真宗信心の原点

今日、真宗信心の表現は多様化している。信心の今日的表現として例えば、   曰く「阿弥陀の願いに目覚めること」
曰く「阿弥陀仏のいのちに生かされていると知ること」
曰く「もとの阿弥陀のいのちに帰ること」
曰く「南無阿弥陀仏が自己の真実主体と知ること」
曰く「自己の本当の姿を知ること」
曰く「自己の罪悪性を知ること」
曰く「宿業の身を引き受けること」
曰く「与えられた現実を引き受けること」
曰く「思いに先立って生きている自己存在の事実に目覚めること」
曰く「私の思いを超えた今ここの事実に立つこと」
曰く「阿弥陀仏の願いを自己の本心の願いとして見出すこと」
曰く「阿弥陀の願いを我が願いとして人々と共に生きること」
曰く「生かしめ死なしめる仏の働きにお任せすること」
曰く「人間の縁起的無我的事実に気づくこと」
曰く「さまざまな因縁に生かされていることに気がつくこと」 などなどである。

これらの表現の一々は、真宗が現代の時代感覚に合った表現を取ることによって、人々の宗教心を喚起し、真宗入門への道となり、布教に効あらしめんがためと思われる。    ただその場合、少なくとも親鸞を宗祖と仰いで真宗教学を学ぶ者は、常に宗祖の明らかにされた真宗信心の原点を念頭においておかねばならない。
そうしないと、いつの間にか、こうした今日的な信心表現があたかも宗祖ご自身の信心そのもののごとくに置き換えられてしまう恐れなしとしない。 そこで宗祖の信心を今一度確認しておきたいと思う。

まず基本的なところから押さえてみると、信心とは〈信ずる心〉である。夢告和讚に「弥陀の本願信ずべし」とあり、また『歎異鈔』に「本願を信じ念仏申さば仏になる」とあるように弥陀の本願を〈信ずる心〉である。
では何を信じるのか。言うまでもなく弥陀の本願であり、第十八願である。その願文は 「設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念若不生者不取正覚 唯除五逆誹謗正法」 である。
さて、この本願をどう理解するか。その点についてここで詳しく見ていくことは紙数の関係から一切省き、本願の中核である三心十念(至心信楽欲生我国乃至十念)の誓言の要を伺いたい。
まず 「至心信楽欲生我国」(心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて) については『尊号真像銘文』に 「この至心信楽は、すなわち十方の衆生をしてわが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかいの至心信楽なり」 とあり、また大経和讚(十八願意)には
「至心信楽欲生と
十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする」
と仰せられ、至心信楽欲生は言ってみれば誓願を「信ずべし」とお勧めくださる仏のお心である。
その信心まことならば、浄土往生が決定するといわれている。宗祖のご消息には 「十八の願に、信心まことならば、もしうまれずは、仏にならじとちかい給えり」 と仰せられている。
この三心のいわれから宗祖は第十八願を至心信楽の願と名づけられている。すなわち『信巻』の初めに 「また本願三心の願と名づく。また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願と名づくべきなり」 と示しておられる。

次に願文の 「乃至十念若不生者不取正覚」(十念に至るに及ぶまで、もし生まれずば正覚を取らじ) について善導は、このお心を観経に照らし、第十八願文を 「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(行卷) と、称我名号を加え、三心と唯除以下を削減し、いわば加減して、念仏往生を誓う願として表した。
この善導の本願理解から第十八願を法然は念仏往生の願あるいは選択本願と言ったのである。宗祖は『信巻』に 「この心すなわちこれ念仏往生の願より出でたり。この大願を選択本願と名づく」 と仰せられ、念仏往生の願を〈大願〉と讃嘆されている。また『歎異鈔』にも 「誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束あること」 とあり、弥陀の誓願不思議は念仏往生の願であることが示されている。
ちなみに善導の本願加減文で除かれた三心(信心)はどうなったのかといえば、先の加減の文に続いて 「かの仏、いま現にましまして成仏したまえり。当に知るべし。本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得」(行卷)と言われる中に「当に知るべし」 と出てくる。その「知るべし」というのが信知すべしであり、信ずべしであるから、そこに三心を出されたと見ることが出来る。

以上の了解から第十八願を端的かつ実感的に読んでみると、 「至心信楽欲生我国」は〈信ぜよ〉であり、「乃至十念・若不生者・不取正覚」は〈我が名を称えよ、必ず助ける〉であるから、「至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚」は「信ぜよ、我が名を称えるものを必ず救うことを」という弥陀の誓いとなる。
なお丹山順芸師は『称名信楽二願希決』の中で、第十八願は「信ずべし、我が誓願、称えるものを必ずたすくべし」であると領解しておられる。
この思し召しを宗祖はお弟子の有阿弥陀仏へのお手紙に 「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり」 と示されている。また『歎異鈔』第二章にもご自身の信仰告白を 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」 と仰せられ、念仏往生の誓願を信じる外に私は往生極楽の道は知らないとハッキリとお示しになっている。そしてこの念仏往生の誓願は釈尊の説教いわば仏言として私どもに与えられている。

そうすると宗祖の信心の内容とその特質は、〈念仏往生〉を信じる信心であり、仏の〈誓い〉を信じる信心であり、仏言である〈言葉〉を信じる信心である。
なお法然はことに念仏往生の願を説き、宗祖は、往生が決定するのは本願を信じる信心においてであるから信心を強調された。それをたとえて言えば、法然は難度海を度するための願船(本願念仏)を、親鸞はその願船に乗る(信心)ことをことにお勧めになったといえる。
では蓮如はどうであろうか。御一代記聞書には 「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめと、あきらかにしらせられ候う。しかれば、御再興の上人にてましますものなり」(一八八条) といわれているが、弥陀の本願を信じることを〈ふたごころなく弥陀をたのむ〉と表現された。
これは法然も「ただ凡夫のはからひおば、ききいれさせおはしまさでひとすじに仏の御ちかいをたのみまいらせ」(西方指南鈔)とか「ひろく弥陀の本願をたのみて」(西方指南鈔)と言われ、宗祖も「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信という」(唯信鈔文意)と申され、歎異鈔では「ひとえに他力をたのむ」(第三章)とか「ひとえに本願をたのみまいらすればこそ」(第十三章)とあって、蓮如が「ふたごころなく弥陀をたのむ信心」を勧められたのは、法然・親鸞の信心理解に沿ったご教化であった。

なお付言せば、念仏往生の願の「我が名を称えよ」はそのまま「我をたのめ」という弥陀の仰せと一つ心であり、弥陀をたのむ法の深信は、己を全くたのまない、いわば自己能力を見限っている機の深信と一つである。このことは信心の内経験から直接に知られることである。
宗祖が「この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり」(一多文意)とまで讃仰された「念仏往生の願」。
この誓願を信じる信心が真宗信心の原点であれば、念仏往生の願が現代に生きる人間にとって、何を意味するか、なぜ万人を救う永遠なる真実の救いであるかを、この願から目をそらさずにどこまでも固着しつつ、現代の人間の状況の中で徹底的に思惟することが私たちの根本的な課題である。
そして、最初に上げたような今日的な信心の表現を取るにしても、宗祖ご自身の信心とどのように通底しどう関係しているかを十分明らかにしておく必要がある。

(了)

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