死んだら終わりを問う

■死んだら終わりの人生観
現代の日本では、「人間死んだら終わり。骨と灰になってしまう」「死んだら無になる」という考えがかなり一般化しているように思う。
仏教学者の羽矢辰夫の著『スッタニパータ』に、現代の日本人のほぼ共通な人生観を簡潔にまとめて「わたしの人生は一回だけで、死んだら終わり。だから生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。わたし(だけ)が幸せになることが、人生の目的である」と述べている。
この背景には「私はこの世かぎりの存在である。生きている意味は何かよくわからないけれども、快不快や苦楽はリアルに感じる。だから安楽、道楽、享楽、快楽などの楽をできるだけ多く得ることが当面の願望であり、その願望が叶うように生きていこう」という思いが日常化しているからといえよう。

■聞法しても死んだら終わり
さて、このような人生観の枠組みでやはり一番の問題は「私はこの世かぎりの存在で、死んだらすべて終わり」という考えではなかろうか。
そうなると仏法聴聞が何よりも大事であると強調されても「苦労して聞法しても、どうせ死ぬまでの間のこと。そんなしんどい思いをしなくても好きなことをして楽しく生きた方がいい」というような思念が湧きはしないだろうか。
今日、真面目な宗教がふるわない一番の原因はこのような現世主義、虚無主義、享楽主義的な考えが一般化したからであろうし、こういう世の中では、宗教といっても現世利益、ご利益中心の宗教がはばをきかす。

■死後の問題避ける現代教化
こういう現世至上主義の大衆を教化対象として真宗を語る場合、真宗の教えを凡夫の救いを証した木村無相こうした人々の心象にそって説くようになったのが現代の真宗教化のすがたといえないであろうか。
いわく、「後生の一大事というのは死んでから先の一大事のことではない、現在の人生の真の意味を見出すことである」とか「浄土往生とは死んで浄土に生まれるというのではない、現在の人生において浄土の願いに生きることをいうのである」という風に、いわゆる〈死後〉にはできるだけふれないで真宗を語ろうとしているのが、今日の真宗教化の傾向であろう。
だから勢い、死後の浄土への往生を語ることは後退し、現世における人間関係や社会関係の中での生き方をテーマに真宗を語ることが中心になってきている。
確かにそれは、真宗教学における社会性を創造的に切り開いていく成果にもつながってきたと思う。
ただ問題は、真宗の教法が〈死をもって一切の終わりとする〉という今日の考えによって封鎖され、その感化力をずいぶんそがれていることである。 たまたま門徒さんが「私は死んだらどうなるのでしょうか」という質問をすると、「死んだ先のことを考えるよりも、現在只今の自分がどうなっているのか、それを知ることが大事である」としばしば答えられる。もちろんその答えに真理性があるのは認めるが、しかし、答える本人にも答えが見つからないので〈はぐらかしている〉とも見えないことはない。
こういう状況の中で、たとえ「死んだら浄土に生まれる」とか「死んでも阿弥陀のいのちに帰る」などと説かれても、「やっぱり死んだら無になるのが現実である」という思いが優先し、こうした言葉は耳を素通りしてしまう。

■死んだら終わりに根拠なし  そこで「死んだら私の一切は終わり」という考えそのものをあえて正面から問題にしてみることは重要なことではないであろうか。
ただしかし、この問題は古今東西における思想史上での最大難問の一つである。簡単に答えの出る問題ではない。しかしもしも、「私は死んだら一切終わりであり、無になる」という考えは決して確かな根拠のある考えでないことが少しでも明らかになるなら、それは意味のあることではなかろうか。それで、次回はこの問題について考えてみたい。

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