念仏はなぜ仏恩報謝になるのか

称名念仏は仏恩報謝の行という意義のあることが教えられている。なぜ称名が如来のご恩に報える行になるのであろうか。

●称えるは与えるになる
宗祖のご消息に「信心ありとも、名号をとなえざらんは、詮なくそうろう」とある「詮なくそうろう」とは、甲斐がないということで、たとえ本願を信じる信心があっても名号を称えなかったら、お念仏をいただいた甲斐がないということであろう。それは称えなかったらお念仏の徳が外に表れず、お念仏が周囲に伝わっていかないということではなかろうか。
このことに関して、『尊号真像銘文』では、善導の文への智栄の釈に対し
「即発願回向というは、南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり」
との宗祖のお言葉があるが、南無阿弥陀仏を称えることは一切衆生に〈この功徳〉すなわち名号をあたえていくことに「なるとなり」で、与えることに自然になるのだと仰せになっている。
であれば、信後の称名は、仏恩への感謝の表現という、いわば「阿弥陀様お助け下さって有難うございます」というような、阿弥陀仏のご恩への謝念を表白する行にとどまるものではなく、他の人々に無上功徳の名号を与えていくことにおのずからなるという積極的な意味があると宗祖は見ておられるのであろう。

●十七願による名号の流布
なぜそうなるのであろうか。それについて、第十七願の諸仏称名の願とその成就の意味するところを宗祖は『唯信鈔文意』の中の「如来尊号甚分明 十方世界普流行」の語句の釈で
「(名号が)おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりてなり」
と示され、また『ご消息』に 「諸仏称名の願ともうし、諸仏咨嗟の願ともうしそうろうなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。
また、十方衆生の疑心をとどめん料ときこえてそうろう」 とあって、諸仏の名号讃歎はそのことによって名号が十方世界の衆生にひろまり、人々に名号がすすめられて念仏申す身となさしめ信受されていくと、宗祖は見られたのであろう。だからこの意味からも第十七願を往相回向の願と名付けられたといえよう。

●信心の称名は仏の名号讃嘆に通ず
そして諸仏の称名讃歎のすがたを宗祖は信心の行者の称名の上にも見ておられる。すなわち『ご消息』に 「如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには〈見敬得大慶 則我善親友〉とときたまえり。また、弥陀の第十七の願には〈十方世界無量諸仏 不悉咨嗟称我名者 不取正覚〉とちかいたまえり。願成就の文には、よろずの仏にほめられ、よろこびたまうとみえたり。すこしもうたがうべきにあらず。これは如来とひとしという文どもをあらわししるすなり」
と仰せられている。聖人はご消息の諸処に真実信心の人を如来とひとしと受け取られ、それゆえ信心の人の称名は十七願の諸仏の称名に連なるものであると領解されているように窺われる。そうすると、信心の人の称名は諸仏の称名と意義を同じくするのであれば、その称名は十七願成就の願力によって 十方世界に念仏がひろまることにおのずと参与していることになる。
であるから「南無阿弥陀仏ととなふるは・・・・一切衆生にこの名号をあたうるになるとなり」といわれ、またその根拠に第十七願を宗祖は見ておられたのであろう。

●名号を衆生に与えよ
そして宗祖は、『浄土高僧和讃』の最後いわば廻向文にあたる部分に、
草稿本(注1)では 「南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり かの清浄の善み(身)にえたり ひとしく衆生に回向せん」
顕智本(注2)では 「南無阿弥陀仏をとなふるに 衆善海水のごとくなり かの清浄の善身にえたり ひとしく衆生に回向せん」 と仰せになり、「衆生に回向せん」の左訓に「名号の功徳善根をよろずの衆生に与うべしとなり」と述べられている。
すなわち功徳の名号を人々に「回向せん」「与うべし」といわれ、より積極的な表現で述べられている。そして名号を「衆生に回向」するとは具体的には「南無阿弥陀仏をとなふるに」であり、それによって衆生に名号が与えられていくことが顕智本では示唆されている。

●名号は清浄の善
では名号が一切衆生に与えられていくことはどのような意味があるのであろうか。
名号はまず第一に 「この如来の尊号は、不可称・不可説・不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまう、大慈大悲のちかいの御ななり」 と『唯信鈔文意』に述べられている如く、一人一人を無上大般涅槃にいたらしめたもう誓願の尊号であるから、この名号をいただく人は大涅槃に至るべき身に定まるという無上大利の利益に預かるのである。
そして、『行巻』に 「この行は、すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり」とあるように、この名号にはさまざまな善根功徳が具わっていると仰せられている。であれば、その善根功徳をいただいた行者の人生生活の上に名号の功徳(よき働き)が表れ出てくるのは自然である。 (勿論、もともと罪業深重の宿業の身であるから、名号の功徳が人生生活の上に表れるにしても限界があるのはいうまでもない)

●罪を除く名号の徳
そこで、名号の功徳でことに注目したいのは、先ほどの和讃で「南無阿弥陀仏をとけるには 衆善海水のごとくなり かの清浄の善身にえたり」とあるように、名号は清浄の善であることが示されている。
では名号における清浄の善とはどういうものであろうか。
それについて宗祖の『弥陀如来名号徳』では、名号の徳を十二光の徳をもって釈しておられる。その中に清浄光の徳が説かれ、
「清浄光とまふすは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくしてえたまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり、一つには婬貪、二つには財貪なり。このふたつの貪欲のこころなくしてえたまへるひかり也。よろづの有情の汚穢不浄をのぞむための御ひかり也。婬欲・財欲つみをのぞきはらはむがためなり。このゆへに清浄光とまうすなり」(注3)
とある。このお言葉から、名号には清浄光の徳があり、我らの財貪淫貪を中心にした貪欲の汚穢不浄の罪を除いていくという働きがあることが示されている。このように名号は「清浄の善」でもある。

●凡心では浄化は不可能
さて、人間における人間浄化、自己浄化はどうして行われるか。これは古今の大きな問題である。人間が社会の構成単位であって、一人一人の心のあり方、考え方、生き様が社会の土壌となっている。その土壌が濁悪になっていると、そこからさまざま腐敗や犯罪や争いあるいは戦争が起こってくるのであろう。その濁れる社会の土壌は一人一人の心が本になって作られている。
さて、その土壌はどこから浄化されるのであろうか。もし人間の心そのものが濁悪であれば、濁れる人間によって濁れる社会を浄化することは不可能であろう。窓ガラスを拭くのに汚れたぞうきんで拭くようなもので、そういう凡夫心による穢土の浄化は期待できない。凡夫心の本質は濁悪の煩悩だからである。

●名号による世界の浄化
ところが法蔵菩薩はそういう人間心の本質を徹見し、濁悪の衆生を清浄真実の仏たらしめんとして思惟し修行し、「貪欲のこころなくして得たまへるひかり(清浄光)」の徳を名号として成就し衆生に与えてくださる。それゆえ名号は清浄の善であるが、清浄であるといわれるのは名号自身が無漏清浄であるのはいうまでもないが、同時に衆生の貪欲を清浄化する徳をもっているということであろう。であればその名号を信受すると、その名号が凡夫の心に働きだし人間の心を浄化し始めるといえよう。
名号を与えられた信心の行者は名号の徳である清浄の善によって汚濁の凡心が浄化されはじめていくであろうし、その行者が名号を称えることは弥陀の願力(第十七願)によって人々に清浄の善たる名号が与えられ、与えられた人は正定聚に住する身となり、同時にその人の心の浄化がはじまる。そしてまたその人が称名することはまた周りの人たちに名号が与えられていき、与えられた人々は浄土への道が決定し、自心の利己的な貪欲が浄化されていく。このような連鎖によって、社会の土壌は浄化されていき、それがやがて世界を平安ならしめていくのではなかろうか。

●念仏は利他大悲の行
こうして、自己浄化力のない凡夫にとって自他が浄化され、世の中が平安になる可能性は、弥陀の本願力回向による名号の功徳によってであるといえるのではなかろうか。  なお、名号は〈浄土真実の行〉であることは『行巻』の最初に標示されているが、浄土真実の行とは、名号それ自身が浄土の清らかな行であるが、同時に浄土とは「土(穢土)を浄める」行という意義があればこそ浄土の行といえよう。であれば名号が浄土の行であることは穢土を浄化する功徳があるということである。
また、こうした衆生の罪濁を除く名号の徳は『行巻』に引用された中国の師釈の諸文にも多く示されている。
こうして、第十七願成就によって、衆生に名号を与えて聞かしめ、信心の行者たらしめていく。そしてその信心の行者の称名念仏は周りの人々に念仏を与えていることになる。人に与えられた名号はその人を涅槃に至るべき身となさしめるとともに人の汚穢不浄の罪を除いていく。やがてこのような連鎖は世界を浄化していくであろう。
そして『信文類』には 「もしよく展転してあい勧めて念仏を行ぜしむる者は、これらをことごとく、大悲を行ずる人と名づく」 とあるが、念仏申すことは、人々に念仏を勧めていることになるのであり、念仏そのものの功徳ゆえにおのずから利他大悲の行を行じていることになるのだと仰せらるのではなかろうか。

●大悲の行の主体は弥陀
しかもこのような大悲の行は、どんなにその人が悪業が深く、自らでは世界の浄化どころか世界を腐敗させることしか生きられないような宿業深き人間にも可能な善である。なぜならその善を行う主体は弥陀の願力だからである。
それゆえ誰でも、念仏をいただいて称える人は、阿弥陀仏の願力によって、清浄の善である名号を十方の衆生に与えていくという利他行(大悲の行)に自ずと参与せしめられるのであろう。
このことは、まことの心も慈悲心もなき者が利他の行(善)をなし得る可能性はどこにあるのかという苦悩に光を与えるものである。
聖人は『正像末和讃』に 「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもうまじ」 とご自身を悲歎されつつも 「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」 と仰せられ、いただいて称える御名は本願力回向の御名であるから、自ずから十方世界に流れゆき衆生を利他してゆくのであると、名号の功徳を讃歎されている。
利他の主体はどこまでも弥陀であるが、小慈小悲もなき身であるにもかかわらず、念仏申すことは、本願力によって利他大悲の用に入れしめてくださるのである。

●念仏は仏恩報謝の行
そうすると、『ご消息』に
「わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう」
とか
「念仏を御こころにいれてつねにもうして、念仏そしらんひとびと、この世のちの世までのことを、いのりあわせたまうべくそうろう。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまうべき。ただ、ひごうだる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかいにいれとおぼしめしあわば、仏の御恩を報じまいらせたまうになりそうろうべし」
と仰せられるお心も頷かれる。
念仏を申すことは人々に名号が与えられ弥陀の誓いに入れしめ、さらには世のなかの安穏(世の浄化)と深く関わっていくことになる。であればこそ念仏申すことは仏恩報謝の行になるのだ、と了解することができるであろう。
宗祖が『正信偈』に
「唯だ能く、常に如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」
と仰せられ、大悲の恩に報ぜんために 「唯だ能く常に念仏を称えよ」と強くお勧め下さるのは、念仏を称えることは本願力によっておのずから念仏がひろまるようになっており、念仏のひろまることこそ、真に人々の利益であり、世の平安に寄与するものであること、それゆえ念仏を申すことが如来の願いに応じ、仏恩に報えていくことになると、深く信じておられたからに違いない。

注1.岩波『親鸞和讃集』p147。
注2.岩波『親鸞和讃集』p338。
注3.法蔵館、金子編「真宗聖典」下   p685。なお『西方指南鈔』

に同意の法然の法語がある。

タイトルとURLをコピーしました