真宗教化の現場において、真宗への身近な手がかりでありつつ、真宗の根幹を為すものはお念仏だと思います。そのお念仏の意味は申すまでもなく第十八願を離れては明らかになりません。しかしながら今日必ずしもその本願の内容が明らかであるとはいえません。むしろ本願が不透明になっているところに今日の真宗教化の大きな問題点があると思います。そこでこの第十八願に焦点を当てて日頃考えているところを少し発表させて頂きます。
①念仏往生の願としての第十八願
宗祖が法然から相承した第十八願(以下、十八願)の意は「乃至十念若不生者不取正覚」の願文を十八願の眼目と見、乃至十念の称名を往生浄土の正定業と誓う願であると領解されたものでした。法然は『選択集』本願章のはじめに善導の『往生礼讃』から
「無量寿経に云うがごとし、〈もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ〉と」(『行巻』P175)
を引用し、これが十八願の内実であることを示され、十八願を「念仏往生の願」と名づけられました。これによって十八願は念仏往生を誓う願であることが示され、一切衆生平等往生を誓う弥陀大悲の願意が露わとなったのであります。
②念仏往生における自力の行信
こうして法然は「念仏往生の願」を専ら説き、人々に専修念仏を勧めました。ところが念仏往生と聞いて念仏申す者の中で、念仏は称えるけれども定散自力の心に惑うて往生が定まらない者が多かったのです。なぜなら「念仏往生の願を信じて念仏申せ」という法然の教えは、本願を信じる信心も本願にしたがって申す念仏も、行者の側から起こす信心であり、行者の側から往生のために励む称名行である、と受け取られかねなかったのです。
また十八願を文言の当面から読む時、至心信楽欲生我国の信心と乃至十念の念仏は、人間の側から起こす信心であり人間の側から往生のために修する念仏行、いわば自力の行信とも解し得ます。事実、専修念仏のともがらの中にそのように理解し、そのために
「念仏をしながら自力にさとりなすなり」(『一念多念文意』P541)
となり、
「定散心雑するがゆえに、出離その期なし」(『化身土巻』P356)
と宗祖が悲しまれた状態に留まっていたものも少なくなかったのです。
そこで宗祖は十八願の行信は、人間が往生のために為す自力の行でも信でもなく、如来の本願力より恵まれる他力の行信であることを明らかにされました。以下それについて述べたいと思います。
③行と信とは十八願に誓われている
まず、行と信とは十八願に誓われていること、すなわち機を救う法(行)と法を信じる機(信)とは十八願に誓われていると宗祖は見ておられたと思います。このことについて宗祖の『ご消息』に
「念仏往生の願は、如来の往相回向の正業正因なりとみえてそうろう」(P581)
とありますように念仏往生の願は、如来が往相回向して下さる正業正因であるとのことであります。すなわち十八願(念仏往生の願)は正業正因を内容とする願であると宗祖は見ておられます。正業正因とは正業と正因のことで、正業とは称名正定業(行)のことであり、正因は信心正因(信)のことであります。しかも『ご消息』に
「これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり」(P579)
と仰せられていますから、十八願は正業の行と正因の信とを誓う「御ちかい」であります。そこで、正業である称名の誓いは十八願文の中では
「乃至十念若不生者不取正覚」
と表され、乃至十念の称名念仏を正定業と誓われたのであり、正因である信心の誓いは十八願文の中では
「至心信楽欲生我国・若不生者不取正覚」
と表され、衆生に本願名号を信受する信心を往生成仏の正因として成就したいと誓われた、それが十八願であると宗祖は領解されたのでありましょう。ですから「若不生者不取正覚」は行と信の両方にかかっていることになります。
④行は本願力回向の行
宗祖は、十八願の行信を本願成就文に立って洞察し、行も信も如来の往相回向の他力の行信であることを明らかにされました。
そこで行については、十八願の乃至十念若不生者不取正覚と誓われた本願の名号は第十七願(以下、十七願)から衆生に回向されるのであるとの了解から宗祖は、行は本願力回向の行であると見られました。
すなわち十七願に応じて諸仏は名号を讃歎し、衆生は諸仏の名号の讃歎を通して名号を頂いて称え、名号のいわれを聞かせて頂く。また『重誓偈』十七願意には
「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。(乃至)衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん」(P157)
と誓い、また大経異訳の『過度人道経』の第四願(大経十七願に当る)には
「我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん」(P158)
と誓い、同じく大経異訳である『平等覚経」の第十七願には
「我作仏せん時、我が名をして八方・上下・無数の仏国に聞かしめん」(P159)
と誓われています。『行巻』に引用されたこれらの経文はまさに阿弥陀仏が名号を直接衆生に聞かしめんとの誓いであります。
それはいわば阿弥陀仏が名声として衆生にご自身を現わし示して衆生に知らしめたもうすがたであると宗祖は了解されたと伺います。この意は宗祖の『一念多念文意』に
「方便ともうすは、かたちをあらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまう」(P543)
と表されています。弥陀は御名を衆生に聞かしめることによって阿弥陀の願心・願力を衆生に知らしめるのであります。これが真宗念仏の本質でありますから、真宗の念仏は行者が称えて救われようとする自らの修行としての念仏ではなく、一切衆生を摂取せんとする如来の自己表現の働きとしての「弥陀回向の御名」(『正像末和讃』P509)なのであります。
⑤信心正因を誓う第十八願
十七願によって、衆生が本願の名号を聞かせて頂くのですが、聞かせて頂く名号に打ち明けられている「乃至十念若不生者」の選択の願心が時いたって行者に聞き開かれる一念、本願成就文でいえば
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん」というその時、「至心に回向せしめたまえり」で、如来は真実の心(至心)心をもって、一切の功徳善根を悉くその衆生に回向して下さる。
すなわち
「如来の本願を信じて一念するに、かならず、もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうる」(『一念多念文意』P539)
のであり、それによって「すなわち往生を得、不退転に住せん」とお示し下さっています。 であれば選択本願を信じる〈信心〉によって衆生の往生は定まって不退転に住し、やがて大涅槃を証するのであります。
この本願成就文から宗祖は、十八願(因願)の「至心信楽欲生我国・若不生者不取正覚」という願文は信心を衆生の往生成仏の正因と誓い、それを衆生に成就したいという願であると宗祖は見られたのだと思います。これは『ご消息』の
「十八の願に、信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじとちかい給えり」(P593)
の文とか『尊号真像銘文』の
「至心信楽をえたるひと、わが浄土にもしうまれずは、仏にならじとちかいたまえる御のりなり」(P513)
のお言葉にも表されています。そこで宗祖は十八願を〈至心信楽之願〉とか〈往相信心の願〉といわれるのであります。
⑥信は本願力回向の信心
しかも「聞其名号信心歓喜」の信心は
「この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり」(『信巻』P211)
であり、また
「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」(『信巻』P210)
ともいわれて、信心は念仏往生の願心から起こるものであるといわれています。衆生は名号を聞く、その名号に即して乃至十念若不生者不取正覚の如来選択の願心を聞くのであります。宗祖はこの乃至十念の誓いについて『一念多念文意』に
「本願の文に、乃至十念と、ちかいたまえり。(乃至)この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」(P540)
といわれ、乃至十念若不生者不取正覚の念仏往生の誓いは阿弥陀の慈悲の極まりのないことと仰せられています。それゆえ諸仏の名号讃歎によって、誓いの御名のいわれを聞くところ、極重悪人を摂取したもう驚くべき大悲心に行者の自力?慢の心が打ち破られ、「真心徹到」(『高僧和讃』)して信心が衆生に発起するのでありましょう。まことに
「若不生者のちかいゆえ 信楽まことにときいたり 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ」(『浄土和讃』P481)
で、名号を聞く人に若不生者の大悲が時至って、衆生の信楽として発起するのであります。すなわち如来の大悲心が衆生に届いて信心となるのであります。そうすると信心は、〈無根の信〉といわれる如く、
「清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし」(『信巻』P228)
といわれる凡夫の心から起こるのではなくて、「念仏往生の願より出でたり」で、如来の回向したもう信心なのであります。
⑦弥陀釈迦(諸仏)のお勧めより起こる信心
また本願の至心信楽欲生我国のお心は
「この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり」(『尊号真像銘文』P512)
という仏心、いわば「念仏往生の誓いは真実(至心)にして汝を救うに一点も疑いなきゆえどうか疑いなく信じて(信楽)、我が浄土に生まるるとおもえ(欲生我国)」という大悲の喚びかけであり、「弥陀の本願信ずべし」の如来のお勧めであると、宗祖は受け取っておられます。このお勧めに促されて衆生に信心が起こるのであります。十八願の和讃にも
「至心信楽欲生と 十方諸有をすすめてぞ 不思議の誓願あらわして 真実報土の因とする」(『大経和讃』P484)
とあり、弥陀は至心信楽欲生我国と、不可思議な念仏往生の願を信受することをお勧めになるのであります。
加うるに、諸仏に名号を讃歎されたいという十七願に応えて釈迦は世に出現して弥陀の本願を讃歎(浄土三部経)されました。また釈迦以外の諸仏(善知識)も十七願に応えて名号を讃歎され、それによって衆生は疑惑を離れ本願を信受するにいたるのであります。このことは『ご消息』にも
「諸仏称名の願(十七願)ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう」(P581)
とお示し下さっています。こうした弥陀・釈迦(諸仏)のおすすめによって我等の心に信心が発起するのであり、そのことは『ご消息』に
「往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえそうらえ」(P562)
と仰せられています。
⑧行信を回向する十七願
こうして宗祖は、本願の行信は本願力の回向により衆生に恵まれる行信であるとされました。そしてその行信を衆生に回向して下さる願意願力を十七願の上に見られたのであります。それは『ご消息』の
「法身ともうす仏をさとりひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかいを、法蔵菩薩われらに回向したまえるを、往相の回向ともうすなり。この回向せさせたまえる願を、念仏往生の願とはもうすなり」(P589)
のお言葉にも表われており、回向する願を十七願、それによって回向される「弥陀仏の御ちかい」を念仏往生の願と見られているのであります。そこで十七願を「往相回向之願」と名づけられています。
⑨真宗の教相は念仏往生・信心正因
なお宗祖は十八願の中の念仏往生の〈行の願〉を十七願に分けて開かれたと見られたのですが、二願に分けて十八願を〈信の願〉と見た時の「至心信楽欲生我国」に続く「乃至十念」は、信心より現われ出る信後の称名であり、報謝の意味をもつと伝統的に解釈されてきました。実際『正信偈』の「唯能常称如来号 應報大悲弘誓恩」の称名はこの義といえましょう。
ただ、十八願の「乃至十念若不生者不取正覚」という念仏往生の誓いはもともと十八願に誓われたものですから、「乃至十念」の称名を信後の報謝の称名とのみ固定的限定的に了解することは無理があります。この限定した見解から従来、真宗の教相を「信心正因・称名報恩」と表してきましたが、そうなると法然から相承された「念仏往生の願」の意義が隠れてしまう恐れがあります。むしろ真宗の教相は「念仏往生・信心正因」と表すのが宗祖の意に適うのではないでしょうか。このことは藤原幸章先生が力説されておられた点であります。
⑩本願念佛を受け取る三種の機
宗祖は念仏往生の願を聞いて、それを受け取る信心に自力あり他力あることを明かし、定散自力の心を離れて本願他力の信心に帰入せしめんがために、この願を聞いて念仏申す機の側を三種に分けられたと伺います。いわゆる邪定聚の機、不定聚の機、正定聚の機です。邪定聚の機とは選択本願の念仏を聞きながらも、念仏を人間の側から為す諸善万行の往生行の一つとして修し、それらの諸善諸行を回向して浄土に往生せんとする機すなわち邪定聚の機であって、この機について大経では十九願に説かれていると見られました。また本願念仏を聞いてもなお本願を疑惑しながら念仏を専修する機は二十願に説かれている機すなわち不定聚の機とされました。そして念仏往生の願を信受する真実信心の機を正定聚の機といわれ、それを十八願の「至心信楽欲生我国」の願文の上に見出されたのであります。
◎付記「真宗教学大会レジュメ」(大会案内文に掲載)
真宗の教説の根幹は端的に 「本願を信じ念仏申さば仏になる」(歎異鈔)といわれる。現代の教化においてもこれが基本であることに変わりはない。ところで、歎異鈔におけるこの本願とは「念仏往生の願」としての第十八願であるが、宗祖はさらに十七願を別開し、また第十八願を「至心信楽の願」とも名づけられた。そのようにされた意味を少し考察したい。
宗祖が善導・法然から相承した第十八願の意は「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」 という善導によって願釈された「念仏往生の願」である。ところがこの願を聞いて念仏する者の多くが、「念仏して救われよう」「称えれば往生できる」と受け取り、念仏を自らの行業になし、そのために自力のはからいに捉えられ、念仏を称えてはいるが浄土往生はいつどこで定まるのかという問題を抱えてしまい、それゆえ大きな不安の中に止まってしまったのではなかろうか。
それゆえ宗祖は「乃至十念」の念仏は衆生の側が往生のためにする自らの行ではなくて、弥陀の回向したまう行すなわち大行であることを明確にしようとされた。そこで宗祖は、「至心信楽欲生我国」という信心と「乃至十念若不生者不取正覚」という行がともに誓われている第十八願の中から、法の側すなわち「乃至十念若不生者不取正覚」と誓われた誓いの御名を十七願に別開された。そしてその場合第十八願は「至心信楽欲生我国・若不生者不取正覚」と誓って衆生に、誓いの名号を信受する信心を、回向せしめんとの願(至心信楽の願)と見られたのである。
こうして十七願による諸仏の名号讃歎を通して、念仏往生を誓う名号(大行)が衆生に聞かされる、とされたのである。そうすると念仏は、私たちが救われるために修する行業ではなくて、もっぱら「聞かされる法」であることがハッキリする。衆生は念仏往生を誓う誓いの御名を聞其名号せしめられ、名号の聞信において念仏往生の願心が信心として衆生に届いて浄土往生の正因となり正定聚に住するとされた、と伺うのである。
ところで十八願の行の誓いを十七願に別開しても、十七・十八の二願はもともと一体---大経異訳の十八願文(に相当する願文)や重誓偈によって明か---であるから、十八願の念仏往生を誓う「乃至十念若不生者不取正覚」の願の意は十七願に別開することによって十八願からもとよりなくなるわけではない。
そして、十七・十八の二願に分けた場合は、十八願の「乃至十念」の称名は信後における報謝の称名の意と伝統的には理解されてきたのである。
(了)