6月の更新です

お知らせ

6月の更新です

 6月の更新は『念佛寺youtube :松並松五郎念佛語録28』です。
『松並松五郎念佛語録』の解説動画ですが、視聴したままに味わっていただければと
思っております。

 先日、学習会の前に吉崎御坊に参ったという方がおられて、その際に『疫癘の御文』が本堂の前に二つ折りにして置いてあり、自由に持ち帰ってもよいとの事ので持ち帰られたものを見せて頂きました。『疫癘の御文』というのは蓮如上人七十八歳の頃のお手紙で、その中には
 
 「近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。これは決して伝染病によって初めて死ぬのではなく、生まれた時から定まっている業の報いなのです。さほど深く驚くべきことではありません。」

 とあります。この御文はコロナ感染症が流行している今の世相と重なり合うので読まれた方もおられるとおもいますが、蓮如上人がこの御文をお書きになった時代も非常に疫病が流行していたようです。応仁の乱以降、文明、長享、延徳、明応と災異改元(天災や疫病)なので、長期間にわたって疫病に苦しんでいた時代だということがわかります。
 その中で蓮如上人は「多くの人が亡くなっているが伝染病が原因ではなく、人として生まれたのだから必ず死ぬのだよ。そんなに驚くことではありませんよ」と仰っているのですが、その言葉通りに受け取るのは少しばかり難しいようです。蓮如上人御自身もその言葉のあとに

「きっと伝染病によって死んだに違いないというように人はみな思うもので、これももっともなことでありましょう」

 と仰っています。こちらの方がずっと納得しやすいでしょう。このあたりは蓮如上人御在世当時と現在でも左程変わりはないようですね。結局のところ自分の聞きたいように聞くことは得意ですが、聞きたくない話は耳を塞いでしまいます。人は生まれた時から死が定まっていることは間違いの無いことです。生きたいと思っていても必ず死ぬということは自分の思い通りにならない最たるものであります。だから未来を思い描き希望を持つことが大事だという事が世間では好まれるのかもしれません。

 蓮如上人がお話になった言葉を収録した『蓮如上人御一代記聞書』には

「仏法には、明日と申す事、あるまじく候う、仏法の事は、いそげ、いそげ」

 とあります。「仏法には明日ということがあってはなりません」という意味で、真宗の聞法者には馴染みのある言葉です。これは自分の驕慢心によって仏法を聞き損じることのないように長い年月大事にされてきた言葉でもあります。 ここには今日の命の保証もないわが身を、たすからない者をも「必ずたすける」本願が成就し「今」南無阿弥陀仏となって私に喚びかけてくださっていることが背景にあります。『疫癘の御文』は確かに500年以上も前のお手紙で、世間では過去の歴史的文化遺産かもしれません。しかし、真実の言葉は燻ることなく「今」光ありと感じ得るものであります。

【疫癘の御文  本文】
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生れはじめしよりして定まれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

しかれども、今の時分にあたりて死去するときは、さもありぬべきやうにみなひとおもへり。これまことに道理ぞかし。このゆゑに阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、極楽に往生すべしとおもひとりて、一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。

かくのごとくこころえのうへには、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すは、かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。

                     延徳四年六

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