第十八願はなぜ「至心信楽の願」

先般、ある聞法者から、 「第十八願は念仏往生の願といわれますが、宗祖は更に至心信楽の願ともいわれます。どうしてですか」 という質問を受けた。これについては先哲によって既に論述されているが、丹山順芸師(大谷派。一七八五~一八四七)の『称名信楽二願希決』(注)の説明が明解であるので、それに基づいて述べてみたい。

■易行難信
法然によって念仏往生の願が万人を平等に救済したもう法として説かれた。念仏往生の願とは第十八願に「乃至十念 若不生者 不取正覚」を中核とする願であり、善導によって「称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と表された誓い、すなわち「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたる」(宗祖「ご消息」聖典六〇六頁)願である。多くの人たちがこの願にしたがって念仏を申すようになった。
しかし、易行の念仏は誰でもどこでもいつでも称えることはできるが、念仏往生の願を信じることは「難の中の難これに過ぎたるはなし」(正信偈)である。

法然は『選択集』(三心章)に、

「三心はこれ行者の至要なり。所以はいかん。経にはすなはち、三心を具する者は必ずかの国に生ずといふ。あきらかに知んぬ、三を具してかならず生ずることを得べし」     (真宗聖教全書一・九六六頁)

といい、

「まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃の城には信をもつて能入とす」 (真宗聖教全書一・九六七頁)

と仰せられ、宗祖も、

「信心二心なきがゆえに一念と曰う。これを一心と名づく。一心はすなわち清浄報土の真因なり」        (信巻・聖典二四〇頁)

「報土の真因は信楽を正とする」 (化身土巻・聖典三四〇頁)

と仰せられているように、信心が往生浄土の正因である。しかるに念仏は易行であるが、念仏往生の願は信じ難い。 もし、念仏往生の願があっても、それを信じることができないのであれば浄土への往生は不可であるから、一切衆生を救いたいという如来法蔵の本願は画に描いた餅にすぎなくなる。

■信心も回向する願
こうした本願を信じる信心の問題を本願そのものに深くたずねられたのが宗祖であった。
そして、如来法蔵は衆生の有様を見、衆生の心には本願を信じる能力無きゆえ流転を重ねると観知し、本願を信じる信心までも衆生に与えようと願われた。それが第十八願の〈至心信楽欲生我国〉の願文に表されている、と宗祖は了解されたのではなかろうか。

至心・信楽・欲生我国という大経の三心は、観経の三心と照らし合わせると、至心は至誠心(真実心)であり、信楽は深心(深信)であり、欲生我国は回向発願心(回向心)の三心である。そしてこの三心は衆生に要求される心ではなくてすべて如来大悲の願心であると宗祖は領解された。
如来法蔵の大悲の智慧が見たまいし流転の衆生には、もとより清浄真実の心(至心)もなければ、真実の信楽もなく、真実の回向心(欲生心)もないと見られ、それゆえ本願を信じる信心はとうてい起こしようが無いと観知された。このような出離の縁なき衆生に如来法蔵の方から真実の信心(至心信楽)を衆生に回向成就しようと発願された(欲生我国)のであると、宗祖は領解されたと伺うのである。

■願心を聞かせる
ではどのようにして衆生に真実の信心を回向せられるのであろうか。  それは流転せる一切衆生を平等に助けんがために念仏往生の願を起こされ成就された、その大悲の願心願力を衆生に聞かせることによって、大慈大悲の願心が本願を信じる信心として衆生に回向成就されることによってである。 宗祖は、

「経には即得と言えり、釈には必定と云えり。即の言は、願力を聞くに由って、報土の真因決定する時剋の極促を光闡せるなり」(行巻・聖典一七七)

と仰せられている。ここで願力というのは何かといえば、丹山師は、

「(十八願の)乃至十念の称名はもとより自の善にあらず、一声も称へんずるものをむかへとらんとの誓願の行なれば、毫末ばかりも自力の功を待つべからず、ただ称へんものをむかへんとの若不生者の不思議の誓願力にて往生の正業を成ずるなり。これを大願業力と名づく」(『宗典研究』一六六頁)

と述べていて、〈願力を聞く〉とは、 「乃至十念 若不生者 不取正覚」の念仏往生の願力によって往生させて頂くことを聞くのである。〈願力を聞くに由って〉往生浄土の真因が衆生に決定するのである。

■願心は極まりなき大悲心
念仏往生の願がなぜ大慈大悲の願心であるかというのは『選択集』(ことに本願章)に詳しい。長くなるが肝要の文を引用しておく。

「念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。  もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。  しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり」(聖全一・九四四頁)

ここに念仏往生の大悲の願心がよく表されている。
すなわち一切衆生の資質の優劣や行為の善し悪しや外的能力の有無など、人間の側に一切条件をつけず、煩悩具足の衆生をありべのままで引き受けて浄土に生まれさせようと誓願された誓いが念仏往生の願である。ここを宗祖は、

「大慈大悲の極まりなきことをしめしたまうなり」(一念多念文意・聖典五四〇)

と仰せられている。  丹山師はこの念仏往生の願を起こしたまえる三心について、

「乃至十念・若不生者・不取正覚の願心、真実なるを至心といひ、その疑蓋無雑なるを信楽といひ、大悲回向の招喚を欲生といふ」(『宗典研究』一七三頁)

といい、〈我が名を称えるばかりで助けん〉との誓願が真実であるのを至心といい、この念仏往生の誓願力で一切衆生を救うことに一点の疑いなきを信楽といい、念仏往生の誓いを招喚の勅命として衆生に回向したもう心を欲生といい、この三心を「能選択の願心」といっている。称名念仏を往生の行と選択し回向したもう願心を〈能選択の願心〉といわれるのである。
選択する〈能〉があれば選択せられる〈所〉がある。ここで〈所〉とは、如来法蔵の願心によって往生浄土の行として選ばれた称名念仏の行(名号)である。これを丹山師は〈所選択の行〉という。師はこの能所について、「花より団子」と団子を選ぶ心が能選択の願心、選ばれた団子が所選択の行である、と分かりやすく喩えておられる。
願心(三心)と念仏(名号)は能所であり、不離である。こうして本願は名号に収まり、名号は本願を表す。それゆえ名号を聞くは本願を聞くのである。宗祖は、

「聞其名号というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを聞というなり」    (一念多念文意・聖典五三四)

と仰せられている。

■願心を名号に聞く
この名号を衆生に回向しようとする願心が(欲生我国)の心であり回向発願心である。これが具体化されているのが第十七願(往相回向の願)である。それゆえに衆生に名号が現れ出て下さるのは十七願からであるといえる。そこを宗祖は、

「この行は大悲の願(十七願)より出でたり」(行巻・聖典一五七頁)

と仰せられている。十方の諸仏に名号が称揚され称えられることによって、衆生に称えられたい聞かせたいと誓われた願が十七願(重誓偈の十七願意を含む)であるが、これによって衆生は本願の名号を称え、名号を聞くようになるのである。 そこで本願の名号を聞くのは、具体的実際的には称名念仏の声において聞くのである。  名号を聞くということは、名号として喚びかけて下さる「能選択の願心」を聞くのである。一切衆生を平等に救わんとされた広大な大悲の願心願力を名号に於て称え聞かしめられるのである。
そこで法然は、

「たれだれも、煩悩のうすく・こきおもかへりみず、罪障のかろき・おもきおもさたせず、たヾくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」(『西方指南鈔』親鸞聖人全集分冊九。二四〇頁)

といい、称える念仏の声について、「我が名を称えるばかりで助ける」という念仏往生の誓いを仰せとして聞き、「浄土に生まれさせて下さる」と聞き受けよと法然は仰せられるのである。
ここで称える念仏の声において如来大悲の願心を聞かれた念仏者の歌を紹介したい。

「我称え 我聞くなれど ナムアミダ 連れてゆくぞの 弥陀の喚び声」
(原口針水)

「朝夕に 口より出づる 仏をば  しらですぎにし ことのくやしさ」
(禿顕誠)

「みほとけを よぶわが声は みほとけの 我をよびます み声なりけり」
(甲斐和里子)

「御名よべば 弥陀の仰せの 聞こゆなり 汝を迎えんと 名となりて来し」
(木村無相)

「称える仏が 生き仏 よばれているとは 知らなんだ 不思議不思議の 南無阿弥陀仏」
(松並松五郎)

■願心至りて信心となる
そこで丹山師は、

「この三心を以て成じたる名号ゆえ、衆生仏願のおこりを聞くとき、彼の願心衆生貪瞋中に能く信心を成ず、これを〈信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す〉とのたまふ」 (『宗典研究』五二頁)

という。称える名号において能選択の願心(念仏往生の願心)を聞くところに願心が凡心に至って信心として成就するのである。『信巻』のはじめに、

「この心(信心)すなわちこれ念仏往生の願より出でたり」(聖典二一一頁)

と宗祖は仰せられている。
如来法蔵の三心は大悲の真実心であるが、真実心を至心といい、至心によって念仏往生の願を建てて修行成就し、成就した本願力によって一切衆生を救うことに疑蓋無雑なるを信楽といい、一切衆生を「我が国に生まれさせたい」(欲生我国)が欲生心である。
その欲生心は衆生を浄土に生まれしめずにはおかぬという回向発願心でもあるゆえ、この如来の回向心は名号として衆生に〈我が国に生まれるとおもえ〉〈助ける〉という勅命として表現され、この勅命の大悲に引き起こされて衆生に信心が発起する。

衆生に与えられた信心は如来の至心(真実心)の外に無く、衆生に与えられた信楽は「浄土に生まれるとおもえ(欲生我国)」との勅命に信順する心であるからおのずと願生彼国の心、すなわち〈彼の国に生まれさせて下さると期する心〉となる。
なお、〈乃至十念・若不生者・不取正覚〉の念仏往生の願と〈欲生我国〉との関係であるが、お念仏を称え聞く者に於ては、前者は〈ただ称えるばかりで浄土に生まれさせる」の仰せであり、後者の〈欲生我国〉は〈浄土に生まれるとおもえ〉の勅命であって、同じ大悲の救いのお心であると自然に受け取られる。
こうして如来の三心は衆生の信心として成就する。 天上の月(如来の三心)は衆生の心の池に月影(衆生の信心)となって届く。月影の体は天上の月であるように、衆生の真実信心の体は如来の三心である。

■救い無き身と知らせて救う
なぜ念仏往生の願心を聞くことによって衆生に信心が起るのであろうか。それは不思議というほかはない。
不思議ではあるが、わけがあるともいえる。それは弥陀の大悲の願心を聞くということは、大悲をかけられている対象は出離の縁なき煩悩具足の我が身であることを知らされる。「ソノママナリデ助ケル」という本願の思し召しを聞くことは、このまま助けていただかなくては助からぬ無知無能の我が身と知らされるのである。清浄真実の心が無く、煩悩具足の凡夫であって救い無き流転の我が身と知らされるのである。
それとともに「我が名を称えよ」「そんな者なればこそまるまる助ける」とのご本願の大慈悲心を知らされるのである。
正信偈にも「極重悪人唯称仏」とあるが、「極重の悪人よ、ただ仏名を称えるばかりで助ける」との仰せによって、この身はどうしてみようもない粗悪な者であることを知らされ、同時に「まるまる引き受ける」の大悲心にふれて「ああこんな者を。ナムアミダブツ」と受け入れざるを得なくなる。  そこに大悲心が我が心に流れ込んで下さる。こうして如来法蔵の大悲心は衆生のいのちの髄に届くのではなかろうか。宗祖のご和讃に、

真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまえり          (聖典四九六頁)

とあるが、〈徹到〉の文字に、 「とほりいたる。髓に到り徹る」 と左訓せられている。如来の真心(真実心)が私たちのいのちの中枢に届くのだと仰せられるのであろう。
こうして凡心に届いた大悲の真実心は凡心に離れなくなる。これを摂取不捨の利益といい、これによって浄土に生まれることが決定するのである。 そこで、十八願は(念仏往生の願)であるとともに、真実の信心を衆生に回向成就せしめんとする願すなわち〈至心信楽の願〉であるといわれるのである。

そして十七願は〈諸仏称揚の願〉であるが、それは本願の名号を衆生にふりむけ与えようとする〈往相回向の願〉であるともいわれる。  こうした如来による行信の回向について宗祖は、

「しかれば、もしは行・もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまうところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと。知るべし」       (信巻・聖典二二二頁) と仰せられるのである。

このように本願の行信を回向して一切衆生を救済しようという如来法蔵の広大な大悲の誓願が第十八願であると知らされる。本願の名号を回向して念仏を称えさせ、願心を聞かせて、衆生に信心を成就することによって衆生を救済したもうのである。

■結び
宗祖は、念仏往生の願は極難信の法であって、流転の衆生は清浄なる真実心なきゆえに念仏往生の願を信じることは不可能なることを、如来法蔵は観知され、至心(真実)なる本願を信楽する信心をも衆生に回向成就しよう(欲生我国)と誓ったのが十八願であると見られた。
要するに第十八願は念仏往生を誓い、信心を誓った願であり、行も信も回向成就せんと誓われた願である。
そこで宗祖は十八願は念仏往生の願であるが、また至心信楽の願であると了解されたのだと伺うのである。

このように本願と念仏と信心の関係を伺うとき、念仏の無いところには、如来大悲の願心は現れようはなく、念仏の聞かれないところには本願は私たちの上に成就しないのではなかろうか。真宗の回復はどこから可能かが、ここに示唆されていると思うのである。
(了)
注ーー「称名信楽二願希決」は金子大榮校訂『宗典研究』(文栄堂)にも収録されている。

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