数珠上ル)のお増すさんという人も、貞信を慕うている方であった。お増すさんいつも御堂へ参詣し、自分で己が頭をたたきたたき『ああまた上へ上へとあがって、念佛忘れて』というて謝られた。このお増すさんと一緒に貞信さんの所へ行っても、念持佛の傍に大薫香があって『お前達また二三本称えて行きなされ』という。何かきかして貰いたいと思うていったのですのに、何もきかせずに念佛ばかり称えさせられた。  

二十七、無量の戸棚      
 大正六年九月十六日に京都六波羅植村弥三吉氏が来訪せられての話に、貞信は日常良い物は何一つ持たない。高台寺にいたとき、戸棚はなく、茶碗に布巾をかけておく、余りに見かねて、『戸棚を一つ買うてあげましょうか』といえば、『私は無量にあるからいりません』という。恐らく極楽にそろえてあるから、この世では何もいらぬということであったろう。  

二十八、妙忠尼の家      
 宮川の妙忠尼で知られているが、今は坂田郡南郷里村字宮司である。そこの清水忠左衛門(六十歳)はその孫である。この方は、八木濱の嘉右衛門さんの泣いた姿(第七十一条)を見たという、この方の話に尼が内佛へ参ること、日に大抵七八辺、お火をあげるは朝と晩だけで、昼も七八辺は参る。七人も子を生んだが、大抵生まれてそこそこに死んだ、これも尼と同じく佛様を大切にし、彦根から来た良人も信者となって目出度い往生をとげた。今の主人も母に死なれてから真実後生大事に驚きを立て、御文様を有難く頂き『どうか信者の人にあいたいが、あわれぬゆえ、どこぞにあったら知らして下され』というていられたとのことである。  

二十九、尼の語      
 貞信がいつも妙忠の家へ来て、別れの時に『お念佛をとなえておくれ、どうぞお念佛となえておくれ』という。別にそれほどのこととも思われない。そして『類火をするとも火元をせぬやう、悪口言うな、腹立ちするな』というくらいのことで、外の事は言はぬ、念佛に腹がふくれているゆえ、外の事は言わなんだのであろう。  

二二〇、とんだことですなあ      
 通徳寺いつも妙忠の家へ遊びに来る、遊びに来ると大抵一晩は泊まる、たまには二晩も泊まることがある。どんな御挨拶かというにお出での時も『とんだことですなあとんだことですなあ』という。帰られる時もまた『とんだことですなあ』という。とんだことですなあとばかりいうて、ただお念佛の外に余言はなかったとある。 妙忠はいつも『お念佛を称えさえしたら、大悲が袖や袂をお離れなされぬ』ということと、また『類火をするとも火元をせぬよう心がけましょう』ということ二十ヶ年間も口にするは、こればかりであったとのこと。      

二二一、尼の伝言      
 これは相馬師の話であったが、ある時、通徳寺長濱に来て法話せられた際、妙忠参るつもりでいたところ、よんどころなき用事ができ、参られぬことになった。ちょうど村の人が参詣するというので、通徳寺様へ伝言をたのむことにした。『どのような用事か』と問えば、尼『どうぞお目にかかって、妙忠が「とんだことだったなあ」というてたと言うて下され』という。その男どう思うても、あまりに馬鹿らしうて、通徳寺様に会うて、そんなことが言われようとは思えない、そこで参るのを止めにして、同じく村の参る人に、その伝言を頼んだ。その男なに気もなく参って、通徳寺様に面会を乞い、さて「妙忠から言づてがありまして、あの・・・あの・・・」と言うても容易に口から出ようとしない、やっと思い切って『とんだことでしたなあ』というと、通徳寺それを聞くなり形を改め、両手を三度押し頂く真似をして『ああ尊いことよ』と仰せられたとある。  

二二二、湖上の落し物      
 大濱の吉郎右エ門の老母が、長濱御坊へ参詣するとて、船に乗せて兄に漕いでもらい行く途中、『兄よ、わしは途中で落し物をした、船を戻してくれ』という。兄は『お婆さん、この広い湖で落し物したのが、どうして拾われるものかい』婆『いや大方おぼえがある、たのむ、もどしてくれ』という。そうしてとうとう濱に大きい松の木のある辺りまで戻してもらい、『たしかここまでは覚えがある、ここからお念佛忘れた、南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛、もうよい、やってくれ、南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛』  

二二三、賊は善知識      
 この老婆のところへ、ある夜盗人が入った。ふと目をさませば、賊が枕元に立っている。老婆起き上がって、神妙に礼を言うよう。『今夜はお陰で有難い善知識に遇わして頂きました、貴方達は此世一世のことにさえ夜も働いてござるのに、この婆は無量永劫の後生をかかえて居りながら、安閑とねているとは、すまぬことであります。よくこそ御意見に来て下されました』と丁寧に礼を言い、やがて佛前へ出て念佛するので、賊も驚いて立ち去ってしまうた。  

二二四、仰せを用いませぬ      
 江州米原に厚信な婆さんがいた。長濱の同行が尋ね行きたれば、婆さんその時チャンチャン機を織っていた。『お婆さんお婆さん長濱からわざわざ尋ねてきた、どうぞ一言聞かして下され』といえば、老婆『ハイハイ』と言うて、機から下りて、手を洗い、如来様の前へ出て、お燈明をあげ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏としばらく念佛称えていて、それから此方に横に向き『如来様が、おれが助けてやるから、念佛申すようにと仰って下さいます』といい、それなり又機にのってチャンチャン織っている。同行あまり本意なく思い、『遠方からわざわざ来たもの、もう一言聞かして下され』というてたのめば、又前と同じように機を降り、手を洗い、お佛前に燈明をあげ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念佛称えて、さて今度は横を向かずに、如来様に向かいて『ここに見えた長濱の同行衆は、あなたの仰せを用いませんが、何というてきかせたらようござりましょう』という。その同行恐れ入り、腋下から汗を流したと、これも貞信常に物語られたことと伝えられる。  

二二五、円満徳号勧専称      
 貞信が妙忠のところへ尋ねていくと、外のことは言わぬ、ただ『念佛唱えなさいや』という。お念佛に腹がふくれているからである。いつでも『念佛唱えなさいや、唱えさいすれば、阿弥陀佛様が何でも極楽参りについて、要るものは調えて下されるし、要らぬものは捨てさして下さるからな』と、これだけがいつもあの人の語であった。貞信はいつも口癖のようにこれをいうていた。        

 

貞信尼物語  終
 

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