不可思議の教法

宗祖のご消息に 「思不思というは、思不思議の法は、聖道八万四千の諸善なり。不思というは、浄土の教は不可思議の教法なり」というお言葉があります。この部分の本願寺派の『浄土真宗聖典』では 「思・不思といふは、思議の法は聖道八万四千の諸善なり。不思といふは浄土の教は不可思議の教法なり」 となっていて、この方が意味が明瞭ですので、以下この文に依りながら、「不可思議の教法」という言葉が意味するものを少し考えてみたいと思います。

*  この「浄土の教は不可思議の教法なり」とは、浄土の教法は人間の思議が及ばない法だといわれるのであります。浄土の教法は人間の知性で了得しようとしても到底了得しつくしえぬ教えといわれるのであります。敢えて言うなら凡夫の知性では「分からぬ」教えだといわれるのではないでしょうか。
それに対して、「思議の法は聖道八万四千の諸善なり」で、聖道門の法は思議の及ぶ法であるとのこと。いわば私どもの思いや考えの及ぶことのできる法であるとのことです。凡夫の知性で納得できる教え、いわば知性で「分かる」教えであると伺うことができます。

*  ところで不可思議なる「浄土の教」とは「阿弥陀仏の本願の生起本末」を説く佛説無量寿経の教法のことであり、ことに第十八願の選択本願の法であります。
この第十八願は「念仏往生の願」といわれ、善導大師によって 「もし我成仏せんに、十方の衆生我が名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ」 と表されました。この本願の意を宗祖は 「弥陀の本願ともうすは、名号をとなえんものをば極楽へむかえんとちかわせたまいたるをふかく信じて、となうるがめでたきことにてそうろうなり」 とご消息に述べられていますし、「我が名を称えよ、必ず救う」という念仏往生の本願が極めて不可思議な本願であることを『歎異鈔』でも「弥陀の誓願不思議」と教示されています。
また道綽讃では 「縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて 称我名字と願じつつ 若不生者とちかいたり」 と讃歎され、また源信讃では 「極悪深重の衆生は 他の方便さらになし ひとえに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまう」 と申されて、宗祖は広大な仏心大悲を讃仰されています。まことに弥陀の本願は一切衆生平等往生を誓う不可思議の教法であって、凡夫の思いの到底及ぶことのできぬ法であり、その深い真実性は人知によって了知することなどとてもできないのでありましょう。それゆえ大経では 「二乗の測るところにあらず。 唯仏のみ独り明らかに了りたまえ」 と説かれています。

*  逆に、聖道門の教法は思議の法で、思いはからうことができ、思い及ぶことができる法だといわれます。なるほど、四聖諦の道理、いわゆる苦しみの原因は愛執であり、その愛執を離れたところに安らぎ(涅槃)があるという教えは〈分かります〉。またもの皆因縁であって、すべてはさまざまな条件によって成立しているという道理、これも〈分かります〉。
それゆえものには不変の実体は無く無自性空であるという教え、これも理屈は〈分かります〉。また、経験していることの一切は識心を離れてはないという唯識の道理も何とか了解することができますし、因果応報の理も〈納得がいく〉のであります。もちろん世間の個人的あるいは社会的な倫理の話も良く分かります。

*  ところが法然聖人の法語に 「淨土宗安心起行のこと。義なきを義とし、樣なきことを樣とす。ただ念佛を申せば、十悪五逆も、三宝滅尽の時のものも、一期に一度の善心なきものも、東西不弁のものも、決定往生を遂げ候なり」 といわれるように、一生涯一度も善心を起こしたことのないような者が、〈ただ念仏〉で救われるという念仏往生の救済は、その理由を人間の知性で分かろう思っても到底知解することができません。
宗祖ご自身も 「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」 と仰せられ、念仏が浄土に生まれるたねかどうか「まったく知らない」とまで言われています。ーーーこれは分かる必要がないという意味を当然含んでいますーーー。
であれば、宗祖はご消息に、弥陀の本願に対しては 「ただ、誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなえつるうえは、なんじょうわがはからいをいたすべき。ききわけ、しりわくるなんど、わずらわしくはおおせ候うやらん。これみなひがごとにて候うなり」 といわれて、弥陀の本願に対してはただ〈不思議と信じ〉るばかりであると仰せられるのであります。
弥陀の誓願は〈聞き分け〉〈知り分ける〉ことのできない法であるにもかかわらず、〈聞き分け、知り分け、助かる訳が分かって助かろう〉とする〈はからい〉を聖人は「ひがごとにて候」と厳しく批判され、誓願はただ〈不思議と信じ〉るばかりであるとご教示くださっています。

*  敢えて申せば、浄土の教えは「人間の知性には分からぬ不思議な話」であり「思い及ぶことのできない話」であり、聖道諸善のみならず通仏教や世間の倫理の話は「人間の知性には分かる話」であり「思い及ぶことのできる話」であります。
ところが今日の真宗教化の現場では聴衆に「分かる」話をすることに意が注がれるあまり、不可思議な弥陀の本願よりもずっと〈よく分かる〉通仏教や個人的社会的な倫理の話が真宗法話の主題になりがちであります。
いわゆる四苦八苦や因縁の話、因果応報や煩悩の話、無我や空の話など、時にはもっと今日的に〈よく分かる〉社会的正義の話などががいきおい主になります。これらの話は浄土門への道として、あるいは信後における「念仏者の願わしい姿」を示すという意味での真宗教化にはなりますが、それらの話ばかりが優先されますと、不可思議の法である弥陀の本願は陰に隠れてしまいます。そうなると本願を信じる信心はいつまでたっても明らかになりません。
かといって〈不可思議の法〉ばかりの話では多くの人たちにはとりつく島がありませんから方便引入の説も必要です。ですからその度合はよくわきまえておかねばなりませんが、いずれにしても真宗の教えの中核は〈義なきを義とす〉る不可思議の教法であることを心得た上で、教化がなされることが大事だと思います。

*  最後に、聖道の法ないしは通仏教の話は確かに分かるは分かるのですが、〈いずれの行も及び難き身〉にとってはこうした話の通りになれない自分にぶつかります。また分かる話ではあっても、それについて行けぬ我が身が残ります。また聖道の法や通仏教の道理などは「道理が知的に分かっても身について本当には分かっていない私」にぶつかるのであります。そうなるとそれこそ清沢満之先生が 「何が善だやら悪だやら、何が真理だやら非真理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分かるものではない。我には何にも分からないとなった」 というような自力無効、人知無効に陥るのであります。
ところがそのところにはからずも、「分からぬ」話であった仏智不思議の大悲の誓願が「我にまかせよ」と喚びかけたもうていたことに驚くのではないでしょうか。清沢先生はこうした信仰経験を経て 「我には何にも分からないとなったところで、一切の事をあげて、悉くこれを如来に信頼する、と云うことになったのが、私の大要点であります」 と申されているのでありましょう。
いずれの行も及びがたく、思案無効となったところに、「我が名を称えよ」の不可思議の大悲がいたり届いて「ただこれ不可思議・不可説・不可称の信楽なり」(信巻)といわれる不可思議の信心として私に成就するのではないでしょうか。

*  であればここでの「不可思議」とは単に分からぬということではなく、思い及ぶことのできないほどの無窮の大悲を表されたお心ともいただけます。
弥陀の誓願が人間的知の領域を超えた不可思議な法であるということの中には、「この誓願は、すなわち易往易行のみちをあらわし、大慈大悲のきわまりなきことをしめしたまうなり。」(一念多念文意)と宗祖がお示しのように、仏の慈悲の「きわまりなき」という意味がこもっているといえましょう。
私たちはこのような弥陀の本願の「思議の及ぶことのできない」、極まりのない大慈大悲の心に、理屈や知解をこえて感激し、胸うたるるのではないでしょうか。この不可思議の大悲に不思議にも心が開かれ相続されていることのほかに信心の相はないのでありましょう。

(了)

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