西方指南鈔に学ぶ

西方指南鈔に学ぶ (信因称報説を検討する

法然の法語、消息、伝記、行状などを宗祖が八十四歳の時に集成された『西方指南鈔』は、宗祖が心血を注いで編纂された書物として大切に拝読すべき書である。しかも宗祖の真筆本といわれるものがあり国宝に指定されている。  『西方指南鈔』に輯録されている法然の法語には宗祖のみが伝えているものが六篇ある。その中には宗祖が直接法然から聞き取られたものもあると考えられている。

念仏往生の願の信心
さて、真宗の救済論は善導の十八願解釈から始まるといっていい。法然は『選択集』本願章において大経の十八願を引用した後、続いて善導の十八願釈を引用して、第十八願の肝要を明らかにされたのである。この願を念仏往生の願と名づけ、念仏往生の願を信じる信心によって浄土に往生することが決まると説いた。これを正確に伝承されたのが宗祖である。
念仏往生の願とは大経十八願の〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉を誓いの中核とし、それは〈十声なりともわが名を称えるばかりで浄土に往生せしめる〉というアミダ仏の誓いである。
法蔵菩薩は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉すなわち善導の願釈では〈称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚〉との誓いであり、それは易行の至極である称名念仏を往生の行と誓って、「佛の御約束、一聲もわが名をとなえむものをむかえむといふ御ちかひ」(「西方指南鈔」。浄土真宗聖典全書三。九六八頁。本願寺出版社)を建てられたのである。

法蔵菩薩は、いつでもどこでもだれでも行じうる易行の中の易行である称名念仏を選び取って、「称我名字と願じつつ 若不生者とちかいたり」(道綽讃)で、ここに一切衆生の資質に条件を一切問わない救いの大慈大悲のお心が表されている。このことは『選択集』本願章に詳しい。ここに一切衆生を平等に救わんとするアミダ仏の広大な大悲心が示されている。
宗祖は『一念多念文意』に、

「本願の文に、乃至十念と、ちかいたまえり。すでに十念とちかいたまえるにてしるべし、一念にかぎらずということを。いわんや乃至とちかいたまえり、称名の遍数さだまらずということを。この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」(聖典五四〇頁)
と述べられ、また『ご消息』には、

「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり」(聖典六〇六頁)、

「行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば」(聖典五七九頁)

と記されている。さらに『歎異抄』ではご自身の領解を
「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と仰せられ、念仏往生の願を信じる信心を表明されている。

修行は念仏往生の願成就の為
そして『西方指南鈔』には宗祖のみが伝えている法然の法語の中に、

「阿弥陀佛の名号は餘仏の名号に勝れたまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずば、名号を稱すとも无明を破せざれば、報土の生因となるべからず、諸佛の名号におなじかるべし。しかるを阿弥陀仏は〈乃至十念、若不生者、不取正覚〉とちかひて、この願成就せしめむがために兆載永劫の修行をおくりて、今已に成佛したまへり。この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名號にもすぐれ、となふればかの願力によりて決定往生おもするなり」(浄土真宗聖典全書三。九八三頁)

という言葉がある。もし〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉という念仏往生の誓いがないなら、アミダの名号は余の諸仏の名号と同じであって報土の生因とはならないという。
これによると法蔵の願行は〈この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて〉といわれるように〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉の誓いを成就せんがための永劫の修行であることが強調されている。〈我が名を称えるばかりで往生せしめる〉という念仏往生の誓いの成就がなければ、たとえ仏の功徳が収まっている仏の名号を称えてもそれは報土の往生の因にはならないとまでいわれるのである。

信心正因・称名報恩説
ところで真宗のお説教でしばしば、 「法蔵菩薩は一切衆生を平等に浄土に往生せしめたいとの誓願を起こし、永き六度万行の修行をして、その功徳を南無阿弥陀仏の名号に成就して、この名号六字を衆生に聞其名号せしめてくださる。その名号を聞き開く一念に願心が信心として衆生に回向され往生が決定する。第十八願の〈至心信楽欲生我国〉はこの信心(信楽)に収まり、〈乃至十念〉は信心から表れる仏恩報謝の念仏である」 と説かれる。
そこで大経本願成就文の〈聞其名号 信心歓喜〉をどのように受け取るかというと、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉の念佛往生の誓いは注意されず、法蔵菩薩によって「十方衆生 若し生まれずは 正覚取らじ」のところを強調し、法蔵菩薩は衆生の往生の願行を代わって成就し、その功徳を名号にこめて衆生に回向し、その名号を聞信する一念に浄土への往生が決定するのであると、説かれるようになっていった。

こうして、〈聞其名号〉とはアミダ仏の名号のいわれを善知識より聞くのであるが、それは、その南無阿弥陀仏の名号は〈十方衆生、往生成就せずは、正覚取らじ〉と誓ってそれを成就し「汝の往生の因は全て仕上げた。そのままなりで助ける〉と喚んでくださっている仰せと聞き受けることである。

その聞信の一念に名号の功徳は信ずる機に回向され、浄土に生まることが定まる。そしてそこに〈如来様なればこそ、ああ有難い〉と感謝報恩の称名念仏が申されてくる。それが機受として十八願に〈乃至十念〉と説かれている。それゆえ称名念仏は信後の仏恩報謝の念仏である」と説かれるのである。
こういう教相は「信心正因・称名報恩説」といわれ今日まで説かれ続けている。
こうした教義理解はたしかに他力の救済が説かれているとはいえよう。しかしながら、法然や宗祖の教義表現とは色合いの違いを感じざるを得ない。  余仏の名号 なぜ違いが出てきたのであろうか。それに関して少し考えてみたい。
まず余仏の名号であるが、余仏も全て菩薩の時に「衆生無辺誓願度」の誓いを建てて修行成就して仏になられたのだから、その諸仏の名号には「衆生を救う功徳がこもっている」といえよう。『行文類』に宗祖は

「法相の祖師、法位の云わく、諸仏はみな、徳を名に施す、名を称するは、すなわち徳を称するなり。徳、よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること、決定して疑いなし。称名往生、これ何の惑いかあらんや、と」(聖典一八八頁)

の文を引用しておられるが、諸仏の名号も菩薩の時の修行の功徳を名に施している。であれば諸仏の名号もアミダの名号もこの点では同じといわねばならない。もし違いがあるとすれば、全ての佛は菩薩の時に「衆生無辺誓願度」の誓いを建てて願行成就して仏になられたが、アミダ仏は衆生を無辺に救いたいと願われ、更に「若し生まれずは正覚を取らじ」と自分の正覚を掛けものにしたという点である。余仏との違いはアミダはそこまで誓ったという点だけである。
これがアミダ仏(の名号)と余の一切の諸仏(の名号)との違いであると云われるなら、諸仏も「「衆生無辺誓願度」の誓いを建て「もし済度できなければ仏にならない」と誓って仏となるならアミダ仏と同じといえる。

アミダの名号
ところが法然はそういう違いではなく、アミダ仏の名号が余仏の名号に勝れているのは、因位の時の本願が違うからであるといい、 「阿弥陀佛の名号は餘仏の名号に勝れたまへり、本願なるがゆへなり。本願に立たまはずば、名号を稱すとも、无明を破せざれば、報土の生因となるべからず、諸佛の名号におなじかるべし。しかるを阿弥陀仏は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉とちかひて、この願成就せしめむがために、兆載永劫の修行をおくりて、今已に成仏したまへり。
この大願業力のそひたるがゆへに、諸佛の名号にもすぐれ、となふれば、かの願力によりて決定往生おもするなり」 と仰せられるのである。すなわち余仏に異なって、四弘誓願のほかに「乃至十念 若不生者 不取正覚」という念仏往生の願を特別に建てられて、それを成就されたからアミダ仏の名号は余仏の名号に勝れているのだと仰せられるのである。 それゆえ宗祖の「唯信鈔文意」(聖典五四七頁)に、

「この仏の御なは、よろずの如来の名号にすぐれたまえり。これすなわち誓願なるがゆえなり。」

と説かれている誓願も、法然の「阿弥陀仏は、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉とちかひ」という念仏往生の願であるといわねばならない。
もし、「一切衆生救うことが出来ないようなら仏にならない」と誓って成就しただけのアミダ仏の名号なら、余仏の名号との相違ははっきりしない。にもかかわらず従来からの真宗のお説教では、アミダ仏は私どもに代わって私たちの往生の因をご自身の正覚をかけものにし修行して名号に仕上げてくださったから、その名号を聞き受けるばかりで助かると説かれてきたのである。そして乃至十念の称名は仏恩報謝の念佛とされたのである。

しかしながら、法然は乃至十念は「我が名を称えるばかりで助ける」という称名念仏こそアミダ仏が選定した往生の行であり、称名念仏を往生の行に誓った念仏往生の願を成就されたからこそ念仏往生の願を信じて念佛申す人は救われると説いた。宗祖もそこに立たれたのである。歎異抄の第二章にはそれが「親鸞におきては唯念仏して弥陀にたすけられまいらすべしとよきひとのおおせをかぶりて信ずるほかに別のしさいなきなり」と、非常に明らかに仰せられたのである。すなわちアミダ仏は「ただ念佛申すばかりで助ける」と誓われているから、それを「信ずるほかに別のしさいなきなり」と表明されたのである。

定着した信因称報説
こうした法然・親鸞の念仏往生の願を信じる信心が往生の正因であるという「念仏往生・信心正因」という教説はいつの間にか、「信心正因・称名報恩」という教義表現に変わっていったのである。
そこでなぜ第十八願の「乃至十念 若不生者 不取正覚」は信後における報恩の念佛と限定してしまったのかといえば、称名念仏を往生の行と誓った念仏往生を表に出すと、ややもすると自力の念仏に堕してしまうことを後世の教学者が極度におそれたためである。だから称名を信後の報恩行に限定してしまったのである。こうして信心は〈一切衆生往生しなければ正覚を取らない〉と誓った法蔵菩薩が願行成就して、その結果を名号に仕上げて、それを聞かせて救うというような法義になり、その名号は衆生の口に上る前の本願力の名号(法体の大行)という大いなる働きであると言われるようになったのである。
こうして蓮如上人以後、自力の念仏を嫌う余り、称名念仏はすべて報謝の念仏とされ、〈聞其名号〉の名号は願行成就された大善大功徳の成仏の因としての名号であると説かれるので、名号は衆生の称名念仏とは別の如き説かれ方がなされてきたのである。

このように名号と称名とを分け、称名を離れて〈聞其名号〉という場合、名号を聞くというのは実際にはどういうことになるかというと、「十方衆生 若不生者 不取正覚」という本願を成就した本願力の働きを名号として善知識からお説教で聞く、それが〈聞其名号〉の実際とされたのである。

念仏往生・信心正因説
一方、念仏往生の信心に於ては『西方指南鈔』で法然は「声につきて」といわれる。

「しかれば、たれだれも煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、たヾくちにて南无阿弥陀佛ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」(浄土真宗聖典全書三。九九六頁)

とある。
すなわち念仏を称え、念仏の声を聞く。そこに誓いを聞くのである。「一声称えるばかりで往生せしめる」との念仏往生の誓いを聞く。念仏申している者にとってこの誓いは必然的に「まるまる引き受ける」「そのままなりで助ける」の大悲心あふれる仰せと聞こえる。この仰せを称える念仏において聞くのである。そこに信心が決定してくるのである。
こうして、聞其名号において大悲の願心が凡心に感応され信心となるのである。そこでは名号を聞くままが信である。

ここのところを香樹院徳龍師は次のように簡明に語っている。

「或る同行、翌朝、御暇乞いの御礼に参りければ、(香樹院師の)仰せに。
念仏するばかりで、極楽へ生まれさせて下さるるのじゃほどに。それを念仏する計りと云えば、また称えるに力をいれる。そこで法然様の仰せに、差別が出来たのじゃ。ただ称うるばかりで助かることを、聞くのじゃほどに。他の同行えもよう云うてくれ」(香樹院語録。五四頁。平楽寺書店)

と。
ただ、このように「称えるばかりで助ける」との仰せを聞くと、人間の側からの称名行が欲しくなるが、実はこの仰せを聞くばかりで助かるのであって、人間の側に一声の念仏をも往生の条件として要求されていないことは自然に知れるのである。 なぜなれば「我が名を称えよ」の仰せに極まりなき大慈悲心を感じる外はないからである。その大悲心が届いていわゆる「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」(歎異抄)に往生は決定するのである。
そして実際の聞法に於ては、念仏往生の願である「我が名号を称えるばかりで浄土に往生せしめる」と聞き始める時から称名念仏が始まるのが自然である。たとえ始めは如来の大悲心がわからず自力の念仏であっても、称えながら念仏往生の広大な大悲の願心を聞いていくと、時至って念仏往生の大悲の願心が聞き開かれるのである。

念仏往生は自然の大道
ところが自力の称名念仏を嫌う余り、名号と称名を分け、名号のいわれを善知識から聞くのを「聞其名号」と押さえ、聞く一念の後において仏恩報謝の思いが称名念仏となって表れると説かれる場合、称名を仏恩報謝の行と限定するあまり、信心もなく有難くもなく念仏を申す人に対して「あなたの念仏はお助け下さること有り難うございます〉とアミダ仏にお礼を申し上げている報恩の念佛なのだ」と指導される。
いわば、初めから自力の念仏ではダメだと否定し、有難いとも何とも感じていない念仏に対して「実はお助けに報恩感謝していることになっているのだ」と受け取らせようとするにはやはり不自然な感が否めない。

ところで、本願を聞く聞法の初めから信心具足の念仏であることは不可能ではないが極めて難しい。
初めはお念仏の心が分からなくても「煩悩具足の汝よ、我が名を称えるばかり助ける」の念仏往生のお心を聞いて「それじゃあ私も」と念仏申すようになり、お念仏申しながら本願のお心を聞いていくところに「弥陀の名号称えつつ 信心まことにうる」(正像末和讃)ことになっていくのが自然ではなかろうか。
以上、『西方指南鈔』を読んでの一感想である。

(了)

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