第十八願を読む

  第十八願を読む

 『仏説無量寿経』の第十八願(因願)は、 


「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法」(聖典十八頁)
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎよう)して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆と誹謗(ひほう)正法とをば除く)


です。そして第十八願成就文は、


「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法」(聖典四十四頁)
(諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)
です。

 

 まず源空聖人(以下、法然)は善導大師(以下、善導)のご指南によって、第十八願文の中の「乃至十念 若不生者 不取正覚」(すなわち十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ)の文を、一切衆生を平等に浄土に往生せしめたもうアミダ仏の誓いを表された文言と読まれ、第十八願を「念佛往生の願」と名づけられました。そして『選択集』の本願章に『無量寿経』の第十八願(因願文)を引用したあと、善導の十八願文の解釈である

「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
 彼仏今現在世成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(真宗聖教全書一。九四〇頁)
(もし我成仏せんに、十方の衆生、我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。かの仏、いま現に世にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得)

を引用されて、善導の指示に従って法然は第十八願を、


「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」


 という念仏往生を誓う願と受け取られました。そして、善導は「至心信楽欲生」という信心の部分を本願文の外に出して、「当に知るべし」といい、それは「当に信知すべし」の意味であって、「称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」の誓いを〈信ぜよ〉とお勧めになるのであると領解されました。

 この思し召しを受けて、宗祖は法然の念仏往生の願意を基にしながらも、十八願文の「至心信楽 欲生我国」の文に焦点を当て、「至心・信楽・欲生我国」の三心は念佛往生の誓いを信楽する信心の内容であり、この信楽が往生成仏の正因であることを明示されて、第十八願を「至心信楽の願」とも名づけられたのでした。


 第十八願に於て、「念仏往生の願」という意味では「乃至十念 若不生者 不取正覚」と誓われる行についての誓いに焦点が当てられ、「至心信楽の願」という意味では「至心信楽 欲生我国(乃至)若不生者 不取正覚」を信の誓いとして、ここに焦点が当てられました。


 こうして宗祖が「行と信とは御ちかいを申すなり」(『ご消息』)といわれるように、第十八願には行を誓い(念佛往生の願)、信を誓っている(至心信楽の願)といえます。これに関連して、宗祖は『ご消息』に、

「四月七日の御ふみ、五月廿六日たしかにたしかにみ候いぬ。さては、おおせられたる事、信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
 そのゆえは、行と申すは、本願の名号をひとこえとなえておうじょうすと申すことをききて、ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかいをききてうたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれたる信はなしとききて候う。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。
 これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり。」(聖典五七九頁)

 といわれています。これによると、行を離れた信はなく、信を離れた行はないとおっしゃって、行も信もともに「みだの御ちかい」であるといわれます。


 行とは南無阿弥陀仏と称える称名念仏のことであり、行の誓いとは「本願の名号をひとこえとなえておうじょうす」との誓いであります。これは第十八願の「乃至十念 若不生者 不取正覚」の誓いのことです。「乃至十念」とは、善導・法然の了解では、念は称名念仏のことで、「乃至十念」とは「十回の称名念仏に至るにおよぶまで」ということです。

 そこで「乃至十念」の「乃至」は一回の称名から十回に至るまでと、無数回から十回までを全部含めた言葉ですから、念仏の数に限定しないという意味です。この『ご消息』では「ひとこえをもとなえ、もしは十念をもせん」と示されています。いわば「ただ称えるばかりで浄土に生まれさせる」との誓いが「乃至十念 若不生者 不取正覚」の誓いで、これが「行の誓い」です。そこで称名念仏は衆生を浄土に往生せしめたもう誓いの行ですから「正定業」(正しく浄土に往生することが定まる行業)といわれます。
 なお第十八願の「乃至十念」の念は称名念仏の念であるといわれます。それは十八願の手前の第十七願、すなわち、

「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」
(たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ)

 の「称我名者」(我が名を称せずんば)の称名を受けていること、また『仏説観無量寿経』の下々品に「声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに」浄土往生したとあって、仏名を声で称える十念であることなどが経証として、第十八願の〈乃至十念〉の念は称名念仏の念であるといわれます。

 第十七願」についてですが、『唯信鈔文意』に、

「法蔵菩薩の四十八大願の中に、第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられんとちかいたまえる、一乗大智海の誓願、成就したまえるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにて、あきらかなり。証誠護念の御こころは、『大経』にもあらわれたり。また称名の本願は、選択の正因たること、この悲願にあらわれたり。」(聖典五五〇頁)

 といわれ、第十七願に法蔵菩薩は諸仏に名号をほめられ、称えられたいと誓われたと仰せられています。そして第十八念仏往生の願を誓われました。十七願は称名念仏を選択する願であり、十八願は称名念仏を浄土往生の正因と誓った願です。この第十八願の念仏往生の願をここで「称名の本願」といわれ、この称名念仏を往生の正因とされたのであるからこそ、十七願に於て法蔵菩薩は十方の諸仏に名号を〈ほめられん、となえられん〉と誓われたのである、と仰せられるのです。

 このことを「称名の本願は、選択の正因たること、この悲願にあらわれたり」といわれるのです。この悲願とは十七願であり、称名の本願とは第十八願です。十方の諸仏に名号を讃歎し、称えられることによって十方の衆生に回向しようとされる十七願は、称名念仏が往生の正因であるからこそであるので、本願の名号を選択し衆生に十七願で回向されるのです。こうして十七願によって「我が名を諸仏にほめられたい」と誓われたのは、称名念仏を往生の行として誓った念仏往生の願(称名の本願)が往生の正因であるからこそ、十方の諸仏にほめられたいと十七願に誓われたのだ、との思し召しでありましょう。

 では「信の誓い」とは何かといえば、これも第十八願に示されています。それは「至心信楽 欲生我国(乃至)若不生者 不取正覚」の誓いです。この中心は信楽です。信楽とは信ずる心であり、何を信じるかというと念仏往生の誓いを信じるのです。「信の誓い」とは、念仏往生の「乃至十念 若不生者 不取正覚」の誓いを信じる者を浄土に往生せしめんとの誓いです。このことは、

「第十八願に信心まことならば、もしうまれずば佛にならじとちかいたまえり」(聖典五九二頁)

 と『ご消息』に仰せられています。ですから、念仏往生の誓いを信じる信心、これが浄土往生の正因とされるのです。


 なお「至心信楽 欲生我国」の「至心信楽」(至心に信楽して)は「まことと信ぜよ」であり、「欲生我国」(我が国に生まれんとおもえ)は「(信じて)我が国に生まれるとおもえ」のお心です。そこで「至心信楽欲生我国」は「(念佛往生の誓いを)まことと信じて我が国に生まれるとおもえ」というアミダ仏の願心です。

 こうして「我が名を称えるばかりで助ける」という念仏往生の誓いを信じるばかりで浄土に至らしめんと誓うのが十八願の内容になりますから、十八願は行を誓い、信を誓う願であって、「これみな、みだの御ちかいと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかいを申すなり」と宗祖は仰せられるのでありましょう。
 そして行と信は離れたものではなく、


「信と行とふたつときけども、行をひとこえするとききてうたがわねば、行をはなれたる信はなしとききて候う。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。」


と宗祖は仰せられています。これは念仏往生の願に信順する行いが念仏する(行)ことであり、念仏往生の願に信順する心が信心ですから、本願を信順する一つの中に行も信も具わっていますので行を離れた信もなく、信を離れた行もないのです。


 譬えば、ある重病人に、特効薬を持ってきた医師が「これを飲めば治るから飲みなさい」と言われたときハイと飲む行為(行)には同時にその医師の言うことを信じた(信)ことになり、またその医師の言うことを信(信)じたということは薬を飲む(行)ということです。本願の仰せを信じる中に、信も行も一つにこもっているようなものです。
 
 そして「慶西御坊」宛の宗祖の『ご消息』には、

「念佛往生の願は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候」(聖典五八一頁)

と仰せられています。このお心は、念仏往生の願である第十八願に、正業(正定業)としての行と、往生の正因としての信心、いわば正業と正因を誓われていると、宗祖は了解されたのだと伺います。
 ここで「正業」とは正定業のことで、『尊号真像銘文』に、

「正定之業者 即是称仏名というは、正定の業因は、すなわちこれ仏名をとなうるなり。正定の因というは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねともうすなり」(聖典五二七頁)

 といわれ、「仏名を称える」行を正定業といい、正しく無上涅槃をさとることが定まる業因(正定の因)と仰せられます。なぜかといえば、〈仏名を称えるものを浄土に生まれしめる〉と念佛往生の願に誓われているからです。浄土は無上涅槃のさとりをひらく境界です。
 この『ご消息』の「往相回向の正業・正因なり」の正業は正定業の称名であり、正因は念仏往生の願を信じる信心の正因のことで、『正像末和讃』には、

不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまえり
信心の正因うることは
かたきがなかになおかたし (聖典五〇四頁)

 とあります。報土は浄土のことであり、仏智である本願を信じる信心は浄土往生の正因です。
 そうすると称名正定業としての正定の因と信心の正因と、正因が二つあるように思いますが一つに収まります。信心には必ず行(正定業)を具しています。ただし信心の伴わない行(称名)は正定の業因である本願の名号を称えていても、未だ本当に我が身にいただいていません、いわば信受していませんから、往生の果を結ばないのです。


 先ほどの譬えで言えば、重病人を直す薬は病気を治す因ですが、この因である薬を呑んでこそ病人は直るのですから飲むことは病気が治る因ともいえます。薬は称名(行)であり、飲むのは信心です。薬をもらって手にもっていても呑まなければ効果はありません。あるいは溺れかけている人を助けに来た救助船はその人が助かる因ですが、船がやってきてもその船に乗らなければ助かりませんから、船に乗ることが助かる因といえます。船は称名(行)であり、乗るのは信心であります。念仏往生の本願を信ずるなかに行信は一つに収まります。このことは、

安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまう (『浄土高僧和讃』聖典四九三頁)


   
 という和讃にも、名号と信心は「ひとつにて」と表されています。本願の名号を聞き受けている外に信心はありませんから、名号を聞く〈信心ひとつ〉に名号もおさまっています。本願の名号と離れた信心はありません。信心を離れた名号には正定業としてのはたらきはありません。薬があっても呑まなければ、その人にとって薬の効果はないようなもので、本願の名号を信受しなければその人にとって名号が正定業としての功徳はありません。

 行も信も法藏菩薩は十八願に誓い、それを永きご修行によって、私たちの往生の行も信もともに成就して、それを南無阿弥陀仏として私たちに回向し南無阿弥陀仏として聞かせてくださるのです。それをこの『ご消息』で「如来の往相回向の正業・正因」と仰せられるのです。往相の正業(行)を私たちに回向してくださり、それによって往相の正因(信心)を回向してくださるのです。

 回向とは、こちらのものを方向転換してあちらの方へふりむけることで、第十八願で成就した如来の正業(行)・正因(信)を衆生にふり向け与えるということです。これが「念佛往生の願は往相回向の正業・正因なり」といわれることで、第十八願(念仏往生の願)の正業(行)・正因(信)を回向してくださるのです。第十七願は往生浄土の正業・正因を南無阿弥陀仏として衆生にふり向け与えたもう願です。それで第十七願を「往相回向の願」であると宗祖はいわれるのです。なお往相とは浄土に往生する相状です。
 そこで第十八願は、


「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎよう)して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん、もし生ぜずは、正覚(しょうがく)を取らじ。ただ五逆と誹謗(ひほう)正法とをば除く。)


 ですが、「至心信楽 欲生我国」(至心に信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)いて)は「(念仏往生の誓い)をまこと(至心)と信じて(信楽)我が国に生まれんとおもえ(欲生我国)」であって、この中心は信楽です。「乃至十念・若不生者・不取正覚の誓い」を信ずる「信楽」です。第十八願は「(衆生に)乃至十念の本願の念仏を信ぜしめて浄土に必ず生まれさせよう」とのお心です。そこで宗祖は第十八願を「至心信楽の願」とも仰せられるのです。
 なお宗祖はここの「至心信楽」を「真実なる本願(至心)を信じて(信楽)」と読まれています。それは、宗祖の『尊号真像銘文』に、

「至心は、真実ともうすなり。真実ともうすは、如来の御ちかいの真実なるを至心ともうすなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。濁悪邪見のゆえなり。信楽というは、如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざれば、信楽ともうすなり」(聖典。五一二頁)

と申され、宗祖は、如来の本願の真実(至心)なるをふかく信じることを〈至心信楽〉と領解されています。

 法藏菩薩は「我が名を称えるばかりで助ける」という念仏往生の誓いを建てられたばかりでなく、この誓いを信じる信心までも衆生に成就せしめようと誓われたと見られたのが宗祖でありましょう。そして法蔵菩薩は永劫の修行に入られ、一切衆生を助けることのできる力(本願力)を成就して、全ての衆生が仏になる前にすでにアミダ仏になられたのです。こうして本願の行(念仏)も、本願の行を信じる信心も成就されたのです。


 そしてこの行信を南無阿弥陀仏として私たちに回向してくださる。回向してくださる願が第十七願です。行も信もアミダ仏の手元にある間は衆生の救いとして現実化しません。それゆえ行信を南無阿弥陀仏として衆生に与えてくださるのです。

 行の願というとよく第十七願だ言われるますが、第十七願は称名念仏を選択した願であり、本願の念仏(行)を諸仏の讚嘆を通して十方の衆生に〈回向したもう願〉であり、衆生に本願の名号を称えしめ聞かしめたいとの願です。そこで宗祖は第十七願を「選択称名の願」ともいわれ、「往相回向の願」ともいわれるのです。ですから称名念仏を往生の行と誓われた願ではありません。往生の行と誓われたのは第十八願です。第十七願はこの第十八願の念仏往生の願を本願の名号として衆生に回向したもう願です。『ご消息』に、

「法身ともうす仏をさとりひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかいを、法蔵菩薩われらに回向したまえるを、往相の回向ともうすなり。この回向せさせたまえる願を、念仏往生の願とはもうすなり」(聖典五八九頁)

 とあります。回向する願が第十七願で、回向される願は念仏往生の願(第十八願)です。すなわち第十七願は念佛往生の願を本願の名号として衆生に回向したもう願です。

 どのように行信を与えてくださるのかというと、十方の諸仏善知識に本願の名号を讃嘆せしめ、善知識の御教化によって一人一人に南無阿弥陀仏を称えさせ聞かせてくださることによってです。これが第十七願の思し召しです。行信を与えるといっても行と信と別々なものを与えるのではなく、選択本願の行を衆生に与える外に信を与えるのではありません。


 行を与えるとは衆生に行を称え聞かせることです。それゆえ衆生が称える念仏は衆生に帰せられる行ではなくて、如来の本願のはたらき(本願力・第十七願力)が衆生の上に称名念仏として現れた行です。人間の側から行う小さな行ではありません。一声一声が如来の本願の力が現れてくださる行です。宗祖はそれゆえ称名は如来の行、すなわち大行といわれました。


 こうして聞かされる行の中に大慈大悲の本願のお心が入っており、衆生が本願の行を聞く〈聞其名号〉ことは大悲の願心を聞くことであり、これによって本願の大悲のお心が不思議にも衆生の心に届いて信心になってくださるのです。本願を信ずる心は大悲の願心の外にはありません。このようにして本願の名号を〈与え聞かせる〉ことによって行信を与えようとされるのです。

 これが第十七願のお心です。善知識の名号讃嘆のお説教を聞いて、南無阿弥陀仏を聞く。そこで衆生はお念仏の有り難いことを聞いてお念仏を申すようになり、自然にお念仏を聞くようになります。そして一声のお念仏を聞くということは「ひとこえとなえておうじょうす」(聖典五七九頁)という大悲の願心(念佛往生の大悲の願心)を聞くことになります。衆生が本願の念仏を聞くところに、南無阿弥陀仏にこもっている驚くべき大慈大悲のお心(念佛往生の願心)が衆生の心に届いて衆生の信心となってくださるのです。信心の内質は如来の大悲の願心です。


 本願の名号を〈聞其名号〉する時、「至心回向したまえり」(『浄土三経往生文類』聖典四六八頁)で大悲の至心(本願の真実の心)が回向されて衆生に信心が成就するのです。それを『信巻』の始めに、

「この心(信心)すなわちこれ念仏往生の願より出でたり」(聖典二一一頁)

 と仰せられるのです。そこで信心といってもこの内実は念佛往生の大悲の願心です。ですから信心は衆生の起こすものではなく、いな起こせるものではなく、賜るものです。こうして本願の名号を聞いて、「ああ有難い」と仰ぐところに届いてくださる信心なのです。「念仏を聞く」ということについて法然も大胡の太郎へのお手紙の中で、

「たれだれも煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南无阿彌陀佛ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」(『西方指南鈔』浄土真宗聖典全書九九七頁)

 と仰せられています。称える念仏の〈声につきて〉念佛往生の願を聞く。念佛往生の願心を聞き受けたのが信心です。称えるお念仏の声に於て、「ひとこえ称えるばかりで往生せしめる」すなわち〈そのままなりでタスケル〉の誓いを聞く。〈ああ助けてくださることよ〉と受け取ることを〈決定往生のおもひをなす〉といわれるのです。

 如来の大悲の願心が信心となってくださる、その如来の大悲心はどこに端的に表れているかと言えば、〈南無阿弥陀仏〉とお聞かせくださる一声に「我が名を称えるばかりで助ける、何もいらない」という極まりなき大悲心が表されています。驚くべき広大な大悲の心を聞くのです。ここに南無阿弥陀仏の一声の念佛に具わっている大悲心が不思議にも凡心に映って、あるいは届いて信心となってくださるのです。
 法然の歌に、

「月影の いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ」(石井教道編『法然上人全集』八七九頁。平楽寺書店)

 とありますが、夜、天上の月の光は万人万物を照らしているが、その月を眺める人においてのみ月の光はその人に感知されて「ああ美しくてすがすがしい月よ」とたたえられるのです。天上の月を眺めると、そこにはや月の光がその人の目に届いてすがすがしく感じられているのです。もし月が私たちを照らしていても、下を向いて月を眺めなければ、月の光は私たちの目には届かないのです。


 大悲のお心を「ああ有難い」と仰ぐ人の心に大悲の心は不思議にも届いてくださいます。大悲の心は万人にそそがれていても、その大悲を仰ぎ聞かなければ大悲はその人の心の中に入ってきません。
 「我が名を称えよ」「そのままなりで助ける」との念仏往生の誓いを「ああ有難い」とほれぼれと聞く、そこに南無阿弥陀仏の大悲の心が響き入ってくださるのです。人の側から言うと大悲のお心を仰いでいる、南無阿弥陀仏を聞いている外に信心はありません。


 このように称え出てくださる南無阿弥陀仏は弥陀の大悲の行(はたらき)であり、またそれが私たちの信心となってくださいます。大悲の仏心が凡心に映っている姿が信心の姿です。天上の月の光が凡心の池の水に月影を宿しているようなものです。どれほど濁った池の水にも、天上の月光は池の水面に月影を宿すように、煩悩だらけの凡心に大悲の光明は有り難いことに濁れる凡心に宿ってくださるのです。不思議です。
 ですからお念仏を称えつつ、一声のお念仏にこもっている念仏往生の誓いの大悲心をよく聞くことが大切です。

 そこで今一度第十八願を見ますと、〈十方衆生〉というのは一切の衆生を救わずにはおかないという広大なお心、〈至心信楽〉は「本願をまことと信じてくれよ」の親心です。さらにいえば「信じさせたい」という、本願のまことを信じさせずにはおかないというアミダ仏のやるせないお心でありましょう。〈欲生我国〉とは「我が国に生まれんと欲え」で、それは「浄土に生まれさせるから、浄土に生まれようとおもえ」と仰せられるのでありましょう。

「浄土に生まれたいと思わなければ助けない、助からない」といわれるのではなく、「浄土に生まれさせるから生まれるとおもうて安心してくれよ」という大悲心でありましょう。〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉は何度も申しますように、「我が名を称えるばかりで助ける」という極まりのない大悲の誓いの心。「若不生者 不取正覚」は、この誓いが実現しないようなら法藏菩薩は仏にならないという、ご自身を掛けものにしてまで救わずにはおかないという大悲心です。

 そして最後に「唯除五逆誹謗正法」(ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く)と、本願に添えてあります。


  
 ではこの「唯除五逆誹謗正法」(ただ五逆と正法を誹謗せんをば除く)はどういうお心なのでしょうか。
 「唯除五逆誹謗正法」の「五逆」というのは非常に重い悪業で、恩になった両親への反逆(殺害など)とか真理を悟って説いてくださる聖賢を害することや邪見を主張して教団を分裂させることなどです。さらに宗祖は日々十悪を行うことも五逆罪と見ておられます。これは大乗の五逆罪でいわれています。
 また〈誹謗正法〉とは正法である仏法を否定し、無視し、反抗し、そしることです。「唯除」(ただ除く)とは、こういう人は救いを自ら除外しているゆえ、「汝に救い無し」との仰せです。

 そして五逆罪は、真理である正法を否定し無視する「誹謗正法」から起こって来るのだと曇鸞は仰せられています。正法を否定しアミダ仏にであわないと、いつまでも自我しか知らず、自我を自己とみなして自我に執着する自我中心性から解放されませんから、そこから大小さまざまな悪が跋(ばっ)扈(こ)してくるのでありましょう。


 そこで肝腎なのは〈誹謗正法〉のことですが、自らへの救いが説かれてもその救いを拒絶する誹謗正法の者が助かる道理はありません。救いを否定する人に救いはないのは当たり前です。しかしアミダ仏は「仏法を否定する者は救わない」と仰せられるのではありません。アミダ仏が救わないといわれるのではありません。全ての人の救いの法は成就していて、救いを〈南無阿弥陀仏〉と告げ知らせてくださっているのに、それを人間の方から拒絶するのですから、救いから除かれるというのはアミダ仏の責任ではありません。

 人間の側から自らの救いをはねつけ、救いから〈自分を除いている〉のです。どのような人も救われる法はできあがって、南無阿弥陀仏と喚びかけ、「汝をソノママナリデ助ける」と喚びづめに喚んでくださっているのに、耳に蓋をし、救いから自分自身を除いているその姿を「唯除誹謗正法」(ただ正法を誹謗するものを除く)とお知らせくださるのです。

 そして「ただ五逆と正法を誹謗するをば除く」と仰せられ、アミダ仏は私たちに「救いから除かれる」とまで仰せになるのは、私たちに救いのないことを示すのではなく、私たちが誹謗正法をしているとも知らず、悪業煩悩を起こし、いつまでも流転している私たちの姿を示し、誹謗正法の罪を私たちに知らせるためであります。誹謗正法の罪を罪と知らせて、「ああ私はどこどこまでも仏法を聞かず、受け入れず、無視し、反逆し、アミダ仏に尻を向けて迷いを続けてきた罪深い人間だ」と知らせ、それによって仏法の中に入れてくださるのです。


 こうした自分の罪の深いことを知らされて、「ああ私は救いから自分を拒絶し、自分を長々と救いのない状態にしてきた者である。救いから自分自身を除外し続けてきた救いなき身である。正法を否定し、自我中心の煩悩熾盛の救われ難き身である」と知らされるのです。


 そのことによって、有り難いことにアミダ仏の救いである「我が名を称えるばかりで助ける」「救いなき汝なればこそ全面的に引き受ける」という念佛往生の願の大悲に気づかせてくださるのです。

 なぜ「我が名を称えよ」が響かないか、それは自らが邪見?慢で流転してきた我が身を知らず、我執我愛の罪深く救いなき身であることを知らないからです。「我かしこし、我は善人なり、我に救いは必要ない」などと高ぶっている人には、アミダ仏の大悲は響かないのです。ですからそういう私たちの姿を知りきっておられるアミダ仏は、「汝は救いから自分を除外している仏智疑惑のかたまりの罪深き凡夫である」「汝は救われがたき身」であることを「唯除五逆誹謗正法」と示し、私たちの姿を露わにし、「そのような汝だから、助けさせてくれよ」と大悲をそそいでくださる丸助けの大悲を受け取らせてくださるのです。なんと至れり尽くせりの思し召しでしょうか。

 この第十八願のお心の全体が南無阿弥陀仏のみ言葉にこもっており、「救いなき汝を引き受ける」と仰せくださる〈南無阿弥陀仏〉を私たちに聞かせてくださる。その南無阿弥陀仏の御名を聞き受ける、そこを第十八願成就文に、

「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 即得往生 住不退転 唯除五逆誹謗正法」
(諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く)     (聖典四十四頁)

 と示されています。これは第十八願が成就し、衆生の上に救いが現実化した相を釈迦如来が説かれた経文です。本願の名号を〈聞其名号〉する時、いわば名号のお心を聞き受ける時、「信心歓喜 乃至一念」で信の一念が聞く人に起った時の相です。


 まず「聞其名号」(其の名号を聞く)とは諸仏の讃歎される本願の名号を聞くということです。諸仏が讃嘆される本願の名号、具体的には私たちにとって諸仏の代表である釈迦如来が『仏説無量寿経』にアミダ仏の本願念仏をお説きになって、私たちに〈これを称え、これを信じて助かってくれよ〉とお勧めになられた、その思し召しを釈迦如来以後、七高僧、宗祖、蓮師などの御説法、そしてそれを今日まで伝えてくださった善知識方のお説教を聴いて、「それじゃあ私も称えましょう」と称え始め、南無阿弥陀仏のお心を善知識からお聞きする、これが聞其名号の歴史であり、仏法聴聞の伝統です。
こうした伝統の中で、本願に救われた信心のお方も宗祖は諸仏と見ておられます。『御消息』には、

「『華厳経』に、〈信心歓喜者与諸如来等〉というは、信心をよろこぶひとはもろもろの如来とひとしというなり。如来とひとしというは、信心をえて、ことによろこぶひとは、釈尊のみことには、〈見敬得大慶 則我善親友〉とときたまえり」(聖典五九二頁)

 と述べておられます。なぜなら、真実信心の人は仏心を信心としていただいて仏のお心が分かった方だから、『華厳経』に信心の人を「如来にひとしい」とほめてくださっていると宗祖は仰せられるのでしょう。信心の人の人格が仏に等しいと云われるのではなく、いただいた信心は仏心だから、「仏にひとしい」と讃えられるのでありましょう。

 ですからこのように釈迦如来だけでなく、そういう信心をいただいて信心を喜ぶ善知識方の名号讃嘆も〈諸仏の名号讃嘆〉なのです。

 そして諸仏の名号讃歎の元に衆生に本願の名号を届けたいという法蔵菩薩の第十七願のお心があります。第十七願は、


「たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ」(聖典十八頁)


 で、十方の諸仏に本願の名号をほめられ称えられたいと誓われたこの願によって、本願の名号が世界に伝わって来たのです。このようにして第十七願の名号讃嘆の歴史が綿々として続いてきた、その歴史の中にいる私たちです。

 さらに法蔵菩薩は一人一人の衆生に名号となって名告りたいという誓いを起こされています。このお心は第十七願を重ねて誓われた『無量寿経』の「重誓偈」に明瞭に示されています。南無阿弥陀仏の一声ひとこえの私どものお念仏は、アミダ仏が南無阿弥陀仏の名となり声となって喚びづめに喚んでくださっているアミダ仏の喚び声であることが「重誓偈」に法蔵菩薩は、

「我仏道を成るに至りて名声十方に超えん。究竟して聞こゆるところなくは、誓う、正覚を成らじ、と。衆のために宝蔵を開きて広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法師子吼せん、と。抄要」(『行巻』に引用された重誓偈。聖典一五七頁)

と誓ってくだっています。名声(名号)を十方の衆生にどこどこまでも聞かしめようと誓われたのです。南無阿弥陀仏の名となり念仏の声となって十方衆生に「聞かしめて」くださるのです。これによってアミダ仏は万人に「説法獅子吼」されるのです。
 仏の名号という言葉によって衆生に聞かせて救おうという第十七願は人類の救済史に他に類を見ない救済法です。


 こうして善知識の名号讃嘆のお説教を聞いて念仏申すようになると、そうすると自ずから〈ナムアミダブツ〉と耳に聞こえてまいります。念仏を申す一声ひとこえがアミダ仏の名のりであり、喚び声であり、〈説法獅子吼〉のアミダ仏の直説法です。名号はアミダ仏ご自身の直説法ですからまじりけの無い純粋な仏法そのものです。それは「助からぬ者を助ける」の仰せであり、アミダ仏が「ここにいる」と名のりたまう喚び声です。この喚び声が時至って、いわば縁が熟して、南無阿弥陀仏に表されている仏心大悲が感知され、「ああこの南無阿弥陀仏様がまるまる引き受けてくださるのであった」と気づかされます。このことが「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」と説かれているのです。


 それは本願の名号における大悲の願心が初めて我が身に聞き開かれたのであり、それが信心であって、当然信心には喜びが伴いますから〈信心歓喜〉といわれるのです。それが我が身に届いた信心のすがたです。大悲のお心が我が心に至り届いて離れなくなったのです。これは不思議なことです。煩悩熾盛の凡心に大悲の心が届いてくださるのです。これは仏心大悲の不可思議な徳の力によってでありましょう。

 初めて信心が我が身に発起したことをここで「一念」といわれます。「一」とは「はじめ」であってここの「乃至一念」の一念は初一念ともいわれ、初めて我が身に信心が発起したことです。この信心が一回限りではなく生涯反復し相続するので「乃至」が付いています。
 またアミダ仏の大悲のお心が私の心に届くのに時間がかからないので一念とも言われます。いわゆる一瞬ということです。このことを宗祖は、


「信楽に一念あり。一念は、これ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(聖典二三九頁)


と仰せられ、「時剋の極促」つまり時の極まりの一念と押さえられています。
 しかも信の一念はアミダ仏のご本願のお心がそのまま届いて私の信心となっているのですから、私の思いや考えなどは一切混わらないので、「本願を二心なく信受している」ということで二心なきゆえ「一念」(一心)であるともいわれます。

 次に「至心廻向」ですが、これを宗祖は「至心に回向せしめたまえり」とか「至心回向したまえり」と読まれています。「せしめたまえり」は尊敬語です。至心とは如来の真実心であり、その本体は名号です。「信巻」至心釈に、

「この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体となせるなり」(聖典二二五頁)

 と仰せられています。そこで〈至心回向せしめたまえり〉は、至心の体である名号を衆生に回向してくださることです。その名号を聞くというのは、真実大悲の如来の心(至心)を名号として回向してくださる、その名号を聞くのです。このことを宗祖の『一念多念文意』には、

「至心回向というは、至心は、真実ということばなり。真実は阿弥陀如来の御こころなり。回向は、本願の名号をもって十方の衆生にあたえたまう御のりなり」(聖典五三五頁)

 と仰せられています。至心は至れる誠の心、すなわち如来の真実心。その真実心の具体的なのが南無阿弥陀仏の名号であって、名号を与えることは如来の真実心を与え、聞かせてくださることなのです。この至心は観経で至誠心と説かれ、その点からも至心を真実心といわれるのです。

 人の側からいえば名号を与えていただくとは名号を聞かせていただくことですが、聞く名号を通して如来の本願の真実心を聞かせていただくのです。聞く名号に於いて、本願の大悲真実の心が凡心に聞き受けられたのが信心です。


 こうしてこの至心回向によって衆生は名号を聞き、名号のお心である真実心(至心)を信受する、そこに如来の大悲の真実心を凡心にたまわって、「即得往生 住不退転」(すなわち往生を得て不退転に住せん)で、それによって、現生で、浄土に往生することのできる身となり不退転に住するのです。私たちがお念仏を申すようになるのもアミダ仏の至心回向によってであり、その与えられた名号を聞き開いて名号を信受する、いわば名号が私たちの身に受け取られて浄土に生まれる身となるのも〈至心回向〉のはたらきです。至心回向は信心をいただく前にも後にも一貫してはたらいてくださるのです。こうして如来の真実心(至心)と離れなくなった凡心ゆえ、すなわち如来に摂取されるゆえ、浄土に生まれる身となるのです。

 さて次に「願生彼国 即得往生 住不退転」の「願生彼国」(彼の国に生まれんと願ずれば)ですが、信じたその時に如来の大悲の真実心が凡心に廻向されて信心として成就し、おのずから「浄土に生まれさせてくださることよ」と、浄土に生まれようとの願生心(願生我国)が伴ってくださる。こうして浄土往生が願われるとともに「即得往生 住不退転」(すなわち往生を得、不退転に住せん)で、本願を信じたその時に、いわば即座に「往生を得、不退転の位に住」するのです。

 「即得」の即は即時にすぐにという意味です。「往生を得」の「得る」とは浄土に生まれることが「定まる」という意味です。信じたとき浄土に生まれたのではありません。生まれることに定まるのであって、浄土に生まれるのは臨終の時においてです。

 ただ信心の内面的意義に於ては浄土のはたらきに触れたといえます。そして一度触れたら二度と離れることはありません。ただ、現在只今において浄土のはたらきに触れ得たとはいえますが、触れてもすぐ私たちの凡心は煩悩の現実にひきもどされますので、「浄土に生まれた」とはいいません。ただ、この世が終わって「浄土に生まれさせていただける」という確かな希望が与えられます。この希望をもって現実生活を生きることができるのが有り難いのです。


 ご信心をいただいて浄土のはたらきに触れてもこの〈身〉は悪業煩悩を離れることができないという宿業の身を生きなければなりません。このような身に於ては、涅槃界である浄土は〈臨終一念の夕べ〉に浄土に生まれることが期せられるのであり、それなればこそ来生の浄土が有り難いのです。
「住不退転」(不退転に住す)の不退転とは、最早迷いの世界(六道とか悪道)に転落しない境位のことです。この境位に入れてくださるのです。ですからこれ以後は涅槃の世界へと運ばれていくばかりということになるのです。

 こうした第十八願成就文の「聞其名号」から「住不退転」までの内容は一連のこと、あるいは同時的なことであって、段階的なことではありません。「即得往生 住不退転」は信の一念が発起したところにアミダ仏の摂取不捨の利益に預かるゆえに即座に現実化する利益です。

 そして本願成就文の「唯除五逆誹謗正法(ただ五逆と誹謗正法とをば除く)」ですが、五逆は自らの煩悩にもよおされて両親や聖者を害したりするなど、いわば倫理的に重罪であり、誹謗正法は真理に盲目であり真理に反逆する心であって宗教的な重罪です。真理に背くところから倫理的な罪が起こるといわれています。ですから真理に惑うている凡夫はいつまでも五逆の罪を造る可能性をもっている存在といえましょう。こういう存在ですから、いつまでも流転が止まず、「助からぬ身」なのです。


 この助からぬ身である私を救いたもうアミダ仏の本願を信じ、はからずもアミダ仏の摂取にあわせていただいたのですが、この信心は、助からぬ身のままで助けてくださる信心として生涯続くのであって、助かる身となって助かるのではなく、〈助からぬ身を助けてくださることよ〉との二種深信として生涯相続していきます。ですから本願成就文にも「唯除五逆誹謗正法」の文が付いていて、そのつど「汝は助からぬ身である」とお知らせくださり、いつでも「逆謗の助からぬわが身」において、「そんな汝を助ける」という「お助け」を仰ぐばかりです。
 さらに「唯除五逆誹謗正法」のお心は、宗祖が『尊号真像銘文』に、

「五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり」(聖典五一三頁)

 と仰せられているように、五逆を仏様はきらいたまい、仏法を否定することは重い罪になると諭しておられることが知られます。そうすると、私たちは五逆の罪を犯さないように生きることが仏様から期待され、望まれ、喜ばれていることを知らされます。前述しましたように五逆の中に十悪も入っていますから、〈誹謗正法〉はいうまでもなく、日常生活に於てさまざまな悪しきことや浅ましいことをしないように心がけることが仏様のお心に適うことであり、そのような生き方をしようと願うようになります。

 そういうことで本願成就文に「唯除五逆誹謗正法」が付けられているのは、信心をいただいた者がどのような生き方をすべきであるかを釈迦如来が示されたものという意味も含まれています。
 以上が第十八願のお心です。

                  (了)

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