十八願よりみた二十願

清沢師のどういう点が新しい視野を開いたかを一言で言えば、人が存在している事実そのものにおいて阿弥陀仏を見出し、それを自覚的に表現したという点である。

まず一八九八年(明治31年)、『朧扇記』に、 「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗託して、任運に法爾に此の境遇に落在せるもの、即ち是なり」 と表明し、一九〇三年(明治36年)絶筆である『我が信念』では阿弥陀仏を 「無能の私を私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である」 と表した。これは真宗の教法の伝統に於て新たな視点といえよう。

●佐々木蓮麿師の解読
このような清沢師の見出した〈如来〉と自己の関係を、清沢師のこの自覚を追体験的に了解した大谷派の佐々木蓮麿師は、著作『真実は輝く』の中で、次のように解明しておられる。長くなるがいくつか引用してみたい。

「真実を求め、真実に生きようとされた(清沢)師の努力は、なまやさしい観念や思想の仮面を打ち破って、直下の自己へと肉薄したのでありました。それでは、師が最後に到達された直下の自己とはいかなるものであったでしょうか。われわれが心で考えたり思ったりしたものは、真の直下の自己ではありません。

そこで師は〈現前一念の起滅も亦自在なるものにあらず〉といって、今の心の動きまでもわれならざる所為とみていられるのであります。また〈天道を知るの心を知るの心、是れ自己なり〉といって〈知る〉を二重に使っていられます。かように〈心の働きを働かせるもの〉とか、〈知るの心を知るの心〉とかいうのは、どういう境地でありましょうか。
それは能動の根本主体とでもいうべきもので、〈我〉とか〈心〉とか、また〈働き〉とか〈知る〉とか名づくべきものを絶した、純粋な今の動きそのものに生きること。すなわち、生きるということもいえない、今の動きつつあるそのままと解するほかはありません。
この境地は思惟分別の主体そのものでありますから、思惟分別の対象にはなり得ない絶対的実存であります。師が〈現前の一念〉とか、〈能力の根本本体〉または〈如来〉といわれたものは、まったくこの世界であると信ずるのであります」

「師の発見された自己を分類してうかがってみますと、大体三段に分けられるようであります。今その区別を、師の〈無能の私をして私たらしむる能力の根本本体〉の語にあてて説明しますと、〈無能の私〉は迷妄の自己であり、〈私たらしめられる〉ところが与えられた分限内の自己であり、〈能力の根本本体〉が正しく真実の自己であらねばなりません。この先生の自己発見は、釈尊や親鸞を現代に生かし、古今東西の哲学を窮極までつきつめたものといってもよろしいでしょう」

「(清沢師に)〈無能の私をして私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である〉という語がありますが、この短いことばの中に、先生の宗教哲学がいい尽くされているように思います。  すなわち、師の宗教は、如来と自己との接触にあるのではなくて、如来のほかに自己なく自己のほかに如来なし、という自覚そのものであったことがわかるのであります」

●清沢満之師の如来
これによって、清沢師の発見した如来は、人が今ここ(現前の境遇)に存在しつつある事実(身心としての個物的自己)を、今ここに存在せしめつつある働きそのものである。それは、 「〈我〉とか〈心〉とか、また〈働き〉とか〈知る〉とか名づくべきものを絶した、純粋な今の動きそのもの、今の動きつつあるそのまま」 の外にはない。今なにかを感知しつつあり、思惟しつつあり、動きつつある純粋主体そのものである。  そしてそれはまた、人を含めて万物はこの働きを離れては成立しないし、万物の存在根拠であり、基盤である。いわば〈量りなきいのちの働き〉とでもいう外はない。

清沢師はその働きを「絶対無限の妙用」とも「能力の根本本体」「無限の能力」とも、あるいは「天と命との根本本体」(『我が信念』)とも呼んでいるが、それはまさに真宗の教法では〈寿命無量〉といっていいのではなかろうか。  私どもの身心としての個物は、この寿命無量が時間空間的に限定されたものといえよう。

●自己存在と寿命無量
近世から現代にかけて、「自己とは何か」とか「自己の存在とは」とかが問われ、〈我〉とか〈自己〉いう立場を中心に物事が考えられるようになった。こうした自己存在の成立の根本問題が自覚的に問われる近代に於て、清沢師が「自己とは何ぞや」と問い、その自己実存において見出した力(働き)は、阿弥陀如来の本質である光明無量の体である〈寿命無量〉のカテゴリーに収められると了解することができる。
とすれば清沢師の如来理解は、真宗教義において極めて重要な意味をもってくると思うのである。

●自我と身体と真実の自己
さて、自己と寿命無量(如来)との関係を佐々木師は、清沢師の「無能の私を私たらしむる能力の根本本体が、即ち如来である」という言葉への領解において「〈無能の私〉は迷妄の自己であり、〈私たらしめられる〉ところが与えられた分限内の自己であり、〈能力の根本本体〉が正しく真実の自己であらねばなりません」と解しておられる。
まず、〈無能の私〉とは自我の私、すなわち判断し取捨選択し思い煩っている、いわば(思いの私)である。そして〈分限内の自己〉とは、思いの私に先立って、今ここに限定された存在としての身体的自己――無明を根本因とする業因縁によって形をとったもの――である。
思い(自我)はいろんな事を考え、喜怒哀楽しているが、今ここの身体的存在を離れてはない。息しつつあり、考えつつある、身の事実としての実存的個物としての自己がある、それが〈与えられた分限内の自己〉である。

そして、〈真実の自己〉とは、自我と身体的個体としての自己ぐるみがその働きである〈能力の根本本体〉と佐々木師はいわれる。
さらに〈真実の自己〉について、佐々木師は「それは能動の根本主体とでもいうべきもので、〈我〉とか〈心〉とか、また〈働き〉とか〈知る〉とか名づくべきものを絶した、純粋な今の動きそのものに生きること。すなわち、生きるということもいえない、今の動きつつあるそのまま」であると、極めて具体的に述べておられる。

物質とか意識とか、身体とか心とか、知るとか生きるとか、分かれる以前の「今の動きそのまま」として動きつつある無量無辺のなにものか。それは〈寿命無量〉とでもいう外ないものである。それを離れては自己の存在の全体どころか万物が存在し得ないものであろう。

●身体に軸足を置く自我
万物がそれによって成り立っている絶対無限の妙用としての寿命無量は、自我の機能と身体的自己存在の、全体的な存在根拠であり、その働きはいつでも今ここに働いている。  しかもその働きは「思惟分別の主体そのものでありますから、思惟分別の対象にはなり得ない」と言われ、対象的に捉えることはできず、むしろ捉えんとする側にすでに働いているものである。

しかるに凡夫の自我は、身体的な自己を寿命無量から切り離して考えている。それだけではなく、自我はつねに変化しつつある身体的自己を拠り処とし、支えとし、そこに軸足を置いて生きようとする。そして一時的なる存在である身体的自己に固着し、安全に保つべく、財物と健康などによって護り、長生を計っている。いわば自我は身体に執着し身体を支配しようとする。しかるに身体的自己は自我の思い通りにはならない、いわゆる無常なるものであるから、不安は絶えないのである。

●現代人の不安
現代人の身近で主な不安は何であろうか。それは端的に言えば生活不安と健康不安である。 「このような収入でやっていけるのであろうか」とか「景気がもっと悪くなると食えなくなるのではなかろうか」とか「貯金が目減りすると生活ができなくなるのではなかろうか」などという生活不安。「治らないような病気になるとどうしようか」とか「体の調子がよくないけれど、何か悪い病気ではなかろうか」「この病気がもっと悪くなるとどうなるのだろうか」などの健康不安。
それらを抱えているのが私たちであり、それは「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり」(「歎異抄」)と宗祖が仰せられる如く、身体的自己への我執我愛の煩悩である。そしてこういう煩悩は死の不安に直結している。
現代人は「死後(後生)の一大事」はなかなか問題にならなくても、こういう不安煩悩に日々悩まされている。

●曇鸞大師の目覚め
このことで思い浮かぶのが曇鸞大師のことである。 曇鸞大師は若きおり、病気になって生命の不安を抱き、長生の方法を求めて、道教の仙人であった陶弘景を訪ね、養生法を記した「仙経」十巻を得た。それを得て喜んで帰る途中、洛陽の都で菩提流支三蔵に遇い、彼から厳しく諭されて、真の長生不死の法は仏法であることに目覚めるのである。

私たち現代人も、曇鸞大師が若き時〈長生の法〉を求めた如く、さまざまな長生と健康の方法を求めている。しかし自我が、身体的自己をこそ支えにし、固着してその安全を計り、健康長寿を願って死ぬことを回避しようと計らっているかぎり、不安はどこまでもつきまとってくる。

●宗教は不死のいのち得る道
先年、門信徒の納骨法要のため、箕面市にある霊園に行き、法要終了後霊園内を歩いていると、ある墓石に刻まれていた文字に目が止まった。キリスト者の墓であろう墓石に「我を信じる者は死んでも生きる」と刻んであった。
これは聖書の〈ヨハネ福音書〉に出て来る言葉で、〈我を信じる者は〉とは〈キリストを信じる者は〉であるが、〈死んでも生きる〉は「不死のいのち」「永遠のいのち」を得るというのであろう。
ここにも不死のいのちを得るのが宗教の根本義であり万人が心の底に願っているものであることが知れる。

しかるに現代人は「死への生」しか知らず、不死のいのちを初めから断念し、「健康で長生き」を第一のこととして不安な生を生きている。  ところが真実の宗教(真宗)こそは、不死のいのちを私たちに与えるものであることを、聖人は『信巻』の最初に「大信心はすなわちこれ、長生不死の神方」と明示しておられる。  宗祖が、『教行証文類』の中心である「信巻」、その最初に表明されているこの言葉はもっと注意されてもいい。

●不死の神方とは
では真実信心が「長生不死の神方(不可思議な方法)」とはどういうことであろうか。  それはまさに「無量寿如来に帰命する」信心の智慧において、長生不死の自己を知るのである。正信偈はのっけからそれを表明していると言える。

さて「無量寿如来に帰命する」のが信心であるが、自我からは量りなきいのちである無量寿如来に帰命することはできない。自我のハカライでもっては、如来を掴むこともふれることも、目覚めることも信ずることもできない。如来のはたらきは対象的につかむことはできないのである。
むしろ対象化しつつある主体にこそ実働しているのが如来である。  自我で如来を捉えようとすると、自力無効にぶつからざるを得ない。しかるに自我はどこまでもつかまえようとして止まない。
しかも自我はつねに功利的であって、いつまでも「得んとはからう」(「御消息」)ハカライが止まないのである。

●聞名に不死の自己を知る
しかるに南無阿弥陀仏の大悲の名を聞くことによって、自からの能力でもっては如来をとらえることは全く不可能(自力無効)であり助からぬ私(自我)であると知らされる。その時自ずから、自我のハカライはすたり、同時にそこに喚びかけつつある無量寿如来の大悲の仰せを聞くのである。
無量寿如来の仰せとは何か。それに関して、正信偈の〈帰命無量寿如来〉のお心を表された足利義山師の歌に、

「はかりなき いのちのほとけましまして 我をたのめと よびたもうなり」

とある。 自力無効のところに、「我をたのめ」「まるまる引き受ける」との大慈大悲の仰せを聞く。聞く一念に、不思議にも無量寿如来にであうのである。如来をたのむことが発起するのである。  如来をたのむとは、如来に私(自我)を引き渡すことであり、そこに自ずから、如来に受けとめられ、如来に離れざる私であることを知る。それを摂取不捨の利益という。

そこに、如来が私の真実の主体であることが知らされる。いわば量りなきいのちの仏である如来の外に自己はないことがほのかに知れるのである。すなわち「自己は長生不死である」ことがほのかながら知らされるのである。
そういうことで大悲の誓いの名を聞く、すなわち如来の仰せ(勅命)を聞く、その端的に如来にであうのである。佐々木師はそこを、

「如来とは〈如より来る〉という意味で、人間を超えた如(絶対)からあらわれた姿であり、また声であります。そこで親鸞聖人は、如来の勅命は人間の思惟分別の対象となるものではなく、むしろ人間の思惟分別を対象として叫ぶ声であるから、この声は〈聞く〉以外に出会う道はないと決判されたのであります」(『真実は輝く』)

と言われている。如来は名声(名号)として、私たちに如来の勅命を聞かせたまう。「そのままなりで引き受ける」「助からぬ汝を助ける」の大悲極まりなき仰せを聞くところに、如来とのであいが成就するのである。佐々木師は、

「真実の教法を聞きつつあるときにのみ真実の現在に触れているのでしょう。聞其名号信心歓喜とは、そこの境地をしめされたものとうかがいます」(『真実は輝く』)

と申されている。御名を聞く端的のところに主我的な自我は空じられ、如来の外に自己なしという感知が与えられるのである。いわば長生不死の自己をほのかながらも知らされるのである。こういう自己感知はほのかであっても、それは消えず、相続されていくのである。

●知的理解と信心の知の差異
日々に生活不安や健康不安の思いが起こることを縁としてお念佛を称え、仰せを聞く。 「お前を離さない弥陀がここにいる。 弥陀のいのちの外にお前のいのちはないではないか。量りないいのちこそ汝のいのちなのだ」 との思し召しを聞くのである。そこに、量りなきいのちは、限定された私の身体としてのいのちに即して、身体のいのちの根拠であることを、信心において知る。
しかもその知り方は、量りなきいのちを、客観的な自然現象や生命現象の存在根拠として「理解する」とか「そう考える」という知的了解ではない。  どこまでも今の自己の真実主体として感知するのである。

●おれはガンにならない
こんな話を聞いたことがある。膀胱ガンになった真宗信心のある住職が主治医に、 「膀胱はおれじゃない、膀胱は膀胱であっておれじゃない、おれと関係がない。おれはガンにならない、おれの膀胱がガンになる」 と言ったらその医者がびっくりしたという。肉体はガンになっても、おれ(真実の自己)はガンにはならない。
お念仏の喚び声となりたもう、この弥陀こそまことの実在、今ここに動いている、働いている、極めてあたたかなものであり、真実の自己である。ここに、現代人のだれもが抱えている生活不安・健康不安は、すでに真宗念仏を称え聞く信心において超えられていく道が用意されているのである。

●不安と真実の関係
もちろん凡夫であるかぎり一生、不安煩悩は止まないであろう。しかしこの不安煩悩を縁としてお念佛が称えられ、聞かされていく。そこに仏心大悲にあい、真の自己が知らされてくる。
このように日々に起こる不安煩悩は、念仏の助縁となり、大悲の真実をより深く知らして下さるという重要な意味をもつのである。不安は真実を露わにし、真実は不安を和らげ、喜びへと転じて下さるのである。

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