私は、金子大榮先生の教学が一番良く表されているのは『真宗領解集』であり、先生の教学の基礎である真宗の信心は『本願の宗教』の中に一番明瞭に表白されていると思います。
その『本願の宗教』には
「仏が吾々に向かって〈我が名を称えよ〉とおっしゃる一句の中に、仏の真実の全体の表現があるのである。〈我が名を称えよ〉というところに、仏のあらゆる誠が籠もっているのであります。
至心・信楽・欲生我国という風に、いろいろ並べてあるが、いよいよという時になると、昔の高僧は、善導大師にしても、或いは法然上人にしても、第十八願は我が名を称えよ必ず救うという本願である、とおっしゃるのです。その〈我が名を称えよ〉という一句に、どういうものが感ぜられるか、そこに信があるので、極めて簡単なのであります。吾々自身は〈我が名を称えよ〉の一句の中に、どれだけのものが盛られていると感ずるか。要するに、問題はそれだけでございます」
「(我が名を称えよ)の一句は、吾々人間がどういう生活をしているか、ということを見透している者の一句である。人間の悩みを知り抜いている者の一句である。これではどうしても助からない状態であるところの人間であるということを知り抜いて、それをいたみ悲しんで、その涙から(我が名を称えよ)という一句が漏れて出てきたのである。だから(我が名を称えよ)の一句に盛られている真実は、如何に説いても説きつくせないところの、広大無辺の真実をもっております」とあります。先生の多くの著作や講話(特に昭和に入ってから)は、この信心からあふれ出た百花でありましょう。
しかもこの立場は別にこと新しいものではなく、浄土の高僧方しかり宗祖しかりで、念仏往生の願を信じる信心の外にはありません。
宗祖は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とのよき人の仰せに信順し、法然は「往生極樂のためには、南無阿弥陀佛と申して、疑ひなく往生するぞと思ひとりて申すほかには、別の子細候はず」と遺言されました。
また、源信は「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまう」のであり、善導は第十八願を「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せんこと、下十声に至るまで、もし生まれずば正覚を取らじ」と示し、道綽は「縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて 称我名字と願じつつ 若不生者とちかいたり」で、弥陀の本願を念仏往生の願として表されました。かくて浄土の祖師方は、いよいよとなると念仏往生の願に帰順されたのでした。
先生の教学は、仏祖の伝統である念仏往生の「本願を信じ念仏もうさば仏になる」真宗を、近現代の時代状況の中、迫り来る自己の問題において、聞思していかれた果実なのであります。