凡夫の救いを証した木村無相さん

■真言宗と真宗を三度往復
念仏者といわれ、念仏詩人ともいわれた木村無相さんが亡くなられたのは昭和五十九年一月六日(八十歳)で、今年が二十五回忌に当たる。
無相さんは明治三十七年に熊本県に生まれ、幼い頃父親の仕事の関係で両親に連れられて満州にわたった。しかし、そこでの生活がイヤになり、十四歳の時、家を出て平壌に行き、やがて十七歳の時、日本に一人で帰国。
二十歳の頃、ふっと自分の内心に目が向き、両親を怨む自分の根性のひどさに驚いて道を求め始めた。
二十五歳から二十九歳までフィリピンのプランテーションで働いていた時、「オレの助かる道はどうやら仏教の中にあるようだ」と見当をつけ、帰国して四国遍路に出、やがて高野山に上り真言宗の修行に励まれた。
高野山では自らへの厳しい修行とともに専門道場にいる若い修行僧の世話をされた。しかし、真言宗の自力修行に行きづまり、真宗を求めて真宗の寺で勤めたりもされた。時にはスランプに陥り会社の事務員をされたこともあったが、思い直して真言宗の修行に戻り、それがまた壁にぶつかって再び真宗に向かうというような、真言宗と真宗を三度も往復されたのである。

■自分には真宗しかない
しかし五十歳半ばになって 「自分のようなお粗末な人間にはもう真宗しかない」 と心が決まった。その頃の無相さんの句に

「秋彼岸
しみじみおもう
身のおろか」

というのがあるが、この頃の心境がよく伝わってくる。
それで五十七歳の時、真宗を一筋に聞ける場所を求め、東本願寺の同朋会館の門衛になって真宗の聴聞に励まれたのである。
こうして無相さんの真宗聴聞一筋の生活がはじまったが、それはやがてお念仏中心の聞法生活になっていった。六十歳半ばを過ぎた頃の詩に

「道がある 道がある
たった一つの道がある
ただ念仏の道がある
極重悪人唯称仏」

というのがあるが、それまで真宗の聴聞を続けても、真宗の説かれ様はさまざまであって、これというはっきりとした真宗求法の要が定まらなかったのが、六十歳半ばになって、文字通り念仏往生の道に順ってお念仏を申していくという道が定まったのである。

■阿弥陀仏の広大な願心  さて、念仏往生の法は、法然聖人が、善導大師の釈された第十八願意である「無量寿経に云うがごとし、もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじと。かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得、と」 という念仏往生の願心に基づいて、万人救済の法として掲げられた教えである。
この念仏往生の願は「ただ仏名を称えるばかりで浄土に必ず生まれさせる」という阿弥陀仏の広大な誓いである。
阿弥陀仏の大悲の誓願は、いわゆる男女老少や民族あるいは社会的身分の違いはいうまでもなく、人間の心の良し悪し、行いの良し悪し、知能の良し悪しを問わず、また修行や学問の有無など、凡夫のありようの一切に関係なく「ただ称えるばかりで助ける」という誓いである。
この念仏往生の願において阿弥陀仏は、一切衆生を平等に往生せしめんという広大な願心をあらわされたのである。

■信心を問い続けて
無相さんは長年の求道聞法の末、老年になって、この念仏往生の願の思し召しに大変深い感銘を受け、自分の様な者に最後の最後に残されている道は「極重悪人よ、ただ我が名を称えよ」と仰せ下さる本願の念仏一つをいただく外なしと、自らのゆく道をそこへと押し詰めていかれたのである。
しかしながら無相さんは、お念仏を称えながらお念仏のいわれを聞思する道を歩みつつも、〈お念仏は有難いことはよく分かるが、なお我が身にぴったりと身につかない〉という問題、いわゆる信心の問題を問い続けていかれたのである。
この問題をお念仏を称えつつ、お聖教を読み、明師や信者の「信心語録」を味わいながら、考え、書き、聞きぬいていかれたのである。時にはそれを短編の詩に表され、それがもとになっていくつかの『念仏詩抄』が出版されるようになった。
やがて無相さんは同朋会館を辞め、昭和四十八年(六十九歳)から福井県武生市の老人ホームで生活をされるようになり、そこが終焉の地となった。

■ただ念仏の大悲心が徹到
七十五歳を過ぎた頃であろうか、〈自分の根性はまったく我執我愛の固まりである〉ことを深々と知らされ、そして「私は全く邪見無信の者であり、謗法闡提の身」であることを身に浸みて実感され、そういう無信闡提の身に、「我が名を称えよ」「ただ念仏せよ」の大慈大悲のお心が徹到したのである。
こうして、「ただ念仏」がぴったりと身に即するようになられた。
そのきっかけとなったのは、『唯信鈔文意』の 「釈迦如来、よろずの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものに、あたえたまえるなりとしるべし」 という宗祖のお言葉であり、また信心語録に出てくる香樹院師のお言葉であった、と私は伺うのである。
今お念仏が申されていることは、私のような邪見無信の者をこそ目当てに、このままなりの私を助けんがためにお念仏を与えてくださるのであったと、『唯信鈔文意』のこのお言葉を深く喜ばれ、また香樹院師の 「江州長浜のさだ女、香樹院講師に随い、聞いても聞いても疑い晴れず、加賀まで随い行きしが、師いわく。雪も降り寒くもなるゆえもう帰れ。さだ女いわく。私はどうも信ぜられませぬ、疑が晴れませぬ、聞こえませぬがいかが致しましょう。
師いわく。そのまま称えるばかりで御助け。その外になにもいらぬぞ」 という法語を無相さんは大変喜ばれた。こうした法語が縁となって念仏往生の願の広大な大悲に驚かれたのである。
無相さんは、「やっとただ念仏のご信心に生かせていただけるようになってまことに有難い」と何度も私に喜びを書いてこられた。
もちろんその「ただ念仏」は、凡夫の側が称えてどうかなろうというものではなく、「ただ称えよ」はまるまる助けたもう大悲の仰せであり、仰せのままにただ称えるばかりのものであった。

■ただ称えよの仰せのままに
無相さんが亡くなられる三日前の一月三日に、武生駅前の林病院にお見舞いに寄せていただいた時、重篤の苦しい息の中からふるえる手で私に 「生き死にの 道はただただ ナムアミダ ただ称えよの 仰せばかりぞ」と書いて下さった
。  そして 「信心らしいものを自分にもとうとする、それは色気や。信心もなにもない、目をとめていただける価値のないこんな者に目をとめてくださる。ただ称えよの仰せがかかっておる。もうそれだけで十分である。仰せのままに称えるということだけでな、それより外はない。ナムアミダブツナムアミダブツ」とお念仏を称え、大悲を仰いでおられた。そして三日後に亡くなられた。

■はじめは悟りを求めて修行
以上ざっと無相さんの求法の生涯をたどってみたが、無相さんが高野山での真言宗の修行に三度もトライされたことをあらためて考えさせられる。
無相さんの最初の有縁の宗教は真言宗であった。真宗人である私たちは「自力修行はダメ」と簡単にいうが、少なくとも長い伝統のある宗教にはそれ相当の修行システムがあり、またこうした修行の功徳のなにがしかを身につけた優れた人がいるものである。おそらく無相さんはそういう教えと人にであって、「悟りが開きたい」「救われたい」という願望を真言宗の修行によって実現しようとされたのであろう。
自力でも他力でも〈自分を悟りなり救いなりに導いてくれるかもしれない〉と思えば、それをやってみようとするのがむしろ自然である。
真宗の伝統家庭に生まれた人ではない無相さんにとって、真宗は選択肢の一つではあっても、他力でなければならぬというようなものが初めからあったわけではない。
このようなわけで、無相さんは悟りを開きたい、そういう人になりたいと願って修行に励まれたのだと思う。

■愚鈍を身に浸みて実感
しかし、無相さんはいわゆる普通の人、あえていえば鈍根の人だったのではなかろうか。三度も真言宗の修行に身を入れたが、どうにもなってこない自分にぶつかったのである。一筋に悟りや救いを求めてきながら、五十歳半ばになってどうにもなっていない自分を「しみじみおもう 身のおろか」で、自分はかけ値なしの凡夫であることを実感されたのであろう。
真宗の流れの中にいると「凡夫」という言葉はとかくありきたりになってしまっているが、「私はまことに愚鈍な凡夫である」と、言葉通りに実感することは、悪戦苦闘というか刀折れ矢が尽きるような経験があるはずである。
無相さんはそういう長年の求法経験の行きづまりを経て念仏往生の道に入られたのである。
自分の愚鈍さをいやというほど身に浸みて感じていた無相さんにとって「極重の悪人よ、唯仏(名)を称えよ」は、愚鈍な者に開かれている最後の道であったのである。
それは、同時に「信心を頭から勧める真宗」にたいしてはやや敬遠されたようである。「雑行を捨てて一心に弥陀をたのめ」という御文中心の真宗とか、はじめから信心獲得を強調する真宗の話はあまり好まれなかった。あるいはまた「自己の自覚」を強調する真宗にも当然距離をおかれた。
というのは、無相さんの長年の求道の経験、いわゆる挫折の経験から「そういう教えには私のような愚鈍の身にはついていけない」と、身に浸みて感じておられたからだと思う。 「弥陀をたのめ」とか「本願力を信受せよ」というようなお勧めは、もとより真宗教義にかなったものであるが、自分の無能さ、無力さを痛切に感じていた無相さんにとって、「弥陀をたのめ」は弥陀をたのめぬ自分にぶつかり、「本願を信じよ」は信じられぬ自分にぶつかり、「自己に目覚めよ」は目覚められぬ自分にぶつからざるをえなかったのであろう。  ところが「我が名を称えよ、必ず救う」という念仏往生の願はたとえ信心や自覚があろうがなかろうが、それすら問わない大悲の仰せであり、そこに、どうにもならぬ自身において受け取ることのできるたった一つの道を見出されたのであった。
しかるに、ただ念仏一つになっても自力の執心は残る。自分をなお見限ることのできない自力の執心が残るのである。それゆえ如来の「助からぬ者をこそ助ける」という大悲のお心はなかなか届かなかったようである。
しかるに、七十五歳を過ぎて、「我が名を称えよ」にこもる無窮の大悲のお心は無相さんに、いよいよ逆謗の死骸であり我執我愛の無信の身と知らせ、そこに自然と丸助けの大悲が届いたのであった。こうしてお念仏がぴったりと身につくようになられた。

■凡夫の救いを証した生涯
無相さんの求法の歴程は、いわゆる妙好人というような宗教的素質の豊かな人とか賢者のたどった道ではない。むしろ本当の凡夫のたどった道であった、と思う。またそれなればこそ私たち多くの普通人、平凡なる者にとって、無相さんの歩まれた道は私たちの救いを証ししてくださったのだと思う。
実際、阿弥陀仏が十九願を建て、また二十願を建ててくださった、そのご方便あればこそ、愚鈍の凡夫も、真実方便の道を通して、弥陀大悲の摂取にあずかることができるのである。
それを証ししてくださった生涯が無相さんのご一生であったと思う。

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