現代人の課題「後生の一大事」

ベルクソンの言葉に

「多くの人間にとって困ったこと、苦しいこと、情熱の対象となることは、われわれはどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか。これらは重要な問題である」

「重要な問題を避けて通るのは残念なことです。それは、どこからわれわれは来たのか、われわれはここで何をしているのか、われわれはどこへ行くのかという問題です」

とある。この問いはすべての人に問われている問題であり、どのような人もこの問いの中に在り、応答を迫られている。
この問いに応えているもの、それが真実の宗教である。これに応えているかぎりその教えや教団は永続するであろう。

この問いの中に万人は在りながら、それに応答しないままで生きることはできよう。しかし、この課題はその人の上にその影を必ず落とす。日々の生活の深部において〈不安〉〈むなしさ〉〈さびしさ〉〈うっとうしさ〉〈悲哀感〉などのぬきがたい感情として惹起してくる。この問いにゆさぶられて、自覚的に救いを求めようとする人は多くはない。

しかし日常生活の中に起こるこのやり場のない根本気分をなんとかしたいと思っている人は少なくはない。パスカルが「人々から自分および友人たちの名誉や財産についての心づかいを全部取り除いてやればいいさ。なぜって言えば、そうすれば、彼らは自分を見つめ、自分が何であり、どこから来て、どこへ行くのかを考えることになるだろう」といっているが、現代人は、自他の名誉や財産への心づかいだけでなく、周囲に溢れる娯楽や享楽に心がひかれて、自分を見つめ「自分が何であり、どこから来て、ここで結局何をして、どこへ行くのか」を問題にすることは必ずしも容易ではない。

中世や近世では洋の東西を問わず、民衆にとって、この根本的な問いの中ではことに「私はどこへ行くのか」が主たる関心であった。いわゆる後生の一大事である。
それは「死んで地獄に堕ちるのではないか」というリアルなおそれとして多くの人々の宗教心を喚起せしめたのである。

ところが現代の私たちは「私はどこへ行くのか」を突きつめて考えようとしない。多くは「死んだら火葬場に行き、焼かれて灰になって終わり」と思っている。しかしそれは肉体の話である。「死んだら終わり」と考えている人の多くは「肉体が自分だ」と漠然と思い込んでいるのではなかろうか。
肉体は、肉体を肉体とは知らない。肉体を肉体と知るのは、物質的肉体ではなく、心とか意識とかいわれる働きである。この心こそ直接的な〈私の当体〉である。それは目に見えず掴むことはできない。そして心は、心とは異質な肉体(脳)にすべて収まるとは独断できないという問題が必ず残る。そうすると心的主体である「自己はどこへ行くのか」という問題が残り、未来は闇となって立ち現れてくる。

あるいは「死んだら終わり」の考えにしても、それはティリッヒの言うように「現代人は、自分は無(という地獄)の中に転落するというおそれをもっている」という不安を免れない。 こうして「私はどこへ行くのか」は現代においてもなお〈後生の一大事〉である。

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