「死んだら終わりか」2
現代日本人の多くの人が「人間、死んだら終わり。死んだら無になる」と思いこんでいるが、はたしてそれは自明のことであろうか。先人に導かれながら考えていきたい。
■自分の死は経験できない
さて、「人間が死ぬ」とはどういうことであろうか。まずは〈私の死〉についてであるが、だれも〈私の死〉は経験しえない。「私は昨年死にました」というようなことは決して言えない。だれも、自分の死を経験して、それを語ることはできない。
たしかに、死にかけた経験をし、それを語る人はたくさんいる。いわゆる臨死体験の人である。しかし、臨死体験は死にかけたのであっても死そのものを体験したわけではない。死にかけたことと死んだこととは同一経験とはいえない。ただ、臨死体験者の資料は肉体と心との関係を知る材料としては意味があると思う。
そういうわけで、人は死そのものを経験することができないから、〈死とは何か〉については非常に不透明であるといえよう。
もし私たちが死を経験するとしたら、それは〈他者の死〉にであう時である。「昨夜、○○さんが死んだ」というような時である。だから〈人の死〉とはどういう経験をいうかといえば、具体的には私たちの眼前に横たわっている〈他者の死〉である。
■死とは肉体活動の停止
では〈他者の死〉とは実際にはどういうことであろうか。死んだ人の前で死が経験できるかというと、それはできない。他者の死において実際に確認できるのは、他者の〈死体〉を見るとか触れる、あるいは観察することでしか、私たちは〈人の死〉に関して確認できない。
では死体とは何であろうか。それは全く動かなくなった〈肉体の状態〉のことである。手足も動かず、触っても反応がない。呼んでも答えず、呼吸もしないし心臓の鼓動もない。しかも二度とその肉体は動くことはない。そんな肉体の状態を根拠に、私たちは〈その人の死〉といっているのである。私たちが他者の死体の前で見ているのは、死を見ているのではなく、動かなくなった肉体を見ているのである。
■死は物質現象の変化
だから、生体が死体に変わるという〈死〉はどこまでも肉体上の変化、肉体という物質の現象的変化の上でのことをいっているのである。
では一般に「死んだら無になる」という場合、それはどういうことを意味しての発言であろうか。
今日では死体を火葬にする。そうすると骨と灰になる。実際にはそれを見て「あの人は無になった」といっているのではないか。
実は肉体である〈死体としての物質〉は火葬にして無になったのではない。変化したのである。肉体は物質的固形物であり、物理的にいえば分子化合物である。しかも私たちの〈目に見える形〉の固形物である。それをバーナーで高熱を加えると分子化合物としての肉体は急速に分解や化学変化なりを起こして、カルシウムや窒素や炭酸ガスや水蒸気などに変化する。その総量は質量保存則に従って、焼く前も焼いた後も変わらないはずである。だから死体は消えてなくなったのではなくて形を変えたのである。物質的な上での形体が変化したのであって、決して無になったのではない。物質的自然界では「有るものは無くならない、変化し続けている」というのが自然科学における一般的法則である。
にもかかわらず私たちが「死んで無になった」というのは、今まで目で見えていた人体という形が、骨や灰などに変化して形を変え、元の人間としての〈形が見えなくなった〉ことをいっているのである。目で人の姿が確認できなくなったのを「あの人は無になった」といっているのである。
このことは人間の死体に限らず、あらゆる物についても同様である。薪を焼くと灰になるのも、咲いてた花が散って土に同化するのも、水が蒸発して気体になるのも同じ自然の法則的現象である。存在は常に変化し続けているのである。肉体における老病死というのも、肉体という物質的存在における変化にたいする表現である。
■人は心が主
では「人の死」とは、物質的肉体における現象としての死についてだけのことかというと当然それだけのことではない。むしろ「その人の主体の死」が本質的な意味を有する。愛する人の死とは、その人の肉体が動かなくなることはもとより、むしろその人の人格いわば心とのかかわりがなくなることを意味する。
人間は物質的な肉体だけで成立しているのではない。人は物質と意識、すなわち肉体と心によって成り立っているとみてよいであろう。心のない肉体は単なるロボットでしかなく、肉体のない心は人として現実化していない。人の存在は、肉体という物質と意識としての心との統合体あるいは関係体、ないしは結合体といえよう。
しかも、人の主体は肉体よりもむしろ心である。心こそ人の主といえよう。ダンマパダ(法句経)の最初に「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される」との釈尊の言葉がある。心こそ人間と人生の主である。自分の人生を形成し、さまざまな行動の責任主体は心である。物事を判断し、善し悪しや良悪を考え、選択して決定するのは心であり、悲喜苦楽を感じるのも心であり、幸せや不幸せを感じるのも心である。人生の内実は心の経験において成立する。
心のないロボットには内的な経験はない、あるのは反応である。最近のロボットは世界一のチェスの名人と対決して勝つほど精巧にできている。しかしロボットは勝っても喜ぶことはない。「ウレシイ」という音は発するかもしれないが、嬉しいと感じての声ではない。チェスの競技上のロボットの対応は人の心の判断の対応とは違う。インプットされている膨大なデータに基づいて電気的に反応したまでであろう。人間の思考による判断ではなくて、「この時はこうする、あの時はああする」という膨大なデータに従って反応しただけであろう。
■脳死は人の死
では、人間が肉体と心でできていると仮定すると、人の死すなわち肉体が動かなくなると、人の心はどうなるのであろうか。
この点について、〈人の死〉をどこで判断するかというと、今日、〈脳死〉を人の死とするといわれる。脳死とは脳の機能が止まることである。それによって肉体の全機能が必ず停止していく、いわゆる肉体が全面的に動かなくなるのである。二度と元に戻らないという不可逆性から、脳死が死の判定基準となっている。だから脳の機能が停止した時をもって「死んだ」と判断していこうというのである。
■死後心はどうなるか
では脳死によって脳の機能が停止することと、心の働きとの間にはどういう関係があるのであろうか。
脳はほぼ一000億ほどもあるといわれるニューロン(神経細胞)の束でできている。ニューロンは蛋白質でできているゆえ、分子化合物であるが、それらが多くの束になって電気的化学的な作用をしている。だから脳はどこまでも物質である。脳は観測でき、頭蓋骨を外せば目に見ることもできる。脳はぶよぶよとした豆腐のような形であるとよく聞く。 だから脳は目に見えるのであるが、それが停止して、さらに火葬場で焼くと形体は無くなり、目には骨と灰しか見えなくなる。いわば脳という形体はなくなるのである。
さて、脳死の状態になると、心はどうなるのであろうかという問題が当然起こってくる。なぜなら、今日一般に脳と意識(心)は密接に関係しているという通念があるからである。
そうすると、脳の機能が停止するいわば死ぬと、心の働きも停止あるいは消滅するのであろうか。それとも心はなお存続するのであろうか。そういう問題が起こってくる。
■心はいつも見えない
ここで最初の問題提起に返ると、今日の多くの人が「人間は死んで焼いてしまえば骨と灰でしかない。だから身も心もなくなる」と思っているが、それは確かなことなのであろうか。
たしかに、人間の肉体という形体はなくなる。それは目で確認できる。しかし心までなくなったといえるのであろうか。
なぜなら、もともと心は見えないからである。人間が生きている時もそれは見えない。今の私が鏡で見えるのは私の肉体しか見えない。心は見たことがない。他者の心も同じである。他者として見えているのは相手の肉体だけである。生きているときさえ見えない心が、死んだからといって見える筈がない。もともと心は目には見えないのである。
だから火葬場で肉体が焼かれ、人としての肉体という物的形体がなくなったからといって、心もともになくなったということは確認できない。もともと心は生きているときから見えないからである。だから心も消滅したとは断定できないのである。
■脳死は心の死か
そういうと、「イヤ、人間は脳死になって脳の機能が停止すると、心の働きも停止する。だから死んで、脳を含む肉体を焼けば肉体はなくなり、当然心もなくなって無になる」との反論がでよう。
だから「死んだら終わり」「死んだら無になる」という考えの真相は「脳の機能が停止すると心の働きは停止ないし消滅する」という考え、すなわち「脳死は心の死でもある」という考えになろう。はたしてそれは本当なのか。すなわち、脳の機能が停止すると心の働きは必ずなくなるのかどうか。
こうして「死んだら無になるかどうか」という問題は脳と心の問題、いわゆる「心脳問題」にもなってくるが、この心脳問題は思想上だけではなく現代科学の上でも、難問中の難問になっている。
■心脳問題の諸説
それで、わずかに調べただけであるが、脳と心はどういう関係にあるのかについてはいくつかの考えがある。どの考えも一応の仮説であって、結論は出ていない。結論がでていないどころか、現代ますます混沌としている状態といっていい。
以下、心脳問題についての諸説を大きい枠組みで分けてみると、
①一元論的な考え。ことに唯物的一元論では、脳の働きから心の働きが生成され、脳が働くから心が現れるとする。
②二元論的な考え。脳と心とは別であって、相互に関わり合っているとする。
③心と脳は同一であるという説。心の現象と脳作用の現象は同一の事実を、一方からいうと脳のニューロン活動の現象であり、一方からいうと意識現象であるとする。
④その他。たとえば汎心論的な考えがあって、脳にかぎらず物質的活動のあるところには意識の働きがあるとする。ほかに、脳と心を対象的に分けて捉えない地点から見る見方もある。
■死んだら無になるは唯物論
そこで、この中で①の唯物論的一元論では、心は脳という物質の働きから生成され維持され活動する、というのがこの立場の主な主張である。この立場では、脳の働きの停止(脳死)は心の働きの停止となるから、当然死んだら身心ともに活動が停止し、人のすべては終わりとなる。だから「死んだら終わり」という考えは自ずからこの唯物論的一元論であるといえよう。
しかし、②と③と④などの場合にはそうは単純にいえなくなってくる。
②の場合は、脳は心と外界とを連絡する機能であるとし、脳という連絡器官が停止したからといって心までなくなるとはいえない、という。そうなると死んでも心は存続する可能性があることになる。
また③は分かりにくいが、脳という物質現象と心という意識現象は一瞬一瞬の同一事実の両側面というのであって、意識現象を物質現象に属するとはせず、また物質現象を意識現象の現れともしない。相互に関係しているというのではなく平行しているとする。それでは、脳の機能的活動の停止という物質的な変化は意識面ではどういう現象であるのか。それは分からないが、意識がなくなるとは断定できない。
④の汎心論では脳死になると物質である脳の働きは停止し、やがて脳の形体はなくなるが、存在あるいは物質活動のあるところには意識がありえるとする。すると脳という物質形体が別の物質形体に変化しても(いわゆる死ぬ)、物質活動があるところには意識があるといえる。そうすると脳が死んでも意識(心)はなくならないともいえる。
以上、ごく大まかにいくつかの考えをのべたが、さらにこの問題に立ち入って脳と心の問題、またこの問題に対する仏教の視点をたずねていきたい。
(了)