御遠忌テーマについて

「御遠忌テーマについて」(今、いのちがあなたを生きている)
宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌テーマが「今、いのちがあなたを生きている」に決まった。このテーマをどう受け取るかについては、一定の解釈を敢えて示さないことで、一人一人の問題なり課題として、考えてもらえるようにとの配慮がなされていると思われる。    そこで私なりにこのテーマについて考えたことを以下に述べさせて頂いた。
過ぎし蓮如上人五〇〇回御遠忌のテーマは「バラバラでいっしょ」であった。このテーマの主題は、人それぞれの個別性を離れないままに「いのちの尊厳なる平等性を見いだす」ことが、求められていると受け取られたように思う。その故このテーマが中心となって人権問題などが大きくクローズアップされていったと思われる。

しかし、人権問題などの取り組みは、人が人(あるいは社会)に関わることが中心になるので、人間ないしは社会関係だけに目を向けてしまいかねず、そうなると宗教の根本問題というべき、自己が自己自身ないしは無限絶対なるものに直接に関わる課題がやや希薄になっていったことは否めない。

今日、宗教の根本的な課題は、自己が自己自身を回復することあるいは自我的主体が転じられて絶対的真実が主体となるといってもいいであろう。このような課題に直接に応答することが真宗教団のいのちを回復する最も基本的なことであろう。このことは、蓮如上人が生涯掛けて一人一人に「信を取れ」と一筋にお勧めになったことから教団が活性化していったことからも疑う余地はない。すなわち教団の回復は「急がば回れ」で一人一人の回心にかかっていると云って過言ではない。
そこで、今回のテーマである「今、いのちがあなたを生きている」という言葉を読むとき、宗教的回心の内実である「自我的主体が転じられて絶対的真実が主体となる」ことが今日の人間の中心的な課題であることを現代的なイメージで表現されていると私には受け取られるのである。

さてそこで、テーマの「今、いのちがあなたを生きている」という「いのち」なるものは何かということであるが、まずは伝統的に無量寿(はかりなきいのち)と理解したい。そうするとその「いのち」そのものは自我を超えているのはいうまでもないが、その「いのち」は先取りして言えば、無量寿ゆえ一人一人のいのちを離れず、かえって私どもの真実主体であり、自我をすら成立せしめているはたらきといえるであろう。それゆえ「いのち」は自我に私有化されるべきものでなく、かえって自我は「いのち」の中に秩序づけられるべきものである。ところが日常的人間(凡夫)においては、〈いのちと自我〉のあるべき秩序が倒錯されて、いのちは自我に意識的に所有化され、〈我と我がもの〉として盲目的に固執されている。ここに人間の根本的な問題いわば罪の源があるのである。

この自我によって所有化されたいのちが、私(自我)における真実主体として回復されることが宗教の、否人間の根本的課題であるが、そういう意味で「今いのちがあなたに生きている」というテーマは、「今、いのちが私(自我)に先立っていきており、私はいのちの中に生かされている。このいのちこそ私のまことの主体であり、自我はいのちの一機能にすぎない。いのちの本来あるべきあり様にあらしめるこそ後生の一大事である」という意味を暗示していると私なりに了解したのである。であれば、この御遠忌のテーマは、現代のだれもが避けて通ることのできないいのちの主体性回復の問題、それこそ人の「なくてならぬただ一つ」の大事な課題を示唆し、喚起せしめるものだといえよう。        そこで問題は、そういう「無量寿なるいのち」がいかにして私の真実主体として成就するかということである。

それを聖道門仏教では「衆生本来仏なり」ともいわれるごとく、「真実の自己は無量寿なりとさとる」とか「無量寿の自己のいのちに目覚める」ということが求められる。曹洞禅の内山興正老師によれば「本当のサトリというのは、刻々に今ここで生き生きした生命の実物に覚めるということ以外にはない」(「自己」P93)とか「のぼせを下げてよく考えてみれば、もっと奥底に無量無辺の超個的生命に生かされていたのだ。のぼせを下げてそれを発見する」(『天地いっぱいの人生』P47)「本当の自己の生命に覚めれば、それを発言せずにはおられなくなる。大切なことは、まずその生命力に覚めることです。個人的生命、自分のアタマだけを自己だと思って生きているのは、居眠り運転か考えごと運転なのですよ。そうでなく、まず覚めねばならない」(『天地いっぱいの人生』P60)ということである。
一方、浄土真宗においては弥陀の本願を信受することによって、「阿弥陀のいのち」にであうのであるが、弥陀の本願の内容は私たちに直接に「いのちに目覚めよ」とか「悟れ」とか「自覚せよ」とは仰せられないのである。この点はよく注意しなければならない。
なぜなら、弥陀の願心は選択集(本願章)にあるごとく、「一切衆生をして平等に往生せしめんがために」建てられた本願である。悟ることも目覚めることも出来ないような愚鈍の凡夫を目当てに、いわば「逆謗・闡提をめぐまん」として起こされた本願である。だから弥陀の本願は万人を平等に救済せんとする法なのである。
それゆえ本願の内容は「称我名字と願じつつ 若不生者とちかい」たもう念仏往生の願であり、御消息にも「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたる」誓願であると宗祖は示されている。

蓮如上人においては、本願の御言葉を「つみはいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくうべし」と表現され、「一心に弥陀をたのめ」とお勧め下さるのである。そのように弥陀の本願は私どもへの仰せとして端的に「我が名を称えよ」とか「我が誓いにマカセヨ」ともいわれ、「タノメタスケル」とか「必ずタスケル」という表現におのずからなるのである。であれば私たちによびかけたもう時の本願の内容は〈本当にこの身に目覚めよ〉とか〈今を今として受けとめて生きよ〉いうような〈目覚めよ〉〈自覚せよ〉〈受け止めよ〉という言葉にはならないのである。
なぜなら〈目覚めよ〉という本願であれば、目覚められぬ人間が残るであろう。〈自覚せよ〉という本願であれば自覚する能わざる愚鈍な人間は排除されるであろう。〈受け止めよ〉なら受け止めることの出来ない弱き人間は除かれてしまうであろう。そうなると万人を平等に救済するという弥陀の願意は現れようもないのである。

ところが〈我にマカセヨ〉とか〈我をタノメ〉の弥陀の本願は衆生の方に漏れようはないのであり、摂取して止まぬ大悲なのである。
「でも阿弥陀様にマカセられません」とか「タノメません」といわれるかもしれないが、「であればこそ、我に任せてくれよ」「任せられぬという汝なればこそ、我をたのみにしてくれよ」とどこどこまでもわれら衆生を、「逃げるものをおわえとらん」とする大悲の御心がこの「タノメ、タスケル」の御言葉にはある。
しかし、〈目覚めよ〉〈自覚せよ〉にはそのような無窮の大悲心は感じられぬ。それゆえ元祖も宗祖も蓮師も、弥陀の本願を説かれるところでは、一切〈自覚せよ〉だの〈目覚めよ〉だの〈受け止めよ〉どのという言葉は使われないのである。もちろんそれは元祖や宗祖や蓮師が目覚めるとか自覚という言葉を知らなかったからではない、使われなかったのである。その点を私どもは見誤ってはならない。

なお付言すれば、目覚めるに近い意味内容の言葉が真宗聖典の中にある。それは『安心決定鈔』で、その中に
帰命の義もまたかくのごとし。しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、〈わがいのち〉とおもいたらんおり、善知識〈もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ〉とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、〈わがいのちすなわち無量寿なり〉と信ずるなり」
とある。ここに〈もとのいのちへ帰せよ〉とか〈帰命無量寿覚しつれば〉とか〈わがいのち無量寿なりと信ずる〉といういわば「めざめる」「自覚する」〈気づく〉に連なるような言葉が現れている。

これはどうなのかというに、だいたいこの『安心決定鈔』は西山系の書と云われているが、この書を蓮如上人が「金をほり出だすようなる聖教なり」と尊ばれ、それゆえ真宗聖典に入っていると思われる。しかし上人はこの書全体を真宗信心の眼で読んでおられるのである。それゆえお文にも御一代記聞書にも、「帰命無量寿覚しつれば」とか「もとのいのちに帰せよ」という教義表現は用いておられないのである。上人の直接に書かれたものには『安心決定鈔』のこの箇所の言いぐさは出てこないのである。
『安心決定鈔』のこの部分は、これを読む者には一読するだけで非常に注目される箇所である。だからこの箇所が真宗の信心に合致していると蓮如上人が思われたのなら、「もとのいのちに帰る」なり「わがいのち無量寿と信じる」などという表現を聖人がされてよさそうであるが、そういう蓮如上人はされていない、むしろ注意して避けておられるとすら思われる。しかも、蓮如上人以後の真宗の伝統でも、「帰命無量寿と覚する」とか「もとの阿弥陀のいのちへ帰す」などを真宗信心の表現としては語られてこなかったのである。

もちろん「もとの阿弥陀のいのちへ帰する」という言葉が自体が間違いというのではない。これは宗教的回心の表現としては知性的あるいは観念的に理解しやすく、また今日的感覚にも合う表現だと思う。しかも、仏教教義学における帰命釈の三義の一つであもある。
ただしかし、愚鈍の凡夫の私が自らの救いを求めてとなると話は別である。そもそも帰るにも阿弥陀のいのちとはいったい何なのか、凡夫にとってはいつまでもぼんやりしてわからず、また〈いのちに帰る〉のはどうしたら帰れるのか、という問題がたちまち立ちはだかるのである。

もちろん、賢者や智者は「もとのいのち」に帰り、「我がいのち無量寿なり」と信知できるかも知れないが、愚鈍の凡夫には到底及びがたいのである。
およそ、自覚や覚醒を人間に直接要請する仏教は聖道門仏教の特質である。そしてそれが出来ないような愚悪の凡夫をこそ、救済の対象としたもうのが他力浄土門である。もし〈目覚めよ〉の仏教で片が付くなら、宗祖は叡山二十年の修行によって生死の問題は解決していたのではなかろうか。

けれども真宗は仏教であり覚れる仏の教えである限り、目覚めや自覚という性質が当然あるはずである。その点はどうなのであろうか。実は真宗信心の中に、凡夫における目覚めや自覚という働き(徳)はおのずから含まれてくるのである。
「助からぬ汝を必ず助けるゆえ我をタノメ」と仰せられる大悲にもよおされて弥陀をたのむ信心が起こるとき、その信心に具わる徳の内容に「目覚めるべきものには目覚めさせていただける」功徳として〈自覚〉ということもおのずから含まれてくる、いわば与えられてくるのである。

このことに関して、宗祖は『一念多念文意』に「如来の本願を信じて一念するに、かならず、もとめざるに無上の功徳をえしめ、しらざるに広大の利益をうるなり。自然に、さまざまのさとりを、すなわちひらく法則なり」と仰せられて、信心の利益として「さまざまなさとり」が法則(法の必然)として自然に与えられてくることを教示されている。
この場合の「さとり」というのが大小さまざまな気づきやら目覚めなどであろう。己の罪の自覚もいのちの尊さや平等性などの覚めや一切が関わりの中にあることの感知など、「さまざまなさとり」や「自覚」や「めざめ」の利益は信心に具わる功徳として与えられてくるのである。これらは先人の云われる「所照の自覚」といっていいものであろう。
ただ信心のこうした功徳が現実生活の中で活性化してくるには、もちろん人それぞれの因縁や宿業性によって遅速や濃淡があることはいうまでもないことである。

次に「自我からいのちへという主体の転換を成就する」という宗教的回心は、真宗においてはどのように実現されるのであろうか。
それは、弥陀の本願を聞くことによって我が身を「出離の縁あることなき身」と自我の計らいが全面的に否定され、その出離の縁なき者を「たすけんとおぼしめしたちける」弥陀大悲の本願を「我がため」と信受する信心が発起するとき、弥陀の摂取にあうのである。弥陀に摂取せられるならば、助ける弥陀に対して「助けられる」は我であり、摂め取りたもう弥陀に対して「摂められる」は我であり、「助ける」と仰せくださるのは弥陀であり、その仰せにしたがうのは我である。
信心においてそういう関係が弥陀と我との間に成立するのであるから、それは当然弥陀が主であり、我は従である。弥陀が主体であり、我は弥陀に属するものであるという主客の転換が信の一念に成就してくるのである。
しかしながら弥陀を真実主体としてであう信経験は聞其名号の端的であって、その時を離れるとまた自我を主として生きる煩悩生活を免れないのが悲しいかな凡夫の現実である。しかし一度、信の一念が開けてみれば、聞名の一念に、「弥陀とのであい」が反復されてくる。これが信相続の実際である。されば主体の転換は「御名を聞く」生活裡に現実化しつつ、また同時に自我が主体となろうとする罪悪性を懺悔しつつ弥陀大悲の誓願を讃仰する人生生活となるであろう。

(了)

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