『念仏者木村無相先生』 昭和59年3月3日
今から十五年前、小生が東本願寺の同朋会館につとめることになったのがきっかけで、当時会館の門衛をしておられた木村先生と出会いました。それからこの一月に亡くなられるまで、筆舌に尽くしがたい懇切丁寧なご教示をいただきました。先生の思いでは沢山ございますが、その中、先生の〝お念仏〟について感じておることを少し書かせていただきます。
先生がつねに仰せられた〝ただ念仏〟〝ただ念仏の仰せ〟とはいったいどんな思し召しであったかということを反芻させられることですが、真宗教学の歴史からみると、第十八念仏往生の願(大経)が、観経の下々品の機の上に於いて、悪人救済の法として実現してくる場面のところで、極悪低下の凡夫が命終の時に臨んで善知識より「汝もし念ずること能わずんばまさに無量寿佛を称すべし」とすすめ、その仰せに順って「十念を具足して南無阿弥陀仏」ともうして、浄土往生を遂げたという、あの教説が先生の常に引用されていたところで、「汝もし念ずること能わずば」とは、一切の凡夫のはたらきに属する一切のこと、煩悩を断ずる、覚りを開くということは勿論、所謂本願を信ずる、疑いを晴らす、自己を自覚する、絶対の現実に目覚める、といった、凡夫の方に何かこれといったものを要求されるような一切の事柄にたいして、不可能の壁にぶつかったものが「念ずること能わざるもの」であり―この場合の念という一文字に凡夫の心の働き全体が収まる―その者に「まさに無量寿佛(名)を称せよ」との仰せがかかり、その仰せのままに念仏申すところに、浄土往生の道が開かれてくるのでありました。
ここのところから善導大師は、大経第十八願を「もし我、仏と成らんに我が名号を称すること、下、十声に至るまで、もし生まれずば正覚を取らじ」と釈して、第十八願を「称名の本願」として明らかにして下さり、これが法然上人に受け伝えられて選択本願(念仏)と讃えられ、親鸞聖人に相承(真影附属の銘文等)され「ただ念仏して弥陀にたすけられ参らすべしとよき人の仰せを蒙りて信ずる外に別の子細なきなり」という聖人のご信心の極みとして表白されたのでありましょう。
木村先生は、歎異抄第二章のこの聖人のお言葉に深く傾倒されました。「聖人こそ私の唯一の善知識であり、この第二章のお言葉が私の究極のよりどころの一句である」と常にもうされました。事実、先生はこの一句に文字通り全生命をかけられ、この一句を本当に戴き尽くすことに終始されたと言ってよいと思います。
この「ただ念仏して云々」は同じ第二章の最後より窺えば、弥陀―釈迦―善導―法然―親鸞と伝持された念仏往生の道の核心であり、善知識相承の仏語でありましょう。この御言葉一筋に生きられた先生の〝ただ念仏〟はこの浄土教の基本と核心に極めて忠実に順われたものであり、先生は浄土教の本流に全身を浴しておられたと思います。
さて、〝ただ念仏〟のタダとは、念仏一つということであるとともに、タダとは己の心の内容に一切関係ない、どんな心が起ころうと、その心のまんまということで、タダ念仏とは、ただ口にナムアミダブツと称えること、発音することで、それを先生は「オーム念仏」(オームが鳴くような)、「発音念仏」であるといただいておられました。次に「ただ念仏して・・・信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」という点についてですが、すくなくとも、この仰せを本当に我が身に戴こうとするならば、この「信ずる」と言う点にぶつからざるを得ないと思います。
先生はこの処で、長い間ご苦労されたのではないかと思います。その結果、「信ずる」の真意を得られて、晩年は純一無雑にただ念仏一つというところに結帰されました。そこの箇所をお手紙の中には、「〝よき人の仰せを蒙りて信する外に別の子細なきなり〟とは、よき人の仰せのままに〝称える〟より外に別の子細なきなりである、と気づかされたことはまことに幸せなことである。正面から信じようとしたがダメであった。正面から弥陀をたのもうとしたがダメであった。信ずるも落第、たのむも落第、まかせるも落第、その一切落第の身が、〝信ずる〟ということは仰せのままに〝称える〟ことであった。ただ念仏する身にならしめらしめられてみると、なんとまあ〝称える〟ことは〝信ずる〟ということになっているのだった。よき人の仰せのままに〝ただ念仏申す〟ということが信ずるということになっているのだった。これは実に不思議な助け方であります。我としては絶対不可能なことが、ただよき人の仰せのまんま、ただ念仏ということにおいて、はからずも成就せられているのでした」と、領解されておられます。
そして、いよいよ最晩年、お身体が弱られてからは、苦しくてお念仏も申し辛くなられましたが、そうなってからは、「仰せ一つ、称えよという仰せ一つ、外に何もいらぬ、仰せだけで十分である」とよく仰言っておられました。先生において〝ただ称えよ〟の仰せだけということは、称えるとか称えないとかいう凡夫の側の所作を超えて、私の全分を丸々引き受けてくださる大慈大悲の親心そのものを、ただほれぼれと仰いでいることの外なかったし、それで十分であったのではないでしょうか。聖人の『一念多念文意』の中に「本願の文(注・第十八願)に乃至十念と誓いたまえり・・・この誓願はすなわち易往易行のみちをあらわし大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」としるされている如く、先生は〝ただ称えよ(乃至十念)〟 のお言葉に大慈大悲のやるせない御心の極まりを感佩しておられたのだと思います。
又先生は、「昭和五十六年の夏ごろ、私は我愛の固まりであるという極悪の自性が知らされた。今まで極重悪人と書きもし、口にも言うて来たが、悪人とは感じられたが極重悪人とまでは感じられなかった。その夏以来、いよいよ極重悪人と知らされた。計らずもそこに〝唯称仏〟のお言葉がぴったりはまって、極重悪人唯称仏のお言葉通りしっくりといただける」と語られました。正信偈のこの一句はすべての真宗人にとって感銘の深い箇所ではあるが、それを本当に言葉通りに体感している人は稀ではないでしょうか。先生の、お念仏によって開かれた世界の深さを讃仰せずにはおれないのであります。〝唯称仏〟の大悲は極重悪人の機の上に躍動している如く、先生と表裏一体となっていたのだと思います。ご自分を我愛の固まり、謗法闡提(無信)無仏法の機であると見極め、その自性を一歩もうごかず正直にさらけ出して、私共に語ってくださいました。亡くなられる前(昭和五十八正月三日)にお会いした時も、大変苦しい息の中から遺言のように言われました。(以上テープから)
『凡夫に属することは何もいらんの。普通の無仏法。無信仰の人と同じでええの。少しでも真宗的らしい気持ちになろうとすること、色気や、そんなものは・・・。信心の得益というのは、何か信心いただいたら特別なことがあるように思うけど、その錯覚を取り除いてくださって、信心いただいてもいただかなくても、全く素人と同じじゃということを瞭きりさせてくださるの。じゃから普段の生活に迷いがなくなる。これが人生であり、これが自分であるということを瞭きりさせてもらえる・・・信心ぶらんでそのまま死なしてもらえるのじゃ。信者ぶらんでそのまま生きさせてもらえるのじゃ。それが信心の得益や・・・。信者になろうとするから苦しむの。信者になれんまんまで上等なの。それが最高じゃ。今から聞いて信者になろう一生懸命になる。信者になろうと思わんでもええの。本当に気休めでない。ごく普通の平凡な人として終わればええの。・・・六十年の聞法求道の結果は、お念仏一つ。それも、ただ念仏せよの仰せのままに称えるということだけでな、それより外はない、念仏一つ、念仏せよの仰せ一つ。病院にいると有難いことに凡夫の方には何もないんじゃということが思い知らされる。苦しければ苦しいまんま、お念仏だに申さず終わらせてもろうてもそれで充分。極楽があろうが無かろうが参らせてくれようがくれまいが、それは如来様の仕事じゃ。わしの仕事と違う。お聞かせをいただくだけのこと』と、臨終差し迫ったなかで、わが計らいで聞こうとしても聞くことのできぬお言葉を賜ったのであります。このときばかりでなく平生からこうした信者ぶらない正直な、ありのままの告白を通してのご教示により、私自身〝なろうなろう〟として計らい苦しんでいた間違いを知らされたのであります。又、昨年の秋には、「お念仏のおん催しのあるたびに文句なく、〝ヤレうれしや〟〝ヤレ有難や〟と続いて称名念仏いただいていることです。歎異抄の第九章を拝読申しましても、〝念仏申し候えども踊躍歓喜のこころおろそかに候こと〟の方ばかりが心にとまっておりましたが、お念仏は本来〝天におどり地におどるほどに喜ぶべき〟実に広大無辺な如来大悲の恩徳の結晶でありました」
とのお便りを頂きました。ここにもすばらしい念仏讃仰の世界を思い知らされます。
最後に弥陀・釈迦二尊によって開かれた選択本願の念仏往生を本当に素直に一筋に歩まれた「念仏者木村無相」先生のご生涯は、今日浄土真宗が色々に説かれ、それ故にまた、惑うことの多い私どもに、親鸞聖人の御教えに心むなしくして聞くことの大切さを教えてくださり、またお念仏の尊さを証して下さったご一生であったと思います。先生のご厚恩に感謝しつつ筆を置きます。
ナムアミダブツ ナムアミダブツ
ひとこえ ひとこえ 如来のおでまし
ひとこえ ひとこえ 浄土真宗
木村無相