佐々井秀嶺上人の思い出

「佐々井秀嶺上人の思い出」(2004年3月)
「妻子を愛し、身命を惜しむのを凡夫という」といわれるが、己の凡夫性は「不惜身命」の姿によって返照される。このことで若き日、我が身の凡夫性を痛感した思い出がある。  1975年、インドのブッダガヤの日本寺に駐在していた私(当時29歳)は、朝夕、釈尊成道の場に建てられている大菩提寺(大塔)に参拝していた。

そんな2月のある日、大塔正面のお堂の中でお念仏を申していた時、ドヤドヤと一群の集団がお参りに入ってきた。
着ているものは薄汚れたごく粗末な身なりの人たちで一見して極貧の人たちとわかった。ブッダガヤはヒンズー教徒たちにも聖地(ブッダはビシュヌ神の化身とされている)とされているからヒンズー教徒だろうと思った。というのも、ブッダガヤに集団で参拝する仏教徒は、チベット人やタイとかスリランカとか日本や中国系の仏教徒たちであって、インド人の集団はほとんど考えられなかったからである。

ところがこの貧しい集団がそろって「ブッダン、サラナン、ガッチャーミー」とパーリ語の三帰依文を唱え、きわめて敬虔に礼拝しだしたので、幾分不可解な思いをしたが、そのまま日本寺に帰った。すると同僚たちが「佐々井さんが新仏教徒たちをつれて参拝に来ている」と噂をしていた。
佐々井秀嶺上人といえば今やインド仏教界を代表する人物である。師は、ヒンズー教から仏教に改宗したアンベードカル博士の意志を受けて活動している新仏教徒たちの指導者であり、差別され抑圧されている人々の教育・福祉の向上、それに仏教遺跡の発掘、寺院建設、ブッタガヤ奪還闘争などに挺身し、1994年アンベードカル博士国際賞を受賞、新仏教徒たちからは菩薩と仰がれている。(なおこの国際賞は、過去にダライラマ、ネルソン・マンデラ、マザー・テレサ、アラファトPLO議長などが受賞している)

◆抑圧された民衆とともに
しかし私がいた当時、師は日本人にはごく少数の人にしか知られていなかった。私もその時初めて「佐々井上人」という名前を聞いたのである。そして師は中央インドのナグプールにいて新仏教徒たちの指導者になっているという話を聞いた。 「へえ、そんな日本人僧がいたのか」と、そう思って感心していたところ、当の上人が日本寺にやって来られた。お歳は40歳ぐらいであった。そんなわけで寺のロビーで師からいろいろお話を伺った。 「インドに来て10年以上にもなるが、10年前にインドで盲腸の手術をしたのが、それが今だにチクチク痛む」と笑いながら語られた。当時日本人がインドで長期間暮らすことがどれほど大変なことか、私も少しは察しがついていた。
日本人で長く住む人の多くはインド人の使用人を何人も置いて、空調の効いた部屋で暮らす。衣食も贅沢であり、少し具合が悪くなると日本に帰り治療する。
佐々井上人の場合は違う。最下層の人たちと寝食を共にし、牛糞のころがっているような土間に寝袋で寝るという生活である。しかもそのころの地方の医療施設は貧弱で「インドでは盲腸の手術でも命を落とすことがある」と師は話された。
今日「ともに生きる」ということが私たちの間でよく語られるが、師はまさに極貧の人たちと共に生きられたのである。同じものを食べ、同じ所に寝るのである。貧しいインド人の食事は毎日ほとんど同じメニューであり、いかにも粗末である。また寝るといっても布団の上ではない。土間にゴロンと寝るだけである。上下水道などの衛生状態はかなり悪く、病気になりやすい。しかも自然条件は過酷である。4月から6月までは極熱の時期で、そんな中でインド中央部で生活することは日本人にはなかなか耐えられない。もちろんクーラーなどはない。

私もこの時期にいて経験したが、真夜中でも室内は40度もあり、寝るに寝れず、戸外に蚊帳をつって寝るが、熱風が吹き付けて顔が熱くほてって、とても安眠どころではない。日本寺の同僚僧たちはこの時期北方インドのスリナガールとかダージリンなどの避暑地に逃げたものである。「抑圧された民衆とともに生きる」というが、こんな中でいのちを惜しんでいてはとても長期に滞在できるものでない。こうした中をすでに10年以上も底辺の人たちへの仏教の布教、福祉、教育に渾身の力を注がれたのである。まさに「不惜身命」を地で生きてこられたのであった。

◆野菜クズをもらってきて食事
それから佐々井師は今まで自分はどうしてきたかを少し話された。岡山県出身で、真言宗で得度をして、タイで修行し、インドに来たこと。はじめはラジギール(王舎城)の妙法寺にいて「八木上人のもとで修行していたが、激しい労働があってこれは本当にきつかった」と言われた。
私はそれを聞いて〈あの八木師のもとにいたのならこれは大変だ、それ以後ナグプールでの活動で苦難に耐えられたのは、この妙法寺での修行があったからではないか〉と思ったことである。
というのは八木上人に私も一度会ったことがあった。それは1971年、初めてインドを10人(画家の秋野不矩さんもおられた)ぐらいで旅行した時、ラジギールの妙法寺に泊めて貰った。それがまた大変なところで、布団も毛布もない縄の簡易ベッドがあるだけだった。  そして2時間も南無妙法蓮華経を唱える夕事勤行。唱え終わってやっと戸外での夕食。その夕食というのが野菜一皿とご飯だけ。その野菜も妙法寺の僧侶(当時は成松上人に世話になった)が近くの市場に行って、野菜のクズを貰ってきて煮たものであって、現地のインド人も捨てている野菜クズだった。
朝も2時間の勤行。朝食後、成松師と別れ多宝山へのぼる。この山は法華経の中で、宝塔が出現したといわれる山である。リフトが山上までかかっていた。八木上人らが作ったという実に簡単なリフトで、しっかりしがみついていないと下に落ちそうで怖かったが何とか山上に着いた。
山上に小さな手作りのお堂があって、そこに居られたのが八木師だった。インド国籍を取ってもう20年以上もインドにおられるとのことであった。やや老人に近く、しかもやせておられた。オオカミも出るというこの山の上で、何年も一人で住んでいるとのお話だった。  そばにドラム缶があったので「何ですか」とお尋ねしたら、「風呂です」と答えられたのが、何かしら強い印象を与えられた。まさに命がけの生き方である。
妙法寺でお世話になった成松師が「入門の時は厳しい修行に耐えられるかどうか覚悟のほどをためされるのです。ほら」といって腕を見せてくれた。10センチ以上もある大きなヤケドの跡があった。そして「体をローソクで焼いて、それに耐えられないと入門はできない」と言われた。こうした妙法寺の人たちの指導者が八木上人だからこれは相当厳しい人といわざるをえない。
佐々井上人のここでの過酷な修行体験が、その後単身ナグプールへ出かけて、被差別大衆の中に入り、大きな困難に耐えて活動する力となったのではなかろうか。

◆南無阿弥陀仏なればこそ
そんなわけで佐々井師のお話を伺ってお別れしたが、それからしばらく日が過ぎて、またブッダガヤに来られた。
そこで当時日本寺にいて周囲のインド住民から高徳な僧として大変尊敬された渋谷行雲禅師と一緒に佐々井師の宿泊所を訪ねた。宿泊所といっても、師は高価なホテルなどには一切泊まらない。チベッタンテントを宿にされていた。この宿は1ルピー(当時約40円)ぐらいの所である。難民のチベット人が営んでいる簡易テントで、下にシーツをひくだけの宿である。
そこでもお話を伺う。「日本寺の僧はどうもだらしがない」と言われ恐縮したことであるが、日本寺は日本仏教の寺の現状をひきずっていたわけであるから、そういう批判は当然であった。
その時、佐々井上人が「土井さんは何宗か」と尋ねられたので「浄土真宗です」と答えたら、「親鸞さんか。南無阿弥陀仏はいい。朝起きた時、〈さあ今日もやるぞ〉と元気を出すには南無妙法蓮華経を唱えるのが良いが、一日が終わって〈ああ今日もほとんど何もできなかったなあ〉と思う時、南無阿弥陀仏と称えると心が安まる、それが非常に良い」と言われた。師はもともと真言宗の出ではあるが宗派にはこだわらない人であった。    この発言は私には印象的だった。金子先生が「念仏は行動規範でもなく、行動原理でもない。むしろいろいろやって自分の力なさを悔いたり、非力な自分を嘆いたりする、そういう悲しみや嘆きを涅槃させてくださるのがお念仏である。しかもそのお念仏が不思議にもまた明日は少しでもお役に立たせて頂こうという希望を生んでくださる」という趣旨の文をどこかで読んだ記憶がある。
佐々井師のナムアミダブツに対するこの感想は、金子先生の言葉と重なって私の心に残り続けているのである。
ともかく佐々井師や八木師の「不惜身命」の姿を思うにつけ、いのちを惜しんでやまない我が凡夫性を知らされ、同時に「南無阿弥陀仏なればこそ」との想いを深くするのである。

(了)

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