2012年9月、姉と妻の三人で中国四川省の成都に行く。 成都はかつて蜀の都であった。9月7日、泊まっていたバックパッカーに人気のある〈交通青年旅舎〉を出発。
タクシーをやっとつかまえて、姉の希望で郊外のパンダ保護センターを見学。パンダがあちこちいて、パンダ好きの人にはたまらない場所である。
そこから昭覚寺へ行く。門前の小さな麺店で軽く昼食をすませ、寺に入ると、仏堂では勤行の最中であった。堂内には優婆夷(女性の在家仏教徒)が70人ほどいた。若い人は見当たらない。お堂の床は平らな石で、そこに大きな丸い座布団がいくつもあって、そこに坐って経典を読む。ご本尊の前に導師の尼僧さんがいる。私たちも座ると、係の女性がお経を持ってきてくれた。見ると『仏説無量寿経』ではないか。中国語発音だから隣りの人のページにあわせてやっとついていった。30分ほど読ませていただいてお堂を退出したが、結構長時間の勤行である。このような勤行は日常頻繁に行われているようである。
無量寿経を読み、念仏を称えるのは死後の極楽往生を願っての行であろう。中国では多くの寺院で、夕事の勤行は阿弥陀経が読誦されているから、浄土往生の信仰は現在の中国でも結構生きている。厚信の仏教徒における往生の奇瑞を集めた本が出版されたり、臨終ぎわの往生者の姿を映した動画がユーチューブにもいくつかアップされているのを見ると、日本の平安期の浄土教を連想させられる。
この昭覚寺では参拝者は宿泊もできるようであった。中国の大きな寺は宿泊施設を持つところが少なくない。だれでも宿泊料を支払えば泊めてくれる。中国の寺は事業を営むことが許可されていて、宿泊所やレストラン、それに農業生産や手工業などをする寺もある。
寺のほかの収入は、信者からの寄付とか信者の法要への布施、それに拝観料そして政府の援助である。寄付は、以前は海外の華僑から多くの寄付が寄せられてきたが、中国本土の経済の成長によって国内の信者の寄付も増えていると思う。
信者の法要は、瑜伽焔口(施餓鬼)や亡き生類の供養である水陸法要などがある。これを行うことによって死者を供養し、生者の長生を祈るのである。中国では死んだ人は鬼になるという観念があり、鬼は仏教では餓鬼であり、餓鬼は生きている人たちに害を加えると怖れられているので、それをなだめるために施餓鬼供養をするのである。どこでも死者供養と現世利益は深く結び付いている。
寺の拝観収入に関してであるが、かつての文化大革命での淫祠撤去政策の影響であろうか、祈りの場、祈願の場が極めて少ない。教会のみならず、神々の社やお地蔵さん、お不動さんなどといった類をほとんど見かけない。その中で、数は少ないけれども中国寺院は民衆の祈りの場、祈願の場あるいは憩いの場となっているので、参拝者が非常に多い。それゆえ名刹になると拝観料収入は莫大である。
次ぎに成都市の中心部にある文殊院に行く。この寺は四川省仏教協会の本部となっている。仏学院(仏教専門学校)があって若い僧たちが庭を行き交っていた。仏学院は全国に十数カ所あるという。
大きな法堂があり、そこに入ると、明日ここで仏教講演があるというので若い沙弥尼(尼僧見習い)が会場の整理をしていた。中の一人が少し日本語ができるので、いろいろ尋ねてみた。20歳前後の四年間、成都にいた玄奘三蔵の頭蓋骨がこの寺に保管されているという。大きな行事の時に公開されるとのことであった。 どの寺でも若い僧の姿が目立つが、ことに尼僧さんが生き生きしている。タイやスリランカの上座部仏教の寺には尼僧さんがいないのとは対象的である。
次に成都のバスターミナルからバスで2時間半、峨眉山に着く。峨眉山は、小学校の教科書で芥川龍之介の〈杜子春〉を知ってから一度は行ってみたいと思っていた。 ここは普賢菩薩の霊場でありまた有数の景勝地なので参拝客や観光客ですこぶる賑わっていた。報国寺、伏虎寺に参拝し宿泊を希望したが満杯でできなかった。ケーブルで途中まで上り3077メートル上にある華蔵寺にやっとのことでたどり着いたが、濃霧のため視界が全く開けず残念であった。濃霧の日が多いようである。
中腹のバス乗り場まで徒歩で石の階段を三時間ほど下る。これはかなりきつかった。途中、男女30人ほどの台湾からの参拝団が頂上めざして登ってきた。そろいの参拝用のはっぴを着、膝にサポーターを着けての参拝である。〈普賢菩薩・普賢菩薩〉と名を唱えながら、一段一段深く礼拝しながら登っていく。これはかなりハードな行である。 途中、詩人の李白が長く滞在した万年寺にお参りする。1000年ほども経過している大きな普賢菩薩像が、白像の上にましました。普賢菩薩と言えば、〈阿弥陀仏の本願はすべての衆生を普賢菩薩にしたいという願である〉と、幡谷明先生から教えられてから、この菩薩様には親近感を感じるのである。
三帰五戒をまもり、因果を信じ、現世利益を祈り、死者を供養し、死後の極楽往生を遂げるというのが、中国民衆の仏教信仰の姿だと思う。その中で、さらに覚りや涅槃を求める者は出家して、専門の修行生活を行う。そういう二段構えの仏教受容のようである。
近年、ことに太虚法師が提唱した「人間仏教」の考えが定着しつつある。自己の心を浄化し、社会を浄化し、利他することによって自利して、この世を浄土にしていこうという仏教で、慈善や社会改善にも力を入れる。そして経済活動を積極的に評価するのである。 これまでは少欲知足が強調され、経済活動には否定的な仏教であったが、経済活動を肯定し、得た利潤を社会に還元するのは菩薩道にかなうとされるのである。台湾の現代仏教はこの影響が強いが、これが中国本土にも影響してきている。
ただ、社会の浄化という点で、現代の中国仏教会は、共産党支配の現体制を批判をせず、国を愛し秩序を乱さないという範囲で活動している(させられている)。それゆえチベット地方の仏教徒への弾圧については沈黙している。
余談だが、現在、キリスト教が貧困層を中心に急激に信者をのばし、信者が一億人をこえてきたと報告されている。盛んな地下活動の伝道によるのであるが、政府は神経をとがらせている。外国の勢力と結び付いて現体制を混乱させる勢力にならないかと危惧しているのである。しかるにキリスト教は抑圧されればされるほど延びる宗教なので手を焼いているといわれている。
一方仏教界は体制内でおとなしくしているようで、これはいささかふがいないが、しかし未だ足腰の弱い仏教界の現状ではやむを得ないようである。