真宗の医療観

一、法然の治療観
法然聖人に「御身おたしくて念仏もうさんとおぼしめして、御治療そうろうべし。いのち惜しむは往生のさはりにてそうろう。病いばかりをば、療治はゆるされなんとおぼえそうろう」(往生浄土用心)というお言葉があります。
この言葉の意味は「からだの苦痛をとりのぞいて、身を安らかにして念仏を喜ぶ生活をさせていただこうということであれば治療を受けなさい。
しかし命を惜しんで延命のために治療を受けようとするのは浄土往生を真に願って生きる生活の妨げになります。病気で死ぬのが嫌だから治療をするのではなく、ただ病気による身体的な苦痛をのぞくためばかりなら、病気を治療することはかまわないと存じます。」と仰せられるのでありましょう。
例えていうと、胃潰瘍のためにお腹が痛んでいるとします。そうすると痛みのために気がちって、お念仏をしていても仏の慈悲を喜ぶことに妨げとなります。そんな時は痛みをとるために治療を受けてかまわない。けれども、この病気で死んだらどうしようと思い、命を引き延ばすだけのために治療を受けるべきではないーーーそういわれるのです。    要するに、念仏者が医療を受けるのは病気による身体的苦痛を除去または緩和するために受けるのであって、単なる延命のために治療するのではないといわれるのです。

二、人生の目的
法然・親鸞聖人が教えてくださる人生の目的は「浄土往生」であります。浄土往生の道においてこの世を生き切るのです。
浄土に往生する道をいただけばこそ、この世での生活にまことの安定と充足が見出されます。
淨土こそ死んで帰する世界であり、同時にただいまの人生のよりどころなのです。 法然聖人の有名なお言葉に 「生けらば念仏の功つもり、死ならば淨土へまいりなん。とてもかくてもこの身には、思いわずうことぞなきと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」(常に仰せられける御詞) というのがあります。 (生きていくということは念仏の生活が相続されて、念仏の功徳がますます生活の上に現れてくることであり、死ぬということは極楽浄土に生まれさせていただくことである。だから生きることも死ぬことも、どちらであってもこの身においては、有り難いことであってみれば思いわずらうことはいらない。
そのようにこころえておりますれば、死ぬことにも生きることも、ともにあれこれと悩み煩うことはないのです) と仰せられるのでしょう。
一日一日と生き続けることは、お念仏が申され続けられていくことであって、そのことは、私の生活の場に仏のお徳がますます味わわれて有り難いといわれるのです。ーーー このお言葉は、また私たちの日暮しの意味が何であるのかを端的に指摘されています。生きる意味は、阿弥陀仏のかぎりないお徳をいただき、阿弥陀仏の真実をこの世に証しするためである。そのことがこの法然聖人の言葉からうかがえますーーー
またお念仏をいただく者にとって、死ぬことはめでたく淨土に生まれることの外にはない。淨土に生まれることは、迷いの境界をこえて仏の悟りを完成することである、と。    念仏を申す身には、生も死も、「生きてよし、死してよし」といわれる言葉以上に有り難いものではないでしょうか。

三、私たちの生と死の見方
この法然聖人のお言葉には、生きることと死ぬことを平等に価値あることと受け取る智慧がはたらいています。
翻って今日の私たちはどうでしょうか。「生きることはよいこと、死ぬことは不幸」という見方ではないでしょうか。そうした見方は「生を愛し死を憎む」煩悩がねとなっています。「生と死」を差別の眼で見ています。
この考えは現代医療の現場でも同じでしょう。今日の医療では、一日でも延命する事がよいことであり、患者が死ぬことは医療の敗北であるとされています。ですから「生は幸い、死は不幸。生は善、死は悪」という、生と死を差別して見ています。ですからお医者さんの使命は患者の生命を一分でも一秒でも保持する事にあります。

四、終末医療行為での反省
もっともこのような医療に対して最近は疑問の声もおこってきていますが、主流はこれまで通りであります。
生命あるものはかならず死にます。体の機能が衰えたりダメージを受け手死をまぬがれず死につつある時、それを無理に引き止めようとして過度の治療を加えることが、結果的に死にゆく患者にさらに大きな苦痛を与えてしまうことがしばしばあるようです。
体全体の機能が弱って、自分の力で呼吸できなくなったり、食べきれなくなったときは寿命がつきた印です。こうして体が衰弱して死んでいきます。これが自然な死にゆく樣です。
ところが現代医療では、そういう状態になって、高カロリーの点滴や輸血、鼻から管を差し込んで栄養を無理に与える。それによって死を少しばかり先送りしようとする。これで奇跡的に直る人はあるかもしれないが、圧倒的多数は早晩結局は死んでいくそうです。なかには過度の加療のためかえって死期を早める場合もあるとのこと。いきおいこうした不自然な死に方は死にゆく患者には大変な苦痛を強いることになります。
京都の高雄病院理事長の中村仁一氏によると「病院側と患者を餓死(自然死)させるわけにはいかない。そこで、口から充分な栄養を、摂取できなくなると、鼻からチューブを差し込んだり、首の根本から心臓の近くまで針を差し込んだりして、水分や栄養を送り込み、無理にでも生かす方策とることになる。
その結果、患者は寝たきりとなり、関節拘縮をおこし床ずれ地獄を堪能し、頭の方ははっきりしているため、たっぷり死の恐怖を味わわされる羽目になる。四六時中の点滴注射は、どうしても水分過剰となり、溺死の状態を招くことになる。溺死は不自然な死に方である。不自然な死は、つらく、苦しく、過酷なものとなる」(「幸せなご臨終」四十頁)とのべています。
死を敗北・不幸ととらえ、死を徹底的に嫌悪して「一分一秒でも生かす」ことをのみ目的としている現代の医療が、「本当にこれでよいのか」と医学者の間でも問題になっています。
そんな中から「死ぬ」ということは人間にとって「不自然なことでもなければ不幸なことでもない、生命の不可避で自然な現象」であることを医学界も謙虚にみとめなくてはいけないと言い、そうした観点から、「死が不可避となった段階の医療行為はどうあるべきか」が現在問われているのです。

五、淨土の教えと医療の接点
このような医学界における問題を、さきほどの法然聖人の言葉に照らしてみると、死が不可避となれば苦痛をのぞくための医療はなすべきも、単なる延命のための医療行為はするべきではないということになります。
淨土の教えからは、死ぬということはそもそも不幸なことではなく、生きると同じく自然なことであり、意味あることなのです。

六、煩悩の人生に光を
こうした見方は「生を謳歌し、生を愛してやまない」現代人には受け入れられにくい考えでしょう。けれども生きていることに伴う浅ましさや愚かさ、苦しみの深さを実感するものは、親鸞聖人が「この身をいとい淨土を願え」といわれることに同感を禁じ得ないのであります。そして淨土を願うものにとっては、死は生とおなじく光に包まれているのです。
しかしながら、私たちの心は煩悩におおわれています。ということは生を愛し死を嫌う心で生きています。「死にとない」心で一杯です。生と死を見るのは仏様の眼です。私どもは迷いの心が深いゆえそうは思えないのです。ですから死にたくないという煩悩の心を抱えたままでしか生きられないのも事実です。
そのような私を「煩悩の深いものよ」と知りぬいた上で「汝、死にたくないまま、念仏申せ。そんなお前を淨土に生まれさせずにはおかない」と呼んでくださる南無阿弥陀仏です。

そのところを歎異抄の第九章には 「いささか所労のこともあれば、死なんずるや乱と心細くおぼゆることも、煩悩の所為なり」 「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆなり」 と親鸞聖人は仰せられています。まことに深重の悲願であります。「生きたい、死にたくない」という煩悩のおこるにつけても、いよいよこのような私のための南無阿弥陀仏様よ、かたじけなきことと、對比に摂取されるのであります。
そこに、死にたくないという苦惱をやわらげしめられて、死なせてもらえる安らぎを、煩悩の人生の中にたまわるのであります。
死にとうないという煩悩だけでは、いかに高度な医療を受けていても、ここには光はありません。闇の中にぽつんと立っているようなものです。頼りにしているお医者さんにも薬にも見捨てられるときがやがてきます。そして死にゆく凡夫にとっては、茫々たる暗い深淵が目の前にあるだけです。
「生を愛し死を憎む」よりない煩悩の人生に、煩悩のあるままに、如来大悲の光を浴びる。そのひかりはお念仏として実に身近に与えられているのです。
長寿は結構なことではありましょうが、光がさしていなければ、長寿も不安の連続です。
急を要することは長生きの工夫よりも、むしろ念仏の光をいただくことだと思います。まさに「後生の一大事」であります。  生と死のはざまで不安におののく私たちに道をつけてくださるのがお念仏です。医療を受けるにしても、お念仏の智慧にもとずいて受けて行くこ

(了)

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