「願に生きよ」を問う

 さまざまな善根を修する自力修善の道では真実報土の往生は出来ないと真宗ではいわれている。なぜ諸善諸行を修しての仏道は成就しないのであろうか。
 それは、諸善諸行を修する当体は何かというところにその理由を見いだすことが出来ると思う。         

◇  この場合の諸善諸行を行う当体は「私」すなわち自我である。
 自我とは物事を分別し選択し決定する機能であり、言葉を語る当体といわれている。だからそれ自体は悪とはいえない。この世を生きるために〈必要な働き〉といえる。ただ迷いの凡夫はこの自我を唯一の自己として疑わず、この自我に深く執着している。いわば自我が我執我愛によって深く汚染されてしまっている。そういう自我がわれら凡夫の自我である。
 そして、この自我としての私は大変不安定だから、目に見えるこの世の価値を獲得して、愛すべき自我を安定し満足させようとする。この世の価値とはたとえば財産であり、健康と長寿であり、名声であり、善人としての自分であり、有能な自分などである。こうした価値を獲得して、自我を安定させ、自我を守り、自我を価値高きものにしようとする。そして自我は自分にも他者の目にも称賛に値したいと願望する。それゆえ自我は他者からどう見られるかを気にし、また他者と比較している。
 こうして自我はこのような欲求を達成するのに都合の良いものを愛(貪愛)し、都合の悪いものを嫌悪(瞋憎)する。        

◇  その自我が諸善をみずからに課して仏道に進もうとする場合、自我は自らが行う善をも自我の安定や名声の確保のための手段にしてしまう。
 親鸞聖人に「世をすつるも、名のこころ利のこころをさきとする」(唯信鈔文意)といわれ、世間の欲望を離れた浄らかな出家の道においても、自我はどこに関心が一番あるかといえば、名声と利得である、との厳しい人間凝視の仰せがある。
 たとえば布施行をするという場合、困窮している人を見ての純粋な慈悲心から行われるのが本来の布施行である。しかるに凡夫の自我は、布施行を自らの浄土往生のための功徳にしようとする。あるいは布施という善行で自我の価値を高め、自我を充実させようとする。また他者からk〈偉い人だ〉と評価されたいための行為にしてしまう。いわば、困っている人への純粋な愛の行為ではなくて、自我への愛ゆえの行にしてしまう。これを雑毒の善という。
 また「善因楽果・悪因苦果」の道理にしたがうも、己の行う善でもって自分の利を得る手段にしようとする自我心が交わる。自我は善を為しても、意識的あるいは無意識的に自らの利を計っている。
 こうした自我を立場にした修善は、自我をかえって強固にしてしまう。だから当然仏道は成就しない。無我を標榜する仏道にありながら、諸善を為す主体が〈単なる自我〉であることによって、逆に自我を肥大化するという自己矛盾を起こすのである。それゆえ自力(自我)修善の仏道は行きづまるのである。        

◇  そのように自我で仏道を成就しようとすると、不可能にぶつかって自我は破綻してしまう。破綻した自我は「戻ることも、このままでいることも、進むことも」出来なくなって、絶望の淵に沈むのである。法然聖人も親鸞聖人もこの場に一度は身を沈められたのである。
 ところが、破綻した自我にはからずも喚びかけたもう「我をたのめ」の弥陀大悲の誓いに、全く身をゆだねる時、すなわち自我の計らいで自我を安定せしめようとする計らいを放棄した時、弥陀の願力に新しく生かされる自我(私)を知るのである。
 自我だけの私の崩壊点が同時に新しく弥陀の願力によみがえる自己の再生点である。自我を主体としてきた人生から、弥陀の願力が主体となる人生へ、いわば願力に生かされる自我として転換したのである。       

◇  このことは、弥陀の本願は人の外から働きかけるとともに、信心となってその人の内からも働くのである。したがってその人は内からの自然な願いとして弥陀の願いに呼応し、本願に同意し、本願のお心にそって生きようと願うであろう。
 曽我量深師が「信に死して願に生きよ」といわれたのはこういう意味であろう。
 そこでは、阿弥陀が自我に対して願う願いと、自我がおのずから願う願いとは一つとなってくる。聖人がご消息に「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう」とか「念仏して往生をねがうしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもいかえして、ともの同朋にもねんごろのこころのおわしましあわばこそ」と仰せられての倫理は、外からの規律や義務としての外的規範ではなくて、本願を信受した人が内的必然として志向する喜ばしき倫理であるはずである。すなわちこのような倫理は外から課せられる規範ではなくて、信心から起こる自ずからなる願いとなって、その人を動かしてくるものである。         

◇  ところが、「信に死して」を素通りして、「願に生きよ」だけが強調されるとき、「願に生きよ」と求められる相手は専ら自我である。自我は個人性とともに社会性をもっているから、社会に対応するのも自我であるが、その自我に「願に生きよ」とストレートに要請されるとき、その願の内容は自我にとっては外から課せられる倫理規範であり行動規範となる。
 倫理には「腹を立てるな」「欲を起こすな」「人をねたむな」「憐れみ深くあれ」などという内面的な個人倫理もあれば、「戦争反対」「核兵器の撲滅」「人権を守れ」「自然環境を守れ」などの社会倫理もある。
 「願に生きよ」が「世界の平和と平等を実現しなければならない」「人間を差別をしてはいけない」「人権を守れ」「地球環境を破壊するな」などの具体性をもって直接に自我に向けられてくるとき、自我はこれを〈社会的正義に生きよ〉という行動規範として自らに課していかざるをえない。        

◇  弥陀と切り離された単なる自我に課せられた社会倫理への実践は、人びとの苦痛や悲惨への心からなる共感からの行いという面はあるにしても、自我を〈立てる〉ために社会倫理を行おうとする我慢我愛の心が深く入るのをまぬがれない。「社会的正義の立場の私」を立てんがため、他者から「社会活動をしている尊い人」と評価されたいため、自己評価を高めることによって利得を得るため、「社会のために何もしていない」と責める自らへの負い目を軽減したいためなど、そういう自己関心から行われやすい。        

◇  弥陀の本願の「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」や「たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ」などは、私たちの自我に対して、いきなり「地獄や餓鬼や畜生的社会を変革せよ」とか「平等なる人間関係を築けよ」と要求してくる行動規範ではないと思う。
 このような本願文の社会的性格の内容は、本来のあるべき人間関係・社会関係の姿はこうであるという形の提示であり、それによって、弥陀の願力に生かされる自我は、社会と他者に心が開かれている者として、そうした弥陀の願いに呼応し、心から共鳴して生きようとする、そういう縁となる。それがこのような本願文の意味するところであろう。
 なお付言すれば、一人一人がこうした本願に呼応する具体的な形は、それぞれの個性と状況によってさまざまであろう。        

◇  「願に生きよ」が「社会の平等と平和を願って生きよ」と、単なる自我に対して要請する願であるなら、それは自我への外からの単なる社会的倫理的規範となり、それは倫理であっても宗教ではなく、世直しの論理であっても、宗教ではない。
 宗教の宗教たる意義は、限りない利他真実から凡夫の自我が否定され、限りない利他真実に新たに生かされることにある。それゆえ「願に生きる」は「信に死して」を通さねばならない。親鸞聖人が信心一つを勧め、蓮如上人が「信なきによってわろきなり、信をとれ」と言われたのは、信において人間は本来性を回復し、世と人に対して開かれた人として生きることができるからである。        

◇  単なる凡夫の自我は自我自身を照破する原理を持たない。だから自我とその集団の立場から社会を変えようとする営みは、また新たな濁悪を生んで来たことは歴史の上に枚挙にいとまがない。いつでも自分あるいは自分たちのグループを正当化し、自分たちの主張に反対する他者および他のグループを否定し、抗争し、時には抹殺する。昨年のテロ事件とその報復はもとより近代の社会主義革命などの歴史の中でも、いかに多くの人が抹殺されていったかを見ても明らかである。        

◇  弥陀の願力は悪しき自我を否定する働きであるとともに新しく自我を生かし直す働きである。その人は他者と社会に心を開いて生きるようになり、願うべき世の中のあり方を本願の言葉の上に啓発され、それに共鳴していく。「願に生きよ」はその時、外から自我に課せられたものではなくて、内からの自発的な希望となるのである。         

               (了)  

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