謗法闡提、回すればみな往く

宗祖の『浄土文類聚鈔』に 「惑染・逆悪ひとしくみな生まれ、謗法・闡提回すればみな往く」 とある。「惑染・逆悪ひとしくみな生まれ」は、弥陀の救済力によって「煩悩熾盛(惑染)の悪重き(逆悪)者もひとしく皆浄土に生まれることができる」との意であろう。しかし「謗法・闡提の者は〈ひとしく〉皆往生する」とはいわれていない。「〈回すれば〉皆往く」との仰せである。  謗法闡提とは、謗法は仏法を否定する者、闡提は仏法を受け入れない無信の者であろう。

◇  弥陀の本願は一切衆生をひとしく皆、浄土に生まれさせてくださる大悲のめぐみである。けれども、「罪はいかほど深くとも我をたのめ、必ず助ける」と仰せ下さる本願の御言葉を拒絶する者は、救われない。このことは第十八願の「唯除五逆誹謗正法」の仏語にも示されている。
本願念仏はどのような惑染・逆悪の者でもひとしく救いたもう法であるが、それを受け入れることを拒絶する者は救われる道理がない。治りがたい重病の者を治す特効薬ができて、それを重病人の処へもってきて、「さあこれを飲んでくれよ、必ず治るから」と親切にさしよせても、その薬を素直に受け取らず捨てる者は治りようがない。

◇  そうすると謗法・闡提の者には救いの道は閉ざされているのであろうか。否、宗祖は「謗法闡提回すれば皆往く」、〈回すれば〉皆、往生せしめられるのである、と仰せ下さっている。  であれば、「回すれば」とはどういう意味であろうか。

◇  「回すれば」とは、謗法・闡提の身でありながらそうとは知らない自己が、謗法・闡提の身であったと「知る」ことであろう。
今まで自分は仏法にかなう者であり、聞法していけばいつかは有難い信者になれる者であり、聴聞すれば仏法が分かる身になれると思う身が、その実、謗法・闡提の邪見�慢でしかない。それゆえいつまでも仏法にあえない。
そういう者が「私は謗法・闡提の救われがたい身である」と〈知る〉。自分は、仏法を否定し続けてきた者であり、聞いても信じない者であり、仏智を疑うより知らぬ者であり、それゆえ無窮の闇に入るほかないと「知る」、いや「知らされる」。それが「回すれば」ということであろう。

◇  〈如来の光明によって〉、仏法に背く助からぬ身であると知らされる、いわば回心懺悔せしめられる。
そこにはからずも「そんな汝なればこそ助ける、我をたのめ」との如来の大悲心がおのずから届く。不思議という外はない。仏法に背を向け、落ちるほかない者に、「ものの逃ぐるを追はへ取る」(和讃左訓)ように「そんなお前を引き受ける」との摂取の大悲に包まれる。

◇  惑染・逆悪の底に謗法闡提の罪があり、謗法・闡提の助からぬ身であると知らされるところに、如来の広大な大悲の救済を感知せしめられ、〈皆往く〉のである。

(了)

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