仏前三句  

(一) 阿弥陀仏  われらとともにまします
(二) 阿弥陀仏 われらとともにましまして  われをたのめと よびたもうなり
(三)  わがために みをすてられし みほとけの  ご恩受く身を 世にささげたし

一、「アミダ仏 我らと共にまします」(真実)
生きとし生けるものの存在するところには、かならず阿弥陀仏は共にまします、ということで、これが人生の、世界の、一番大事な真実だと思います。
(人間以外の生き物を含めて)その人が、善人であろうと悪人であろうと、賢者でろうと愚者であろうと、仏教徒であろうと、異教徒であろうと、無神論者であろうと、どんな地域の人であろうと、またどのような民族の人であろうと、いかなる時代の人であろうと、全ての人の存在に、阿弥陀仏は共にましますということ。
阿弥陀仏が共にいて下さるのは、善い行いをするかどうか、心が清らかであるかどうか、宗教的な生き方をしているかどうかに関係がありません。そういう私の有様の一切に関わりなく、「ただ存在している」という、そこに共にいて下さる仏でまします。

阿弥陀仏と私は、この世の親子以上の密接な関係で結ばれています。仏は親であり、私どもは子です。ですから「私は孤独だ」というのは嘘で、阿弥陀仏が共にいて下さらない人は一人もいない。全ては仏の子でありましょう。
ですから他の人を粗末にすることは、阿弥陀仏を粗末にすることになると思います。私には仇のように思える人も阿弥陀仏の大悲のかかっている人なのでありましょう。「四海の内、皆兄弟なり」と曇鸞様は仰せられています。このことは、人だけではなく、全ての生き物にもいわれうることでしょう。
仏と人とは、最初から結びつけられている、因縁づけられているところに、人間の平等もあり、尊厳もあるのではないでしょうか。もし、人間が阿弥陀仏と切り離されているなら、人間はバラバラな浮遊物の如くであります。
以上のことは、仏のみ言葉からお聞かせいただいております。

二、アミダ仏 我らと共に ましまして
われをたのめと 喚びたもうなり(救済)    阿弥陀仏はただ単に共にいたもうだけではなく、そのことを知らずに迷っている私にその存在を知らしめようと名のって下さいます。その名のりがナムアミダブツというお名号でしょう。
「ここにおまえとともにいるよ」と名のってくださる、その喚ぶ声が、我が口元に現れてお念仏となって下さいます。しかもただ存在を告げ知らせるだけでなく、「汝のそのままなりを引き受けて浄土に生まれさせる」と誓いたもうのです。

「我をたのめ」「我にまかせてくれよ」との大悲のみ言葉となって、ナムアミダブツと喚びたもうのです。
阿弥陀仏は、私の人間性の善し悪しを一切問いたまわない、責めたまわない、私の全存在を受け入れて下さり、未来を「浄土に生まれさせる」と誓約して下さるのです。
そう決定して下さる根拠は、阿弥陀仏が私に代わって、浄土に生まれるための備えの全てを、ご自身のご修行によって完成して下さったからなのです。

三、我がために 身を捨てられし み仏の  ご恩受く身を 世にささげたし(倫理)
阿弥陀仏は私たち全てを助けんがために、法蔵菩薩となって私たちに代わって、身を粉にし骨をくだいてご修行して下さいました。
そのおかげで、私たちは「いまここにいるこのままで」お助けにあずかることができるのでありましょう。阿弥陀仏は私たち一人一人のために、その尊い御(おん)身を捨てられられたのであります。
こんな私のためにかたじけなくも御(おん)身をささげて下さった、そのご恩の結晶が、今ナムアミダブツとなって、お念仏申す私の耳に聞こえてまいります。
このご恩を聞き、大悲のまごころを聞かせていただくとき、無能無力のお粗末な私ですが、世の中のお役に少しなりともたたせていただきたいとの心情が湧いてまいります。これは、仏様のお心に催されて、仏様のお心が、ほのかなりともこの悪業の我身に映ってくる「思い」であります。
しかも、この思いによって逆に、ご恩を受けているにもかかわらず自分のことばかり考えている浅ましい私の姿が照らし出されてまいります。

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