真宗「僧侶」の名称に疑問

日本・中国・台湾・韓国・ベトナムの一部は同じ漢伝仏教であるが、こうした国の寺を訪れて、私にとって一番困るのは「あなたの仕事は何ですか」と問われたときに、「僧侶です」と答えるのは非常に苦しい。だから最近は優婆塞と答えている。
もともと僧侶とは僧伽のことで、修行者のなごやかな集団の意味であるが、それが後に各個人についてもいわれるようになった。その場合、「出家者」「比丘・比丘尼」のこととされ、これが漢伝仏教の国における僧侶あるいは僧の共通の理解である。これは日本の辞典でもそのように説明されている。
中国でも台湾でも韓国でも、僧侶の最低条件は独身であり、法服(あるいは作務衣)を常に着し、剃髪をする。加えて飲酒・肉食をしないこと、これが僧侶あるいは僧という存在の共通規定であり理解である。

ところが今日、真宗教団で得度をした者を「僧侶」と規定することは、上の僧侶の規定に全く当てはまらない。だいたい真宗の得度式は受戒といっても三帰戒を受けるにすぎず、三帰戒は在家の戒である。だから在家の帰敬式と同質な儀式であって、法名はどちらも受けるが、それは出家者としての法名ではなくて、在家の仏弟子としての名というのが偽らざる相である。教団内でいろいろな解釈があるが、一度世界に出ると〈真宗僧侶〉のすがたは「僧侶」ではなくて、在家の仏教徒の姿以外の何者でもない。要するに優婆塞・優婆夷である。
私たちは自分を〈僧侶〉といっているが、聖人はご自身を〈非僧〉とされたことはこういう面からも正当なことだと思う。ただ非僧であるが釈迦の弟子であるという、そこに愚禿釈親鸞と名のられた。それゆえ私たちも在家の釈尊の弟子としての釈○○と名のりえよう。しかし〈僧侶〉と名のることは、教団内だけならともかく、一歩外に出るとそれは通用しないというのが現実である。〈真宗僧侶〉に代わる名はないのであろうか。

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