即得往生ついて

1.浄土と往生の基本的な概念
浄土に往生するということについて、語義を宗祖のお言葉に確かめると
「往生というは浄土にうまるというなり」(『尊号真像銘文』p521)
とあるゆえ、浄土に往生するとは浄土に生まれることである。
そして浄土というのは涅槃界のことであり、
「涅槃界というは、無明のまどいをひるがえして、無上涅槃のさとりをひらくなり」(『唯信鈔文意』p553)
とあるゆえ、浄土に往生するとは、涅槃界に生まれ(至り)て無上涅槃のさとりをひらく、すなわち仏になることである。

2.往生はいつ決まるか
そこで問題になるのは、「浄土への往生はいつ決まるのか」ということである。というのは宗祖の在世当時、法然聖人の教えによって念仏申すものは多かったが、浄土に生まれることがいつ決定するのかという問題に多くの浄土願生者が惑いや不安を抱えていた。  この重大な問題について、宗祖は現生正定聚説によって答えられた。そしてそのいわれを大経十八願成就文の
「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」
の経文の上に確かめられたのである。すなわち、名号を聞信する信心歓喜の一念において「即得往生 住不退転」で、現生において不退転に住するとされた。不退転に住するとは正定聚に住することでもあるゆえ、信心獲得の時に正定聚に住するとされたのである。これを宗祖の「現生正定聚説」といいならわしている。

しかしながら、十八願成就文の
「即得往生 住不退転(すなわち往生することをえて、不退転に住すればなり)」(岩波文庫『浄土三部経』p186)
という経文は、即得往生の語句の後に住不退転の文言があるので、文の当面から読むと、「死して浄土に往生してから不退転に住す」と解される。実際、宗祖までの浄土教家はそう読んできたのである。

ところが宗祖は「即得往生 住不退転」に対しては独自な釈義をほどこされたのである。『一念多念文意』に宗祖は
「即得往生というは、即は、すなわちという、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即は、つくという。そのくらいにさだまりつくということばなり。得は、うべきことをえたりという。真実信心をうれば(乃至)、すなわち、とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり」(p535)
とか、
「すなわち往生すとのたまえるは、正定聚のくらいにさだまるを、不退転に住すとはのたまえるなり」(p536)
とか、また『唯信鈔文意』では
「即得往生は、信心をうればすなわち往生すという。すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御みのりなり。これを即得往生とはもうすなり」(p549)
と釈されている。この釈義によると〈即得往生 住不退転〉の経文は、即得往生と住不退転とを時間的な前後に切り離して読まず、同時・同意の内容と見られた。すなわち信心獲得によって即得往生で、即座に往生が定まり得る。それがそのまま不退転に住することなのだと、読まれたのである。
すなわち「即得往生と住不退転とは同時・同意のことと読みなさい」と、私たちに教えておられるのである。こう釈された経証を通して宗祖は、本願を信じる一念に現生においてかならず往生が定まることを示されたのである。

3.即得往生への誤解
なお、『一多文意』や『唯信鈔文意』における「即得往生」の宗祖の釈から、宗祖は〈臨終往生に対して即得往生というもう一つの往生あり〉を唱えられたという理解があるが、果たしてそうであろうか。これらの『文意』での宗祖の書かれぶりから、そうは思えない。そうではなくて「成就文の〈即得往生〉とは不退転に住することをいう経文なのだ」というのが宗祖のいわんとされるところである。
ところが即得往生の文を主眼に考え、いわば即得往生と住不退転との関係を逆に読んでしまい、「宗祖は、不退転に住するのを即得往生といい、臨終往生にたいして即得往生という往生があることを示された」と見るなら、それは宗祖の思し召しとは力点が異なり、誤解を生じかねない。

この点について本願寺派の仏教学者である上田義文氏は 「専門の学者たちは、信心獲得のときに不退の位に定まると説かれても、そのことはあまり注意しないで、即得往生と説かれていることを非常に問題にしているが、親鸞の思想において、この場合重要なのは、むしろ往生よりも不退の位である。親鸞においては不退の位が信心獲得の時になったので、即得往生も信心獲得の時に説かれるようになったのである。親鸞において最も画期的なことは〈即得往生〉を主張したということよりも、むしろ不退の位を信心獲得の時だとしたことである」(『親鸞の思想構造』p97)
と指摘されている。また大谷派の仏教学者である桜部建氏は 「(宗祖が)〈信心を得れば、ーーーとき日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを往生をうとはのたまえるなり〉(『一念多念文意』)と述べていらっしゃることが、しばしば、正定聚に定まるのがそのまま往生であると聖人は考えていらっしゃる、と見る根拠として挙げられています。しかしそれはまったく誤解だと私は考えます。聖人はこのことばは、「正定聚にさだまるのがただちに往生だ」という意味ではなく、「すなわち往生を得るという経文に言われているのは、正定聚に定まることを直截にそう言い表してあるのだ」という意味であります」(『浄土と往生』p71)
と述べておられる。

4.即得往生の「得」の意味
そうすると「即得往生」に対する理解での注意すべき点は何かというと、即得往生の「得」の意味をどう理解するかである。
宗祖は『一多文意』に「即得往生というは〈乃至〉、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をう(得)とはのたまえるなり」(p536)と仰せられているが、これは「得」を往生が「さだまる」意と了解されておられると伺う。なお存覚上人も『浄土真要鈔』(本)に  「即得往生というは、すなわちうとなり。すなわちうというは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、往生やがてさだまるとなり。うるというはさだまるこころなり」(p704)
といわれ、「うるというはさだまるこころなり」と明確にいわれている。

ところが「得」を「定まる」と読まずに、「得」に「(物事を完全に)手に入れる。自分の物にする。獲得する」(広辞苑)という意味があることから、信の一念において「往生を手に入れる、自分のものにする、獲得する」いわば「往生を獲得した」「往生を実現した」と受け取ってしまう。そうして、「聖人は、信の一念においてすでに浄土の往生を獲得した、往生をすでに実現した意味での即得往生を明らかにされた」というような了解がなされてくる。これでは「得」の理解が聖人のお心とは異なってくる。

5.不体失往生とは何か
ところで「宗祖は、信心を頂いたときに往生を実現したのだいわれ、それを〈即得往生〉と表明された」と唱える人たちの根拠としてしばしば提出される言葉がある。それは覚如上人の『口伝鈔』の「体失、不体失の往生の事」という表題の文章の中に
「善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという」(p665)
と伝えられている言葉である。このようなことを宗祖が本当に申されたのかどうか、真偽のほどはややはっきりしない(注)が、この一句は、念仏往生を信受する人は不体失(死なないままで)往生をとげるのであると、宗祖が言われたことを伝えている。
この「往生をとぐ」という意味が、往生が定まるという意味なら、改めて問題にする必要はないが、「往生をとぐ」は「往生を遂げる」すなわち「往生を成就した」と読めるので、そうなると「死なないままで往生を実現した」と受け取れる。そうするとこれをどう理解すればいいのであろうか。

こう読めるこの言葉を宗祖の言葉として記したのは覚如上人であるが、この言葉と同質の内容と受け取れる言葉が同じ覚如上人の著された『執持鈔』の中にある。それは覚如上人の領解として
「帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし」(『執持鈔』p647)
の言葉である。  『口伝鈔』と『執持鈔』のこうした覚如上人の表現や〈不体失往生〉という言葉は宗祖ご自身の書かれたものの中には出てこない。が、あえて指摘すると『愚禿鈔』に
「本願を信受するは前念命終なり。即得往生は後念即生なり」
という善導の『往生礼讃』の言葉に対する宗祖の覚え書きの中に伺うことができる。『愚禿鈔』のこの言葉をどう解釈するかは一様ではないが、本願を信じる一念のところに自力のはからいのいのちは終わり(前念命終)、即座に新しく本願他力のいのちの中に生まれる(後念即生)と解するなら、即得往生はそういう意味をもっているといえよう。

こうした覚如上人と宗祖の『愚禿鈔』のお言葉を付き合わせて思われることは、古来、宗教的回心や覚りを「精神的に旧い自分に死んで新しい自己に生まれ変わる経験」として語られる場合がしばしばあり、回心について「帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし」と表現をすることは決して奇異なことではない。
禅語の「大死一番、絶後に蘇る」や聖書のローマ書における回心の表現など、宗教経験の表現としてはかなり普遍的なものである。だから信の一念の回心に「精神的に死んで蘇る」内的経験として了解することは十分あり得ることである。そこで宗祖が『愚禿鈔』に記されもし、又ある日おそばの方に「信心獲得するということは、今までの旧い自分に死んで新しいいのちに生まれるようなものだ」と語られたのかもしれない。
それが覚如上人によって「帰命の一念を発得せば、そのときをもって娑婆のおわり、臨終とおもうべし」という領解にもなり、あるいは「体失せずして往生をとぐ」という言葉が宗祖の口伝として上人にまで伝承されてきたのかもしれない。

ただ宗祖がこのような宗教的回心の事態を「即得往生」と呼び、それを臨終往生とは別の往生として真宗の教義体系の中に位置づけられたかというと、そうは思えない。信心にはそういう内面的な死即生という意味転換があるのだということを示唆されたほどではなかったか。

6.結語
要するに、宗祖の言わんとするところは「信心を得た人は即座に正定聚不退転の位に住する」こと、そして「正定聚に住するがゆえに(臨終一念の夕べ)必ず滅度に至る」という、いわゆる「現生正定聚説」を明示されたのである。それについては、十八願成就文の「即得往生 住不退転」という仏語を、〈即得往生〉は〈不退転に住する〉ことと、同時・同意と釈することによって現生正定聚説の経証とされたのである。
そして「即得往生」という仏語の中に精神的な死即生という意味を感じておられたのではなかろうか。
しかしながら、こうした宗教的内面的な死即生を、臨終往生に対して、「即得往生という往生」として宗祖が主張されたとは思えない。だから今日、真宗研究者から「宗祖の往生観は即得往生であり、不体失往生が中心だ」と語られる場合があるが、そこはよほど注意して語らないと宗祖の思し召しから逸脱しかねない。

7.私の往生観
信心獲得の時に「往生が定まる」のであるから、往生を臨終一念の場だけでとらえるのではなく、かといって臨終往生をいわず信の一念における即得往生の場のみで往生を語るのでもなく、いうなれば信の一念において「往生が始まり」臨終の一念において「往生をば遂ぐる」(『歎異抄』)すなわち「往生を成就する(終わる)」、そういう「一つの往生の始終」として往生を見たい。
いわば往生浄土を「ひととき」のみに限定しないで、プロセスとして理解したい。信心獲得の時「往生がさだまり」(即得往生)、「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」いわゆる「往生を遂げる」と理解したい。

(了)

(注)  この〈体失・不体失往生の事〉の中で、法然聖人の仰せが仰せとして述べられているが、これもはたして法然聖人の仰せのままを覚如上人が記載したものであろうか。そこには覚如上人的な色合いの教義表現が伺われる。とすれば〈善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという〉という言葉にも覚如上人的な教義表現がないとはいえない。

タイトルとURLをコピーしました